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「表象文化論」とは何か? : 蓮實重彦、松浦寿輝、、、北村紗衣…

「表象文化論」という言葉を、ご存知だろうか。
若い人なら知っているかもしれないが、高齢者はあまり知らないと思う。なぜなら、この「学問ジャンル」は、かなり新しいものだからだ。

かなり新しいと言っても、「日本で1987年に作られたもの(概念)」だから、おおよそ40年近くにはなっており、その意味で、若い人には「当たり前にある」学問の一種だと感じられているのではないかと思うし、高齢者からすれば、これは「つい、最近のこと」にすぎない、ということにもなる。

それにしても、私がこの「学術ジャンル」の存在を初めて知ったのは、ごく最近のことだ。

「学問そのもの」については興味があっても、「大学」の学部構成がどうなっているかなんてことにはまったく興味がなかったから、「表象文化論」科などというものが、いつのまに「大学の中で」生まれたのかなんてことは、とんと関知しなかったのだ。

私がその「名称」に聞き及んだのは、おおよそ2年ほど前のことでしかない。
2年ほど前に、初めてジャン=リュック・ゴダールの映画を見て「何だ、こりゃ?」と思ってゴダールに興味を持ち、「映画」というジャンルに興味を持った。
そしてゴダールを知るためには、文芸評論家としては知っていた蓮實重彦が詳しいらしいということで、蓮實重彦の映画関係の著作を読み始めた。そこで、蓮實が大学で「映画」を講じており、受講生の中から、黒沢清など、いく人かの映画監督も生まれているというのを知った。
で、その蓮實が「映画」を講じていた学科というのが、当たり前に「映画学科」ではなく、この「表象文化論」と言うらしいと、そこで初めて、この名称を知ったのである。

さて、その際私は、この名称を見て「なんで、映画学科ではないのか?」と思ったのだが、考えてみれば、そんな名称では、身もふたもなければ、ありがたみもない。
要は、子供が大学に行くときに、親に「映画学科へ行きたい」などと言ったら、古い親は「映画監督になるわけでもなし、そんなもの大学に行ってまで勉強することじゃない」と却下してしまうだろう。それでは困る。
だが、それを「表象文化論」だと言い換えておけば、古い親だって「何やら難しそうな学問だな」と、その正体がわからないまま、それでも「学問には違いあるまい」と思ってくれる。つまり「趣味」や「遊び」の延長ではなさそうだと、そのように「勘違い」してくれるので好都合だと、それで、こういう「正体不明」な名称にしたのではないだろうか、実際のところ…。

もちろん、「表象文化論」という名称は、まったくデタラメにつけられたわけではなく、それなりの理屈なり大義名分はあっただろう。
たとえば、蓮實重彦は、自身の批評の方法論として、「表層批評」ということを主張した。
これは、それまでの学術的な、あるいはそれに影響を受けた通俗的な「物の見方」としての「批評」における方法論が、その方法論を無自覚に「制度化」して、その「色眼鏡的な視覚」から、対象の「意味」を読み込もうとする「制度的な偏見」に捉われていたので、蓮實自身は、あくまでも、そうした「制度」性に抗って、虚心に対象の「表層」を読み取ることに専念したのである。「表層の奥にある真理としての意味」ではなく、現に目の前にあるものとしての「表層」を読み解くことに専念した。一一というのが、蓮實重彦の「方法論」の「自己解説」であり、そうであるべきだという「主張」であり、「自家宣伝」でもあったわけだ。

だがそれも、私から見ると「ひとつの方法論」でしかなく、すでにして新たな「制度」であり「拘束としての方法論」の一種であると感じられたので、蓮實重彦の言うことを、あまり真に受けてはいけないという意味で、下の「蓮實重彦論」を書いたりしたのだ。

しかし、本稿では、蓮實重彦の「表層批評」が、自家宣伝するほど、独自性のあるものか否かは問題にしない。

問題なのは、「表象文化論」という名称における「表象」とは、蓮實重彦が語った「表層」と、ほとんど同じだという点である。
すなわち、「表象」とは「表にあらわれた形象」であり、「表層」とは「表象があらわれる場」のことで、両者共に、「表面」重視という点において、同様の立場なのだ。

で、蓮實重彦が大学で「映画」を講じることになった際、当初は「映画表現論」という、穏当な名称だったのに、後にそれが「表象文化論」というような、わかりにくいものに変更されて、守備範囲を広げたのは、何故なのだろうか?
たぶん、学部経営をする大学側の都合として、「映画論科」というような率直かつ限定的な名称よりも、いかにも「学問らしい抽象的な名称」の方が、好都合だったからではないか。
だから、蓮實重彦の「表層批評」に、学術用語である「表象」を掛け合わせて、それを広く「文化論」としてしまえば、狭く融通のきかない専門学科にはならないし、かつ聞こえも良いということで、何やら実態のよく窺うことのできない「表象文化論」という、オシャレな「学術用語」を捻り出したのではないだろうか。

実際、蓮實重彦の「年譜」を見ると、

『1970年4月、東京大学教養学部講師に就任。立教大学一般教育部非常勤講師を併任して「映画表現論」を講義。』

『1975年 - 東京大学教養学部で映画論ゼミを開講。』

『1979年には1月『蓮實重彦の映画の神話学』、2月『映像の詩学』、5月『シネマの記憶装置』、6月には山田宏一と共訳したフランソワ・トリュフォー『映画の夢 夢の批評』、10月『「私小説」を読む』、11月『表層批評宣言』、12月にも山田と共訳したトリュフォー著『わが人生 わが映画』を刊行。』

