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ティモシー・ウェア 『正教会入門』 : 信仰者の 建前と本音

書評:ティモシー・ウェア『正教会入門』(新教出版社)

一言でいえば「護教書」である。
護教書とは「この教えは、絶対に正しい。合理的な根拠など示せないし、そんなものは無いけれども、とにかくこの教えが正しいというのが真実なのだから、正しいのである。したがって、この信仰は素晴らしい」という趣旨の事が書かれた「信仰的」書物のことである。

だから、同じ信仰を持っている信者は、この本を無条件に絶賛する。
とにかく「自分が信じたいものとしての、自分の信仰」を、絶対的に肯定して絶賛してくれるのだから、こんなに嬉しいことはないからだ。

しかし、本書を読んで「正教会の信仰」を「理解したい」という読者には、本書は完全な失望しか与えない。
とにかく「我々はこんなにすごい。それに比べれば、よその教派はこんなにダメだ」という「自慢話」が延々と連ねられているだけで、その自慢する事実の「客観的根拠」は、まったく示されていないからだ。「ああ、そういうお話なのですね」とでも応ずるしかない、独り善がりに終始するだけの「仲人口本」なのである。

ともあれ「本人をして語らしめよ」。
本書の性格を、端的に示す部分を紹介しよう。

『(※正教会の神学者)ホミャコフは他のキリスト教徒への正教徒の態度を描写するにあたって、ある手紙で一つの寓話を用いている。師は三人の弟子に教えを残して去って行った。最も年長の弟子は何も変えることなく、師が語ったことを忠実に繰り返した。ほかの二人のうち一人は教えに付け加えをし、もう一人は教えから離れた。師は帰ってきて、誰も怒ることなく二人の年少の弟子に語った。「年長の弟子に感謝しなさい。彼なしにあなたたちは私が手渡した真理を保有できなかったであろう」。そして年長の兄弟には「年少の弟子に感謝しなさい。彼らなしにはあなたは私が委ねた真理を理解できなかったであろうから」。
 正教徒はまったく謙虚に自らを年長の兄弟の位置にあると見なす。』(P375〜376)

なかなかの「臆面のなさ」ではないだろうか。
もちろん、二人の年少の兄弟に擬せられているのは「カトリックとプロテスタント」である。

この文章のスゴイところは、これが最終章である第16章「正教会と他のキリスト教会との再合同」の、いちばん最後の「相互に学ぶこと」と題された節に書かれたものである点だ。
つまり、ここまでに何度も「正教会と他のキリスト教会との再合同」の必要性とその重要性を、良識派ぶって、もっともらしく繰り返しつつも、著者であるティモシー・ウェアの「本音はコレだった」という話なのだ。

私自身は、カトリックでもプロテスタントでもなく、クリスチャンですらなく、信仰者ですらない無神論者だ。しかし、これを読んだら、さすがに「カトリックやプロテスタントに失礼だろう」という義憤にかられざるを得ない。
もちろん、本書に、正教徒であるウェアがここまでカトリックやプロテスタントを見下すだけの「合理的な根拠」が明示されているのであれば、それを正当な自己評価であると追認しないでもない。しかし、そんなものは、まったく示されてはいない。あるのは「正教会側の一方的な決めつけ」でしかないのだ。

上の引用部分に続いて、著者は現代キリスト教界における正教会の役割を、次のように語る。

『彼ら(※東欧の正教徒)は神の恩寵によって真の信仰をそこなわず「なにも付け加えられず、なにも取り去られていない」ものとして保存することができると信じている。彼らは古代教会、使徒と教父の伝統との生きた連続性を主張し、分裂し迷走するキリスト教において、不変でありながら常に若々しく生き生きとした連続した伝統を示すことが自らの義務だと考えている。今日、西方(※西欧世界)ではカトリックとプロテスタントにおいて「十六世紀の(※スコラ神学の)結晶と化石」から自らを解放し「宗教改革と中世の背後に回りたい」と試みる(※反近代的に回帰主義的な)人々が多くいる。また聖書の基本的な教えを(※例えば、イエスの肉体を伴った復活などの教義を、近代的な学問的厳格さにおいて)すべて疑う極端な進歩主義に反対し、それでもなお(※「この世界は、きっちり一週間で創造された」と主張する類いの)厳格な(※キリスト教)原理主義を避ける確固とした教義の立場を再発見したいと思っている多くの(※反近代的に回帰主義的な)西方キリスト教徒がいる。まさにそこが正教会が(※お互いに学びあうための)役割を果たすべき場である。正教会は西方キリスト教が過去八百年にわたって揺れ動いた観念的な堂々巡りの外にいる。すなわち、正教はスコラ革命も宗教改革も反宗教改革も経ておらず、今日多くの(※しかし、一部の反近代的に回帰主義的な)西方の人々が再発見しようとしている教父の古い伝統のもとで生きている。したがってこれこそ正教のエキュメニカル(※全キリスト教会的)な役割である。西方ラテン(※カトリック)、中世(※スコラ哲学)、宗教改革(※プロテスタント)で受容された定式に疑問を投げかけることである。同時に正教会は聖書の外面的な文字のみではなく、何世紀にもわたり教会によって聖書が体験され生きられてきた(※歴史的に形成された、伝統的あるいは神秘主義的)方法に依拠して、原理主義的な進歩主義(※「キリスト教も進歩発展する」という立場)と極端な進歩派の半不可知論(※「神は、この世では知り得ない」と断じて、正教会の認める神との対面としての、人間の「神化」を否定する、西方キリスト教的立場)との間の道を提供することができる。』(P376)

