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陸秋槎 『ガーンズバック変換』 : ひとしずくの 〈美酒〉

書評:陸秋槎『ガーンズバック変換』(早川書房)

たぶん、本書について、日本で最も懇切な「解説」を書けるのは、私をおいて他にはいないだろう。
少なくとも、SF系の評論家やライター、あるいは、そのマニアなどでないことは、確かだ。

例えば、本書のAmazonページに寄せられているレビューは、本書刊行後5ヶ月を経た現時点で、次の1本だけである。

『 Yasuo(5つ星のうち3.0)

読みやすい作品と読みにくい作品の差が大きい
(2023年5月25日)

8作品のSF短編集。読みやすい作品と読みにくい(なかなか頭に入ってこない)作品の差が大きいように感じた。私の好みの問題なのかもしれないけれど。
個人的に好きな作品は3つ。スマホゲームでシミュレーションされる物理現象を矛盾なく成立させるためにいろいろ考える「開かれた世界から有限宇宙へ」と、手品のトリックをSF的に暴く「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」、なんとも切ないSFミステリの「色のない緑」。特に「色のない緑」では、SF的ガジェットが巧みに使われていて、それがラストの切なさにつながっている。』

見てのとおり、レビュアー「Yasuo」氏は、「SF読み」としての自意識を持っている人なのだろう。だから『手品のトリックをSF的に暴く』とか『なんとも切ないSFミステリの「色のない緑」』『SF的ガジェットが巧みに使われていて、それがラストの切なさにつながっている。』などと書いているのだ。

しかし、その一方、作者の方は、解説者の溝口力丸も紹介しているとおり、作家としての自身を『作った』小説として、次のような作品を真っ先に挙げる人であって、決して「ジャンル」で小説を読む人ではないのだから、「SF」という「色眼鏡」を掛けて見たのでは、この作家の本質を見失うことにしかならない。

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟
中井英夫虚無への供物
ヘルマン・ヘッセ春の嵐
カルヴィーノ『見えない都市』
ボルヘス『エル・アレフ』
テッド・チャンあなたの人生の物語
西尾維新クビキリサイクル
米澤穂信さよなら妖精
三津田信三厭魅の如き憑くもの
麻耶雄嵩『隻眼の少女』
太宰治女生徒』『葉桜と魔笛
栗本薫『優しい密室』
北村薫『秋の花』
加納朋子『ガラスの麒麟』
辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』

この記事は4年前のもので、その段階では『中国ミステリ作家』として紹介されているというバイアスはあるにせよ、ここには明白に、陸秋槎という人の「好み」や「傾向」が刻印されている。

私もミステリファンでありノンジャンル読者なので、ここに挙げられている作家は全員読んでいるし、ここに上がった作品もほとんど読んでいるが、私がここで、特に注目するのは、陸秋槎が2作まとめて真っ先に挙げた、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と中井英夫虚無への供物についての、次のようなコメントだ。

『 前者は高校時代に読んだ一番印象深い小説で、後者は大学時代に読んだもっとも衝撃的な作品。この二冊の小説は似てると感じる。『虚無への供物』の最後に五〇年代日本の災害を列挙するのは、『カラマーゾフの兄弟』に書かれた児童虐待のエピソードと同じ意図ではないかと思う。哲学的な殺人動機も深くて、とても美しい。そしてこの二冊の名作の影響で、ポリフォニー小説を書きたくなった。』

実のところ、私の最初のハンドルネームである「アレクセイ」(今の「年間読書人」は2つ目)は、この2作から採ったものだし、当然、この2作には特別な愛着がある。

だから、陸秋槎の『『虚無への供物』の最後に五〇年代日本の災害を列挙するのは、『カラマーゾフの兄弟』に書かれた児童虐待のエピソードと同じ意図ではないか』という指摘はよく理解できるし、共感的に納得もできる。陸秋槎が、ここで言わんとしたこととは、両作に共通する「虐げられたもの、顧みられないものへの愛」ということだ。

そして、そうした観点に立つなら、陸秋槎の作品を「SF的観点」からだけ見るというレビュアー「Yasuo」氏の「読み」は、片手落ちというも愚かなほど、いかにも不十分なものでしかない。

たしかに、本書著者である陸秋槎は、「あとがき」の中で自身を、SFの『門外漢』(P296)と言っているし、事実作家としては、本書が初めての「SF小説の単著」で、最初の単行本は「ミステリ」であった人だ。また、同じ意味で、「SFマニア」ではないし、「SF作家」として初心者だというのも、間違いのない事実ではある。
だが、その一面だけをとらえて、SFに一家言ある「Yasuo」氏が、いわば「先輩ヅラをして」あるいは「上から目線で」、前記のように評するというのは、「マニア」心理として理解しやすいところではあるのだが、決して適切妥当な評価だとは言えないだろう。

陸秋槎自身による、『門外漢』だとか「SF初心者」的な自己規定とは、言うなれば、自分は偏頗な「SFオタク」などではないという「自負」に発した「形式的な謙遜」にすぎず、決して自分が「文学理解」において「SFマニア」に劣っているなどと思っていないというのは、「読める読者」には明白なことであろう。
なのに、あんな「知ったかぶりの評価」を迂闊に語ってしまう「Yasuo」氏こそが、「読めない読者」の典型だということなのである。

つまり、「Yasuo」氏の『8作品のSF短編集。読みやすい作品と読みにくい(なかなか頭に入ってこない)作品の差が大きいように感じた。私の好みの問題なのかもしれないけれど。』という言葉は、陸秋槎の、読書家としての恐るべき力量を読み取れていない、何よりの証拠でしかない。

どういうことかというと、「Yasuo」氏の『読みやすい作品と読みにくい(なかなか頭に入ってこない)作品の差が大きいように感じた。私の好みの問題なのかもしれない』というは、じつのところ同氏が、「現代のエンタメ小説」くらいしたまともに読んでいないために、「昔の独特な文学形式」や「一般読者を楽しませることを大前提とはしない文学」というものが「読めない」、ということでしかないのだ。
だが、それを、単なる『好み』の問題に矮小化して、読書家としての自己を「正当化(し、救済)」している、ということなのである。

今どき、「好みの問題」だということであれば、多くの人は「それなら仕方ないね」と言ってくれるから、「わからない小説」については、「好みではない」と言っておけば、自身に「相応の能力や知識が無いから読めない」のだ、ということにはならないと踏んで、このような書き方をしがちなのであろう。

しかし、読める読者であれば、「読みにくい」作品ではあっても、その作品が「なぜ読みにくいのか?」ということを考えるだろうし、相応に知識があれば、その問いについて、説得力のある「読み」を示すこともできるだろう。
ところが、本書著者に比べて、明らかに「読書家」として劣る「Yasuo」氏は、自分が「読めない」ことを、単に「好み」の問題に還元して相対化し、著者に対して、「SFの部分」において、半ば無意識であるにしろ、マウントを取ろうとしているのが、このレビューなのである。

本書に収録された『8作品』は、次のとおりである。

(1)「サンクチュアリ」
(2)「物語の歌い手」
(3)「三つの演奏会用練習曲」
(4)「開かれた世界から有限宇宙へ」
(5)「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」
(6)「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」
(7)「ガーンズバック変換」
(8)「色のない緑」

「Yasuo」氏が「読みやすい」作品として語っているのは、(4)(5)(8)の3作だが、言い換えれば、それ以外は「読みにくかった」ということであり、平たく言えば「何が面白いのか、理解不能だった」ということであろう。

