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F・W・ムルナウ監督 『サンライズ』 : 瞠目すべき「映像のマジック」

映画評:F・W・ムルナウ監督『サンライズ』1927年・アメリカ映画)

ドイツ出身のムルナウが、ハリウッドに招かれて撮った渡米第1作であり、第1回アカデミー賞受賞作芸術作品賞撮影賞)。モノクロサイレント作品である。

前年にドイツで撮られた『ファウスト』も予算のかかった大作であり、その特撮の素晴らしさに驚いたが、こちらはそれのずっと上をいく、驚くべき映像美の作品である。

私が特に感心したのは、冒頭の大きな客船が入港してくるところのカット。
本編映像の写真を見つけられず、記憶だけで書いているので正確ではないが、画面右側は、船上甲板の乗客たちの様子を斜め上からの俯瞰で撮ったもの(だったように思う)。画面左側は、客船の舳先が画面左手前へとグーッと大きく迫り寄ってくるのを、おおよそ目の高さ低アングルで捉えた迫力あるもので、画面は左右二分割ではなく、中央部は溶け合うかたちでの合成だ。
この船の、手前に迫り出してくる大胆で動的なアングルのショットと、画面の左側の乗客たちの俯瞰ショットとが構成する、まるで船旅のポスターのイメージイラストのごとき完成した構図の素晴らしさが、アングルなど自由自在な今の作品でもちょっとお目にかかれない、「絵」的な美しさにおいて際立っていた。

このシーンの前には、この豪華な客船への乗船へとつながる汽車の走行シーンがあり、そのあと汽車が駅に着いたのをプラットホームを斜め上から見下ろすようなカットもあって、そのどちらもなかなか良かったのだが、以前に読んだ蓮實重彦の本で「『サンライズ』の汽車が斜めに入ってくるカットの素晴らしさ」みたいな感想を読んでいたので、汽車に関しては「ここのことか?」という感じで見たせいか、「なかなか」だとは思っても、蓮實の言葉ほどに強い印象は受けなかった。
だが、だからこそその後の客船入港のカットは、完全に不意打ちだった。まさに「おお!」という感じであり「こっちの方がすごいじゃないか!」と、たいへん印象的だったのである。

(「都会の女」に誘惑されているの図)

そんなわけで、名作中の名作であり、ムルナウ監督の「代表作」と言われる本作だが、私が観た感想としては、お話自体は「昔の作品だな。悪くはないけど、今となってはちょっとね」という感じでしかなかった。
だが、前述のとおり、とにかく映像的な素晴らしさには驚かされっぱなしで、本作の価値は、端的に「映像」にあると断じても良いのではないかと思う。

そんな本作のストーリーは、次のようなものである。

『田舎に住む男は、都会から来た女の虜になった。男は彼女に妻を殺すようそそのかされ、小舟から妻を突き落とそうとしたが思いとどまった。だが、おびえた妻は男から逃げ、二人はたまたま来た電車に乗って街へ行った。街で二人は何とか仲直りして、幸せな時を過ごした。だが、小舟で田舎に帰る途中、嵐のため小舟が転覆し、男は助かったが妻は行方不明になった。男は村の皆とともに彼女を探したが見つからなかった。悲しみに暮れる男の目の前に、再びあの女が現れた。女は男が妻を殺したと思って喜んでいたが、男は怒りのあまり美女を絞殺しそうになった。するとそこへ妻が無事だったという知らせが入った。美女は都会へ帰って行った。朝日の前で男と妻は抱きしめあった。』

「映画.com」・「あらすじ」より)

要は、物語の前半は、亭主の不倫による妻殺し計画のサスペンスもの。
主人公夫婦が住む田舎町。そこへ避暑に来ていた「都会の女」である悪女に、田舎夫婦の亭主の方がすっかり誑かされてしまっている。しかし、従順な妻の方は、それを知りながら何も言うことができず、幼い息子を抱いては、陰で泣くばかり。そのうち「都会の女」は、男に「二人で都会に出よう」というが、もともと真面目な亭主は「妻子をどうするんだ」と言う。そこで、女が妻を小舟の転覆による事故に見せかけて、殺してしまえと知恵をつける。男がいったんは「できない」と断るものの、女の熱烈な誘惑に負けて、妻の殺害を決意する。その計画とは、妻に「ひさしぶりに街に出て、デートでもしないか」というような話で、妻を騙して舟に乗せるというものだった。
妻は夫の心が自分に戻ったのだと、その言葉を信じて、大喜びでおめかしをし、二人は幼い息子を、同居の姑にあずけて家を後にする。