要は、ながらく西欧近代の「哲学的伝統」や「近代的合理主義」や「科学的思考」を知らず、東欧世界で「土着的で神秘主義的な形態を温存してきた」正教会という化石的存在が、社会主義国家陣営の崩壊によって西方から再発見され、にわかに脚光を浴びたことに浮かれて「我こそは、キリスト教信仰本来の形式であるから、西欧キリスト教界は、近代的理性の迷妄など棄てて、我々に学べ。我々も君たちの迷妄を知ることによって、我々の信仰の本領を再確認することが出来るのだから、お互い、実にありがたいことである」と言っているのである。
そしてこれが、著者ティモシー・ウェアの言う「相互に学ぶこと」なのだ。

そうとう図太い神経がなければ、とうてい人前には出せない「自己中の極み」のような文章だが、同じ正教徒である翻訳者には、そのことに気づけないようなのだから、まことに信仰は怖い。

『 本書は、この(※正教会の荘厳華麗な儀式の中に、神の臨在を実感するという)感覚に捕まって離れられなくなってしまった(※正教会信者の)人々に、その体験がどのような体験なのか、その体験が伝え続けてきた正教会がどのような教会なのかについてバランスのよい的確な全体像を示してくれる。』(松島雄一「監訳者あとがき」P393)

ここまでこのレビューを読んできた、非正教徒の読者には、ティモシー・ウェアに『バランスのよい的確な全体像を示』すことなど出来ないことは、容易に理解できるだろう。
『バランスのよい的確な』という形容は、あくまでも「正教徒にとって」という、限定的で主観的な条件付きでしかない。なにしろ「正教会の護教書」なのだから、仕方がない。

『 本書は正教の信仰に立つ者が執筆し、翻訳したものである。そこで語られるのは、西方の文化と信仰のうちに生まれ、そこで育てられ、その最良の知的伝統を身につけた第一級の教養人が、その行き詰まりと過誤を知るにいたり、ついに正教に転じた上で語る正教である。ウェアは「使徒と教父たちの教会との破られざる連続性を、そこに完全な形で見出し得るのは正教会のみであると自分は確信する」と明言する(「『奇妙な、でも懐かしい』正教会への私の旅」)。著者は西方の東方への「誤解」も「思い入れ」もまた「魂胆」も、すべて手の内に知っている。また確実な知識を欠いた東方からの乱暴な西方批判の独善と弱点も心得ている。そこから生まれた実にバランスの良い展望は、こころみに東西分裂、とりわけフィリオクェ論争について詳述する第3章と第11章の「三つの位格における一つの本性」の項を読み返せば理解いただけるだろう。』(前同P394)

はっきり言って「陳腐な、著者よいしょストーリー」である。
立場を変えて言えば、本書は「半端者の転向教養人による、転向後の忠誠誓約書」みたいなものだと評しても、決して過言ではない。

たしかに、著者のウェアは「良い大学を卒業」して、正教で「出世した」人である。そんな「学歴や肩書き」を、同信の仲間として自慢するのも結構だが、その「正教徒のなかでも有数の教養人」としてご立派なはずの著者が、この程度なのでは「あとも推して知るべし」と皮肉られても仕方あるまい。
公刊書の読者は、著者や翻訳者の「一方的な言い分」を鵜呑みにするほど「思考停止」した者ばかりではないのだと知るべきである。「世間(読書界)」は、そう甘くないのだ。

ついでに言っておけば、カトリック神学やプロテスタント神学を齧った「非信仰者」にとっては、「フィリオクェ論争」など、信仰の本質からは縁遠い「キリスト教村内でしか意味を為さない、スコラ的瑣末論争」でしかない。
だが、ここだけは(カトリックに対して)確実に正教の側に分のある話だから、本書でもここが強調されているのである。

止めに、著者ウェアの「物の考え方」をよく示した部分を引用しておこう。
本書は、このような「信用ならない著者」によって書かれたものなのである。

『(※正教会も依拠する、賛仰すべき)教父たちも時として、首をかしげざるを得ない方法で自説を押し通そうとした。例えばアレキサンドリアのキュリロスはネストリオスとの戦い(※教義論争)において宮廷に大量の賄賂を送り、修道士から成る私兵に(※公会議の行われる)エフェソスの街を占拠させた。しかし、キュリロスが強引な手段に訴えたとしても、それは正しい主張が勝つべきだという彼の圧倒的な熱意によるものである。キリスト教徒が時として苛烈であるのは、信仰の歪曲に強い危機感を持っているからである。おそらく混乱は無関心よりはましだろう。正教会は公会議が不完全な人間によって開かれたことを認めるが、不完全な人間は聖神(※聖霊、三位一体の神の位格の一つ)に導かれたとも信じている。』(P50〜51)

信仰者とは、斯くも度しがたい「自己中の独善家」である。
本書の著者ティモシー・ウェアもまた、信仰の真理のためならば、暴力も嘘も恥じないだろう。

初出:2018年1月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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