フリッツ・ラング監督 『メトロポリス』 : 二つの『メトロポリス』
あまりにも有名な映画なのだが、なにしろおよそ一世紀も前に作られた「モノクロサイレント映画」なので、これまでは見る機会を逸してきたが、先般より、映画のお勉強を始めたので、興味の持てそうなところから古典的な名作を見ることにした。その一つが、本作『メトロポリス』である。
私の世代が『メトロポリス』という名詞を初めて意識するのは、たぶん手塚治虫の初期作品のタイトルとしてであろう。
しかし、「マンガの神様」といわれた手塚治虫の作品としても、あまりにも初期の古い作品であるため、これを読んだのは、私の親の世代に近いのではないかと思われる。まさに手塚が、私の親の世代であり、手塚の『メトロポリス』を同時代の作品として楽しんだのなら、おおよそそういうことになるのだ。
そんなわけで、私自身、手塚の『メトロポリス』の存在自体はずいぶん前から知ってはいたが、いまだに読んではいない。そのかわりにと言ってはなんだが、2001年に公開された劇場用長編のアニメの『メトロポリス』(りんたろう監督)は公開時に観ている。
今回、手塚が大きな影響を受けた、フリッツ・ラングの『メトロポリス』を観て、初めてストーリー的には、まったくの別物だというのが確認できた。
フリッツ・ラングの『メトロポリス』のテーマは「未来社会における人類の和解」であったが、手塚の同名作のテーマは「人類とロボットの非和解」という悲劇をテーマにしているのだ。
いうなれば、方向性が真逆なのである。
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フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(以下、特に断りのない場合の『メトロポリス』は、フリッツ・ラング版を指す)は、次のような物語である。
本作は、『「脳」(知識指導者階級)と「手」(労働者階級)の調停』と和解の物語である。
「脳」である、地上の支配者であるフレーダーセン(フレーダーの父親)が作った、摩天楼の立ち並ぶ都会は、明らかに「アメリカ」を意識した「資本主義」の象徴であり、一方、地下世界の住人で、人類の「手」である「労働者階級」が意味しているのは、「共産主義」だと考えていいだろう。
この作品が作られた「1926年」とは、第一時世界大戦と第二次世界大戦の「大戦間」期であり、敗戦国であったドイツには、きわめて民主的な「ワイマール憲法」が制定され、ある意味では、フリッツ・ラングがこの映画を撮った頃のドイツは、「資本主義」と「共産主義」のどちらの側にも立たない、中立的で調停的な、理想主義的な立場だったのだと言えるだろう。そのため、この映画には、いささか非現実的なまでの「楽観主義」が表現されることとなった、ということなのではないだろうか。
(※ なお、本作には、公開当時の事情から、いろいろな長さのバージョンがあり、結末まで違ったバージョンもあるらしいが、ここでは、私の観た、最もオーソドックスバージョンについて書いている)
したがって、こんにち、この映画を「傑作」と評価する場合に想定されているのは、そうした「非現実的な楽観主義」である「ストーリー」や「テーマ」の部分ではなく、もっぱら「ビジュアル」面ではなかったたかと思われるので、本稿でも、以下本作については、もっぱら「ビジュアル」面について書きたいと思う。
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まず、本作で目を惹くのは、なんと言っても、人造人間(通称・マリア、以下「マリア」と記す)のデザインであり、次に、摩天楼の立ち並ぶ地上世界やメカニカルな地下世界といった「未来都市のビジュアル」である。
のちに、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』(1977年)に、この「マリア」を下敷きにしたロボット「C-3PO」を登場させるが、この時点ですでに約半世紀も前のデザインを、「顔」以外はほとんどそのまま使って、それでも、まったく「古い」という印象を与えず、むしろ今でも、「マリア」の方が「新しい」という印象を与えるというのは、実に恐るべきことであろう。
今でこそ、人型ロボットといえば「日本のお家芸」ということになっているが、これは『メトロポリス』に多大な影響を受けた手塚治虫の『鉄腕アトム』(原作漫画1952年・アニメ1961年)にはじまる、マンガ・アニメ・特撮ドラマなどによって、「人型ロボット」(のデザイン)が、日本で独自の進化をとげた結果であろう。
だが、それにしても『鉄腕アトム』以降、『鉄人28号』(1956年)、『ジャイアントロボ』(1967年)、あるいは少し下って、現在の(と呼んでもいいだろう)『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)などの直接的「先祖」である『マジンガーZ』(1972年)の頃に至ってさえも、主役メカ以外は、いかにも「機械の怪獣」といった感じの、見るからに「ダサい」デザインであったことを思えば、『メトロポリス』の先駆性が、いかにケタ違いものだったかがわかる。
実際、日本のロボット(アニメ)のデザインは、その後の『スター・ウォーズ』のメカニックの影響を受けて洗練されていったのだから、『メトロポリス』は、いわば2世代前のものなのだ。
で、『メトロポリス』のこうした「優れて新しいデザイン性」というのは、どこから出てきたのかというと、これは美術などの世界で「未来派」と呼ばれる、第二次世界大戦前の、前衛芸術一派のものだった。その影響だったのである。
このように、未来派は(古典派に対して)「機械」的な「洗練とスピードと力」を強く打ち出した、「前衛派」だったのだが、その志向が「ファシズム」と結びついたために、第二次大戦の終結後には、言うなれば「忌むべきもの」として葬り去られることになった。
