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春日武彦 『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・ 境界線・ 贋物・ 蒐集』 : 〈変態表現〉の自由

書評:春日武彦『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書・2005年刊)

昨日、公開まもない映画『シン・ウルトラマン』(樋口真嗣監督・庵野秀明脚本)を観てきた。
点数をつけるなら「M87点」といったところで、「楽しめたが不満も残った」あるいは「不満もあるが十分に楽しめた」、そんな作品だった。

(※ 以下『シン・ウルトラマン』について、一部ネタバラシになる内容が含まれますので、作品未鑑賞の方はご注意ください)

この作品には、批判的な人も少なくないようだが、かの「ウルトラマン」を再解釈して、時間制限のある映画にした新作ならば、それは避けられない事態であって、ことさら驚くほどのことではない。
ただ、こうした批判の中で、看過できないものの一つが「セクハラ表現」問題である。

長澤まさみが演ずるところの、禍特隊員・浅見弘子は、自ら気合いを入れるとき、自分の尻を両手でバシッと叩くのだが、ウルトラマンである神永新二が、巨大最終兵器ゼットンに向かって決死の出撃をする際、浅見は神永の尻をバシッと叩いて、彼を送り出す。
この「女性による男性への、無用の身体接触」も、いまどきなら「セクハラ」に分類されるはずだ(最も、異星人であるウルトラマンなら絶対に「セクハラだ」と訴えはしないだろう)が、これとは別に、より直接的な表現としては、浅見がメフィラスによって巨大化させられ、催眠状態でビル街を彷徨うという(これは『ウルトラマン』における「フジ隊員の巨大化エピソード」を踏まえた)シーンで、スカート履きの浅見をことさらにローアングルで捉えたカットや、その映像がネットにアップされて「巨女好きが大喜び」といったシーンなどは、明らかに「性的」なものの暗示を、意図していたものだというのがわかる。

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(下は『ウルトラマン』第33話「禁じられた言葉」より)

また、メフィラスが隠した人間巨大化兵器を、浅見の「残り香」をヒントにして追おうと、神永が浅見の身体を嗅ぎまわるシーンも、露骨に「性的」なものだった。実際、メフィラスも、ウルトラマンのこの行為を「変態的だ」と、嫌悪を露わにした。

これらのシーンに「性的」な含みがあるのは明らかなのだが、しかしなぜ、こんな「顰蹙ものの描写」を、(庵野秀明は)わざわざ『シン・ウルトラマン』に持ち込んだのだろうか?

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』でも、真希波・マリ・イラストリアスが、碇シンジの匂いをクンクンと嗅いでみせるセクシャルなシーンがあったから、庵野秀明には「臭い(匂い)フェチ」の傾向があるのかもしれない。

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だが、個人的にそういう趣味があるのと、それを作品の中で「露骨に出してしまう」というのとは、ぜんぜん話が別で、むしろ通常は、そうした「変態」的な趣味嗜好というのは、隠されこそすれ、ことさらに誇示されることはないはずだ。なのに、それをわざわざやったのだとすれば、その意図や狙いは、いったい何だったのか。
言い換えれば、もしかすると庵野秀明は、『シン・ウルトラマン』で、意図的に顰蹙を買いに出たのではないか。無論、それも「必要な表現」としてである。

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さて、やっと、本書、春日武彦の『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』である。

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本書は、大雑把に言えば「偏執(フェティシズム)」としての「奇妙な情熱」を考察した本である、と言えるだろう。そして「偏執(フェティシズム)」の対象となり、行動様式として表れる代表的なものが「ミニチュア・境界線・贋物・蒐集」ということになる。

春日武彦は、産婦人科医から精神科医に転じた人だ。要は、趣味が高じて精神科医になった人、と呼んでも良いくらいの、変わり種の精神科医であり、言ってしまえば、春日自身がかなり「変態」的な変人だとも言えるだろう。

私は、ずいぶん昔から春日の著作に興味を持っていたのだが、いかんせん、その「うさんくささ」が、どうしようもなく鼻についてしまい、気にはなりつつも、結果としては今日まで「敬遠」してきた。
しかし、その「敬遠」も、今となっては、多分に「近親憎悪」的な感情が混じっていたようにも思う。要は、春日に、自分と似た「臭い」を感じたからこそ、一種の「自己嫌悪」的なものとして、春日を遠ざけてきたように思えるのだ。

