陸秋槎 『ガーンズバック変換』 : ひとしずくの 〈美酒〉
書評:陸秋槎『ガーンズバック変換』(早川書房)
たぶん、本書について、日本で最も懇切な「解説」を書けるのは、私をおいて他にはいないだろう。
少なくとも、SF系の評論家やライター、あるいは、そのマニアなどでないことは、確かだ。
例えば、本書のAmazonページに寄せられているレビューは、本書刊行後5ヶ月を経た現時点で、次の1本だけである。
見てのとおり、レビュアー「Yasuo」氏は、「SF読み」としての自意識を持っている人なのだろう。だから『手品のトリックをSF的に暴く』とか『なんとも切ないSFミステリの「色のない緑」』『SF的ガジェットが巧みに使われていて、それがラストの切なさにつながっている。』などと書いているのだ。
しかし、その一方、作者の方は、解説者の溝口力丸も紹介しているとおり、作家としての自身を『作った』小説として、次のような作品を真っ先に挙げる人であって、決して「ジャンル」で小説を読む人ではないのだから、「SF」という「色眼鏡」を掛けて見たのでは、この作家の本質を見失うことにしかならない。
この記事は4年前のもので、その段階では『中国ミステリ作家』として紹介されているというバイアスはあるにせよ、ここには明白に、陸秋槎という人の「好み」や「傾向」が刻印されている。
私もミステリファンでありノンジャンル読者なので、ここに挙げられている作家は全員読んでいるし、ここに上がった作品もほとんど読んでいるが、私がここで、特に注目するのは、陸秋槎が2作まとめて真っ先に挙げた、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と中井英夫『虚無への供物』についての、次のようなコメントだ。
実のところ、私の最初のハンドルネームである「アレクセイ」(今の「年間読書人」は2つ目)は、この2作から採ったものだし、当然、この2作には特別な愛着がある。
だから、陸秋槎の『『虚無への供物』の最後に五〇年代日本の災害を列挙するのは、『カラマーゾフの兄弟』に書かれた児童虐待のエピソードと同じ意図ではないか』という指摘はよく理解できるし、共感的に納得もできる。陸秋槎が、ここで言わんとしたこととは、両作に共通する「虐げられたもの、顧みられないものへの愛」ということだ。
そして、そうした観点に立つなら、陸秋槎の作品を「SF的観点」からだけ見るというレビュアー「Yasuo」氏の「読み」は、片手落ちというも愚かなほど、いかにも不十分なものでしかない。
たしかに、本書著者である陸秋槎は、「あとがき」の中で自身を、SFの『門外漢』(P296)と言っているし、事実作家としては、本書が初めての「SF小説の単著」で、最初の単行本は「ミステリ」であった人だ。また、同じ意味で、「SFマニア」ではないし、「SF作家」として初心者だというのも、間違いのない事実ではある。
だが、その一面だけをとらえて、SFに一家言ある「Yasuo」氏が、いわば「先輩ヅラをして」あるいは「上から目線で」、前記のように評するというのは、「マニア」心理として理解しやすいところではあるのだが、決して適切妥当な評価だとは言えないだろう。
陸秋槎自身による、『門外漢』だとか「SF初心者」的な自己規定とは、言うなれば、自分は偏頗な「SFオタク」などではないという「自負」に発した「形式的な謙遜」にすぎず、決して自分が「文学理解」において「SFマニア」に劣っているなどと思っていないというのは、「読める読者」には明白なことであろう。
なのに、あんな「知ったかぶりの評価」を迂闊に語ってしまう「Yasuo」氏こそが、「読めない読者」の典型だということなのである。
つまり、「Yasuo」氏の『8作品のSF短編集。読みやすい作品と読みにくい(なかなか頭に入ってこない)作品の差が大きいように感じた。私の好みの問題なのかもしれないけれど。』という言葉は、陸秋槎の、読書家としての恐るべき力量を読み取れていない、何よりの証拠でしかない。
どういうことかというと、「Yasuo」氏の『読みやすい作品と読みにくい(なかなか頭に入ってこない)作品の差が大きいように感じた。私の好みの問題なのかもしれない』というは、じつのところ同氏が、「現代のエンタメ小説」くらいしたまともに読んでいないために、「昔の独特な文学形式」や「一般読者を楽しませることを大前提とはしない文学」というものが「読めない」、ということでしかないのだ。
