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フリッツ・ラング監督 『メトロポリス』 : 二つの『メトロポリス』

映画評:フリッツ・ラング監督『メトロポリス』(1926年)

あまりにも有名な映画なのだが、なにしろおよそ一世紀も前に作られた「モノクロサイレント映画」なので、これまでは見る機会を逸してきたが、先般より、映画のお勉強を始めたので、興味の持てそうなところから古典的な名作を見ることにした。その一つが、本作『メトロポリス』である。

(音楽を担当したゴットフリート・フッペルツCDカバー)

私の世代が『メトロポリス』という名詞を初めて意識するのは、たぶん手塚治虫の初期作品のタイトルとしてであろう。
しかし、「マンガの神様」といわれた手塚治虫の作品としても、あまりにも初期の古い作品であるため、これを読んだのは、私の親の世代に近いのではないかと思われる。まさに手塚が、私の親の世代であり、手塚の『メトロポリス』を同時代の作品として楽しんだのなら、おおよそそういうことになるのだ。

そんなわけで、私自身、手塚の『メトロポリス』の存在自体はずいぶん前から知ってはいたが、いまだに読んではいない。そのかわりにと言ってはなんだが、2001年に公開された劇場用長編のアニメの『メトロポリス』りんたろう監督)は公開時に観ている。

今回、手塚が大きな影響を受けた、フリッツ・ラングの『メトロポリス』を観て、初めてストーリー的には、まったくの別物だというのが確認できた。
フリッツ・ラングの『メトロポリス』のテーマは「未来社会における人類の和解」であったが、手塚の同名作のテーマは「人類とロボットの非和解」という悲劇をテーマにしているのだ。
いうなれば、方向性が真逆なのである。

 ○ ○ ○

フリッツ・ラング監督の『メトロポリス』(以下、特に断りのない場合の『メトロポリス』は、フリッツ・ラング版を指す)は、次のような物語である。

『2026年、ゴシック調の摩天楼がそびえ立ちメトロポリスと呼ばれる未来都市では、高度な文明によって平和と繁栄がもたらされているように見えたが、その実態は摩天楼の上層階に住む限られた知識指導者階級と、地下で過酷な労働に耐える労働者階級に二極分化した徹底的な階級社会だった。
ある日、支配的権力者の息子・フレーダーは労働者階級の娘マリアと出逢い、初めて抑圧された地下社会の実態を知る。
「脳と手の媒介者は、心でなくてはならない」
マリアが階級社会の矛盾を説き、「脳」(知識指導者階級)と「手」(労働者階級)の調停者「心」の出現を予言すると、労働者達にストライキの気運が生じる。マリアはフレーダーがまさに調停者になる存在であると見抜き、フレーダーもまた美しいマリアに心を奪われる。
この様子をこっそり見ていたフレーダーの父であり支配的権力者のフレーダーセンは危機感を抱き、旧知の学者のロトワングに命令してマリアを誘拐させ、マリアに似せたアンドロイド(Maschinenmensch)を作り出させる。このアンドロイドをマリアとして地下社会へ送り込み、マリアが作りだした労働者の団結を崩す考えである。
しかし、かつてフレーダーセンと恋敵であったロトワングが影で意図したのは、フレーダーセンが支配するメトロポリスそのものの壊滅であった。ロトワングの意を受けたアンドロイド・マリアは男達の羨望の的となり、乱痴気騒ぎをさせる一方で階級闘争を過激に扇動するようになる。フレーダーは豹変したマリアが別人であることを見抜くが、興奮した労働者に追いたてられる。
アンドロイド・マリアに扇動され、暴徒となって地上の工場へ押し寄せた労働者達は、メトロポリスの心臓ともいうべきHertz-Maschine(ヘルツ・マシーネ、英:Heart-Machine)を破壊し、地下の居住地区を水没させてしまう。しかし地下にはまだ労働者の子供たちが大勢残されていたのだ。扇動による行為が自分達の首をも絞めていると気付いた労働者達は、自分達を扇動したマリアを糾弾し火あぶりにする。炎の中でマリアはアンドロイドに戻り、労働者達は自分達を扇動していたものの正体を知る。
一方、ロトワングから逃げ出した本物のマリアと地下で再会したフレーダーは、残されていた子供達を水没寸前で地上へと避難させ、時計台の上でロトワングとの決着をつける。そしてすべてが終わった後、調停者として父と労働者達との仲介を図るのだった。』

