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F・W・ムルナウ監督 『吸血鬼ノスフェラトゥ』 : 史上初の 「吸血鬼」映画

映画評:F・W・ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922年)

「ノスフェラトゥ」という名前だけは、子供の頃から知っていた。「世界妖怪図鑑」などに載っていたからだ。

(幼い頃の愛読書。しかし、この本に「ノスフェラトゥ」が載っていたかどうかは、定かではない)

コントラストが強すぎて、あまり鮮明とは言いがたいモノクロ写真に見るそれは、スキンヘッドに尖った耳、幅の狭い怒り肩の長身の男が、黒いロングコートを着ており、妙に腕が長く、長いカギ爪を持っている。そのカギ爪せいで腕が長く見えたのだろうが、いずれにしろ私がよく知っていた、クリストファー・リー演ずるところの「ドラキュラ伯爵」のようなダテ男ふうではなく、まさに地獄の亡者というような怪しさを色濃く漂わせていた。

私が子供の頃は、ドラキュラと言えば、映画『吸血鬼ドラキュラ』のクリストファー・リーであり、それに対するヴァン・ヘルシング教授といえば、ピーター・カッシングだった。
血を吸う「魔人」でパワーのあるドラキュラ伯爵に対し、ヘルシング教授は知性派の枯れた感じのおじいさんで、その「赤と白」という対照が、完璧な構図に感じられた。

(左・ピーター・カッシング、右・クリストファー・リー)

ドラキュラ役には、ベラ・ルゴシという俳優がいたのも知ってはいたが、モノクロ時代の『魔人ドラキュラ』を演じた人であり、私が子供の頃には、すでにテレビ放映されることもなかったろうから、おのずと縁がうすく、遠い人という感じだった。

そんなわけで、吸血鬼といえば「ドラキュラ伯爵」だったのだが、日本の幽霊やお化けや妖怪が昔からいるように、吸血鬼だって昔からいたはずで、何も「ドラキュラ伯爵」が、吸血鬼の元祖だとは思わなかった。
また長じてからは、種村季弘の『吸血鬼幻想』を読んだり、栗原成郎の『スラヴ吸血鬼伝説考』や日夏耿之介の『吸血妖魅考』あるいは須永朝彦の『血のアラベスク』などを買っ(たまま読まなかった)たりしていたので、「吸血鬼伝説」というのは、昔から、主に東欧にあったものだというのは、なんとなく知っていた。

それから、「吸血鬼」を意味する「ヴァンパイヤ」というのは、ドラキュラ伯爵みたいに、ガブっと噛みついて、血をチュウチュウ吸うようなのばかりではなく、言うなれば「生気」を吸いとる「幽鬼」のような存在も指しているようなところがあって、そのあたりとの区別が、以前は今ひとつよくわからなかった。

だが、今となって考えれば、もともと、そうした「非実在の存在」に、明確な分類や定義なんて無いのが当然で、例えば、手塚治虫『バンパイヤが、「吸血鬼」ではなく「狼男(人狼)」を扱っていたのも、手塚が「間違えた」ということではなく、もともと「ヴァンパイヤ」が「人狼」を意味することもあったからなのだろう。
例えば、ドラキュラは、コウモリに変身する場合もあるけれども、それが狼だってかまわないわけだ。
だいたい、コウモリだの狼だのネコだのネズミだのといった、「気味が悪い」とか「縁起が悪い」とかと人に忌み嫌われることの多かった動物は、ドラキュラ伯爵のような魔人の「使い魔(手先となる魔性の動物)」だと考えられたし、「使い魔」というだけではなく、魔人自身が変身して、高速で移動したり、人間に接近したりするといった「伝承的設定」でもあったのであろう。

(実写とアニメの複合作品としてドラマ化された『バンパイヤ』)

そんなわけで、「定義」はハッキリしないのだが、「吸血鬼」というのは、昔から「いろいろな形」でいろいろいたようだから、ドラキュラ伯爵の前に有名な吸血鬼がいても不思議ではない。
今でこそ忘れ去られているけれど、「元祖・吸血鬼」みたいなのがいても不思議ではないのだから、「世界妖怪図鑑」でその存在を知った「ノスフェラトゥ」が、そういう存在であり、言うなれば「ドラキュラ伯爵の大先輩」なのではないか、というのが、子供の頃の私の印象だったのである。