日本の小説家では、「飛行機好き」で知られる稲垣足穂が、この「未来派」の影響を大きく受けており、「硬質かつ無機質で煌びやかな幻想世界」を描き出したが、それでも足穂が「天族」と自称するほど、「政治」を含む「世俗」との縁を切った存在だったからこそ、足穂の「未来派」指向は「固有のユニークさ」と理解されるに止まったのであろう。
ともあれ『メトロポリス』はドイツ映画だったが、そのデザイン的な側面においては、イタリアの「未来派」の影響を、ほとんどそのまま受けている。なぜなら、「芸術」においては、イタリアは「先進国」であり、ドイツの「田舎者」とは違ったからである。
今でこそ、ドイツというと「ナチス・ドイツ」の制服に代表される「洗練されたデザイン」のイメージがあるけれども、これは「イタリア未来派」の影響によるところが大きいと見て良いだろう。
私は、「美術史」や「デザイン史」について、まったく無知なのだが、昔から「(ナチス)ドイツ軍」の制服や兵器の、不必要なまでに洗練されたデザインを、ずっと不思議に思っていたのだ。
そして今思えば、軍服や兵器のデザインにおいては、本家のイタリアの方が、よほど「ダサかった」のは、いわば本家なればこそであり、後続の「ナチス・ドイツ」の方が、「外見的洗練」ということを、わかりやすい「思想の表現(宣伝)」として、徹底的に活用したからではないだろうか。
たとえば「アーリア人の美しき肉体」といった場合にイメージされる「洗練」は、「未来派」的な感性が「人間の肉体」に適用されたようなものであり、その意味では、人造人間「マリア」は、ナチスが理想として「肉体美」の、ひとつの象徴ともなりうるものだったのではなかったろうか。
実際、フリッツ・ラング監督の妻は、ナチスに傾倒しており、それが「意見の相違」ということで離婚。そして、フリッツはアメリカに渡ることになったという。
つまり、『メトロポリス』には、「ナチス」の思想的な影響がさほどでは無かったとしても、その「美意識」においては、同時代的に共通するものがあった、ということになるのであろう。
そして、『メトロポリス』のビジュアル面で、直接的な影響を与えたのは、「未来派」の画家トゥリオ・クラーリ(Tullio・Crali)であろう。
このあたりについても、たぶん、映画史や美術史の専門研究によって、すでに語られているところなのかもしれないが、私は今回、もっぱら「『メトロポリス』のデザインは、未来派的」という気づきの一点から、ネット検索によって、この画家にたどり着いた。
その相似性は、一目瞭然であると思う。
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そんなわけで、フリッツ・ラングの『メトロポリス』の「楽観主義」が、のちに手塚治虫の『メトロポリス』の「悲劇」へと変わったのは、言うなれば「必然的な結果」だと、私には思える。
なぜなら、手塚の描いた『メトロポリス』における「悲劇」とは、人造人間「ティマ」に対する、人間の側からの「差別」によるものだったからだ。
つまり、これは「ナチス」における「人種差別」の反映として、手塚はその『メトロポリス』において、悲観的な「未来」を描かずにはいられなかった、ということではなかったろうか。
『メトロポリス』においては、人造人間が、「和解の聖女」と呼んでも良いだろうマリアになりすまして、人間の和解の邪魔だてをするのだが、人間はその企てを見破って、最終的な和解を手にする。
しかし、私たちの歴史は、この物語とは真逆だった。
考えてみれば、フリッツ・ラングの人造人間「マリア」だって、もともと人間の指示を受けて、陰謀に加担させられたのであって、彼女の「意志」でそれをしたのではない。
それなのに、見るからにの「悪役」されてしまったという悲劇も、結局は、手塚の描いた「ティマ」の悲劇と同じことだったのではないだろうか。
よく「科学には罪はない。要は、人間がそれをどう使うかだ」というようなことが言われ(これが『鉄人28号』や『ジャイアントロボ』『マジンガーZ』などのテーマでもある)、なるほどそれは「正論」なのだが、そもそも人間は、「巨大化した科学」を使いこなせるほどの存在なのかと問うならば、私たちは、「チェルノブイリ」や「福島第一原発」の後にも、自信を持って、いや、責任を持って、「できる」と答えられるだろうか?
「美しいもの」や「強いもの」は、必ずしも「正しい(正義)」というわけではない。
「美」は、「正義」と結びつくこともあれば「悪」と結びつくこともあるわけだが、しかしそれは、ほかでもなく、人間自身がそうしたものだからなのではないのか。
『メトロポリス』を観ながら、私は、そんなことを考えていた。
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(2023年7月31日)
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【補記】『メトロポリス』な、その他の人々
本稿では触れきれなかったが、『メトロポリス』に縁のありそうな日本人アーティストを、2人紹介しておきたい。
一人目は、「ウルトラマン」のデザインで知られて「成田亨」。
すでにお気づきの方もあろうが、初代「ウルトラマン」の顔は、『メトロポリス』の人造人間(マリア)に酷似している。
成田は、ウルトラマンを「弥勒菩薩」から発想したと説明しているようで、言われてみれば、そう見えないこともないが、顔だけをとらえてみても、マリアと弥勒菩薩のどちらに似ているかといえば、それは前者であろう。
なお、成田の怪獣デザインは、「ダダ」「ゼットン」あるいは「チブル星人」などに、典型的な「未来派」的鋭角性が表れていると思うのだが、いかがだろうか?
二人目は、イラストレーターの「合田佐和子」。
この人の場合は、『メトロポリス』や「未来派」の影響というわけではなく、単純に「モノクロ時代の映画スター」をモチーフにした作品が、初期の代表作になっているため、時代的には後先なのだが、『メトロポリス』を観ると合田佐和子を思い出してしまったということである。
(2023年7月31日)
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