これは、気持ちとしてはわからない話ではない。かく言う私も、ほとんどの作品が、最初は「作者が何を書きたかったのかが、よくわからず、その魅力を理解できなかった」からだ。

しかし、その答は、著者の「あとがき」による説明を待つまでもなく、(8)の「色のない緑」に、徹底的なまでに書かれていたのだから、「あとがき」まで含めて、本書を最後まで読みながら、著者の意図したところがわからない、というのは、端的にいって「読解力が無い」ということにしかならない。

そしてこれは、なにも「Yasuo」氏だけの話ではなく、たぶん本書に評価を寄せた(現時点での)23人や、たぶん「SF読み」のほとんどに言えることであろう。

では、「Yasuo」氏が「読みにくい」と感じた作品とは、どのようなものであったのか。
その典型的な作品は、たぶん(2)(3)(6)であろうし、その次に(1)と(7)ということになるだろう。

どういうことかというと、(2)(3)(6)は、一般的にいって「SF」ではなく、「古い文学形式へのオマージュ」的な作品だからで、そこで扱われている文学形式に、多少なりとも触れ、わからないなりにも、そうした文学作品に対する「敬意」を持っていないかぎり、そんな「古風なもののパスティーシュ的オマージュ作品」を読まされたって、面白いわけがない、ということなのである。

つまり、これらの作品の「(作者が)意図するところを読み取って、それを楽しむ」ためには「高度な文学的教養」が必要なのだが、「SF読み」である「Yasuo」氏には、そのような「文学的教養」が無かったから、ただ単に「今どきはやらない文学形式の作品」として、「読みにくい」ということになってしまったのだ。

では、(1)と(7)はどうなのかというと、この2作品は、表面的には「今どきのSF」の形式で書かれているものの、しかし、「SFファン」を喜ばせるツボを、なかば「故意にハズした」作品となっているため、SFファンの視点から見ると、「何がやりたかったのか、よくわからない」作品ということになってしまう。

(1)の「サンクチュアリ」は、「脳」という「サンクチュアリ(聖域)」を弄って、問題解決することの「(機械的操作の)安直さ」に対する嫌悪を表明した作品であり、その意味では、かなりわかりやすい作品だ。しかしながら、この作品は、一般的な「SFファン」の共感を得にくく、その意味で「理解されにくい」作品だとも言える。
なぜなら、「SFファン」がSFに期待するのは、「科学技術への嫌悪」ではなく「科学技術の先にある世界像」だからである。

しかし、この作家には、そんなものに期待する気持ちなど、ほとんど無い。
そんな「世界像」など、能天気な空想でしかないと思い、むしろ、そうした能天気さによって踏み躙られる「人間の聖域性(形式的な正しさに還元できない部分)」に対する愛着から、作者は、「SFファン」の期待をなかば故意に裏切る、このような作品を書いてしまったのである。
言い換えれば、本作から、作者がどういう人なのかということを読み取れた読者には、本作は「作者の思いがよく描かれていて、面白い」ということにもなるのであろう。

(7)の「ガーンズバック変換」も同じことで、上の(1)についての説明を読めば、この作品が何を描いているかは明白であり、そうした「作者の思い」を理解できるならば、それを楽しむこともできるハズなのだ。
しかし、これだけでは、理解できない読者、特に「SF読み」は多いだろうから、労を厭わず、ひととおり解説をしておこう。

『ネット・スマホ依存症対策条例が施行された近未来の香川県。全未成年者たちは例外なく、液晶画面を通じたネットへの視覚的なアクセスを遮断する特殊眼鏡「ガーンズバックⅤ」を着用することを義務付けられていた。そんな香川から、女子高生の美優が大阪へやってきた目的とは――? 大阪観光サイバーパンクの表題作』

(Amazon「作品紹介」より)

「ガーンズバック変換」は、おおよそこのような作品であり、本作のユニークさは、この「設定」にあると、ひとまずは言えよう。要は、現実に存在した(する?)香川県の条例をモデルにした、この「反動的制度と、どう闘うのか?」というのが、一一普通であれば、本作の読みどころとなるはずだ。
事実、本作には、この制度と闘う「テロ組織」が登場して、主人公は、その組織と接触したりもする。

しかし、結局のところ、主人公が選んだのは、「悪しき制度」(と、紋切り型に捉えられがちなそれと)闘うことではなく、そうした「制限」の中で、「彼女」との当たり前の生活を選ぶ、ということであった。

つまり、読者は、当然の如く「悪しき制度との闘い」が描かれ、その結末がどうなのかというところに期待するのだが、作者は、いわば、そうした紋切り型な期待の「梯子を外してしまう」。
だから、当たり前の「SF読み」としては、作者が「何をしたかったのかが、わからない」ということになってしまうのだ。

このように、本書が「読みにくい」「わかりにくい」ということの理由のおおかたは、読者の側の「偏見」にあると言ってよい。
「SFならば、普通はこちらに展開するはず」とか「エンタメ小説であれば、普通はこうはしないばず」という「思い込み」に発する「臆見」があるからこそ、本書が「読みにくい」「わかりにくい」ということになってしまう。

言い換えれば、もしも、読者の方がもっと謙虚に、「ジャンル的偏見」を持たずに本書を読めば「今どき変わった作品」として楽しめるはずなのだが、「文学」に対して、ごく狭い了見しか持たない読者は、その「ごく狭い了見」を特権化しているために、本書の魅力が理解できない、という仕儀となるのだ。
これは、本書解説において、溝口力丸のいう「(悪しき)ジャンル的な囲いこみ」の問題だともいえよう。

『 お風呂から上がると、用意されていたパジャマに着替え、梨々香がベッドにシーツまで敷いてくれた。大きくなってからは、幼い頃のように一つのベッドに身を寄せ合って寝るのは不可能だ。
 それから床にうつぶせになって少女漫画を一冊分読み終わると、梨々香も私のそばで腹ばいになり、私が持ってきたあのル・グィンの小説をめくり始めた。しかしすぐに集中力が切れ、本をそばに放って「説明的な描写が多くて、読者を惹きつけるストーリーが欠けている」という評価を下した。
「その口ぶり、小説の新人賞の審査員みたい」
「そう? ネットだと、こういった設定が特にややこしいラノベにこんなコメントをする奴らばかりだよ」』
(P196〜197)

当然のことながら、レビュアーの「Yasuo」氏は、この文章も読んだ上で、あのレビューを書いたのだ。我が身を顧みる知恵もなく、である。

上の引用部で語られているのは、いうまでもなく「読めない読者」のことである。
そしてそれは、「ネットレビュアー」であろうと、「新人賞の選考委員」の先生であろうと、まったく同じだ、という評価である。
彼らは、どちらも、まともに「文学」を知らないのだ。知らないで「知ったかぶり」を語っているだけだ、ということが、ここでは語られている。

自分の「狭い了見」を絶対化して、ル・グィンの「個性」を理解せず、「読みにくい」「今どき流行らない(読者に対するサービス精神が足りない)」などと、知ったかぶりで語る。
しかし、世の中には、そんな「お子様向けの駄菓子」ばかりではないのだということを、ネットレビュアーは無論、新人賞の選考委員先生ですら、その無知ゆえに知らないし、その「無知についての自覚」を、(著者のようには)持っていないのである。

