ロベルト・ヴィーネ監督 『カリガリ博士』 : 『カリガリ博士』 と 中井英夫『月蝕領映画館』、そして『ドグラ・マグラ』
映画評:ロベルト・ヴィーネ監督『カリガリ博士』(1920年・ドイツ映画・モノクロサイレント)
私が本作『カリガリ博士』を知ったのは、たぶん中井英夫の映画エッセイ集『月蝕領映画館』(1984年)でであったと思う。初版単行本の表紙を飾っていたのが、『カリガリ博士』のスチールで、眠り男チェザーレが、気絶した美女ジェーンを小脇に抱えて逃走している場面であった。
『月蝕領映画館』で中井英夫が何を書いていたのかの記憶は、すでにない。もしかすると、初版本をコレクションしただけで、読んでもいないのかもしれない。
ファンとして中井英夫の本はすべて所蔵しているし、小説作品は全部読んでいるのだが、『黒鳥館戦後日誌』をはじめとした「日記もの」は読んでいなかったりと、未読のものも、そこそこあるからだ。
ともあれ、同書にかぎらず、中井英夫は『カリガリ博士』に何度となく言及していたし、その趣味からしても、中井が『カリガリ博士』を褒めていたというのは、ほぼ間違いのないところだろう。
だから、機会があれば私も観たいと思ってはいたのだが、いかんせん同書を読んだ可能性のある当時(平成前期)、こんな古いモノクロ映画を観る機会など、そうはなかったと思う。レンタルビデオ店はあっても、まだDVDすら普及しておらず、ましてや「サブスク」なんてものは、影も形もなかった時代だったからだ。
では、どうして今頃『カリガリ博士』を視ることになったのかといえば、それは無論、退職してから映画を趣味的に観るようになり、古典作品まで押さえるようになったというのが、最大の要因だろう。
それでも、そのきっかけになったのがジャン=リュック・ゴダールだったから、その関係から、私が「ゴダール神学者」と呼んでいる映画評論家の蓮實重彦が褒めているような、古典的な映画監督の作品を視ることになった。それがF・W・ムルナウであるとかフリッツ・ラングといった、それまで名前すら聞いたことのなかった、名監督の作品だったのである。
言い換えれば、蓮實重彦は『カリガリ博士』を積極的に紹介していなかったため、私は、『カリガリ博士』のことを知ってはいたけれど、その存在を思い出さなかったのだ。
ところが、先日またまた、前記の『月蝕領映画館』を収めた『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』(2006年・創元ライブラリ)をひさしぶりに入手したので、『カリガリ博士』のことを思い出したという次第である。
これもなんで今頃、『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』を購入したのかというと、じつはこの巻には、「月報」のエッセイとして、拙文「眠り男の迷宮・迷宮の夢」(田中幸一名義)が収められているからである。
ちなみに、もう1本の月報エッセイは、当時NHKで、中井の代表作『虚無への供物』を、『薔薇の殺意』と改題してドラマ化した際の監督、伊地智啓氏による同ドラマに関する同題エッセイであった。
なお、若い方は「月報」と言われてもピンと来ないだろうから、簡単に説明しておくと、書籍における「月報」とは、おもに「全集本」などに、おまけとして挟み込まれている別刷りペーパーのことを言い、ペラ2枚を二つ折りにした、無綴じ8頁ほどのものが多かった。今は、全集自体がなかなか刊行されなくなったから、月報も見かけなくなったのである。
で、この創元ライブラリ版「中井英夫全集」の月報は、別刷ではなく、奥付けのあとに「付録」として収録されていた。
で、なんで今頃『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』なのかというのは、じつはまたこの第12巻、ずいぶん前から古書としても入手難であり、一種の「稀覯本」だったので、無いとなると欲しくなるのがコレクターの宿痾だし、なにしろ自分の文章が掲載された記念すべき本なのだから、何冊持っていても惜しくはなかったためである。
そんな本が、早々に新刊の棚から消えて以降、さっぱり手に入らなくなっていた。
この文庫版「中井英夫全集」は全12巻であり、この第12巻は最終配本巻であったため、全集刊行にはありがちだった、後の巻ほど刊行ペースが間遠になり、しかも代表作の含まれる巻は最初の頃に刊行されているから、最終巻ともなると、この全集を買っていた人たちでさえ、半ば熱が冷めていたため、最初の方の巻に比べると「初刷部数」が、グッと低く抑えられていたためだ。