(妻殺しを思い詰める:実に懐かしい合成)

街への行程は、家の直近の桟橋から手漕ぎの小舟で、河だか湖だかを渡り、その対岸のから街へと続く路面電車に乗るというもの。
しかし亭主の計画は、この渡河(湖)の途中で、妻を締め殺し、その遺体を水中に投棄した後、船を転覆させて、自分も水中に入ると、あらかじめ用意してあった浮き輪がわりの、葦(か何か)を束ねたものにすがって岸まで帰りつく、というものであった。

だが、いざ妻を締め殺そうと、舟の上で立ち上がったところ、妻は夫の尋常ならざる様子に、自身が殺されようとしていることを察知して、怯えて哀訴するばかり。ついさっきまでは、小娘のようにうきうきと楽しそうにしていた妻の、そんな哀れな姿を見て、夫は意気沮喪し妻殺しを断念し、「もう何もしないから、僕を信じてくれ」と怯える妻を宥めて、そのまま対岸まで渡るが、妻は舟を降りると走って逃げ出し、路面電車に飛び乗り、追っていた夫も、なんとか電車に乗り込むことができた。

(「都会の女」とは対照的に、少女っぽさの漂う妻)
(この1両編成の電車が都会まで続くのだが、路面電車というより山林鉄道。「こんなところにまで通っているの?」という違和感はあった)

そのまま二人は都会まで出て、当初は怯え、次は悲しみ嘆くばかりだった妻も、夫の必死の謝罪によって、その誠意を信じることができるようになり、それから二人は、若い恋人同士に戻ったかのように、都会のデートを楽しむ。一一という一連のハッピーなシーンへと移っていく。

(このポスターには、街での楽しい夜の雰囲気が出ている)

そんなわけで、この映画のストーリー面で違和感が残るのは、前半の陰鬱でサスペンスフルな展開と、中盤の仲直りした後の夫婦の、あまりにも明るく楽しげで、コメディタッチですらあるデートシーンとの、極端なギャップである。
いちおうの辻褄は合っているものの、ガラリと雰囲気が変わってしまって、まるで別の映画をつないだかのようであり、作品としての「統一感」に欠ける印象が強かったのだ。

(すっかり仲直りした夫婦。街のレストランで食事)

こうした「唐突な転調」は、この後にもある。
二人は楽しいデートを終え、夜の河(湖)を小舟に乗って、ロマンティックな雰囲気に包まれ家路をたどっていた。ところが、数時間前まで二人のいた街では天気が急変し、暴風雨が吹き荒れるという描写がなされた後、夫婦が乗っている小舟も、ほとんど唐突に暴風雨に見舞われ、亭主は準備してあった葦の束を妻に持たせるも、とうとう舟は転覆してしまい、二人は別れ別れになってしまう。

で、そのあとは、前に引用した「ストーリー」紹介にあるとおりで、亭主はなんとか岸にたどり着いて、村人たちに助けを求め、その頃には風雨のおさまった河(湖)へと妻の捜索に出るのだが、そこで夫は、妻に持たせたはずの葦の束が、崩れて湖面に漂っているのを発見し、万事窮すと嘆いて、皆と共に村に戻る。
ところが、それを知った件の「都会の女」は、作戦成功とばかりに男に近づいていくのだが、当然、男は激怒して女を締め殺さんばかりになっていたところへ、妻が無事救助されたとの報がもたらされる。まだ、諦めずに捜索していた村人がいて、なんとか沈まずに泳いでいた妻を救出したのである。
こうして、夫婦は再会して熱い抱擁をかわし、村人たちも良かった良かったと祝福する中、都会の女は一人寂しく村を去って行き、夫婦はめでたく、輝ける日の出の陽光に照らされるのであった。一一というようなお話である。