だが、それを、単なる『好み』の問題に矮小化して、読書家としての自己を「正当化(し、救済)」している、ということなのである。
今どき、「好みの問題」だということであれば、多くの人は「それなら仕方ないね」と言ってくれるから、「わからない小説」については、「好みではない」と言っておけば、自身に「相応の能力や知識が無いから読めない」のだ、ということにはならないと踏んで、このような書き方をしがちなのであろう。
しかし、読める読者であれば、「読みにくい」作品ではあっても、その作品が「なぜ読みにくいのか?」ということを考えるだろうし、相応に知識があれば、その問いについて、説得力のある「読み」を示すこともできるだろう。
ところが、本書著者に比べて、明らかに「読書家」として劣る「Yasuo」氏は、自分が「読めない」ことを、単に「好み」の問題に還元して相対化し、著者に対して、「SFの部分」において、半ば無意識であるにしろ、マウントを取ろうとしているのが、このレビューなのである。
本書に収録された『8作品』は、次のとおりである。
「Yasuo」氏が「読みやすい」作品として語っているのは、(4)(5)(8)の3作だが、言い換えれば、それ以外は「読みにくかった」ということであり、平たく言えば「何が面白いのか、理解不能だった」ということであろう。
これは、気持ちとしてはわからない話ではない。かく言う私も、ほとんどの作品が、最初は「作者が何を書きたかったのかが、よくわからず、その魅力を理解できなかった」からだ。
しかし、その答は、著者の「あとがき」による説明を待つまでもなく、(8)の「色のない緑」に、徹底的なまでに書かれていたのだから、「あとがき」まで含めて、本書を最後まで読みながら、著者の意図したところがわからない、というのは、端的にいって「読解力が無い」ということにしかならない。
そしてこれは、なにも「Yasuo」氏だけの話ではなく、たぶん本書に評価を寄せた(現時点での)23人や、たぶん「SF読み」のほとんどに言えることであろう。
では、「Yasuo」氏が「読みにくい」と感じた作品とは、どのようなものであったのか。
その典型的な作品は、たぶん(2)(3)(6)であろうし、その次に(1)と(7)ということになるだろう。
どういうことかというと、(2)(3)(6)は、一般的にいって「SF」ではなく、「古い文学形式へのオマージュ」的な作品だからで、そこで扱われている文学形式に、多少なりとも触れ、わからないなりにも、そうした文学作品に対する「敬意」を持っていないかぎり、そんな「古風なもののパスティーシュ的オマージュ作品」を読まされたって、面白いわけがない、ということなのである。
つまり、これらの作品の「(作者が)意図するところを読み取って、それを楽しむ」ためには「高度な文学的教養」が必要なのだが、「SF読み」である「Yasuo」氏には、そのような「文学的教養」が無かったから、ただ単に「今どきはやらない文学形式の作品」として、「読みにくい」ということになってしまったのだ。
では、(1)と(7)はどうなのかというと、この2作品は、表面的には「今どきのSF」の形式で書かれているものの、しかし、「SFファン」を喜ばせるツボを、なかば「故意にハズした」作品となっているため、SFファンの視点から見ると、「何がやりたかったのか、よくわからない」作品ということになってしまう。
(1)の「サンクチュアリ」は、「脳」という「サンクチュアリ(聖域)」を弄って、問題解決することの「(機械的操作の)安直さ」に対する嫌悪を表明した作品であり、その意味では、かなりわかりやすい作品だ。しかしながら、この作品は、一般的な「SFファン」の共感を得にくく、その意味で「理解されにくい」作品だとも言える。
なぜなら、「SFファン」がSFに期待するのは、「科学技術への嫌悪」ではなく「科学技術の先にある世界像」だからである。
しかし、この作家には、そんなものに期待する気持ちなど、ほとんど無い。
そんな「世界像」など、能天気な空想でしかないと思い、むしろ、そうした能天気さによって踏み躙られる「人間の聖域性(形式的な正しさに還元できない部分)」に対する愛着から、作者は、「SFファン」の期待をなかば故意に裏切る、このような作品を書いてしまったのである。