 ○ ○ ○

このように、本書著者の陸秋槎は、単純に「謙虚」に、『門外漢』だとか「初心者」だとかと自己規定しているのではない。
その本音は「私は、おまえらみたいな、無知な田舎者のオタクとは違う」という強烈な自負であり、『無知な田舎者のオタク』が、その「多数派性」や「営業成績」によって威張りくさっている「現実」に対して、本気で「怒っている」のである。

「世の中には、もっと素晴らしい小説が新旧含めてたくさんあり、そんな作品を書いた素晴らしい作家が大勢いるというのに、読めない読者大衆によって、〝芥川賞受賞作家だ、直木賞受賞作家だ、ベストセラー作家だ、ジャンルの最前線の作品だ〟などという見えすいた「煽り文句」に飾られた、現役の二流作家ばかりがもて囃され、まんまと売れて、先生ヅラしているのが、我慢ならない」一一と、そう嘆いているのである(まるで、私のように)。

そうした目で見れば、(8)の「色のない緑」は、「Yasuo」氏が評したような、単なる『切ない』小説などではないというのも、もはや明白であろう。

著者が、切ながっているのは、こんな程度の低い読者ばかりであるために、優れた作品が顧みられない「現実」に対して、やり場のない怒りを感じ、その「悲しい現実」が「切ない」ということなのだ。決して、単なる「百合的な切ない交情」などという、表面的な話ではないのである。

つまり著者にとっての本作「色のない緑」は、「イワン・カラマーゾフの告発」であり、「虚無の大海に捧げる、ひとしずくの美酒」なのだ。

(1)
『 人の手で脚色した小説は一冊につき一ポンド高く値段が付くし、保守的な読者には脚色を経ていない小説になじめないという声がある。ただすこしまえのダラム大学の調査では、機械翻訳した文章が人間の脚色を経ているかはっきりと判別できたのは、三十歳以下の読者で二十パーセントに満たなかったという。それに中等学校の生徒のなかには、脚色されていない文章はたくさんの修飾だとか遠回しな表現が入っていないから、〝このほうが読みやすい〟という意見もあった。』(P226)

ここで語られているのは、単なる「AI翻訳問題」あるいは「AI問題」などではない。ましてや、頑迷な『保守的読者』批判などではない。
著者が訴えたいのは、それ以前の「読者の単細胞化(能力低下)」であり、さらには、その「王様(暴君)化」ということなのだ。

つまり、「ラノベ」的に「読みやすい小説」ばかり読んでいるがために、本格的な小説を読むための根気であり能力が、多くの読者から失われてきており、しかもそれを、読者自身が「自身の能力の弱体化」問題であるとは考えずに、傲慢にも「私たちを楽しませられない、作品の方が悪いのだ」と、自分たちの「無能力」を棚に上げてしまっている。
さらには、誰もそれを真正面から批判しないどころか、「バカでも、客は客だ」と「お客様は神様」扱いにして増長させているという出版界全体の現状を、「貧すれば鈍する」問題として描いているのである。

(2)
『 私がグラマースクールに通っていたころ、犯罪小説の人気はまだ色あせるまえで、全世界の書店や出版社を支配していた。率直に言って私は、白人男性が女性を惨殺する変わりばえのしない話がすこしも好きになれなかったのに、クラスの人たちはよく私読めと勧めてきた一一ひとつひとつになにか違いがあるようには思えなかったけれど。あの分野の小説の全盛期には、文学を志す若者の多くが、利益を重んじる出版社に強いられて犯罪小説を何冊か書き糊口をしのいでいた。毎年、何冊ものベストセラーが映画化され、そしてただちに忘れられていった。作家たちは惨殺の手段を考えだすために、十六世紀の魔女狩りの記録に目を通したり、もしくは医学雑誌を読んで被害者に注射するのに向いた新しいウイルスを探しもとめたりしていた。心理学者に手紙で教えを請うのも、幼少期にどんなひどい体験をすれば人は連続殺人鬼に変わるのかを知りたいだけ。経験を積んだ検死官がネット上で人を集めて金を取り、鼠も殺したことのない小説家たちに対して、足の指を切られたり、硫酸を飲まされたりした人間がどんな反応を見せるかを説得力を持って講義することもあった。』(P227)

ここでは「犯罪小説」について語られているが、これを「SF」に置き換えて考えられないような「SF読み」は、基本的に「読めない読者」でしかない。

「流行り」ばかりが問題とされ、出版社も「売れ筋商品」として、そういうものを作家に要求する。しかし、こうなってしまうのは、そもそも読者が「最先端のものを押さえている私は、最先端の読者である」などという幼稚な考えを持っているからに他ならない。
要は「最先端」という名の「流行」を追っているだけなのだが、そもそも視野の狭い彼らには、自分の立ち位置を「相対化する」ことができず、ひたすら「ここが最も高い場所」だとアピールしたがるだけの、承認欲求に駆られた「馬鹿と煙は高いところが好き」的現象でしかないのだ。

ちなみに後半の『鼠も殺したことのない小説家たち』における、「鬼面人を威す」ための「専門知識のお勉強」というのは、「SF作家」において、最も顕著な特徴なのではないだろうか。
そういう「専門先端的なこと」を書いておけば、「私には理解できるぞ」と言いたい「文学オンチのSFマニア的な読者」から感心され、「ハードSF」だといって、尊重されるのである。

(3)
『 いつからだったか、前世紀の印刷物を所有するのは私の生活にわずかに残された趣味になっていた。好んで集めているのはおのおのの原因で電子化されていない本だ。ここ数年は、世界各地の図書館がつぎつぎと閉館しているせいで、珍しい本がかなり市場に流れてきている。ベルリンの壁が崩壊するまえ、ドイツ民主共和国ではたんにプロパガンダのためだけの小説がそうとうな量書かれ、いまではそうした本はドイツ語文学の汚点であり抹消するべきだと考えられていて、 ほとんどが電子化されていない。同じような事態は東欧でも広く起きている。内容自体にたいして興味はないけれど、その本がまだ一一あるいは、永遠に一一電子書籍として存在しないのだと思うと、オークションに手を出す衝動に衝動を抑えられなくなる。』(P229)

ここには、すでに指摘した、著者の『カラマーゾフの兄弟』や『虚無への供物』に惹かれる心性、言い換えれば、「判官贔屓」であり『悪しくなりゆく世の中』(大岡昇平)に対する、「へそ曲がり」な抵抗的スタンスがとてもよく表れている、と言えよう。

「勝てない戦いだと分かってはいるけれど、むざむざ無抵抗に殺されたりはしない」という「一矢報い」たいというスタンスであり、本作「色のない緑」の基本的な思いも、ここにある。

当然、こんな本作は、「感動コジキ」の読者を楽しませるだけのものであったり、「百合的な感傷」としての『切なさ』を描いただけの作品などではない。もっと「意志的なもの」を持った作品なのだ。

(4)
『「ジュディ、こんなこと言うのは変だってわかってるけど、でもほら、あたし、こういうことは苦手だから……自分がなにかやらかすんじゃないかって心配で。ほら、あたしはいろんなことでやらかしてきたから」ひどく心細そうな声だった「できたらあたしがバーミンガム大学へ行くとき、付いてきてくれない? あのときみたいに……」』(P231)