つまり、最初の陰鬱なサスペンスから、一転してコメディ調の街でのデートがあり、万事うまく行ったかと思うと、いきなり暴風雨が襲ってきて、夫婦を引き裂こうとするも、最後は絵に描いたようなハッピーエンドになる、という次第なのだ。

はっきり言って、こんな「まとまりを欠いた、取ってつけたような展開」では、少なくともそのストーリー面においては、本作を褒めることなど私には到底できない。
本作を無条件に褒めている人たちというのは、昔の人ならば、その当時(およそ100年前)の映画の水準で誉めたのであろうし、現代の映画ファンがこの作品をストーリーまで含めて褒めるのなら、それはあくまでも「当時の水準からすれば」という「強烈なバイアス」をかけた上での評価に他ならないだろう。もしも本気で、今の水準で、このストーリー展開を褒めている(つもりな)のだとしたら、その人は、ろくに映画も観ていなければ、小説やマンガも読んでもいないということにしかならないだろう。

まあ、実際には「こんなに有名な名作なんだから、素晴らしいに決まっている」という「権威主義バイアス」のかかった評価をしているだけなのだろうが、それにしても、そうした「権威主義的な映画マニア」以外の、当たり前に一般の映画ファンのために、私は「今の目で見れば、ストーリーはいただけない作品だから、そのつもりで観てね」と、ここでどうしても、そう言い添えずにはいられなかったのだ。

さて、以上の「警告」を言い添えるための説明が、否応なく長くなってしまったが、ともあれ、本作の魅力は、端的に言って「絵」の素晴らしさである。

と言うか、私はこれまで、吸血鬼ノスフェラトウ』『都会の女』『最後の人』『ファウストと順不同にムルナウの作品を観てきたが、今回、そんな作品群の中でも代表作と言われる『サンライズ』を観て、はっきりと確認できたのは、ムルナウが「すごい監督」であり、ムルナウ作品が「傑作」だと「今でも」評価されるのは、もっぱらその「映像表現の素晴らしさ」においてであって、「ストーリーは、そうした評価とは、ほとんど関係がない」という事実である。

今の基準で「総合的に判断して」というのではなく、今の目で見ても感心させられるのは「映像表現」であって、その他の点では「当時相応」なのだ。
そして、蓮實重彦を筆頭に、古いモノクロ映画をわざわざ観ようというような映画マニアは、こうした古典作品を観るにあたって、もっぱら「映像表現」に注目しているのだ。
言い換えれば、映画でストーリーまで楽しみたければ、あまりにも古い作品は避けるべきだということである。

そんなわけで今後は、モノクロの古典作品の評価などを読む場合には、「そのつもり」で読むのが、無難であろう。「映画通」の間では、十分に「時代バイアス」をかけた上での評価というのが、ごく当たり前のことなのかもしれないのだ。
私のような映画の門外漢は、そうした「ローカルルール」を知らないから、現代の映画への評価と同じようなものとして読んでしまい、いらぬ「誤解」をしてしまうのだが、ともあれ、「映画地方」の「方言」は、そういうものだと知っておいて損はないはずである。

さて、今度こそ、『サンライズ』の映像表現の素晴らしさについて、もう少し書いておこう。

前にも書いたとおり、本作で私が最も感嘆したのは、映画冒頭の客船入港シーンの合成カットである。
だが、無論それだけではない。

不倫亭主と「都会の女」との逢瀬の場面。煌々と月光に照らされた湿地帯の葦はらでの逢瀬のシーンは、セットだとわかっていても、作り物の月光が実に素晴らしく、全体が見事な「絵」になっているし、その夜空に「夢の都会」のイメージが合成されるカットが、これまた素晴らしい。
ここで夜空に浮き上がる都会の情景は、ミニチュアを撮影したものだが、作り物だからこそ本物以上に凝縮された都会の華やかな夜景を、都会の女による「都会の快楽」への誘惑的イメージとして、見事に表現していたのである。

また、夫が妻を殺せず、そのあと電車で都会まで出るシーンは、電車の運転手の背後から、運転席の窓越しに進行方向の景色が映し出され、やがて都会へと入っていくというものなのだが、この窓越しの風景が「たぶん合成(スクリーン・プロセス)であろう」とは思うものの、全部がそうだとは言い切れないほどの出来であり、なおかつ窓外の街の風景が「見せる絵」になっているところにも感心した。