言い換えれば、本作から、作者がどういう人なのかということを読み取れた読者には、本作は「作者の思いがよく描かれていて、面白い」ということにもなるのであろう。
(7)の「ガーンズバック変換」も同じことで、上の(1)についての説明を読めば、この作品が何を描いているかは明白であり、そうした「作者の思い」を理解できるならば、それを楽しむこともできるハズなのだ。
しかし、これだけでは、理解できない読者、特に「SF読み」は多いだろうから、労を厭わず、ひととおり解説をしておこう。
「ガーンズバック変換」は、おおよそこのような作品であり、本作のユニークさは、この「設定」にあると、ひとまずは言えよう。要は、現実に存在した(する?)香川県の条例をモデルにした、この「反動的制度と、どう闘うのか?」というのが、一一普通であれば、本作の読みどころとなるはずだ。
事実、本作には、この制度と闘う「テロ組織」が登場して、主人公は、その組織と接触したりもする。
しかし、結局のところ、主人公が選んだのは、「悪しき制度」(と、紋切り型に捉えられがちなそれと)闘うことではなく、そうした「制限」の中で、「彼女」との当たり前の生活を選ぶ、ということであった。
つまり、読者は、当然の如く「悪しき制度との闘い」が描かれ、その結末がどうなのかというところに期待するのだが、作者は、いわば、そうした紋切り型な期待の「梯子を外してしまう」。
だから、当たり前の「SF読み」としては、作者が「何をしたかったのかが、わからない」ということになってしまうのだ。
このように、本書が「読みにくい」「わかりにくい」ということの理由のおおかたは、読者の側の「偏見」にあると言ってよい。
「SFならば、普通はこちらに展開するはず」とか「エンタメ小説であれば、普通はこうはしないばず」という「思い込み」に発する「臆見」があるからこそ、本書が「読みにくい」「わかりにくい」ということになってしまう。
言い換えれば、もしも、読者の方がもっと謙虚に、「ジャンル的偏見」を持たずに本書を読めば「今どき変わった作品」として楽しめるはずなのだが、「文学」に対して、ごく狭い了見しか持たない読者は、その「ごく狭い了見」を特権化しているために、本書の魅力が理解できない、という仕儀となるのだ。
これは、本書解説において、溝口力丸のいう「(悪しき)ジャンル的な囲いこみ」の問題だともいえよう。
当然のことながら、レビュアーの「Yasuo」氏は、この文章も読んだ上で、あのレビューを書いたのだ。我が身を顧みる知恵もなく、である。
上の引用部で語られているのは、いうまでもなく「読めない読者」のことである。
そしてそれは、「ネットレビュアー」であろうと、「新人賞の選考委員」の先生であろうと、まったく同じだ、という評価である。
彼らは、どちらも、まともに「文学」を知らないのだ。知らないで「知ったかぶり」を語っているだけだ、ということが、ここでは語られている。
自分の「狭い了見」を絶対化して、ル・グィンの「個性」を理解せず、「読みにくい」「今どき流行らない(読者に対するサービス精神が足りない)」などと、知ったかぶりで語る。
しかし、世の中には、そんな「お子様向けの駄菓子」ばかりではないのだということを、ネットレビュアーは無論、新人賞の選考委員先生ですら、その無知ゆえに知らないし、その「無知についての自覚」を、(著者のようには)持っていないのである。
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このように、本書著者の陸秋槎は、単純に「謙虚」に、『門外漢』だとか「初心者」だとかと自己規定しているのではない。
その本音は「私は、おまえらみたいな、無知な田舎者のオタクとは違う」という強烈な自負であり、『無知な田舎者のオタク』が、その「多数派性」や「営業成績」によって威張りくさっている「現実」に対して、本気で「怒っている」のである。
「世の中には、もっと素晴らしい小説が新旧含めてたくさんあり、そんな作品を書いた素晴らしい作家が大勢いるというのに、読めない読者大衆によって、〝芥川賞受賞作家だ、直木賞受賞作家だ、ベストセラー作家だ、ジャンルの最前線の作品だ〟などという見えすいた「煽り文句」に飾られた、現役の二流作家ばかりがもて囃され、まんまと売れて、先生ヅラしているのが、我慢ならない」一一と、そう嘆いているのである(まるで、私のように)。