これは、この作品の「三人娘」、語り手のジュディ、のちに自殺するモニカ、最もカラッとした性格のエマのうちの、エマのセリフである。
エマは、曲がったことが嫌いで、思ったことをスパッと口にしてしまうような『坊っちゃん』夏目漱石)的な性格だから、かたがたで「やらかしてしまう」のだが、それでも、それが「世渡り的に損」なこともわかっているからこそ、自殺したモニカの遺した論文を、それを「不採用」にしたバーミンガム大学までもらいうけに行く際に、喧嘩になることを恐れて、ジュディに「引き止め役」として、ついてきてもらうことを求めたのである。

で、肝心なのは、この三人娘は、いずれも「作者の分身」だということである。
つまり、作者・陸秋槎の中には「専門というほどのものを何も持たない、無力な私」としてのジュディがいるし、「未来に悲観してしまう」モニカもいる。
しかしまた、そんな二人を苦しめるものに対して、怒りを隠せないエマもまた、作者の中にはいるから、本作のような作品を書いたのだ。

(5)
『「また明日ね」
 (※ モニカの死を知らせる、エマからの電話の)通話が終わると、私はじっと椅子に沈みこんで、心ではまだモニカの死を受けいれられずにいた。あの子についてのすべては、とうに遠い記憶となっている。悲報を聞いて真っ先に湧いてきた感情は、たぶん悲しみではなく、懐かしさだった。 かつてモニカと過ごした日々は懐かしく思えて、だけどあんな時間はもう永遠に戻ってはこない。何度か深呼吸をして、私は上司への金曜の休暇を申請するメールを書いた。さいわい、いま手元に急ぎで出版する必要のある本だとかはない。ディスプレイに文字を打ちこんでいると、唐突に腕へ涙が落ちた。息を整え、メールを書き終えたあと、思うぞんぶん声を上げて泣いた。』(P232〜233)

ここで、ジュディは、何を悲しんで「泣いた」のであろうか?

それは無論、旧友モニカの死ではあるのだが、そんな理解だけでは不十分だ。
事実、彼女は、モニカの死に実感が持てない、と言っている。

では、彼女が「何を実感して、泣いたのか?」と言えば、それは「もう、幸せなあの頃には、決して還ることはできない」(『永遠に戻ってはこない』)という「実感」である。それが、モニカの死によって「確定的に実感させられた」ということなのだ。

長らく連絡を取ってはいなくても、モニカやエマがどこかで元気に生きていると信じられていたジュディには、心のどこかで「あの頃=あんな時間」がまだ生きているように感じられ、今がつまらなくても、人生を肯定的に生きていることができた。
「美しい思い出」とは、そういう力を持つものなのだ。

だが、モニカの死の知らせによって、もう決して「あの頃」には還れないと、否応なく実感させられる。漠然と、どこかに存在してでもいるかのように感じられていた「あの頃」が、すでに存在しないことを、否応なく思い知らされて、彼女はその悲しみのために泣いたのである。

(6)
『 校内から選ばれ、青少年学術財団のプロジェクトに参加したとき、私は十六歳の誕生日を過ぎたばかりだった。それまでの数年間にグラマースクールは招待を受けていなかったし、あのあとも与えられなかったはずで、私が参加したあの年だけ、財団はすこしばかりの〝それまでにない声〟がプロジェクトに必要と考えて、私の母校に三人の枠を配分したのだった。そのとき私は、向こうの言う〝それまでにない声〟というのが、私たちへの嘲笑の声でないことばかりを祈っていた。
 組分けの段階ですでに、私は自分がこのプロジェクトに似つかわしくないことを意識していた。大多数の班は、名前を見ただけで自分の知識の範囲を超えていることがわかった。一一数理論理学班、統計学班、機械学習班、遺伝子工学班、それにゲーム開発エンジンを研究するチームまであった。こういった班が、初等数学と初歩のプログラミングしか勉強していない参加者を歓迎するはずがないのは明らかだ。はじめ私は歴史学研究班に声をかけてみて、向こうも私の語学力がどこかで研究に役立つと考えてくれたけれど、みんなの目標が複雑系理論で歴史をシュミレートしたり、未来の動向を予測することだと聞いて、私は参加するべきか迷いはじめた。〈ファウンデーション〉シリーズを読んだことがあればかならず抱くであろう野心であっても、どう考えても二年間で達成できるような課題には見えなかった。
 同じ学校から来た二人は、神学研究班の立ちあげを主催者側に申請して、承認されていた。 グラマースクールに通っているのはほとんど私のような聖職者の家庭の子供で、将来にもほとんどが聖職者になるのを目標にしている。出願ページを開き、そこへ加わろうと考えていたそのとき、神学のほかにもう一つ、言語学班が新しくできているのにふと気づいた。申請者はモニカ・ブリテン という女の子。そうして、私は深く考えずに自分の研究の目標を決めた一一言語を学ぶのは好きだし、言語を背負っているものを知ることにも興味があるから、ここが自分にいちばん合っているかもしれないと。』(P233〜234)

上の引用文前半の「班選び」の部分は、作者・陸秋槎が、「SF作家」たちの中に立った時の、戸惑いと怖れを表現していると読んでいい。

この人には「プロパーSF作家」のような科学的な専門知識なんて無いし、SF小説だってそんなに読んでいるわけではないから、そんな自分が、マニアックな人たちの中に入ったら、「こいつ、何も知らんやつだな」なんて、見下されるのではないか、といった気分は、きっとあったはずだ。
それに、なにしろ本作は、著者の「SF処女作」なのだ。「理解されるだろうか」と、恐る恐る提出されたという部分もあったはずなのである。

しかしまた、作者の中には、そうした「マニア」「オタク」的な傲慢(「お山の大将」性)に対する反発もあれば、読書家としては決して負けてはいないという自負もある。

特に、SF作家やマニアの一部に見られる、おかしな「エリート意識」には、反発したことだろう。「自分たちの科学的知識と想像力を持ってすれば、未来予測も、あながち不可能ではない」といった、いささか滑稽ですらある、誇大妄想スレスレの尊大な「自意識」である。

これは、私も同じように感じるから、本書著者が「暗示的に語る」ところが、よくわかる。

例えば、大森望が中心になって行われた、SF作家によるリモート会議の書籍化である『世界SF会議』のレビューに、私は次のように書いた。

『SF作家は「大きな問題しか語らない」とか「当たり前の倫理を語らない」というのも、それはそれで「ネタ」としては良いけれど、やっぱり、身近な倫理についても配慮してもらいたいものである。』

あるいは、この『世界SF作家会議』にも参加していた樋口恭介が、その著書『『未来は予測するものではなく創造するものである ――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』 などで売り込んだ「SFプロトタイピング」などというものの胡散臭さにも、注文をつけた。

『樋口は、本書の中で、「明るい未来を信じている」という趣旨のことを繰り返し語っているが、それは、そういう「タテマエ」に立たないことには、そもそも「ビジネスにおけるイノベーション」の探求なんてことに、限定的な興味を持ち続けることなどできないからだろう。
つまり、「現在の悲惨な現実」については、無視しないまでも、ひとまず脇に置いておいて、ともかく「われわれ」は、そうしたものが無くなる「希望ある未来」を構想しましょうよ、という提案しかなされていないのだ。
そしてそれは、樋口が本書において、すでに伝説的な立志伝中の「起業家」と呼んで良いピーター・ティール(決済サービスを提供するアメリカの巨大企業「PayPal」の創業者)を絶賛しているところにも、よく表れている。
たしかにティールは、偉大な起業家であり、人類の未来を開くための一翼を担っている「成功者」だと言えよう。だが、その影に「多くの犠牲者」が確実に存在する、という事実を忘れてはならない。
そうした犠牲が「人類の未来」のためには「必要だ」と考えるのであれば、犠牲者の存在を無視するのも、それはそれで合理的ではあるけれど、そうした「ホンネ」を隠した上で語られる「キレイゴトのご託宣」には、心底うんざりなのである。』