(映画.com、「メトロポリス (1927年の映画)」の「ストーリー」より)

本作は、『「脳」(知識指導者階級)と「手」(労働者階級)の調停』と和解の物語である。
「脳」である、地上の支配者であるフレーダーセン(フレーダーの父親)が作った、摩天楼の立ち並ぶ都会は、明らかに「アメリカ」を意識した「資本主義」の象徴であり、一方、地下世界の住人で、人類の「手」である「労働者階級」が意味しているのは、「共産主義」だと考えていいだろう。

チャップリンの『モダン・タイムス』にも影響を与えた)

この作品が作られた「1926年」とは、第一時世界大戦と第二次世界大戦の「大戦間」期であり、敗戦国であったドイツには、きわめて民主的な「ワイマール憲法」が制定され、ある意味では、フリッツ・ラングがこの映画を撮った頃のドイツは、「資本主義」と「共産主義」のどちらの側にも立たない、中立的で調停的な、理想主義的な立場だったのだと言えるだろう。そのため、この映画には、いささか非現実的なまでの「楽観主義」が表現されることとなった、ということなのではないだろうか。
(※ なお、本作には、公開当時の事情から、いろいろな長さのバージョンがあり、結末まで違ったバージョンもあるらしいが、ここでは、私の観た、最もオーソドックスバージョンについて書いている)

『1914 サラエボ事件、第一次世界大戦が始まる(~1918)、パナマ運河が開通
1915 日本が中国に二十一か条要求、ドイツのアインシュタインが一般相対性理論を完成
1917 ロシア革命(三月革命・十一月革命)、文学革命
1918 第一時世界大戦終戦
1919 中国で五・四運動、中国国民党が発足、パリでベルサイユ条約、ドイツがワイマール憲法制定
1920 国際連盟、成立、ドイツにナチスができる
1921 中国共産党、成立、イタリアにファシスト党が結成される
1922 ワシントン条約、ムッソリーニがイタリアのファシスト政権を樹立、ソビエト社会主義共和国連邦、成立
1923 ケマル・パシャがトルコ共和国を建国
1925 五・三〇事件
1927 蒋介石の上海クーデター
1928 蒋介石が国民政府主席に、パリ不戦条約、スターリンによる第1次5か年計画開始
1929 世界経済恐慌はじまる
1930 ロンドン軍縮会議
1931 満州事変
1932 「満州国」建国宣言
1933 ドイツにヒトラー内閣が成立、ニュー・ディール政策はじまる、ナチスのユダヤ人迫害が始まる
1934 ドイツに総統ヒトラー(~1945)
1939 第二次世界大戦開戦』』

(サイト「がんばれ凡人!」の「世界史年表」に、1918年と1939年を加筆)

したがって、こんにち、この映画を「傑作」と評価する場合に想定されているのは、そうした「非現実的な楽観主義」である「ストーリー」や「テーマ」の部分ではなく、もっぱら「ビジュアル」面ではなかったたかと思われるので、本稿でも、以下本作については、もっぱら「ビジュアル」面について書きたいと思う。

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まず、本作で目を惹くのは、なんと言っても、人造人間(通称・マリア、以下「マリア」と記す)のデザインであり、次に、摩天楼の立ち並ぶ地上世界やメカニカルな地下世界といった「未来都市のビジュアル」である。

のちに、ジョージ・ルーカス『スター・ウォーズ』(1977年)に、この「マリア」を下敷きにしたロボット「C-3PO」を登場させるが、この時点ですでに約半世紀も前のデザインを、「顔」以外はほとんどそのまま使って、それでも、まったく「古い」という印象を与えず、むしろ今でも、「マリア」の方が「新しい」という印象を与えるというのは、実に恐るべきことであろう。

今でこそ、人型ロボットといえば「日本のお家芸」ということになっているが、これは『メトロポリス』に多大な影響を受けた手塚治虫の『鉄腕アトム』(原作漫画1952年・アニメ1961年)にはじまる、マンガ・アニメ・特撮ドラマなどによって、「人型ロボット」(のデザイン)が、日本で独自の進化をとげた結果であろう。