しかも、最初の方に出た「小説」巻は、『虚無への供物』を収録した第1巻に合わせて、全体に分厚い。単行本で2冊または3冊分を収めている巻が多かったのだが、別巻に近い扱いの最終巻『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』の収録書は、表題書だけ。
つまり、中井英夫を代表する小説作品でもなければ小説評論やエッセイでも日記でもない、言うなれば「おみそ」的な作品を単品で収録しているだけでありながら、前記のとおり「初刷部数」がグッと低く抑えられているため、単価が高くなっている。当初の分厚い巻の半分以下の厚さでありながら、むしろ価格は高くつけられていて、2006年の刊行でありながら、定価は「本体1,800円+税」というものだったのである。
だから、この巻を買うのは、そこまでこの全集を買ってきた熱心な中井英夫ファンに限られていたと、そう断じても良いだろう。この巻だけを単品で買う者など、いないに等しかったのである。
つまり、もともと発行部数が少ない(当然、増刷もしていない)上に、買うのは全集を揃えていた人に限られていたから、そうした人は、容易なことでは手放さない。
中井英夫には、ほとんど全集に近い、豪華な三一書房版「作品集」もあって、中井ファンなら当然こちらもすでに所蔵していたのだけれど、中身的には、後から刊行された、この「創元ライブラリ」版全集の方が充実しているから、年月が経って、中井英夫の本すら処分しなければならなくなったとしても、最後に取っておくのは、この「創元ライブラリ」版全集と、稀覯本である『虚無への供物』の初版本、ということになるのである。
したがって、この『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』は、発行部数が少ないにもかかわらず、仮に売れ残りがあったとしても、それが新刊のままで、後で売れることはなかったろうから、そうした売れ残りは、きっと裁断されたことであろう。一一ということは、ますますこの『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』の巻は、現存数の少ないものとなり、古書市場に出回ることの稀な本となってしまったのである。
だから、今となっては、本巻『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』は、古本業界用語でいうところの「きき目」となってしまっている。古本で「創元ライブラリ」版の中井英夫全集を揃えようと思っても、この巻が滅多なことでは入手できず、全集をコンプリートするのが、きわめて困難なのだ。
だから、古書価が全体に下落している昨今、中井英夫の初版本も、『虚無への供物』を除いては、おおむね2,000円以下にまで下落しているにもかかわらず、本巻『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』は、「Amazon」での古本販売でも、3,000円以上の値付けがされているし、私がダメ元で登録していた「ブックオフオンライン」でも、1,980円という定価と同額の値付けがされていたのである。
そんなわけで、今回たまたま『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』が入荷され、私が手に入れることができたので、「ああ、そう言えば、まだ『カリガリ博士』を観ていなかったな」と思い出し、さっそく「ブックオフオンライン」で中古DVDを入手したというわけだ。
ちなみに、私はこの機会に、『中井英夫全集[12]月蝕領映画館』に収録された旧稿「眠り男の迷宮・迷宮の夢」を、こちら(note)に再録する予定なのだが、その前に、この全集第12巻で『月蝕領映画館』を読み、そのレビューも書きたいと思っている。
前述のとおり、中井英夫が『カリガリ博士』をどのように評価していたか、その具体的な内容は記憶にないから、自分なりの『カリガリ博士』評で書いた上で、中井のそれも読もうと思うのだ。
昔は私自身、映画にさほど興味はなかったし、だから『月蝕領映画館』にも、あまり興味を持てなかった。
しかし、今となっては私も、『月蝕領映画館』の収録エッセイを書いた頃の中井英夫とほぼ同年齢だし、映画の知識についてもさほどの開きはないだろうから、『月蝕領映画館』を「どれどれ、中井くんは、どの程度、映画をわかっているのかな?」などという感じで読みたいと思っているのである(合掌)。
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さて、『カリガリ博士』である。
本作は、ロベルト・ヴィーネ監督による、1920年公開の、モノクロサイレントのドイツ映画だ。