これらには確実に、「イワン・カラマーゾフの告発」が反響している。

(7)
『 どうやら、この班の正式名称は〝計算言語学班〟ということになるらしい。そうとわかっていたら、同じ学校の二人と一緒におとなしくトマス・アクィナスについて研究していたのに。
「ごめんなさい、私にわかるのは初等数学だけで、しかもあんまり得意じゃなくて。ぜんぜん力になれないかも」』(P237)

ここには、作者の「ジュディ」性が示されている。
自分は科学になって詳しくないから、きっとみなさんを満足させることはできないでしょう、こんなことなら、ミステリを書いてるだけの方が良かったのかもしれない、という逡巡であり不安だ。

(8)『「ということは、数学の手段をどう使えばいいかまったくわからないグラマースクールの生徒と……」
「それに、外国語なんてほとんどわからない班長。これは前途多難だ」口を引きむすんで、首を振る。
「どう、別の班に変えようと思う?」
「ここより合った班があるわけでもないし」神学にはぜんぜん興味がない。それに私がここ抜けたらモニカ一人が残ることになって、この班が取りやめになるかもしれない。「歴史学班の人とも話をしたしてみたけどけれど、あの人たちはラプラスの悪魔みたいに、人類の歴史をすべてシュミレート知ることにすることを考えてたの」
「狂気の沙汰の考えね。ひとつ私たちも、コンピューターで、人類の言葉の進化史をシュミレートして、ついでに予測もしてみる?」
「なおさら難しくなるだけでしょう。だって言語の進化となればいっそう外部の要素から影響を受けるんだし。政治、経済、戦争、人口移動……」
「だったら、歴史学班が向こうで〝ラプラスの悪魔〟を作りあげてからでないと、研究は始められないということか」
「そうだね。でも、どう考えても完成はしないから。すくなくともこの二年のうちにできるはずはない」
「機械翻訳のことをやってみるのはどう?」モニカが言った。「そのほうの研究だったら、私たち両方の長所を生かせるかもしれない。たとえば市場でよく使われるている翻訳ソフトをいくつか持ってきて、ミスが起きやすい文章をある程度試したら、あなたが翻訳の結果が正しいかを判断して、私がアルゴリズムの方面からどうしてその結果が出たかを分析するの」
「うまいこと行きそうな気になってきたかも」
 正確に言うと、私は機械翻訳にまったく好感を持っていなくて、恨み骨髄に徹すると言ってもいいくらいだった。その分野での技術が進歩するほどに私は、自分があれだけの時間を費やして、いろいろな言語を学んだのが無駄な努力でしかなかったような気分がつのっていた。それでもモニカの提案は受けいれる気になっていた。私のする必要があるのは、機械翻訳の結果をあら探しするだけだったから。
 あら探しなら、ぜひともやってみたかった。
 なのにそのとき、モニカは私がなにより聞きたくなかった一言を付けくわえた。
「私たちの研究はもしかしたら機械翻訳の進歩を速めて、すぐにでも人間の翻訳の仕事を完全に乗っ取ってしまうかもね』(P237〜239)

ここでの『神学にはぜんぜん興味がない。』というのは、当然「ミステリ」の比喩ではなく、「キリスト教神学」が「護教の学=自己権威化の学」という事実に対する、著者の思いであろう。著者は「反権威」「反主流」の人なのである。

だから、好きになれない「最先端科学」だとしても、「あら探し」としてなら関わっても良いというのは、非常に著者らしい感情で、面白い。

今どきの「優等生的(あるいは、受験エリート的な)日本人」からは消え失せた「反骨的批判(批評)」ということの「謙遜的(自虐的)表現」が、この「あら探し」なのである。

実際、本作品集に収められた作品は、ある意味では、すべて「SF小説のあら探し作品」、つまり「自己批評的SF作品=メタSF=アンチSF」だとも言えよう

(9)
『「モニカの論文は、いったいどこに問題があったの?」
「それがなにより許せないところ」こめかみを揉みながら答える。「学会の人が理由を説明しなかった。そもそも、(※ 学術論文査読AI)〈墓石〉も理由を教えてくれない。あれは論文が成立しているかどうかを判定するだけなんだ」
「理由を教えない? 判定のプロセス確認できないの?」
「残念だけど、できない。〈墓石〉には説明可能性がないんだよ。どうしても解読するとなると、たぶんとてつもない時間がかかる。一一モニカの論文を人の手で検証するよりも、長い時間が」
 そう話して、エマはうなだれるととため息をついた。
 腰を下ろした私は、その手にフレキシブルPCを置く。
「〈墓石〉はブラックボックスなんだよ。向こうの人間は、ただモニカの論文をそこへ入力するだけで、〈墓石〉が結論を出す。そしてあの人たちはその結論を信じて、問題の論文を却下した。論文のどこが間違っていたのかだれも知らない。いや、もしかすると、論文は正しくて、ただ複雑すぎて多項式時間では検証できないのかも、そういう場合だと〈墓石〉は論文が成立しないと判定する可能性がある……」
 エマの手から力が抜け、PCはソファへと滑りおちて、背もたれとクッションのすき間へと転がっていった。振りかえって、私の目を表面から見つめ、一言付けくわえる。
「……そのブラックボックスが、モニカを殺したのかもしれない」』(P251)

これは、最近話題の、対話型AI「チャットGPT」でも同じことだ。
利用者が、問題を入力すると、チャットGPTは、もっともらしい答を、一瞬で文章化して返してくれる。しかし、こうした回答文は、今のところはまだ、鵜呑みにはできない「正答率」のものでしかない。
だが、AIの正答率を上げること自体は、さほど難しいことではない。要は、読み込ませるデータ量を増やせば、AIは、より適切な「文脈」を学ぶことで、正答率を上げるのである。

しかし、その上での残る問題は、私たちは、AIがどのようにして「解答を生成するのか」の「原理的な構造」は分かっていても、個々の問題に対する個々の回答について、どのような筋道を辿ってその結論に至ったのか、その「過程」は、複雑すぎてわからない、という点なのだ(AIが参照するデータ量を考えてみるとよい)。
とにかく、かなりの精度で正答を導き出してくれるという「結果」は分かっていても、その「論理的な途中経過」は、AI研究者にとっても「ブラックボックス」なのである。

したがって、モニカの論文を査読したAI〈墓石〉も、その回答(結論)に至る「論証部分」については、説明してくれない。
〈墓石〉自身にも、そこについて「簡単に」答えることはできない(正確に答えると、現論文以上に膨大なデータ量になって、人間が読むことができなくなる)し、ましてや〈墓石〉に頼っている「AIの門外漢」である言語学学会の学者たちに、AIの「ブラックボックス」の中身など、説明できるわけがない。

ただ、AIに頼っても、「回答の信頼性」が、特に落ちるわけではない(人間が査読しても、間違うことは多々ある)し、なにしろ作業効率が圧倒的に良いなのだから、たとい論証経過が「説明不能」になっても、いずれにしろ「結論に大差はない」のなら、そうした選択も「仕方がない」ということなのである。