同様に、激しく車の行き交う車道へ、妻がふらふらと歩み出てしまい、慌てて夫がそれを追いかけるのシーンでは、この二人の前後をスレスレに行き交う車が、どうやら合成のようで、遠近感的にやや不自然な部分はあるものの、単純なスクリーン・プロセスではなく、どのようにして合成したのだろうと考えてしまう凝ったもので、独特の不思議な味わいを醸し出していた

(この後、合成のカットになる)

また、都会の遊園地のセットも、あまりにも絵的に凝縮されているからこそセットだとはわかるものの、小ぶりだが4、5連ほどのジェットコースターまで再現しているのだから、もしかするとこういう遊園地も、昔ならあったのかなと思わされたほどであった。

(セットだが、あまりにも大掛かり)
(二人が街から帰ろうとするシーン。これも、窓灯りなどからセットだとはわかるが、かなり大掛かり)

そんなわけで本作は、これまで観たムルナウ作品の中で、飛び抜けて映像的に優れた作品だった。
ムルナウには、このあと自動車事故で亡くなるまでに3本の作品があるが、そのなかの1本が、すでに観た『都会の女』であることを考え合わせれば、やはり本作『サンライズ』が、その映像表現の抜きん出た素晴らしさにおいて「代表作」なのであろうと納得できたのである。

だが、驚きは、この後にもあった。
このレビューを書くために、Wikipediaの「サンライズ(映画)」を確認したところ、そこには、

『路面電車の走る都会の街並みや、葦に囲まれた湖など、全シーンがセットで撮影されており、字幕をなるべく排除して視覚的表現を重視した手法となっている。』

と書かれていたのである。

(これもセットだというのだ!)

遊園地がセットだというのはわかったが、路面電車が走り、車道を車が行き交い、歩道を人々が歩いている、あの広々とした昼間の街なみが、まさか全部オープンセットだとは思わなかった。
路面電車の中からの窓外の風景については、前述のとおり「合成」を疑いはしたが、路面電車そのものが撮影用のものだとは思いもしなかったのである。

この当時の映画は、ほとんどすべてをセットで撮っていたという知識が、私にもあるにはあった。
だが、その一方で、本作冒頭部には、客船から見た港の風景など、明らかにセットではない実景もあったから、「Wikipedia」の『全シーンがセットで撮影されており』という書き方は、正確さを欠くものだとは思うものの、しかし、こう言われると、「汽車の入ってきた駅の俯瞰カットとか、客船の入港カットなども、もしかすると作り物だったのではないか」と、にわかに疑われてきた。

今現在、私はその真相を知らないのだが、ともあれ、今の目で見て、本気で「本物か作り物なのかがわからない」というのは、ある意味では、今の「(3D)CG」を超えていると言えるのかもしれない。
たとえば、先日公開された『ゴジラ−1.0』山崎貴監督・2023年)のゴジラが銀座で大暴れするシーンも、大変よくできたCGではあるものの、実景と間違えることはない「質感の違い」が、そこには確かにあった。ところが、『サンライズ』の都会風景のセットは、その質感において、全く違和感がないのだ。
もちろん『サンライズ』は「モノクロ」だし、「画質の違い」が有利に働いているというのは間違いないにしても、しかしながら、驚くべきレベルの「映像マジック」だったのである。
つい先日、『ファウスト』のレビューで、

『本作『ファウスト』には、こうした「特撮シーン」が非常に多いので、「特撮ファン」には是非とも観てほしい。
メフィストがファウストをマントに乗せて空を飛ぶシーンなど、古典的な描写は懐かしさを感じさせる一方、金のかかったミニチュアによる、飛行中の空中から見た景色の再現は、たいへん素晴らしいもので、「特撮史」に残って然るべきものだと思う。』

と書いたばかりだけれど、本作については、さらに一歩進んで「とにかく本作の、映像のマジックに驚いてくれ」と言いたい。
本作には確かに、かつてあった「手作りの映像マジック」の最良の魅力が満ち満ちているのである。

なお、この褒め言葉は、「映画地方」の「ローカルルール」には従わない「都会の男」の、「標準語」の言葉だと、そう信じていただいて良いはずである。


(2023年12月2日)

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