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ヒトラー 『わが闘争』 : 煽動家 ヒトラー氏曰く 「馬鹿は本書に乗せられる」

書評:ヒトラー『わが闘争』(角川文庫)

本書を「反面教師とするために読むべき」という意味で高く評価するのならともかく、本書やその著者であるヒトラーを本気で賛嘆する者は、じつはその9割が、本書を読んでいない。
本書(上下巻)を最後まで読んでおれば、そしてその内容の50分の1でも理解できた日本人ならば、本書やヒトラーを賛嘆するなどという、いかにも愚かで自虐的行為など、できる道理は無いからである。
彼らは、読まずに知ったかぶりをしているだけの「厨二病」で、その証拠は、彼らが他にどんな本を読んでいるかをチェックすれば、容易に明らかになることだろう。

実際、ヒトラー自身も同じことを指摘している。
「大衆」とは、長くて難しげな論文など、初手から読もうとはしないものなのだと。

『大衆自身というものは不精なもので、古い慣習の軌道にはまって動こうとせず、そして自分が信じているものにぴったりしなかったり、自分が望んでいるものを書いてなかったりすると、自分自身からは好んで何か書かれたものに手を出さない、ということがある。だから一定の傾向をもった書物は、たいていは以前からこの傾向に属している人が読むだけである。それとともに、せいぜいパンフレットかポスターがその簡潔さによって、意見の異なる人々の場合にも注意を一瞬間ひくことを考えることができる。フィルムをも含めたあらゆる形式の像が、疑いもなくもっと大きな効果をもつのである。ここでは人間はもはや知性をはたらかす必要がない。眺めたり、せいぜいまったく短い文章を読んだりすることで満足している。それゆえ多くのものは、相当に長い文章を読むよりも、むしろ具象的な表現を受けいれる用意ができているのである。像というものは、人間に、かれが書かれたものについて、長いことかかってやっと読んだものから受けとる解明を、ずっと短時間に 一一 一撃といってもいいぐらいに 一一 与えてしまうのである。』(下巻P131)

そもそも、自伝的な理論書を書くような人間というものは、多少とも人格的に問題があるか、政治的意図や金儲け的意図を持っている人だというくらいに、慎重に捉えていい。
だから、「自伝」の内容を真に受ける人というのは、基本的に「活字オンチ」であり「ペテンに引っ掛かりやすい人」であると見て、まず間違いないのだ。

言い変えれば、本書『わが闘争』を読んで、その内容を真に受ける人というのは、創価学会の池田大作氏の自伝的小説『人間革命』を読んで、そこに書かれていることが、池田氏の「正直な考え」そのものだとか「歴史的事実」だとか考える「信者」と大差のない、いささか批評性に欠けた人、平たく言えば、知性に欠けた人なのだ、と断じてもいいだろう。

しかし、さらに興味深いことには、この手の「(妄)信者」というのは、教祖の書いた教典さえ、ろくすっぽ読みもせずに、さも読んでいるかのごとく自信満々に賛嘆したがる、という事実がある(例えば、聖書を通読していないクリスチャンは少なくない)。

実際のところ、彼らは活字に弱いのだ。活字に弱いからこそ、お粗末な教典をろくすっぽ読みもせずに、ただ人からその要約を聞かされ、その分かりやすさに、すっかり熱中してしまうような人が、実のところ大半。
本書の場合も、実際には「マンガ」や「映画」などで聞きかじった「ヒトラーとその著書」のイメージだけで、知ったかぶっているだけのレビューが少なくない。「この程度の感想文なら、読まなくても書ける」といったものが「星5つ」レビューには少なくない。
つまり、これらのレビュアーは、ヒトラーの言う「不精な大衆」なのである。

実際、ヒトラーを賛嘆したがるような「厨二病」や「ネトウヨ」的な人というのは、本書『わが闘争』を読んでいないし、その内容をよく知らないために、ヒトラーが「日本人を見下していた」という、わかりきった事実すら知らない場合が少なくない。だからこそ、「大衆」なのに、あるいは「愛国主義日本人」なのに、間抜けにもヒトラーを賛嘆したりできるのだ。