(マリアの情報を人造人間に転送しているシーン)

だが、それにしても『鉄腕アトム』以降、鉄人28号(1956年)、ジャイアントロボ(1967年)、あるいは少し下って、現在の(と呼んでもいいだろう)『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)などの直接的「先祖」であるマジンガーZ(1972年)の頃に至ってさえも、主役メカ以外は、いかにも「機械の怪獣」といった感じの、見るからに「ダサい」デザインであったことを思えば、『メトロポリス』の先駆性が、いかにケタ違いものだったかがわかる。
実際、日本のロボット(アニメ)のデザインは、その後の『スター・ウォーズ』のメカニックの影響を受けて洗練されていったのだから、『メトロポリス』は、いわば2世代前のものなのだ。

で、『メトロポリス』のこうした「優れて新しいデザイン性」というのは、どこから出てきたのかというと、これは美術などの世界で「未来派」と呼ばれる、第二次世界大戦前の、前衛芸術一派の影響を受けている。

『未来派(みらいは)とは、フトゥリズモ(伊: Futurismo、フューチャリズム、英: Futurism)とも呼ばれ、過去の芸術の徹底破壊と、機械化によって実現された近代社会の速さを称えるもので、20世紀初頭にイタリアを中心として起こった前衛芸術運動。この運動は文学、美術、建築、音楽と広範な分野で展開された。1920年代からは、イタリア・ファシズムに受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美した。』

(Wikipedia「未来派」

(「未来派」トゥリオ・クラーリの作品)

このように、未来派は(古典派に対して)「機械」的な「洗練とスピードと力」を強く打ち出した、「前衛派」だったのだが、その志向が「ファシズム」と結びついたために、第二次大戦の終結後には、言うなれば「忌むべきもの」として葬り去られることになった。

日本の小説家では、「飛行機好き」で知られる稲垣足穂が、この「未来派」の影響を大きく受けており、「硬質かつ無機質で煌びやかな幻想世界」を描き出したが、それでも足穂が「天族」と自称するほど、「政治」を含む「世俗」との縁を切った存在だったからこそ、足穂の「未来派」指向は「固有のユニークさ」と理解されるに止まったのであろう。

ともあれ『メトロポリス』はドイツ映画だったが、そのデザイン的な側面においては、イタリアの「未来派」の影響を、ほとんどそのまま受けている。なぜなら、「芸術」においては、イタリアは「先進国」であり、ドイツの「田舎者」とは違ったからである。

(ナチス政権下のプロパガンダのひとつ。ベルリンオリンピックのポスター)

今でこそ、ドイツというと「ナチス・ドイツ」の制服に代表される「洗練されたデザイン」のイメージがあるけれども、これは「イタリア未来派」の影響によるところが大きいと見て良いだろう。
私は、「美術史」や「デザイン史」について、まったく無知なのだが、昔から「(ナチス)ドイツ軍」の制服や兵器の、不必要なまでに洗練されたデザインを、ずっと不思議に思っていたのだ。

(日本で最初にプラモ化された戦車・ドイツのパンサー戦車)

そして今思えば、軍服や兵器のデザインにおいては、本家のイタリアの方が、よほど「ダサかった」のは、いわば本家なればこそであり、後続の「ナチス・ドイツ」の方が、「外見的洗練」ということを、わかりやすい「思想の表現(宣伝)」として、徹底的に活用したからではないだろうか。
たとえばアーリア人の美しき肉体」といった場合にイメージされる「洗練」は、「未来派」的な感性が「人間の肉体」に適用されたようなものであり、その意味では、人造人間「マリア」は、ナチスが理想として「肉体美」の、ひとつの象徴ともなりうるものだったのではなかったろうか。

(彫りが深く金髪碧眼というアーリア人幻想の模範)

実際、フリッツ・ラング監督の妻は、ナチスに傾倒しており、それが「意見の相違」ということで離婚。そして、フリッツはアメリカに渡ることになったという。

つまり、『メトロポリス』には、「ナチス」の思想的な影響がさほどでは無かったとしても、その「美意識」においては、同時代的に共通するものがあった、ということになるのであろう。