そうした目で見れば、(8)の「色のない緑」は、「Yasuo」氏が評したような、単なる『切ない』小説などではないというのも、もはや明白であろう。
著者が、切ながっているのは、こんな程度の低い読者ばかりであるために、優れた作品が顧みられない「現実」に対して、やり場のない怒りを感じ、その「悲しい現実」が「切ない」ということなのだ。決して、単なる「百合的な切ない交情」などという、表面的な話ではないのである。
つまり著者にとっての本作「色のない緑」は、「イワン・カラマーゾフの告発」であり、「虚無の大海に捧げる、ひとしずくの美酒」なのだ。
ここで語られているのは、単なる「AI翻訳問題」あるいは「AI問題」などではない。ましてや、頑迷な『保守的読者』批判などではない。
著者が訴えたいのは、それ以前の「読者の単細胞化(能力低下)」であり、さらには、その「王様(暴君)化」ということなのだ。
つまり、「ラノベ」的に「読みやすい小説」ばかり読んでいるがために、本格的な小説を読むための根気であり能力が、多くの読者から失われてきており、しかもそれを、読者自身が「自身の能力の弱体化」問題であるとは考えずに、傲慢にも「私たちを楽しませられない、作品の方が悪いのだ」と、自分たちの「無能力」を棚に上げてしまっている。
さらには、誰もそれを真正面から批判しないどころか、「バカでも、客は客だ」と「お客様は神様」扱いにして増長させているという出版界全体の現状を、「貧すれば鈍する」問題として描いているのである。
ここでは「犯罪小説」について語られているが、これを「SF」に置き換えて考えられないような「SF読み」は、基本的に「読めない読者」でしかない。
「流行り」ばかりが問題とされ、出版社も「売れ筋商品」として、そういうものを作家に要求する。しかし、こうなってしまうのは、そもそも読者が「最先端のものを押さえている私は、最先端の読者である」などという幼稚な考えを持っているからに他ならない。
要は「最先端」という名の「流行」を追っているだけなのだが、そもそも視野の狭い彼らには、自分の立ち位置を「相対化する」ことができず、ひたすら「ここが最も高い場所」だとアピールしたがるだけの、承認欲求に駆られた「馬鹿と煙は高いところが好き」的現象でしかないのだ。
ちなみに後半の『鼠も殺したことのない小説家たち』における、「鬼面人を威す」ための「専門知識のお勉強」というのは、「SF作家」において、最も顕著な特徴なのではないだろうか。
そういう「専門先端的なこと」を書いておけば、「私には理解できるぞ」と言いたい「文学オンチのSFマニア的な読者」から感心され、「ハードSF」だといって、尊重されるのである。
ここには、すでに指摘した、著者の『カラマーゾフの兄弟』や『虚無への供物』に惹かれる心性、言い換えれば、「判官贔屓」であり『悪しくなりゆく世の中』(大岡昇平)に対する、「へそ曲がり」な抵抗的スタンスがとてもよく表れている、と言えよう。
「勝てない戦いだと分かってはいるけれど、むざむざ無抵抗に殺されたりはしない」という「一矢報い」たいというスタンスであり、本作「色のない緑」の基本的な思いも、ここにある。
当然、こんな本作は、「感動コジキ」の読者を楽しませるだけのものであったり、「百合的な感傷」としての『切なさ』を描いただけの作品などではない。もっと「意志的なもの」を持った作品なのだ。
これは、この作品の「三人娘」、語り手のジュディ、のちに自殺するモニカ、最もカラッとした性格のエマのうちの、エマのセリフである。
エマは、曲がったことが嫌いで、思ったことをスパッと口にしてしまうような『坊っちゃん』(夏目漱石)的な性格だから、かたがたで「やらかしてしまう」のだが、それでも、それが「世渡り的に損」なこともわかっているからこそ、自殺したモニカの遺した論文を、それを「不採用」にしたバーミンガム大学までもらいうけに行く際に、喧嘩になることを恐れて、ジュディに「引き止め役」として、ついてきてもらうことを求めたのである。
で、肝心なのは、この三人娘は、いずれも「作者の分身」だということである。
つまり、作者・陸秋槎の中には「専門というほどのものを何も持たない、無力な私」としてのジュディがいるし、「未来に悲観してしまう」モニカもいる。
しかしまた、そんな二人を苦しめるものに対して、怒りを隠せないエマもまた、作者の中にはいるから、本作のような作品を書いたのだ。
ここで、ジュディは、何を悲しんで「泣いた」のであろうか?