だが、その正体は、なかなか判明しなかった。
というのも、子供の頃の私は、子供向けであろうと、活字の本は読まなかったし、「図鑑」などの場合でも「説明文」などは読まず、ひたすら「イメージイラスト」や「映画のスチール写真」といった図象を見ることで満足していたからで、仮に「1922年にムルナウ監督によって作られた映画の吸血鬼」だというような説明がなされていたとしても、それは、『吸血鬼ノスフェラトゥ』という映画の説明であって、作中に登場するノスフェラトゥの説明ではないから、子供の私には、ノスフェラトゥは、相変わらず出自不明の「謎の吸血鬼」だったのである。

で、今回、『吸血鬼ノスフェラトゥ』を観ることにしたのは、先日から始めた「映画のお勉強」の一端である。
普通なら、大昔のモノクロ・サイレント映画なんか、いま観て面白いはずもないのだから観ないのだが、勉強だと思えば、やっぱり「古典」は押さえておかないとな、なんて思ってしまう。
ミステリ小説に凝った頃に、ポーの「モルグ街の殺人」からエミール・ガボリオの『ルコック探偵』、ウィルキー・コリンズの『月長石』なんかまで、無理して読んだのと同じことだ。

しかしまあ、私も還暦を過ぎており、残された時間を常に頭の隅で意識しているから、名作を片っ端から観るというわけにもいかないので、古典的有名作で、私の趣味に合いそうなものを観ることにし、先日は、これも昔から気になっていた、フリッツ・ラング監督の伝説的SF映画『メトロポリス』(1927年)を観たし、それと同様のノリで、昔から気になっていた、本作『吸血鬼ノスフェラトゥ』を観ることにしたのである。

(私が観たDVD)

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で、本作のあらすじは、「Wikipedia」の方を確認してもらうこととして省略するが、映画を見終わった後、DVDの付録解説で、本作の原作が、なんと、ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』だというのを知って驚いた。

しかし、私が観たDVDの「普及版」(62分の作品。オリジナルは94分)の解説(日野康一)によると、『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、原作者の許可を取らずに制作された作品で、のちにブラム・ストーカーの遺妻から裁判を起こされ、フィルムが封印・上映禁止となってしまったために、オリジナルフィルムが散逸したものの、著作権の切れる50年を超えた後に発見復元されたのが、今の「普及版=編集短縮版」である、というような説明であった。

要は、原作料を払わずに作った、言うなれば「パチもん(贋作)・ドラキュラ」なので、名前を変え、容姿を変え、設定を変え、物語まで変えて、ほとんどオリジナルの「吸血鬼映画」を作ったというわけだが、それがストーカー夫人にバレた、というような説明だった。

(ブラム・ストーカーの原作小説邦訳版。翻訳は平井呈一

だが、少し疑問に思ったのは、私が観たDVDでは、字幕スーパーに「ドラキュラ伯爵から、家を購入したいという手紙が来たから、お前、伯爵に会いに行って商談をしてこい」みたいなセリフがあり、そこではハッキリと「ドラキュラ伯爵」と書かれていた点だ。

で、私はこれを、ムルナウ監督は「ドラキュラ」というのは地名かなんかだということにして、個人名を「ノスフェラトゥ」ということにしたのかな、などと考えた。
「ウエールズ公」何某とかいったような「その地の支配者の肩書き」みたいなものということにでもしたのかな、などと無理なことを考えたのだ。

だが、この映画は、原作者に無許可で作られ、そのせいで、原作とは大幅に違った作品にしたというのならば、作中に「ドラキュラ伯爵」などという言葉をもろに使うはずがないし、そもそも映画冒頭のスタッフロール(?)にも、ブラム・ストーカーの名前があったから、隠そうというような意図は無かったのではないかと考えた。
言うなれば本作は、ブラム・ストーカーへのオマージュ作品であって、『吸血鬼ドラキュラ』が「原作」というのは、ちょっと違うのではないか、という感じがあったのである。