だが、私も歳をとって、どんどん「恥も外聞もなくなってきた」から、春日の著作を手に取る気にもなったのではないだろうか。一一そんなふうに感じるのである。

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春日は、本書で、自分自身が「惹かれるもの」として「ミニチュア・境界線・贋物・蒐集」といったものの実例を挙げ、それを分析して見せている。

つまり本書は、「人間心理」というものを、その「極端な事例」において腑分けしてみせた、あくまでも、分析的で批評的な書物だということになるのだが、一一しかし、春日の本には、どうにも客観性や中立性に存する「フラットさ」や「無臭性」といったものが感じられない。
無論、本人はきわめて誠実かつ論理的に、対象の分析評価を語っているのだが、なにしろそれは、多分に「自己分析」的なものであるから、どこか「狂人の自分語り」的な臭気が付きまとうのである。
例えて言うなら、それは「江戸川乱歩の小説の、登場人物の一人語り(独白)」といった、独特の「暗い情念」が感じられるのだ。

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(江戸川乱歩『陰獣』の、竹中英太郎による挿絵)

そして、春日武彦の「面白さ」というのは、まさにそういう「当事者性」にあるのでもあろう。
学者としての医者が、研究対象としての患者を、実験動物でも見るような冷めた目で、観察し分析し記述するといったものではなく、まるで「屋根裏の散歩者」が、天井裏から、天板の節穴を通して偏愛対象を凝視しているような、あるいは「人間椅子」の語り手が、彼の潜んだ椅子に座った美女の重みと感触について語った手紙のような、そんな一見冷静そうな描写の中に、一片の「熱狂的な狂気」が潜んでいるといったような「臭い」が、春日の文章からは立ち昇ってくるのである。

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(画・竹中英太郎)

だから、楽しむ分には良いのだけれど、学術的なものとしては、著者がいかに誠実に書いたものであろうと、どこかうさんくささが付きまとってしまい、読むのがためらわれてしまう。
興味はあるのだけれど、それを手に取るのは、まるで書店でエロ本を手に取るような、後ろ暗さとためらいを覚えてしまうのだ。

春日武彦のこうした著作は、言って見れば、彼の「偏愛コレクション」の「標本箱」であり、その解説書である。
自分は、こんなコレクションを持っており、これにはこういう意味合いがあって、とても興味深いし価値のあるものだというのを、滔々と語って見せているような著作なのだ。

だから、「コレクション拝見」「本棚拝見」的な興味で読む分には面白いのだが、学術的な興味で読む対象とは思えない。春日の分析は、きわめて文学的なものであって、その意味で十分な価値を有するものなのだけれど、「精神医学」を扱った本としては、あまりにも「趣味的」であり「興味本位」であって、その点で、読者の方にも後ろめたさが付きまとってしまう。

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(筆者・年間読書人の戦車模型コレクション初公開)

だが、だからと言って、春日の著作は、軽んじられて良いものではない。
春日の「趣味」が、一般とは少し違って、かなりマニアックなものだとしても、だからこそ、そこいらには転がっていない希少な価値を持つものなのだし、それを面白いと思える者には、それは他をもって代えがたい価値を有するというのは、間違いのない事実なのだ。
ただ、その「マニアックさ」や「フェティシズム」が、世間では「変態的」なものであり「暑苦しい狂気」だと直観的に受け取られているから、それらは「陽の当たる場所には、持ち出しにくいもの」となってしまっているのである。

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さて、ここで話を『シン・ウルトラマン』に戻すと、庵野秀明はなぜ、子供向けの「空想科学番組」であった『ウルトラマン』のリメイク作品に、わざわざ、大人向けとも言えるような「フィティッシュな要素」を持ち込んだのだろうか。
持ち込んだこと自体が「悪い」とは言わないのだが、そこに「違和感」を覚えた人は少なくないし、むしろ「余計なものを持ち込んだがために、作品に、妙な違和感的なもの、不協和音めいたものが生じてしまった」と感じた人もいたようだ。かく言う私自身、そんな印象を受けた。