それは無論、旧友モニカの死ではあるのだが、そんな理解だけでは不十分だ。
事実、彼女は、モニカの死に実感が持てない、と言っている。
では、彼女が「何を実感して、泣いたのか?」と言えば、それは「もう、幸せなあの頃には、決して還ることはできない」(『永遠に戻ってはこない』)という「実感」である。それが、モニカの死によって「確定的に実感させられた」ということなのだ。
長らく連絡を取ってはいなくても、モニカやエマがどこかで元気に生きていると信じられていたジュディには、心のどこかで「あの頃=あんな時間」がまだ生きているように感じられ、今がつまらなくても、人生を肯定的に生きていることができた。
「美しい思い出」とは、そういう力を持つものなのだ。
だが、モニカの死の知らせによって、もう決して「あの頃」には還れないと、否応なく実感させられる。漠然と、どこかに存在してでもいるかのように感じられていた「あの頃」が、すでに存在しないことを、否応なく思い知らされて、彼女はその悲しみのために泣いたのである。
上の引用文前半の「班選び」の部分は、作者・陸秋槎が、「SF作家」たちの中に立った時の、戸惑いと怖れを表現していると読んでいい。
この人には「プロパーSF作家」のような科学的な専門知識なんて無いし、SF小説だってそんなに読んでいるわけではないから、そんな自分が、マニアックな人たちの中に入ったら、「こいつ、何も知らんやつだな」なんて、見下されるのではないか、といった気分は、きっとあったはずだ。
それに、なにしろ本作は、著者の「SF処女作」なのだ。「理解されるだろうか」と、恐る恐る提出されたという部分もあったはずなのである。
しかしまた、作者の中には、そうした「マニア」「オタク」的な傲慢(「お山の大将」性)に対する反発もあれば、読書家としては決して負けてはいないという自負もある。
特に、SF作家やマニアの一部に見られる、おかしな「エリート意識」には、反発したことだろう。「自分たちの科学的知識と想像力を持ってすれば、未来予測も、あながち不可能ではない」といった、いささか滑稽ですらある、誇大妄想スレスレの尊大な「自意識」である。
これは、私も同じように感じるから、本書著者が「暗示的に語る」ところが、よくわかる。
例えば、大森望が中心になって行われた、SF作家によるリモート会議の書籍化である『世界SF会議』のレビューに、私は次のように書いた。
あるいは、この『世界SF作家会議』にも参加していた樋口恭介が、その著書『『未来は予測するものではなく創造するものである ――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』 などで売り込んだ「SFプロトタイピング」などというものの胡散臭さにも、注文をつけた。
これらには確実に、「イワン・カラマーゾフの告発」が反響している。
ここには、作者の「ジュディ」性が示されている。
自分は科学になって詳しくないから、きっとみなさんを満足させることはできないでしょう、こんなことなら、ミステリを書いてるだけの方が良かったのかもしれない、という逡巡であり不安だ。
ここでの『神学にはぜんぜん興味がない。』というのは、当然「ミステリ」の比喩ではなく、「キリスト教神学」が「護教の学=自己権威化の学」という事実に対する、著者の思いであろう。著者は「反権威」「反主流」の人なのである。
だから、好きになれない「最先端科学」だとしても、「あら探し」としてなら関わっても良いというのは、非常に著者らしい感情で、面白い。
今どきの「優等生的(あるいは、受験エリート的な)日本人」からは消え失せた「反骨的批判(批評)」ということの「謙遜的(自虐的)表現」が、この「あら探し」なのである。
実際、本作品集に収められた作品は、ある意味では、すべて「SF小説のあら探し作品」、つまり「自己批評的SF作品=メタSF=アンチSF」だとも言えよう。
これは、最近話題の、対話型AI「チャットGPT」でも同じことだ。
利用者が、問題を入力すると、チャットGPTは、もっともらしい答を、一瞬で文章化して返してくれる。しかし、こうした回答文は、今のところはまだ、鵜呑みにはできない「正答率」のものでしかない。
だが、AIの正答率を上げること自体は、さほど難しいことではない。要は、読み込ませるデータ量を増やせば、AIは、より適切な「文脈」を学ぶことで、正答率を上げるのである。
しかし、その上での残る問題は、私たちは、AIがどのようにして「解答を生成するのか」の「原理的な構造」は分かっていても、個々の問題に対する個々の回答について、どのような筋道を辿ってその結論に至ったのか、その「過程」は、複雑すぎてわからない、という点なのだ(AIが参照するデータ量を考えてみるとよい)。