要は、「作業効率化のために、論文を落とされた人には、(結論のみの説明なしで)泣いてもらおう」という「経済的な選択」なのだ。

(10)
『 そこから私たちは、一時間くらいをかけて今後なにを研究すればいいかを話し合った。どう考えるかというと、モニカの得意分野はコンピュータテクノロジー、そして私の得意分野は歴史言語学で、私たちはその二つの結節点を探すことになるだろう。そこで私は、コンピュータテクノロジーを利用して古代の言語を復元できるかもしれないと提案してみた。それを聞いたモニカは肯定も否定もせず、私のほうも言ったあとで的外れのような気になってきた。たしかに挑戦する価値のある課題で、それに私たちそれぞれの長所も生かせるけど、応用価値はまったくないように見える。でも、もしかしたらどこかの映画かゲームが、ルウィ語やセロニア語をちょっと話すキャラクターを必要とするかもしれない、なんて……。』(P255)

これは、今の世の中の「効率性(経済性)第一」「成果がすべて」という傾向に、異を唱えているのである。
小説の世界で言えば、「売れれば、それでいいのか」ということだ。

本来、科学というものの「理想」は、「知的探究」というところにあった。
「真理を知りたいという、純粋な知的好奇心」が、本来の「科学マインド」であり「スピリット」であったはずなのだが、現実のそれは、「兵器の開発」といった政治目的に利用されたり、そうでなければ「金儲けのネタ」としてしか求められない。

かつて、カール・セーガンなどが計画立案して実行した「地球外知的生命体の探究」といったことに、今では予算がつかなくなった。

日本でも、「軍事転用」ができる研究に、予算が優先されるようになった。また、「軍事」ではなくても、「商用に利用可能な、実用性の高い研究」が求められるようになったのである。

(11)
『 牧師が祈りの言葉を言い終えたあと、エマは同業者と友人を代表して簡単なスピーチをした。
「モニカとあたしは同じように、とても純粋な好奇心につき動かされて科学の道を進みました。でも、モニカはさらにぬかるみだらけで孤独で、絶望的な道を選びました。生きているあいだ、モニカの研究を完璧に理解したのはだれひとりいないかもしれません。でもあたしは、モニカ遺してくれたそんなに多くない論文には、きっと人類の知恵の最果てにある思考がそこかしこに埋まっているんだと信じてます。それは、科学に身を捧げる人間としてあるべき姿でもありました。一一理解されなくても、もしくは不公平な扱いを受けたとしても、ひとり孤独に真理を追求すること。その真理も自分と同じように世の中の誤解と軽視にぶつかったとしても。どうして自分の選んだ道を歩き切きらなかったんだと、責める資格はだれもないんです。そんなことじゃなく、あたしたちは賞賛すべきです、こんなに厳しい環境でも、ここまで歩きつづけてきたんだって……」
 エマは嗚咽しながら、話を終えた。』(P258〜259)

モニカは「人間らしさ」を擁護するために、あえて「アンチ科学の科学者」という、陽に当たらない道を歩み続けて、ついに「営利優先」「効率優先」の「現実の科学」に殺されてしまったのである。

(12)
『「難しい本なの?」
「難しい。小説なのにぜんぜん物語らしくなくて、どこもかしこも長い文章とわかりにくい比喩だらけで、もしかしたら作者は哲学者のつもりで書いたのかもと思う。私は、それに出てきたある比喩について考えるつもり一一〝木製の鉄で作られた、四角い円〟」
「その比喩、作者はなにを表現しようとしたの」
「矛盾に埋めつくされた時代を描こうとした」深く息を吸いこむ。「その時代は、相容れない目標や立場が大量に存在していて、そうやって矛盾しあうものが同時代のひとりひとりを引きさいていたの。 あの時代を詳細に腑分けしたいと思っても、見えるのはそんな矛盾だけで、〝木製の鉄で作られた、四角い円〟と似たような、意味のない結論が出てくると思う。でもそうやって矛盾したものがひとつひとつ集まって作られたその時代は、ちゃんと意味を持っていて、燦然と輝いてたってぐらいに言ってもいい」
「なるほどね」モニカはうなずいた。「聞いた最初は矛盾した文書に思えても、作者はそれで時代の矛盾を表現したかったってことか」
「あたしも最近、似たような話を読んだな」エマが割りこんでくる。「二人が貸してくれた、あの生成言語学のテキストで」
MITの作ったあのテキスト? どの文章かわかると思う」モニカは何秒か考えていた。「あれじゃないかな、〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟?」
「そう、それそれ」
チョムスキーの言っていた文章?」私もなんだか覚えがあった。「たしかその文章は、文法のレベルでは成立している文章が、語義のレベルでは成立しない場合があるって説明しようとしてたんでしょ」
「そうなの?」エマの顔は困惑に覆われていて、あの本を詳しく読んでいないようだった。「なんとなく思い出しただけなんだけど」
「そういう目的だったのはたしか」そこへモニカが説明する。「百年近い歴史のある文章なのよ、そもそもは、チョムスキーが一九五七年出版の『文法の構造』で挙げた例だったの。その本は生成言語学の基礎を作った本でもあって、おおまかにチョムスキーの第一期の思想を表している。これが例として挙げられたのは、文法と語義を区別するためなの。〝色のない緑の考えが猛烈に眠る〟という文章は意味論のレベルでは成立することがないから。〝色のない〟はふつうぜったいに〝緑〟とはつながらなくて、〝考え〟が〝眠る〟ことはないし、まして〝猛烈に眠る〟のは無理。でもこれは、英語の文法には反していない。対して、この文章をもし〝猛烈に眠るに考え緑の色のない(Furiously sleep ideas green colorless)〟と変えたら、意味がないのは同じでも、文法から外れてしまう……」
「この〝色のない緑の考えが猛烈に眠る〟は、ほんとうになんの意味もないわけ?」
「完全に無意味なわけではないと証明しようとした言語学者は何人もいて、それぞれ文脈を設定して、どんな状況だったら〝色のない緑の考え〟が〝猛烈に眠る〟のか説明をつけているわ。言語学者たちのお気に入りのゲームにまでなったということ」
「面白そうな気がしてきた」エマは言う。「あたしたちもやってみる?」
「この文章に文脈を考えること? 最初に本でこの文章を見たときに、私は挑戦してみたの。でも思いつかなかった」
「私もやったことがあるよ」私は言った。「うまくいかなかったけど」』(P267〜268)

人間という生き物が、当たり前に生きていくためには〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟的な部分が、かならず残されていなければならない。

ところが、「営利優先」「効率優先」の現実の「科学」は、その「余地」を残しておこうとはしないのだ。
「遊び場の空き地」を残さず、それらをすべて収奪し、その上で、それに適応できないような人間は「ここから去ってくれて良い」という、そんな「冷たい方程式」しか書かない、非人間的なものに、完全に成り下がってしまっているのである。