本書を読まなくても、常識として、ヒトラーの「アーリア人種至上主義」といったことくらいは知っていて然るべきだし、その意味を理解しているならば「黄色人種でありアジア人である日本人」を、ヒトラーが蔑視していたであろうくらいのことは、当たり前に推察できるはずなのだが、本書『わが闘争』を通読できもせずに、見栄をはって、知ったかぶりだけでレビューを書くような、典型的な「大衆」は、こんな初歩的な推察もできない。
普通に考えれば「鍛え上げられた戦士的肉体美を持つ、金髪碧眼のアーリア人」を「選ばれた人種」だと考えていたヒトラーが、それとは真逆に近い、いかにも「東洋人的で貧弱貧相な昭和天皇」に心からの敬意など抱いたわけもなく、ましてその臣下の土民など、せいぜい「二級人類」くらいにしか考えていなかったであろうというのは、本書を読まなくてもわかる程度の話なのだ。
だが、「厨二病」や「ネトウヨ」的な人というのは、この程度の推論すらなし得ない、まさに、知性のない「大衆」なのである。

『 もし、人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者の三種類に分けるとすれば、第一のものの代表者として、おそらくアーリア人種だけが問題となるに違いなかろう。すべての人間の創造物の基礎や周壁はかれら(※ アーリア人種)によって作られており、ただ外面的な形や色だけが、(※ 他の)個々の民族のその時々にもつ特徴によって、決定されているにすぎない。かれら(※ アーリア人種)はあらゆる(※ 他の)人類の進歩に対して、すばらしい構成素材、および設計図を提供したので、ただ完成だけが、その時々の(※ 他の)人種の存在様式に適合して遂行されたのだ。たとえば、数十年もへぬ中に、東部アジアの全部の国が、その基礎は結局、われわれの場合と同様なヘレニズム精神とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと(※ 欺瞞的に)呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式 一一 少なくとも部分的には 一一 だけがアジア的存在様式の特徴を身につけるだろう。(※ しかし)日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。実際生活の基礎は、たとえ、日本文化が 一一 内面的な区別なのだから外観ではよけいにヨーロッパ人の目にはいってくるから 一一 生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである。これらの業績に基づいてのみ、(※ 文化支持者でしかない)東洋も一般的な人類の進歩についていくことができるのだ。これらは日々のパンのための闘争の基礎を作り出し、そのための武器と道具を生み出したのであって、ただ表面的な包装だけが、徐々に日本人の存在様式に調和させられたに過ぎない。(※ つまり、日本人にオリジナリティーなど無い。自称「万邦無比の国体」など、自慰意的な寝言である)』(上巻P377〜378)

要は、明治政府の行なった欧化政策における「和魂洋才」などというのは、本質的な創造性を持たないに二級人種の「自己弁護」でしかない、というわけだ。
もちろん、こういう身も蓋もないヒトラーの指摘も基本的には当たってはいるが、しかしこの程度なら、ろくに日本を知らなくても書ける、じつに薄っぺらな「自文化中心主義の言説」でしかないのである。

実際、アーリア人種の起原である、キリスト教化以前の北方ゲルマン人が「野蛮」だったという考え方は「潜在的なものに配慮しない、浅はかな謬見だ」(下巻P35)とヒトラーは主張するが、それならどうしてヒトラーだけが、ご都合主義的に「東洋異民族の潜在力」まで、正しく評価できると言うのか。

同様に、ヒトラーの「マルクシズム批判」の中身の無さといったら、じつに見事である。
結局、言ってることは「ユダヤ人マルクスによる、労働者を誑かす陰謀だ」という、決めつけのみ。
きっと、ヒトラーは『資本論』の第1巻も読んではいないだろう。それ以外のマルクスの著作など、タイトルも知らない蓋然性がきわめて高いが、本書では臆面もなく「研究した」とか「沈潜した」みたいな、漠然とした言葉をくりかえすことで誤魔化している。

ヒトラーの「知ったかぶり」は、すべてこの調子であり、こんなものに惑わされるのは、無論、本を読まない「大衆」であり、『わが闘争』を読まないで(マンガや映画で得た知識だけで、読んだ振りをして)「ヒトラーは賢い」などと、逆張りで利口ぶるくらいしか芸のない「無知な大衆」なのだと言えよう。