とにかく、かなりの精度で正答を導き出してくれるという「結果」は分かっていても、その「論理的な途中経過」は、AI研究者にとっても「ブラックボックス」なのである。
したがって、モニカの論文を査読したAI〈墓石〉も、その回答(結論)に至る「論証部分」については、説明してくれない。
〈墓石〉自身にも、そこについて「簡単に」答えることはできない(正確に答えると、現論文以上に膨大なデータ量になって、人間が読むことができなくなる)し、ましてや〈墓石〉に頼っている「AIの門外漢」である言語学学会の学者たちに、AIの「ブラックボックス」の中身など、説明できるわけがない。
ただ、AIに頼っても、「回答の信頼性」が、特に落ちるわけではない(人間が査読しても、間違うことは多々ある)し、なにしろ作業効率が圧倒的に良いなのだから、たとい論証経過が「説明不能」になっても、いずれにしろ「結論に大差はない」のなら、そうした選択も「仕方がない」ということなのである。
要は、「作業効率化のために、論文を落とされた人には、(結論のみの説明なしで)泣いてもらおう」という「経済的な選択」なのだ。
これは、今の世の中の「効率性(経済性)第一」「成果がすべて」という傾向に、異を唱えているのである。
小説の世界で言えば、「売れれば、それでいいのか」ということだ。
本来、科学というものの「理想」は、「知的探究」というところにあった。
「真理を知りたいという、純粋な知的好奇心」が、本来の「科学マインド」であり「スピリット」であったはずなのだが、現実のそれは、「兵器の開発」といった政治目的に利用されたり、そうでなければ「金儲けのネタ」としてしか求められない。
かつて、カール・セーガンなどが計画立案して実行した「地球外知的生命体の探究」といったことに、今では予算がつかなくなった。
日本でも、「軍事転用」ができる研究に、予算が優先されるようになった。また、「軍事」ではなくても、「商用に利用可能な、実用性の高い研究」が求められるようになったのである。
モニカは「人間らしさ」を擁護するために、あえて「アンチ科学の科学者」という、陽に当たらない道を歩み続けて、ついに「営利優先」「効率優先」の「現実の科学」に殺されてしまったのである。
人間という生き物が、当たり前に生きていくためには〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟的な部分が、かならず残されていなければならない。
ところが、「営利優先」「効率優先」の現実の「科学」は、その「余地」を残しておこうとはしないのだ。
「遊び場の空き地」を残さず、それらをすべて収奪し、その上で、それに適応できないような人間は「ここから去ってくれて良い」という、そんな「冷たい方程式」しか書かない、非人間的なものに、完全に成り下がってしまっているのである。
言うまでもなく、この問題は「他人事」ではない。
例えば、SF小説の翻訳だって、すでに「下訳」はAIにやらせている可能性は十分にあるし、翻訳AIの性能が十分に上がれば、人間の翻訳家などお払い箱だろう。
また、流行の型をなぞったものでしかないような薄っぺらな小説など、そのうちAIが書くようになって、SFやミステリやキャラクター小説といった「型」を重視するジャンル小説は、真っ先にAI小説家に侵食されることになるだろう。なにしろ、読者のレベルは低く、「教養」も無ければ、「繊細」な違いなど、どうせわからないのだから。
それでも、本作の三人娘は、それぞれに、こうした流れに抗して、自身が〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟存在たらんと、その可能性を模索したように、私も、すでに同じような問題意識において、ささやかな抵抗をおこなっている。
「皮肉」な事態なのである。
私たちは「科学」を批判するのに、「科学を捨てる」ということでは太刀打ちできない。
だから、「科学」を使って「科学の暴走」に抵抗するという選択肢しか、たぶん残されていないのだが、これは、100パーセントではないにしろ、否定している当の相手の力を借りなければならないという段階で、すでに負け戦になる可能性の方が、よほど高いようにしか見えない。
しかしまた、むざむざ黙って殺されるくらいなら、無駄な抵抗でもするのが「人間の尊厳」であろうと考えるのが、「矛盾に満ちた文学的人間」でもあろうから、私も、そして本書著者も、そんな「抵抗戦」を闘っていると言えるのではないだろうか。
だが、この戦いは、孤独な戦いでもある。
