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F・W・ムルナウ監督 『都会の女』 : モノクロの美しさを痛感

映画評:F・W・ムルナウ監督『都会の女』(1930年)

先日、ご紹介した『吸血鬼ノスフェラトゥ』に続いて、ムルナウ監督の作品を観た。私としては2本目ということになる。

『吸血鬼ノスフェラトゥ』が、今で言う「モンスター映画」であるのに対し、本作『都会の女』は、うってかわって「純愛映画」である。

また『吸血鬼ノスフェラトゥ』が祖国ドイツで撮った「1922年」の作品なのに対し、本作『都会の女』はハリウッドに移ってから撮った5本のうちの3本目で「1930年」の作品である。

私は、映画史や映画技術史については詳しくないので、「1922年」と「1930年」の8年という「時間経過」の問題と、ドイツ映画とアメリカ映画(ハリウッド)との同時代における地域的「技術格差」の問題の兼ね合いというのは、よくわからない。
つまり、本作『都会の女』は、『吸血鬼ノスフェラトゥ』に比べて「映像の質」が格段に良くなっているのだが、これが単純に「8年間の技術進歩」ということなのか、それだけではなくハリウッドに移ったことの影響があるのか、そのあたりの兼ね合いが、まだよくわからないのである。

ただひとつ、はっきり言えるのは、モノクロであるとは言え、「映像的な美しさ」という点では、この段階で既に、今の映像に劣るものではない、ということだ。

無論、下手な監督が撮れば、いくらカメラの性能が良くても、パッとしない「絵」しか撮れないのだが、『吸血鬼ノスフェラトゥ』のレビューでも書いたとおり、「光と影」の兼ね合いによる見事な「画面構成」を作り出すムルナウ監督の作品は、だらけたカットというものがいっさい無くて、その絵(ワンカットワンカット)を見ているだけでも感心させられ、ストーリーが「型どおり」であっても、決して退屈させられることがない。

もちろん、本作のストーリーが、ことさら退屈だというわけではない。
『吸血鬼ノスフェラトゥ』が、吸血鬼映画として「オーソドックスなもの」であり「オーソドックス」を作った作品であるのと同様、本作『都会の女』も、「純愛映画」として「オーソドックス」であり、「オーソドックス」を作った作品の一つだということである。

だから、ストーリー的には、何も驚かされるような要素はない。今の目で見るのなら、本作は「純愛映画の原型」のひとつであって、私たちに「目新しさ」や「意外性」などは与えてくれない、ということである。

だが、前述したとおり、そんな「素朴な純愛映画」でありながら、私を退屈させることがなかったのは、ムルナウ監督の「演出力」のせいであり、その「演出力」において、特に際立っていたのが、前述の「画面作り」と、その「テンポの良さ」なのではないと思う。

まだ2本しか見てないのだけれど、ムルナウ監督の映画というか、演出というのは、非常にキビキビとして、無駄がないのだ。今の映画でも、途中で「ダレる」映画などいくらでもあるのだが、本作『都会の女』は、90分の立派な長編映画でありながら、ダレるところなど一箇所とてなかったのである。

本作のストーリーは、次のとおりである。

 ○ ○ ○

米国中西部のミネソタ州で、広大な農業を営んでいるタスティンは、息子のレムが一人前の立派な若者になったので、収穫した小麦を売るためにシカゴへ遣った。タスティンは、真面目で善良な人間だったが大変な倹約家だったので、レムは父親の厳命した言い値で小麦が売れればいいがと心配しながら、小麦の取引所へと向かった。
ところが、その頃シカゴでは、小麦相場は下落傾向の安値だった。レムは、売るタイミングを思い患いながら、簡易食堂に昼食を摂りに入った。
彼に給仕をしたのはケイトという美しいウェイトレスで、彼女は、レムの純樸な気質を好ましく思った。またレムも、ケイトの美貌と親切とに大いに心を惹かれた。
まだエアコンなどない時代の、大都会の夏は暑い。まして、ひといきれでなおさら暑い食堂で終日立働き、独り住まいの下宿へ戻ったケイトは、精も根も尽き果てたような心地がした。そして昼間会ったレムが住んでいるような田舎で一生暮らせたら、どんなに暢気で気が清々することだろうと思うのだった。

(レムとケイトの出会い)

小麦の価格は下る一方だった。いくら待っても値をもどす見込みが立たないので、レムは決心して小麦を売ってしまい、午後1時の汽車で田舎へ帰るとケートに別れをつげに行き、ケイトは、レムの言葉に失望した。
しかしレムは、停車場まで行きながら、結局は1時の汽車には乗らなかった。ケイトのことが諦めきれず、ぐずぐずと迷っていたのだが、駅前に設置されていた「体重計占い」をやってみると「いま思っている人と結婚すれば吉」と出たので、それに意を強くして、告白の意思を固めて、ケイトの食堂へと向かう。
一方、ケイトも、レムのことが諦めきれず、クビになるのも覚悟で、職場放棄して停車場へ向かったが、すでに1時の汽車は出てしまった後で、ケイトは間に合わなかったと思い、肩を落として食堂に戻るのだが、食堂の前にいたレムと再会し、二人は抱き合うのであった。
レムの実家に、レムからの手紙が届く。「ウェイトレスと結婚した、帰りが遅れるが心配するな」という倅の電報を見た堅物の父親は、きっと息子が都会の女に騙されたに違いないと考えて、暗い気持ちになった。
ミネソタの農場についた新婚の二人は、豊かに実った広々とした麦畑の中を追いかけっこをして走るなど、幸せいっぱいであった。
ケイトは、姑と小さい妹のメアリーには優しく迎えられたが、舅の冷やかな態度に心を重くした。