しかしまた、そうした「偏愛=奇妙な情熱」に駆られることなくして、作家は「非凡な作品」を創ることなど、可能であろうか? 私は、不可能だと思う。
優れた作家や芸術家というものは、多かれ少なかれ「変態」だというのが、私の持論なのである。(私の、オリジナル格言には「知識人は、断然マゾヒストである」というのもある)

したがって、こうした「隠微な性的表現」について、頭から「それはセクハラだ!」と、悪い意味での「ポリコレ」たる「アイデンティティ政治」を持ち込むのは、好ましくない「問答無用の暴力」だと、私は思う。
それは「変態は、陽の下に出てくるな。見苦しいから、日陰に隠れていろ!」と恫喝しているようにしか、私には思えない。

たしかに「セクハラ」は許されないけれど、「セクハラ」と「セクハラ表現」は、完全に同じもの、ではない。それは「暴力」と「言葉の暴力」が、完全に同じものではないのと、同じことである。

たしかに、「セクハラ表現」にも「言葉の暴力」にも「暴力性」はあるだろうが、しかし、具体的な「暴力」とは違って、「暴力性」とは、言って見れば「すべてのものに含まれる要素」であり、その意味で、それ無くして、生物は生きられない。つまり「暴力性」は、ゼロにはできないのである。

だから、「暴力性」をどこまで「容認するのか」というのが、現実問題であって、「暴力性は、一切認められない」というのは「過剰な観念の暴力性(理念の暴力)」とでも言い得るものなのである。

したがって、『シン・ウルトラマン』における、前述の「セクハラ描写」は「容認(許容)の範囲内なのか否か」が問われるべきなのであって、「セクハラ描写だから、1パーセントも容認できない」ということであってはならない。それこそそれは「暴力性の高い考え方」であり主張だからこそ、むしろそうした「過剰な攻撃性」こそが、社会的に認められるべきではなく、それ自身が「容認されるべき範囲を超えたもの」なのだ。

こう書くと「それでも傷つく人がいるのだ。あなたは、そんな被害者の痛みがわからないから、そんなことを言って、加害者の肩を持つのだ」と言われるかもしれない。だが、そうではない。

こんなふうに言って、完全な「弱者の味方」としての「強者」の位置に安住する人よりも、私はずっとずっと「弱者の痛み」を知っている。何故ならば、私は時に「意識的な加害者」であることを選ぶ人間だからだ。

要は、時に私は、仮借のない「批判者」なのだ。相手を「殺すつもりで、言葉をつむぐ」人間であり、だからこそ「相手」がどれだけ「傷つくか」、どれだけ「ダメージを与えているか」を、いつも考えているし、計算もしている。
そんな「自覚的加害者」からすれば、自身の暴力性や加害性への認識が極めて薄い、そこいらの「弱者の味方」、陳腐な「正義の味方」とは、私は「訳が違う」のである。

「ウルトラマン」に例えて言えば、『「弱者の味方」としての陳腐な「正義の味方」』とは、「弱者としての人類を守るために、怪獣や宇宙人をバンバン殺して、悦に入っているヒーロー」であり、一方私は「殺されていく怪獣や宇宙人の痛みを感じながらも、殺す必要があるから殺すしかない殺戮者」なのである。

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(年間読書人の自慢のコレクションのひとつ・初公開)

そんなわけで、『シン・ウルトラマン』に、どうして「セクハラ表現」が意図的に持ち込まれたのか、それは私にもよくわからないが、しかし、それは「セクハラ表現だから、問答無用に許されないものだ」とは思わない。
むしろそういう「問答無用」の言説こそ、「暴力的」であり「政治的」であり「偽善的」なものであるからこそ、批判されなければならず、議論の俎上に乗せられなければならない。そうしてこそ、それが「人間的な対話」だと、私はそう考えるのだ。