(13)
『「本当言えば、いまの仕事ぜんぜん好きじゃないんだ」一口お酒をすする。今度はことさら慎重に。「モニカ、私がいちばん耐えられないのがなにかわかる?」
「ソフトの翻訳した文章があまりにしっちゃかめっちゃかだとか、外国語の表現の癖がそのまま残っていて、仕事が大幅に増えたとき?」
「いいや」首を振る。「その反対、私がなにより気にいらないのはソフトがそこそこに良い訳をしてきたとき、まるで外国語の読解能力がすばらしくて、だけど母語の作文能力は平凡な人が翻訳したみたいな。そういう人にはグラマースクールでたくさん出会ってきたの。同じ本でも、そういう人たちがこのレベルで翻訳するなら、少なくとも一ヵ月は必要で、だけどソフトは二分もかからないで完成させる。それどころか、とくによく使う外国語を手のうちにおさめるまでに、一人あたり五年から十年を費やすわけだから……」
「でも、言語が背負っている文化は人間にしか理解できないわ。マリアナ・ラーニングの技術を使った翻訳ソフトは、ほんとうに起点言語を理解しているわけではなくて、平行コーパスと翻訳データベースを頼りに、そこから一工夫して訳文を算出しているだけだから。ようするにただのおうむ返しで、人間と同じように読んで、考えて、書いているわけではない」
「だけど、役に立つことでは私以上。その一点は認めないといけないでしょう」
「ジュディ、ごめんなさい」モニカは手にしていたグラスを置く。「私とエマはずっとその方面の研究をしていて……」
「たしかに二人のしてる研究は大嫌いだけど、だからといって二人のことは嫌いにならないから。結局はぜんぶ私自身の問題。私が時代についていけないから。ときどき思うの、自分の人生はチョムスキーのあの言葉に似てるって」
「例の〝Colorless green ideas sleep furiously〟のこと?」
「そう」私はうなずいて、グラス半分を流し込んだ。「その文章。文法には従っていててもなんの意味もない、私となにが違うんだろう一一私は自然界の規則とでもいうものに従って生まれてきて、この人生も自然と人間社会の規則を外れたことはない。なのに私は、自分の人生のどこにも、〝意味〟と言えそうなものが見つからないの。私の人生はまさしくあの〝Colorless green ideas sleep furiously〟って文章をみたい」
「でもエマは証明してくれたんじゃなかった? この文は、文脈によって意味が生まれると」
「現実に、そんな文脈なんて存在するの?」
「いまこのときがそうかもしれないし」モニカは言った。「まだそのときは来ていないだけかもしれない」』(P283〜284)

言うまでもなく、この問題は「他人事」ではない。

例えば、SF小説の翻訳だって、すでに「下訳」はAIにやらせている可能性は十分にあるし、翻訳AIの性能が十分に上がれば、人間の翻訳家などお払い箱だろう。
また、流行の型をなぞったものでしかないような薄っぺらな小説など、そのうちAIが書くようになって、SFやミステリやキャラクター小説といった「型」を重視するジャンル小説は、真っ先にAI小説家に侵食されることになるだろう。なにしろ、読者のレベルは低く、「教養」も無ければ、「繊細」な違いなど、どうせわからないのだから。

それでも、本作の三人娘は、それぞれに、こうした流れに抗して、自身が〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟存在たらんと、その可能性を模索したように、私も、すでに同じような問題意識において、ささやかな抵抗をおこなっている。

(14)
『「皮肉?」
「モニカがこの論文で証明しようとしていたのは人工知能が万能なんかじゃないこと、すくなくとも理論上は能力の限界が、欠陥とさえいえる点があることだったんだよ。その一点を証明するためにモニカは、新しい離散圏の理論を構築して、これまでの形式意味論よりもはるかに抽象的な数学的手段を使うことにした。今回の理論を完全に把握するには、あたしで一、二年は必要かも。でも言語学会の人たちは〈墓石〉にこの論文を検証させただけで、完全に否定することを決めた。どうしようもなく皮肉な話だよ。長年の苦心が否定されたそのうえに、自分を否定したのがあろうことか同業者じゃなく、完璧でないだろう人工知能だったんだから。この文章は人工知能の欠陥を論証をしようっていうのに……」』(P285〜286)

「皮肉」な事態なのである。
私たちは「科学」を批判するのに、「科学を捨てる」ということでは太刀打ちできない。
だから、「科学」を使って「科学の暴走」に抵抗するという選択肢しか、たぶん残されていないのだが、これは、100パーセントではないにしろ、否定している当の相手の力を借りなければならないという段階で、すでに負け戦になる可能性の方が、よほど高いようにしか見えない。

しかしまた、むざむざ黙って殺されるくらいなら、無駄な抵抗でもするのが「人間の尊厳」であろうと考えるのが、「矛盾に満ちた文学的人間」でもあろうから、私も、そして本書著者も、そんな「抵抗戦」を闘っていると言えるのではないだろうか。

だが、この戦いは、孤独な戦いでもある。
なぜなら、モニカが〈墓石〉に殺されたといっても、それを選び支持したのは、本来ならモニカの味方でなければならなかったはずの、「人間(この場合は、科学者)」だったからである。

つまり、「人間」を不要とするような科学との闘いにおいても、科学そのものが「敵」なのではなく、むしろ、科学を、人間的欲望の祭壇に捧げた「人間」自身が、真の敵なのでだから、「人間」を仲間だと考えていたら、ほぼ確実に裏切られ、失望するしかないから、この戦いにおいては、「世界vs.私」という孤立無縁の戦いを覚悟しなければならないのである。

(15)
『「そういうブラックボックスが、毎日増えつづけてる」
「そうだよ」エマは肯定しながら、でも首を振っていた。「でもそんなことはなんでもない。見方を広げてみるなら、出発点のニューラルネットワークモデルも、訓練データも人の手で作ったものではあるよね。すくなくともあたしたちは、マリアナ・ラーニングって技術がどういうものかは理解している。でもこれからはどうなるんだろう? もしある日、人工知能が人間に代わって技術開発の仕事を進めて、あたしたちがすべきは人工知能の開発した技術から、人間の役に立つものを拾いあげる作業だけになったら。その日が来たら、あらゆる新技術についてあたしたちが知ってるのは結論だけで、具体的な原理はわからないし、隠れ層の奥に埋まっている開発過程もわからない。言葉を換えれば、そういう技術のひとつひとつが、人間すべてにとってのブラックボックスになるんだよ」
「その日が来るまで、あとどれくらいあるの」
「わからないよ。十年かも、それとも二十年かも。わかるのはその日がいずれやってくることだけ。それに、ほんのすこしの研究者を別にして、誰も変化には気づかない。だってあたしたちは、日常生活にブラックボックスがあることに慣れてるから。そもそも説明可能性よりも、役に立つことのほうが価値があるからね。たとえば微積分が、理論的な基礎を明確になるよりもまえに、二百年以上数学者に使われてたみたいに。実際に役に立つんだだから。そのときが来たら、ブラックボックスみたいな技術のことをどうにかして説明しようとする人は出てくるよ。説明は、ブラックボックスが生まれる速さに永遠に追いつかないかもしれないけど」
「モニカも、同じような未来を予想したの?」
「こういうことについては、モニカはあたしよりも間違いなく敏感だった」エマは言う。「それに、モニカはきっとこんな未来を受け入れたいと思わなかった」
 エマはPCを鞄に戻して、そこから今度はあの、色の抜けたSYNE(※ 指先サイズにハッケージされた、液体式記憶媒体)を取りだし、私に手渡そうとしたけれどためらって、手を引っこめた。
 SYNEを私に保管させたら、いつか私がモニカと同じ(※ 毒性のあるSYNEの中身を飲み干すという)死にかたを選ぶんじゃないかと心配になって、気が変わったのかもしれない。
「モニカは、どうしてあんな方法で自分を終わらせたんだと思う?」エマは私に訊く。たぶん、エマはこの質問への答えしだいで、そのSYNEを渡すかを決めるんだろう。
 もしあの(※ 昔、3人で飲んだ)ときバーで私とモニカとの会話を聞いていたなら、質問の答えは予想できたんじゃないだろうか。あいにくと(※ すでに酔って寝こんでいた)エマは聞いていなかった。エマは〝Colorless green ideas sleep furiously〟が生成言語学のテキストに載っていた例文だったのと同時に、人生の隠喩にもなりうることを知らない一一法則に外れず、規則を守り、それなのに結局は意味のない人生の隠喩として。
 モニカが持っていたSYNEも、保存環境が良くなくて色が抜けていたかもしれない。もともとは緑色だったのに、透明に色が消えてしまったSYNEを見たモニカは、あの文章を思い出して、それから私がバーでこぼした悲観の言葉を思いだし、そして自分のことをに思いいたった。だけど、その答えはあまりに悲しすぎる。エマまでがそんな消極的な気分に染まるのを望まない私は、この問いに違った答えが答えを考えないといけない。間違ってはいても、慰めの役に立つような答えを。
 だから私は答えた。
「モニカは、ただ自分の思い出を飲み干したの一一自分にとって、何よりも美しい思い出を」』(P288〜291)