で、今回、このレビューを書くために「Wikipedia」を読んでみると、次のような説明がなされていた。

『本作は1897年に出版されたブラム・ストーカーの怪奇小説『吸血鬼ドラキュラ』を非公式に映画化したものである。ドラキュラ伯爵がオルロック伯爵に改名されるなど、原作からの変更点がある。これらは著作権侵害の非難を避けるためだと長らく言われてきたが、オリジナルのドイツ語のインタータイトルには、本作がストーカーの作品を原作にしていることが明記されており、この説は弱い。映画史家のデビッド・カラットは本作の解説において、この説をそれを裏付ける資料は無いと否定しており、むしろ、「ドイツ人がドイツ人の観客のために製作した低予算映画であり(中略)ドイツを舞台に、ドイツ語の名前を与え、ドイツ語圏の観客が物語をより身近に感じられるようにしたものだろう」と述べている。
いくつかのディテールが変更されたにもかかわらず、ストーカーの相続人はこの映画化について訴訟を起こし、裁判所は、映画のすべてのネガとプリントを破棄するよう命じた。しかし、本作のプリントはわずかに残り、後世に影響を与えたと傑作とみなされるようになっている。』

私が観たDVDの字幕では、この映画で「オルロック伯爵」と変えていたのを、わざわざ「ドラキュラ伯爵」に戻していたようなのだが、それはともかく、やはり『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、「パチもん・ドラキュラ」なのではなく、『ドラキュラ』へのオマージュ作品であり、オリジナルの「吸血鬼映画」として作られたものだったようなのだ。
だが、その意図が、原作者夫人には通じず、裁判でも負けてしまった、ということのようなのであった。

法律的には、どんなにオリジナルストーリーであろうと、「ガンダム」が登場するのなら、それはもうすべて「原作者は、富野由悠季矢立肇」だというのと、同じ理屈になるのだろう。

ただ、名前も違えば容姿もちがうし、血を吸われた人が吸血鬼になるわけでもない(弱って死ぬだけ)という『吸血鬼ノスフェラトゥ』の設定は、言うなれば、『ドラキュラ』以前の「原・吸血鬼」に近い設定なのだから、これを「盗作」呼ばわりするのは、ちょっと厳しすぎるのではないかと感じられた。

これが「盗作」になるのなら、ディズニーの『ライオン・キング』なんて、どこからどう見ても、手塚治虫のアニメ『ジャングル大帝』の「盗作」としか判断のしようもないだろうと思うのだが、裁判というのも人のやることだから、時代や場所などで、その判断も変わってくるのだな、と思わないではいられなかった。
いつの日か、『ライオン・キング』が『ジャングル大帝』の盗作であることが認められて、ディズニーの社長が、手塚治虫の墓前に花を手向けて謝罪する日の来ることを信じたい。

(『ジャングル大帝』と『ライオン・キング』)

そんなわけで、やっと『吸血鬼ノスフェラトゥ』本編の評価だが、さすがに今みれば、まったく怖くないのだけれども、光と影のコントラストをうまく使った、凝った構図がなかなかのものであり、これは今でこそ「なかなかだな」という感じの評価に止まるけれども、きっと後進に大きな影響を与えており、私などの世代は、むしろそっちの方を見慣れているから、ムルナウ監督の斬新な見せ方に、それほど驚かないのだろうというのは、容易に推測できるところである。
やはり「古典」というのは、「今の目」で観てしまうと物足りない部分が少なくないのだけれども、そうではなく「歴史的な意味」を勘案するなら、その何倍何十倍の意味と価値を持って立ち上がってくるような作品、ということになるのであろう。

ただ、本作に関する評価で、ひとつ気になったのは、「映画.com」のカスタマーレビューで、レビュアー「あき240」氏が、そのレビュー「ドイツ表現主義の代表作とされてはいるが、らしさはそれほど感じない」において、タイトルどおりの指摘をしている点だ。

ドイツ表現主義の代表作とされてはいるが、 らしさはそれほど感じない(5点満点の3.5)

