年間読書人

その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学全般」「宗教」「映…

年間読書人

その名のとおり、読書が趣味で、守備範囲はかなり広範ですが、主に「文学全般」「宗教」「映画」「アニメ」に関連するところ。昔から論争家で、書く文章は、いまどき流行らない、忌憚のない批評文が多い。要は、本音主義でおべんちゃらが大嫌い。ただし論理的です。だからタチが悪いとも言われる。

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  • 「エンタメ(マンガ・アニメ・映画など)」作品のレビュー

    広く「マンガ」「アニメ」「映画」など、エンタメ作品関係のレビューを紹介します。後日整理の予定。

  • 「ミステリ・SFなど(純文学系以外)」関連書のレビュー

    もとより文学におけるジャンル分けは恣意的なものとならざるを得ないが、ここでは「娯楽性」に主眼を置いた、小説やマンガ、映画などの作品を扱ったレビューを紹介します。

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〈宇山秀雄殺し〉の 謎を解く : 『宇山日出臣 追悼文集』の密室

書評:太田克史編『新本格ミステリはどのようにして生まれてきたのか? 編集者宇山日出臣追悼文集』(星海社) エディターネーム「宇山日出臣」、本名「宇山秀雄」が、「新本格ミステリの仕掛け人」などと呼ばれた名編集者であることについて、ここであらためて説明する必要などないだろう。本書を購読したり、ネットで本書の内容を確認したりするほどの人なら、宇山についてそれなりの予備知識を、あらかじめ持っているはずだからだ。 本書は内容は、次のとおり。 (1)序文(太田克史) (2)編集者・

    • フランソワ・トリュフォー監督 『ピアニストを撃て』 &『あこがれ』 : トリュフォーの「嘘と真」

      映画評:フランソワ・トリュフォー監督『ピアニストを撃て』&『あこがれ』(1960年・1958年、フランス映画) フランソワ・トリュフォーという作家の特質が、かなりハッキリと見えてきた。本稿では、それをご紹介しよう。 本稿も、一応はいつものパターンで「映画評」としており、もちろんここでも『ピアニストを撃て』と『あこがれ』の2作を論評しはするのだけれども、本稿の目的は、「作家主義」という建前における作者であるフランソワ・トリュフォーという「作家」を論じることにある。つまり、本稿

      • 柴 『おおきなのっぽの、』 Vol.2 : 「おじいちゃん目線」による「孫娘の可愛らしさ」

        書評:柴『おおきなのっぽの、』Vol.2(ワイドKC・シリウスコミックス) 本作は、全2巻完結の「連作四コマ漫画」作品で、本稿で扱うのは、その第2巻だ。 私は、すでに第1巻のレビューを書いており、そちらでこの作品なり作者なりについての紹介は済ませているので、ここではそうした基本的な紹介は省いて、まったく違った角度から、本作について語りたいと思う。 言わば「応用編」だと、そう思っていただければ幸いである。 本作『おおきなのっぽの、』は、大筋では「背の高い小学生女子」のお話

        • ジョン・カーペンター監督 『マウス・オブ・マッドネス』 : 地上に堕ちた「狂気」

          映画評:ジョン・カーペンター監督『マウス・オブ・マッドネス』(1994年・アメリカ映画) 気になりながらも、ずっと見る機会のなかった作品のひとつである。 このところ、「ヌーヴェル・ヴァーグ」関係のお勉強で、正統派の古典映画ばかり見てきたから、たまにこういうのを見ないと「頭がおかしくなってしまいそうだ」と、本作を見ることにした。 本作が気になっていた理由は、主に次の二つ。 (1)については、とにかく私は『遊星からの物体X』が好きなのだ。 クローズド・サークルのメンバーの

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          植草甚一 『映画はどんどん新しくなってゆく』 : 世論もどんどん変わってゆく