ジュディは、この戦いが絶望的なものであると思いながらも『エマまでがそんな消極的な気分に染まるのを望まない私は、この問いに違った答えが答えを考えないといけない。間違ってはいても、慰めの役に立つような答えを。』と考えて、上のような「せめてもの救いがある回答」を提示する。一一これはこれで、たしかに「ささやかな抵抗戦」なのだ。

だが、私はここで、さらに力強い「現実の言葉」を紹介しておきたい。

本作中に登場する〝猛烈に眠るに考え緑の色のない(Furiously sleep ideas green colorless)〟という言葉を作り、そんな世界の矛盾と、真正面から対峙してきた、ノーム・チョムスキーその人の言葉だ。

チョムスキーは、盟友ディヴッド・バーサミアンのインタビューに答えて、次のように語っている。

『一一陰鬱な時代であるいま、多くの人々にとって明るい未来が待っているとは思えないものです。何があなたに希望を与えてくれるのでしょうか? これはお馴染みの質問でしょうが、私もほかの人々と同じように、この質問を問いかけたいと思います。

 私に希望を与えてくれるのは、想像に絶するほどの厳しい環境下でも、人々が権利を獲得しよう、正義を行なおうと奮闘している事実だ。彼らは希望を手放していない。インドの農民もそうだ。あるいは、ホンジュラスで貧困にあえいでいる人々も。彼らは決してあきらめない。だから、彼らよりはるかに恵まれているわれわれがあきらめることはできない。
 もうひとつの理由は、希望を持ち続けるほかに選択肢がないからだ。希望あきらめるのは、最悪の事態が起こるのに協力しよう、と言うのと同じことだ。あきらめたら、その選択肢しか残らない。目の前にあるチャンスを生かす気はないというのは、最悪の事態が最短で起こるのに手を貸すと言うに等しい。しかし、選択肢はもうひとつある一一最善を尽くすことだ。インドの農民たちのように、ホンジュラスの貧しい小作人たちのように、世界中でつらい境遇に瀕した人々のように、最善を尽くそう。そうすればひょっとして恥じることなく生きられると感じられる、まともな世界、よりよい世界を実現できるかもしれない、と。
 そうなると、選択の余地はない。だから、選ぶのは簡単だ。希望を持つしかないのだよ。』

(ノーム・チョムスキー『壊れゆく世界の標』P265〜266)

私たちは、この「鋼の人」とでも呼ぶべき、チョイムスキーのような強さは持てないかもしれないけれど、こんな人が実在しているという事実は、間違いなく希望だと言えるだろう。

これは、きっとチョムスキー自身が〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)の成立可能性を、身をもって示そうとしているのである。
だから、私たちも「ささやかな抵抗」を放棄するべきではないだろう。

したがってこれは、「切ない」などといって、感傷に酔うことなどとは比べ物にならない、「文学的」な人間の、生き方なのである。


(2023年7月29日)

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【補記】「ジャンル的囲い込み」とは何か?

本書『ガーンズバック変換』の解説において、解説者で、『SFマガジン』誌の現編集長である溝口力丸が、次のように書いている。

『(※「色のない緑」は)現代SFのマスターピース級の傑作で、その年の年刊傑作選(『ベストSF二〇二〇』、竹書房文庫)にも再録されました。(※ 陸秋槎)氏曰く初めて書いたSFだそうなのですが、それがこれほど魅力的な作品に仕上がるというのは、やはり膨大なインプットと、それを自らの糧にしていく切磋琢磨があっての成果なのだろうと、本書に収録された他の作品を拝読していても強く感じます。

 ジャンルというのは単なる符牒に過ぎず、小説家の活動を底上げするものでこそあれ、その輪の中に縛り付けるものであってはならない……というのは、SF雑誌を編集している身として日頃から自戒していることです。それでも、日本にミステリやSFの豊かなジャンルの土壌があったために、陸秋槎氏のような優れた作家が現代日本で立て続けに魅力的な小説を発表してくれていることには、先人たちへの感謝を禁じ得ませんし、国境や時代の壁さえも軽々と超えることのできる、ジャンル小説の豊かな篝火が絶えず続いてくれることを願います。本書がいつかまた、誰かの新たな創作へ繋がってくれるなら、担当編集者としてもこれ以上の喜びはありません。』(P302、「解説」より)

ここで語られている『ジャンルというのは単なる符牒に過ぎず、小説家の活動を底上げするものでこそあれ、その輪の中に縛り付けるものであってはならない』という認識は、私が、レビュー最相葉月星新一 一〇〇一話をつくった人』:天皇・星新一ですら〈ただの人〉であった。」などで論じた、樋口恭介が中心となって引き起こした「〈幻の絶版本〉特集中止問題」に関わる、「日本SF界の現状」の問題と直接的につながってくるものであろう。

つまり、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」に関わる、『SFマガジン2022年2月号』の、溝口力丸による巻頭言「お詫びと展望」における、

『 SFは、誰であっても自由に楽しむことのできるジャンルです。しかし、本誌のこれまでのあり方が、性別や年齢などを問わず、本当に全ての読者に開かれてたきたかといえば、決してそうではなかったと、これまで本誌に関わってきた者として責任を感じております。』

という言葉が、上の「解説文」と響き合っているのだ。

要は、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」の根底にあるのは、樋口恭介やその周辺に集まっていた「SFエリート」たちの、「タコツボ的自意識」が引き起こしたものだという気持ちが、溝口にはあったから、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」とは、直接関係がないように見える、上のような言葉が、「お詫びと展望」の中に混入した、ということである。

そして、同じような『ジャンルというのは単なる符牒に過ぎず、小説家の活動を底上げするものでこそあれ、その輪の中に縛り付けるものであってはならない』という言葉が、ミステリ作家出身の陸秋槎の著作の「解説」中で書かれたのも、両者が「百合」という、「SF」とは直接関係のないところでつながったというのも、決して偶然ではなかったということなのだ。
つまり、溝口力丸と陸秋槎は、「SFマニア」的な心性への「嫌悪」という点において、通づるところがあったということだ。

そしてこれは、樋口恭介やその兄貴分的な存在である小川哲をしつこく批判した、この私にも共通するものだと言えるだろう。
要は、「オタクエリート主義」だとか「主流派の専横」が大嫌いだという、本書『ガーンズバック変換』に充溢した気分と同じ、だということである。

(2023年7月29日)


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