そして、『メトロポリス』のビジュアル面で、直接的な影響を与えたのは、「未来派」の画家トゥリオ・クラーリ(Tullio・Crali)であろう。

トゥリオ・クラーリ

このあたりについても、たぶん、映画史や美術史の専門研究によって、すでに語られているところなのかもしれないが、私は今回、もっぱら「『メトロポリス』のデザインは、未来派的」という気づきの一点から、ネット検索によって、この画家にたどり着いた。

その相似性は、一目瞭然であると思う。

(トゥリオ・クラーリの作品)

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そんなわけで、フリッツ・ラングの『メトロポリス』の「楽観主義」が、のちに手塚治虫の『メトロポリス』の「悲劇」へと変わったのは、言うなれば「必然的な結果」だと、私には思える。

なぜなら、手塚の描いた『メトロポリス』における「悲劇」とは、人造人間「ティマ」に対する、人間の側からの「差別」によるものだったからだ。
つまり、これは「ナチス」における「人種差別」の反映として、手塚はその『メトロポリス』において、悲観的な「未来」を描かずにはいられなかった、ということではなかったろうか。

(ナチスドイツによる、ユダヤ人の強制収容)

『メトロポリス』においては、人造人間が、「和解の聖女」と呼んでも良いだろうマリアになりすまして、人間の和解の邪魔だてをするのだが、人間はその企てを見破って、最終的な和解を手にする。
しかし、私たちの歴史は、この物語とは真逆だった。

考えてみれば、フリッツ・ラングの人造人間「マリア」だって、もともと人間の指示を受けて、陰謀に加担させられたのであって、彼女の「意志」でそれをしたのではない。
それなのに、見るからにの「悪役」されてしまったという悲劇も、結局は、手塚の描いた「ティマ」の悲劇と同じことだったのではないだろうか。

(オイルの涙を流すティマ)

よく「科学には罪はない。要は、人間がそれをどう使うかだ」というようなことが言われ(これが『鉄人28号』や『ジャイアントロボ』『マジンガーZ』などのテーマでもある)、なるほどそれは「正論」なのだが、そもそも人間は、「巨大化した科学」を使いこなせるほどの存在なのかと問うならば、私たちは、チェルノブイリ福島第一原発の後にも、自信を持って、いや、責任を持って、「できる」と答えられるだろうか?

(「鋼の体」に「人の頭脳」を加えるマジンガーZ)
(原子炉の二次冷却水を「涙」のように溢れさせたジャイアントロボ)

「美しいもの」や「強いもの」は、必ずしも「正しい(正義)」というわけではない。
「美」は、「正義」と結びつくこともあれば「悪」と結びつくこともあるわけだが、しかしそれは、ほかでもなく、人間自身がそうしたものだからなのではないのか。

『メトロポリス』を観ながら、私は、そんなことを考えていた。


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(2023年7月31日)


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【補記】『メトロポリス』な、その他の人々

本稿では触れきれなかったが、『メトロポリス』に縁のありそうな日本人アーティストを、2人紹介しておきたい。

一人目は、「ウルトラマン」のデザインで知られて「成田亨」
すでにお気づきの方もあろうが、初代「ウルトラマン」の顔は、『メトロポリス』の人造人間(マリア)に酷似している。
成田は、ウルトラマンを「弥勒菩薩」から発想したと説明しているようで、言われてみれば、そう見えないこともないが、顔だけをとらえてみても、マリアと弥勒菩薩のどちらに似ているかといえば、それは前者であろう。
なお、成田の怪獣デザインは、「ダダ」「ゼットン」あるいは「チブル星人」などに、典型的な「未来派」的鋭角性が表れていると思うのだが、いかがだろうか?

二人目は、イラストレーターの「合田佐和子」
この人の場合は、『メトロポリス』や「未来派」の影響というわけではなく、単純に「モノクロ時代の映画スター」をモチーフにした作品が、初期の代表作になっているため、時代的には後先なのだが、『メトロポリス』を観ると合田佐和子を思い出してしまったということである。

(ブリギッテ・ヘルム演じる、『メトロポリス』のマリア)

(2023年7月31日)


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