          書評:植草甚一『映画はどんどん新しくなってゆく』(植草甚一スクラップ・ブック16、晶文社) 植草甚一の本を読むのは、これが初めてだ。もちろん、植草という人は知っていた。なぜなら、彼はもともと「ミステリ(小説)」畑の人であり、私のもともとの守備範囲も「ミステリ」だからである。 植草甚一の代表的著作は、日本推理作家協会賞の受賞作であるエッセイ集『ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう』であり、文庫化もされている。 私の場合は、「ミステリ」の中でも、いわゆる「本格ミステリ」というコ

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          黒澤明監督 『野良犬』 : もっと注目されて然るべき、リアリズム映画の傑作

          映画評:黒澤明監督『野良犬』(1949年・モノクロ映画) 私の場合、つい最近まで、特に熱心に「映画」を見てきたわけではなかったし、だから、黒澤明についても特に興味はなかった。 それが一昨年、ジャン=リュック・ゴダールの映画を見て「なんだこりゃ?」と思ったことから、ここ2年、内外の古典的な作品まで含めて、意識的に映画を見るようになった。それで、黒澤明についても、いわゆる「代表作」とされるような作品から順に見ているわけなのだが、そうした映画の素人であり、黒澤ファンでもない私の耳

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          コマツシンヤ 『8月のソーダ水』 : 頭のなかに収められた「旅のアルバム」

          書評:コマツシンヤ『8月のソーダ水』(太田出版) 私はコマツシンヤのファンである。だから、コマツの本は、絵本を含めてほとんど読んでいるのだが、その中で最も好きなのが、本書『8月のソーダ水』だ。 本書は、2013年の刊行で、その初刊時にたまたま書店で見かけ、表紙画に惹かれて買ったのだが、その内容は期待をはるかに上回るものであった。 それに本書はフルカラーなのだ。 ソーダ水を思わせる「水色」を基調した画面が本書いっぱいに展開しており、それでいて決して絵面が単調にならないとこ

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          アルフレッド・ヒッチコック監督 『ロープ』 : 「現場視点」の快楽と陥穽

          映画評:アルフレッド・ヒッチコック監督『ロープ』(1948年・アメリカ映画) 本作『ロープ』は極めて特徴的な作品である。 そのため、通り一遍の紹介や評価で良いのなら、その特徴を挙げて誉めるだけでいいのだから、これほど容易いことはない。まただからこそ、それ以上のことを言おうとすれば、それなりの見識が必要ともなる。 その意味で本作は、「評者の試される作品」だと言っても良かろう。 本作の「基本的な性格」は、「Wikipedia」の紹介文冒頭の、次の一文に尽きる。 この紹介文は

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          レーモン・クノー 『きびしい冬』 : ゴダールとの接点としての 「形式主義的抽象性」

          書評:レーモン・クノー『きびしい冬』(レーモン・クノー・コレクション4、水声社) レーモン・クノーについては、これまで何度かその名を見かけはしたものの、興味を持つには至らなかった。 昔『地下鉄のザジ』(1959年)を買ったことはあるのだが、これはクノーの作品だからではなく、映画(1960年、ルイ・マル監督)にもなった有名な「児童文学」のようだ、ということで買っただけ。私は子供が好きなので、単純に「これは面白そうだ」と(文庫本だし)買ったのである。 ところが、例によってこれ

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          ロベルト・ロッセリーニ監督 『無防備都市』 : ヌーヴェル・ヴァーグとリアリズム

          映画評:ロベルト・ロッセリーニ監督『無防備都市』(1945年・イタリア映画) ロベルト・ロッセリーニは、イタリア映画界における「ネオリアリズモ」運動の先駆的な存在であり、のちのフランスにおける「ヌーヴェル・ヴァーグ」に多大な影響を与えた人物である。 言い換えれば、ロッセリーニが、日本においてすら有名なのは、もっぱら「ヌーヴェル・ヴァーグの父(の一人)として」という側面が大きい。 のちの「ヌーヴェル・ヴァーグ」旋風を準備した映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌の初代編集長に

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          蓮實重彦 『表層批評宣言』 : 「わかった」という罠から逃れよ。