例えば、「怪獣」や「異星人」や「変態」にとって、「セクハラ表現」は「セクハラ」だろうか? 「完全否定されるべき暴力」だろうか?
一一そんなことはあるまい。

人間は多様であり、無個性で平均的な人が多いとしても、いろんな個性を持った人がおり、そうした中に「変態」と呼ばれる人たちもいる。
それと同様に、人間の中でさえ色々いるのだから、異種族である怪獣や異星人なら、その生態や特性が違っているのは当然で、むしろ、人類と同列に扱って、人類の「善悪倫理」を押し付けることの方が、よほど身勝手な「正義の暴力性」だとは言えないだろうか。

そして、そうした観点からすれば、時に、人類に害をなす怪獣や異星人についても、彼らの価値観や生態に配慮して、そんな「本質的に異なった存在」との間においても「話し合いによる、調停と妥協」が必要になるはずだ。
だとしたら、それは「変態」との間でも同様だし、彼らの価値観と「折り合いをつける」ことだって、正しい「非暴力」なのではないだろうか。

もちろん、本質的に違った感性に基づく「価値観の相違」は、完全には折り合えず、時に暴力的なぶつかり合いに発展せざるを得ないこともあるだろう。
だが、「暴力」を否定するというのであれば、「暴力性」の認識的差異については、粘り強く検討するしかないはずだ。
一一つまり「暴力」を否定するのであれば、「あのセクハラ描写は、許されないもの、なのか否か」を、人並み以上に真剣に考えなければならない立場にあるし、その責任を有する、ということである。

しかし、そのためには「他者」を知らないといけない。知らないままでは、お話にならない。
自分とは違った「他者」のことを知らないまま、「多様性」だの「異文化交流」だのと言ったところで、それは「空念仏」にも劣る「愚劣かつ暴力的な、信仰教条」にしかならないだろう。

一一人間とは、「奇妙な情熱」に駆られる存在である。
その「自覚」があれば、「私は、完全に公正中立である」などという、愚かな自己過信に陥ることもないだろう。「怪獣や異星人や変態は絶対的な悪であり、私たち人間は被害者であり、正義であり、正常である」などという愚かな慢心に陥ることもないだろう。

私たちの手は、すでに常に「血にまみれている」というのは、歴史にも明らかなことで、それは決して他人事ではない。私たちは日々、他人の生き血を啜って生きているような存在なのだ。
だから、その自覚を欠いたまま「私は弱者の味方である」などと考えるのは、あまりにも愚劣かつ滑稽なことなのだということを、私たちは深く認識し直すべきであろう。

言うなれば、私たちは、私たち自身が「怪獣」であり「異星人」であり、そして「変態」である。
これまで、その「無自覚な暴力性」によって生き残ってきた「悪しき存在」なのだということを、私たちは忘れるべきではない。

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(「館長庵野秀明による特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」より)

私たちは、「怪獣」に私たち自身の似姿を見、「異星人」に私たちの似姿を見、「変態」に私たちの似姿を見るべきなのだ。いや、繰り返すが、私たちは皆、「怪獣」であり「異星人」であり「変態」なのだ。「普通の、罪なき人間」など、存在しないのである。

本書『奇妙な情熱にかられて ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』が、いささかいかがわしい魅力を発しているのは、そこで「見たくない、私たちの正体」が暴かれて、「私たちの陰部」が晒されているからなのではないだろうか。

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さて、ここまで書いてきて、私は『シン・ウルトラマン』の「謎」について、一つの解答が与えうることに気づいた。

なぜ、庵野秀明は、『シン・ウルトラマン』に「セクハラ的な表現」を持ち込んだのか?

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それは、ウルトラマンが「度し難い人類」を選んだ理由とは、メフィラスのような客観的で論理的そして倫理的な判断ではなく、言うなれば「人間」という奇妙な存在に、「趣味的な愛着」つまり「フィティッシュな愛着」を覚えてしまったからだ、というものである。

ウルトラマンは、言わば「奇妙な情熱」に駆られて、人類という「困った生物種」に「非理性的な愛着」も持ってしまった。だからそれは、論理的で合理的なメフィラスやゾーフィには、理解不能な「愛」だった、ということなのではないだろうか。

つまり、個体としてのウルトラマンは、神永と一体化する前から、もともと「変態」的だったのである。

一一そうであって、いったい何がいけないであろうか?

(2022年5月17日)

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