 あき240さん・2018年8月25日

表現主義とは印象主義との反語
見たままではなく、内面の感情を表現する事に力点を置く、つまり後のシュルリアリズムに通じる
絵画で言えばキュビズムが時代や考え方に通じると思う

伯爵が棺からまっすぐに起き上がるシーンは、誰もが知っている名シーンだ
またその吸血鬼のビジュアルも
なぜなら幾多の映像作品でオマージュされ引用されまくってきている超有名なシーンだからだ
その後のありとあらゆる映画に影響を与えていると思う

かといってそれが表現主義的な表現かどうかは別問題だ
物語もそれが表現主義に通じるのかというと首をかしげてしまう

本作はドイツ表現主義の代表作とされてはいるが、らしさはそれほど感じとれない』

(有名な『伯爵が棺からまっすぐに起き上がるシーン』)

私もこれまで、「表現主義」というものを、あまり意識してこなかったから、「ドイツ表現主義」と言われても、気にすることはなく読み流してきたのだが、しかし、先日、これも「表現主義」的な作品と思われる、フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』を観ているから、それに比べて、本作『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、斬新なアングルなどの見せ方の工夫はあっても、基本的にはリアリズムであり、その反対物である、「表現主義」的な「抽象性」や「前衛的表現」の作品であるようには思えなかった。

私は、上の『メトロポリス』についてのレビューの中で、同作に対する「未来派」の影響の大きさを指摘した。
この「未来派」というのは、「あき240」氏が『吸血鬼ノスフェラトゥ』について、その影響が感じられないとしている「表現主義」や「キュビズム(立体派)」と同様の、「反・古典主義」「反・リアリズム」「反・自然主義」である「前衛表現派」であり、「実験表現派」だと言えるだろう。

(フリッツ・ラング監督『メトロポリス』より)

それは、『メトロポリス』についてのレビューで紹介した、「未来派」の画家トゥリオ・クラーリの作品と、ピカソの「キュビズム」作品との類似性にも明らかだし、ずいぶん前に観た、こちらも「ドイツ表現主義」の古典的傑作として知られるロベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』のなども、その「前衛的表現(非・リアリズム)」は明らかで、そうしたものに比べると、本作『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、とうてい「ドイツ表現主義」の作品には見えないのである。

(トゥリオ・クラーリの作品)
(ピカソの作品)

はたしてこれは、「今の目で見るから」、『吸血鬼ノスフェラトゥ』を「ドイツ表現主義」の作品、つまり「前衛的な視覚表現の作品」には見えない、ということなのだろうか?

私には、どうもそうとは思えず、案外、モノクロサイレントの初期のドイツ映画の傑作で、しかも「吸血鬼」という「イロモノ」を扱っているから、『カリガリ博士』や『メトロポリス』などとひとくくりに、ほとんど意味も考えずに「ドイツ表現主義の作品」などという「レッテル」を貼ったのが、(多くの人が見ることのない作品だから、それが)そのまま残ったということなのではないかと、疑っている。

(ロベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』より)

少数とはいえ、熱心な映画ファンもいるし、とにかくこれらは「歴史的な傑作」とされているのだから、そんな「見落とし」が、今の今まで生き残っているなんてことは考えにくいようにも思うのだが、その反面、仮にそのことを指摘した「あき240」氏のような人が何人かいたとしても、それらの「少数意見」が真剣な検討に付されることもなく、なんとなく惰性的かつ慣用句的に「ドイツ表現主義の傑作」などという「肩書き」が、「印象的なキャッチコピー」として、ずるずると生き残ってきただけなのではないかと、そう疑わずにはいられないのだ。

だから、私もここで、「あき240」氏の疑問を繰り返して問うておきたいし、この「疑問」をスッキリと解いてくれる人がいるのであれば、是非ともその説明を聞きたいと思う。

私は、『吸血鬼ノスフェラトゥ』が、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』の「パクリ(盗作)」だとは思わないし、同様の問題意識において、この作品が「ドイツ表現主義の作品」などではないと思うのだが、さて、いかがであろうか?


(2023年8月7日)

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