          書評:蓮實重彦『表層批評宣言』(ちくま文庫) いよいよ、蓮實重彦に対する評価を改めなければならない時が来た。私は、蓮實に対する評価を誤っていた。 どう誤っていたのかと言うと、とにかく「賢いけど、嫌味な奴」だから「大嫌いだ」とそう評価してきたのだ。要は、その「性格」と言うか「人柄」と言うか、そこの部分に対する強い「悪印象」が抜きがたくあって、蓮實の「頭の良さ」や「書いていること(主張)」は否定しないけれど、とにかく「嫌な奴だから嫌いだ」ということだったのである。 だから、先

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          小津安二郎監督 『お茶漬けの味』 : 小津的「理想の男性像」

          映画評:小津安二郎監督『お茶漬けの味』(1952年・モノクロ映画) 本作『お茶漬けの味』は、小津の「中国戦線」からの帰還後第1作として、戦中に企画されながら、それが挫折した結果、約20年後、「戦後」になってから、「設定」を同時代用に大きく書き換えて作った作品である。 こうした経緯については、『戸田家の兄妹』(1941年)のレビューにも書いたとおりだが、本作『お茶漬けの味』が、いささか「物足りない作品」になってしまったのも、このようにして一度「時期を逸した」せいでもあろう。

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          藤本タツキ 短編集 『17−21』 『22−26』 : 作家自身のキャラクターのユニークさ

          書評:藤本タツキ短編集『17−21』『22−26』(ジャンプコミックス・集英社) 「書評」としているが、実際には「書評」ではなく「作家論」になるだろう。つまり、作品を論ずるのではなく、作家を論ずるための材料として作品にも言及するというとだけで、作品の評価が目的ではない。 さらに言えば、正確には「作家論」ではなく「人物分析」ということにもなるだろう。つまり、「作家的特性」を分析的に論じたいのではなく、端的に「この人はこういう人なのではないか」ということを作品を通して論じたいの

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          オーソン・ウェルズ監督 『偉大なるアンバーソン家の人々』 : 描き変えられた「自画像」

          映画評:オーソン・ウェルズ監督『偉大なるアンバーソン家の人々』(1942年・アメリカ映画) あの映画史的名作『市民ケーン』に次ぐ、オーソン・ウェルズの監督第2作目だが、なにかとうまくいかなかった作品のようだ。 「Wikipedia」によれば、制作費が「約1,125,000ドル」なのに対し、興行収益が「約820,000ドル」ということで、大赤字。しかしながら、この責任が誰にあるかは微妙なところなのである。 先日読んだ、アンドレ・バザンの『映画とは何か』の、岩波文庫版「訳者

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          フィリップ・K・ディック 『火星のタイム・スリップ』 : 醒め得ない悪夢としての読者たち

          書評:フィリップ・K・ディック『火星のタイム・スリップ』(ハヤカワ文庫) 1964年発表の、ディック中期の長編である。 『火星のタイム・スリップ』などという邦題だから、火星まるごとタイム・スリップするような、壮大な作品かと勘違いされるかもしれないが、本作もまた良くも悪くもディックらしく、そういうタイプの物語ではない。原題は『MERTIAN TIME-SLIP』で、直訳すれば「火星人のタイム・スリップ」となり、タイム・スリップするのは「火星人」である。 ただし、「火星人」と

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          チャールズ・チャップリン 『キッド』 : 素朴なヒューマンコメディ

          映画評:チャールズ・チャップリン『キッド』(1921年・アメリカ映画) チャップリンの初長編作品である。無論、モノクロ・サイレント。 本稿のタイトルを、いつものように「○○監督『×××』」という具合に、「監督」を付けなかったのは、チャップリン作品の場合、監督・脚本・主演のすべてをチャップリン自身がやるのは当たり前のようなので、ただ「監督」とだけ付けるのに違和感があったからだ。つまりチャップリンの作品は、チャップリン作品以外の何物でもないと、私にはそう思えたためである。

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