なぜなら、モニカが〈墓石〉に殺されたといっても、それを選び支持したのは、本来ならモニカの味方でなければならなかったはずの、「人間(この場合は、科学者)」だったからである。
つまり、「人間」を不要とするような科学との闘いにおいても、科学そのものが「敵」なのではなく、むしろ、科学を、人間的欲望の祭壇に捧げた「人間」自身が、真の敵なのでだから、「人間」を仲間だと考えていたら、ほぼ確実に裏切られ、失望するしかないから、この戦いにおいては、「世界vs.私」という孤立無縁の戦いを覚悟しなければならないのである。
ジュディは、この戦いが絶望的なものであると思いながらも『エマまでがそんな消極的な気分に染まるのを望まない私は、この問いに違った答えが答えを考えないといけない。間違ってはいても、慰めの役に立つような答えを。』と考えて、上のような「せめてもの救いがある回答」を提示する。一一これはこれで、たしかに「ささやかな抵抗戦」なのだ。
だが、私はここで、さらに力強い「現実の言葉」を紹介しておきたい。
本作中に登場する〝猛烈に眠るに考え緑の色のない(Furiously sleep ideas green colorless)〟という言葉を作り、そんな世界の矛盾と、真正面から対峙してきた、ノーム・チョムスキーその人の言葉だ。
チョムスキーは、盟友ディヴッド・バーサミアンのインタビューに答えて、次のように語っている。
私たちは、この「鋼の人」とでも呼ぶべき、チョイムスキーのような強さは持てないかもしれないけれど、こんな人が実在しているという事実は、間違いなく希望だと言えるだろう。
これは、きっとチョムスキー自身が〝色のない緑の考えが猛烈に眠る(Colorless green ideas sleep furiously)〟の成立可能性を、身をもって示そうとしているのである。
だから、私たちも「ささやかな抵抗」を放棄するべきではないだろう。
したがってこれは、「切ない」などといって、感傷に酔うことなどとは比べ物にならない、「文学的」な人間の、生き方なのである。
(2023年7月29日)
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【補記】「ジャンル的囲い込み」とは何か?
本書『ガーンズバック変換』の解説において、解説者で、『SFマガジン』誌の現編集長である溝口力丸が、次のように書いている。
ここで語られている『ジャンルというのは単なる符牒に過ぎず、小説家の活動を底上げするものでこそあれ、その輪の中に縛り付けるものであってはならない』という認識は、私が、レビュー「最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』:天皇・星新一ですら〈ただの人〉であった。」などで論じた、樋口恭介が中心となって引き起こした「〈幻の絶版本〉特集中止問題」に関わる、「日本SF界の現状」の問題と直接的につながってくるものであろう。
つまり、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」に関わる、『SFマガジン2022年2月号』の、溝口力丸による巻頭言「お詫びと展望」における、
という言葉が、上の「解説文」と響き合っているのだ。
要は、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」の根底にあるのは、樋口恭介やその周辺に集まっていた「SFエリート」たちの、「タコツボ的自意識」が引き起こしたものだという気持ちが、溝口にはあったから、「〈幻の絶版本〉特集中止問題」とは、直接関係がないように見える、上のような言葉が、「お詫びと展望」の中に混入した、ということである。
そして、同じような『ジャンルというのは単なる符牒に過ぎず、小説家の活動を底上げするものでこそあれ、その輪の中に縛り付けるものであってはならない』という言葉が、ミステリ作家出身の陸秋槎の著作の「解説」中で書かれたのも、両者が「百合」という、「SF」とは直接関係のないところでつながったというのも、決して偶然ではなかったということなのだ。
つまり、溝口力丸と陸秋槎は、「SFマニア」的な心性への「嫌悪」という点において、通づるところがあったということだ。
そしてこれは、樋口恭介やその兄貴分的な存在である小川哲をしつこく批判した、この私にも共通するものだと言えるだろう。
要は、「オタクエリート主義」だとか「主流派の専横」が大嫌いだという、本書『ガーンズバック変換』に充溢した気分と同じ、だということである。
(2023年7月29日)
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