本作でよく言われるのは「ドイツ表現派」の代表作のひとつということなのだが、そのあたりについては、ムルナウ監督やフリッツ・ラング監督作品について書いた際に論じたことだから、ここでは繰り返さない。
何はともあれ、一言でいうと本作は、「古典的名作映画」ということになる。
しかしながら、そのためにこそ、正直なところ私は、本作にそれほど多くを期待してはいなかった。あくまでも本作の価値とは「歴史的意義」にあるのであって、今の目で見れば、やっぱり「素朴幼稚」の感は否めないだろうなと、そう覚悟して視たのである。
そして、実際、最後の最後の「オチ」の手前までは、「こんなものだろうな」という印象の作品だった。
紋切り型に「ドイツ表現派」のそれと評される、超現実的に誇張されデザイン化されたセットは、独特の味わいを出しているし、何より「夢遊病者による連続殺人事件」という題材の猟奇性は、私の好みにも合っている。中井英夫も、きっとこのあたりで、この作品が好きだったのだろうと、容易に推察することのできる「幻想味」のある作品だったのだ。
本作の「ストーリー」は、次のようなものである。「オチ」の部分を除いて、『Wikipedia』から引用紹介しよう。
このように、本作は「25年間眠っていた」という「眠り男チェザーレ」を操って、自分の気に入らない者を殺していた、「カリガリ博士」と名乗る謎の人物の犯行を描いた物語なのだが、終盤で、この「カリガリ博士」と名乗っていた男の正体が、じつは「精神病院の院長」であることが判明する。
かねてより彼は「夢遊病者を操るカリガリ博士」の「昔話」に興味を持って、それを研究していたのだが、彼は、それを自分で再現したいという欲望を、ひそかに抱えていたのだ。
そんなところへ担ぎ込まれたのが、眠ったまま長年目を覚さない患者としてのチェザーレだったものだから、院長は狂喜乱舞して、自身の欲望を満たすために、チェザーレを夢遊状態にまでは回復させ、これをコントロールできるようになると、「カリガリ博士」を名乗って、チェザーレを見世物とした興業をやりながら、気に入らない人物を殺害するという快楽殺人に耽っていたのである。
で、ここまで読めば、本作が、夢野久作の『ドグラ・マグラ』のプロットに酷似していることに気づく人も少なくあるまい。
私も「そうか、中井英夫が『カリガリ博士』を高く評したのは、きっとこの作品が『ドグラ・マグラ』の元型とも呼ぶべき作品だったということが大きかったのだろう」と気づいたのである。
しかし、物語は、これでは終わらなかった。
【※ 以下で、本作の「オチ」を明かしますので、未鑑賞の方はご注意ください】
さて、ここまでで終わっていたら、本作は、私や中井英夫の「好み」のパターンの作品ではあれ、映画的には「昔の作品にしては、なかなか凝った作品だったな」で終わっていたのだが、しかし、その後には、もう一捻り、「メタフィクション」なオチがあったのである。
上に引用した「Wikipedia『カリガリ博士』・「ストーリー」」の続きは、こうなっている。
つまり、本作は「狂人の見た夢(妄想)」だったのである。
本作の「語り手」である青年フランシスは、じつ精神病院に収用されている「妄想型の狂人」であり、彼は同じ入院患者であるチェザーレや夢遊病者のジェーン、病院長をモデルとし、「カリガリ博士の昔話」を元にして、この「妄想物語」をでっち上げていたのだ。
冒頭で、『フランシスが隣の男と会話を交わしている様子と、その横を茫然自失のようであてどもなく歩く、美しく若い女性が描かれる。フランシスはその女性が自分のフィアンセ』ジェーンであり、二人の体験したという事件を語り始めるというのも、そもそもその場所が「開放治療場である、精神病院の中庭」であることを示す「伏線」だったのである。
それで、「ミステリファン」であり「中井英夫ファン」であり『ドグラ・マグラ』のファンでもある私としては、「完全にしてやられた!」と、ホゾを噛む思いにさせられたと同時に、「ミステリ作品」で、まんまと騙された際の「痛快さ」と、作品への敬意を、同時に感じることができた。
いくら私が「昔の作品だと舐めていた」部分があったとしても、しかし、本作は実に「凝った作品」であり、とても100年以上前のものとは思えないほど、その完成度は高かったのである。
事実、「Wikipedia」でも、次のように指摘している。
言うなれば本作は、100年前の「叙述トリックミステリ映画」だった。
『ドグラ・マグラ』と思います同様、作中には、事件のモデルとなる書物まで登場するという、多重構造の自己言及的な「メタフィクション」作品だったのだ。
だから私は、この「ご先祖さま」に、最大限の敬意を込めて、渾身の拍手を送らないではいられなかったのである。
(2024年2月10日)
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