ヒトラーの文章が「読みにくい」のは、翻訳が悪いためではなく、彼の(演説的)言葉が「断言と感情に訴えるだけの過剰な修飾語の羅列」でしかなく、およそ「合理的な根拠提示や論理展開が無い」からに他ならない。
なぜ、ユダヤ人だダメなのか、マルクシズムがダメなのかの、理論的分析は皆無で、あるのは決めつけによる悪口の羅列。つまり、結論が先にあって、それを根拠に新たな結論を導き出すという「空中楼閣」的な循環論法なのである。

しかし、こうした文章が、「ロジカルな文章」を読めない「大衆」には、「なんだかすごい」と感心されるのである。
こうした読者は、意味内容が読み取れない分、字面の大仰さに感心してしまう。ちょうど、ナチスの制服のカッコよさや統制のとれた行進などに「すごい」「カッコいい」と感心してしまうのと同じである。そこでは、もはや「知的能力」は無用なのだ。

『 われわれの両キリスト教会(※ カトリックとプロテスタント)が、望んでもいないし、わかりもしない黒人に(※ キリスト教を)宣教して(※ 知的)重荷を負わせるかわりに、わがヨーロッパの人々に、健康でない両親の場合に、病弱で自分自身もまた他の世間の人々にも、ただ不幸と苦しみをもたらすにすぎない子供(※ つまり、知的および身体的障害を持つ子供)を生むよりは、健康で貧しい小さい(※ アーリア人の)孤児をあわれんで、父母を与えることのほうが神の意にかなう仕事であるということを、親切に、だが真剣に教えたほうが、はるかにこの世の最も尊い意味にかなうだろう。』(下巻49P)

両教会は黒人宣教などする必要はない、とか言っているが、そもそもイエス・キリストが「ユダヤ人」であることには一言半句も触れないのが、ヒトラーのやり方である。
無論、ここに語られた人種差別意識は、前述のとおり「黄色人種」に対しても、多かれ少なかれ向けられているものであるのは言うまでもなかろう。
つまり、日本人とアメリカ人なら、日本人を死なせれば良い、ということだ。本当はヒトラーも、日本人なんかより、アメリカ人と組みたかったのである。

「ヒトラーの教育学習論」(下巻P70〜)も、また同じ。
その趣旨は「詰め込み教育は無駄で、大人になったら役に立たなくて、忘れてしまうようなものは教える必要はない。まずは本質的なことだけを精選して教えなければならない」という趣旨のものだが、これは、何が「本質的なこと」なのかを「自分はわかっている」という無根拠な慢心と、情報の制限による「政治的な洗脳」を意図した、歪んだ教育学習論でしかない。

言うまでもなく、人にとって「大切なもの」は、どこに伏在しているかわからない。ヒトラーの言う「民族の問題」や「世界史的な使命」などよりも大切なことが、人それぞれにあるのである。
だから子供のうちは、薄く広く勉強させて、個々にとっての「本質的なもの」の発見を援助する。それが基礎的な教育の意味のなのだ。

ともあれ、馬鹿みたいに「勇ましい自己形容」と、それと好対照な「口汚い他者形容」に、ヒトラーの歪んだ性格が、端的に表れている。
「私は崇高で勇気があり決断力に富んでいるが、やつらは卑怯で下劣なルンペン野郎だ」なんてことを、ろくな根拠も示さずに平気で言えるというのは、頭が半分おかしいところに、こんな調子の文章に乗せられる馬鹿な「大衆」だけを意識して書いているからに他ならない。

要は、「深い内容」や「品位のある文体」などは、文章の読めない「大衆」には無益であるとヒトラーは考えているし、事実、本書にも露骨にそう書いてあるのだが、長文を読めない人、読んでないのに読んだフリをしている人は、安直な逆張りによって、自分を見下しているヒトラーを、愚かにも賛嘆してしまうのである。

したがって、ろくに読みもしないで、ヒトラーやその著書である本書を絶賛するような知的不具者は「断種にすべきである」というのが、ヒトラーの偽らざる意見なのだ。

初出:2020年6月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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