(レムの実家へやってきた不安そうなケイト)

しかし彼女は、姑を助けて甲斐甲斐しく働いた。多勢の雇人たちも、若く美しいケイトの給仕に大喜びであった。だが、雇人頭のマックは、そんな主家の嫁に横恋慕の炎を燃やした。
そんなマックが、ケイトに言い寄っている現場を目にした舅のタスティンは、「やっぱり」と激怒してケイトを殴る。そして、泣いているケイトから事情を聞いたレムは「いくら父親でも許せない殴ってやる。僕は君を傷つけるものから守ってやると約束したんだからね」とイキリたって父親のところを行こうとするが、老母が泣きながらそれを止めたため、レムは意気粗相して、父親への反抗を諦め、それを見たケイトも、失望を禁じ得なかった。また、ケイトとの約束を守れなかったレムは、ケイトに合わせる顔がなくて、ケイトを避けさえし始めた。
そんななか、新聞で台風の襲来を知ったタスティンは、雇人たちに対し、給金を倍額支払うので、今夜中に可能なかぎり刈入れせよとの夜業を命じた。

(ケイトに強引に言いよる雇人頭のマック)

マックはその刈入れ作業の中で手に軽い怪我をしたため、タスティンの家へ戻り、ケイトから治療を受けたが、他に誰もいないのを良いことに、「あんたがたの結婚は失敗だった。俺と来い。幸せにしてやる」と強引にケイトに迫るが、ケイトはそれを冷たくあしらっていた。そこへたまたま戻って来たレムが、二人を見咎める。レムは、ケイトとマックの関係を疑い、誤解を解こうとするケイトの言葉を信じず、「僕たちの結婚は、軽率で間違いだった」と告げて、徹夜の刈入れ作業へと戻っていき、まともや失望させられたケイトは、ついに、ことの次第を記した置き手紙を残して、レムの実家を去るのだった。

(ひとり夜道を立ち去ろうとするケイト)

一方、マックは、ケイトを我が物とするために、タスティンを破滅させようと、雇人仲間達に対して、作業の放棄を指示して、農場から引き上げようとする。タスティンは、激怒して「最初に農場を出た者を撃ち殺す」と脅すが、マックは相手にしなかった。
作業を中止して引き上げていく雇用人たち。レムも仕方なく家に戻ると、すでにケイトは置き手紙を残していなくなっており、その手紙を読んだレムは自身の誤解を知り、ケイトを信じられなかった自分を恥じて、彼女を探しに出ようとするが、そこで馬車で農場をひきあげようとしていたマックと喧嘩になり、二人だけを乗せた馬車が、農場の出口めがけて暴走し始める。そして、農場出口の門の傍らには、ライフルを持ったタスティンが待ちかまえていた。
タスティンは、迫ってくる馬車が、雇用人たちのものだと思い、その馬車の御者にライフルを向けるが、それはマックを殴り倒して、そのままケイトを探しに出ようとしていたレムであった。ライフルを向けている父の姿に気づいたレムが「父さん!」と叫ぶと同時にタスティンは発砲し、その御者が息子であったことに初めて気づいて、タスティンはうろたえ嘆く。

(暴走した馬車を宥めようとするレム)

しかし、幸いなことに弾は逸れて、レムに怪我はなく、レムは父にケイトの残した手紙を見せて、父のケイトに対する誤解を解くと、そのままケイトを追いかけ、ついに彼女を見つける。
レムはケイトに謝罪し「うちへ戻ろう」と促して、二人は家へと戻る。そこで待っていたタスティンは、レムからあらためてケイトを紹介され、自身の誤解を謝罪して「私は仕事のことばかりにとらわれていて、もっと大切なものを失うところだった。君は私の娘だ」とケイトを受け入れ、ひとりぼっちだったケイトは、ついに温かい家族の一員となったのである。
ちなみに、マックをやっつけられた雇用人たちは、仕方なく刈入れの作業に戻り、めでたく刈入れも完了して、タスティン家は、嵐による危機をも乗り越えたのであった。

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以上は、「映画.com」や「Movie Walker」などに掲載されている(同一の)ストーリー紹介文をもとに、改行や句読点を加え、一部語句をあらため、とくに「後半部の間違い」を修正加筆したものである(気になる方は、原文をチェックしていただきたい)。

ともあれ、お話としては、じつに素朴なものだが、上のストーリー紹介にも書き加えた、レムとケイトが広々とした小麦畑で追いかけっこをするシーンの(当時としては先進的だった)移動カメラによる撮影は、いま見ても開放感にあふれたものになっている。それまでの「舞台芝居」めいた映画しか知らなかった観客には、どれだけ心揺さぶられるものだったが想像に難くない、名シーンだ。

そして、このシーンこそが、華やかではあっても「ぎすぎすした人間関係の、ごみごみとした都会」で疲れ果てていた、ケイトの「憧れ」を象徴するものであったと言えよう。

無論それは、ケイトが誤解していたような「田舎の自然」ではなく、間違いなく「人間の手になる風景」だったのであり、田舎であっても、やはり人間が生きる上での苦労があり、その上での喜びもあるということだったのであろう。


(2023年8月21日)

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