『1985年、『表層批評宣言』刊行。9月、『話の特集』での連載をまとめたもので、単行本全体がワンセンテンスから成る『シネマの煽動装置』を刊行。
1988年、東京大学教養学部教授になる。』

(Wikipedia「蓮實重彦」より抜書き)

ということで、それまで当たり前に「映画論」としてきたものが、1980年代半ばになって、そこに「表層批評」という独自性が前面に出てくる。

つまりこの段階で、それまでの、「映画の内容やテーマ」を論じる「意味論」的な、あるいは「文芸批評」的な「映画論」ではない、「新しい映画論」を、意図的に立ち上げたようにみえる。
曰く、「映画は、あくまでも映像表現であり、奥行きのない表層だ」といったことが強調されて、「映像表現論」としての「新しい映画評論」というものがアピールされたのだ。
そしてそれが、批評の世界で注目を集めたのが、1980年代半ばだったのである。

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ところで、私が最近、「スラッパーさえ坊」などとニックネームまでつけて可愛がっている、「武蔵大学の教授」で「映画評論」なども書く、北村紗衣という、わりと若い先生がいる。

この「スラッパーさえ坊」は、評論家の与那覇潤から「フェアネスを欠いた、お子様学者」だなどと、きわめて厳しく批判されてはいるものの、それでも「表象文化論学会」に所属して『理事や企画委員長を歴任』(wiki)したくらい、見かけによらず、すごく偉い先生なのだそうだ。

まあ、それは別にして、私がとても興味深いと思ったのは、この「さえ坊」もよくすなる「表象文化論」という学問ジャンルが生まれたのが、「1987年」だという事実である。
さえ坊が、まだ4歳の可愛い盛りで、むかし治安維持法で警察に捕まったという、自慢のお祖父ちゃんも、きっとその頃は、さえ坊を可愛がったことだろう。一一まあ、それはよろしい(と、これは蓮實重彦風)。

表象文化論(ひょうしょうぶんかろん、 Studies of Culture and Representation)とは、「表象」(英: Representation、仏: Représentation)として現れる文化事象を、分析し、考察する学際的な学問の一分野である。日本においては東京大学が1987年に教養学部教養学科に表象文化論分科を設置したのが始まりである。比較的新しい学問領域である。

(Wikipedia「表象文化論」)』

つまり、「表象文化論」というのが「日本で生まれた」のは、蓮實重彦が東大の先生をやりながら『表層批評宣言』を刊行した2年後であり、「教養学部の教授」になる前年に当たるのだ。当然、この新学問と蓮實重彦に、因縁のなかろうはずがない(ちなみに、東大総長は、1997年4月から4年間)。

なお、前記の北村紗衣が所属する「表象文化論学会」の設立は、それから少し遅れて「2006年」となるが、「1987年」に立ち上げられた「学問ジャンル」が、20年を経て、「学会」を作れるほどに広まったというのが、素早いことなのか、意外にのんびりしたことなのか、そのあたりの見当は、私にはつきかねる。
ただ、東大に始まったものが、20年を経て、日本各地の大学に広がってゆき、それで「学会」が形成できるほどに成長した、というのは間違いない事実であり、だから、「表象文化論」と「東大」と、東大総長にもなった「蓮實重彦」とは、切っても切れない関係にある、というのは、まず間違いない。
事実、「表象文化論学会」の事務局は、現在も『東京大学大学院 総合文化研究科 表象文化論研究室内』に置かれているし、この学会の「初代会長」(2006〜2009年)は、「東大教授」であった、松浦寿輝なのである。

松浦寿輝が、詩人から出発して、芥川賞も受賞した、いまや大御所小説家であるというのは、よく知られるところだが、同時に松浦は、映画ファンであり、ジャン=リュック・ゴダールのファンであり、まんま『ゴダール』というタイトルの著作の他、映画関連の著作のあることも、知る人ぞ知るところであろう。
その松浦が「東大」で勤務していたのは、「1991年〜2012年」まで、ということになって、蓮實重彦の「東大総長」時代とも重なるのだ。

つまり、「表象文化」などと言うと、なにやら難しげに聞こえるが、その実態は「映画をはじめとした、あらゆる文化芸術作品」というほどのものと考えて、大筋で間違いはないはずだ。要は「映画プラスα」

そして、「表象文化論」が、単なる「映画論」でも「美術絵画論」「舞台芸術論」「小説論」「哲学論」などと違うのは、いや「違うとされる」のは、その分析方法論が「表象」にこだわる、という点だということになろう。
つまり、「表層批評」的な立場で、そうした多岐にわたる「あらゆる文化芸術作品(なり事象なり)」を扱うのが「表象文化論」だということになるのだ。

で、「表象文化論」の「一般的な定義」や「自己規定」を見てみると、次のようになる。

概要
「表象」representationという語は、人間が世界をイメージし、その行為を通じて表現されたものを指す。「表象」に関する詳細はそちらの記事を参照されたい。代表的な例としては、視覚に表現される絵画や写真、あるいは視覚のほか聴覚や時間の感覚にも関わる映画、あるいは触覚や立体的な空間認識が関わる彫刻、あるいは文字という別の媒体を通してイメージに接続する文学(文字表現)、さらには内部に入り込むことで全ての感覚に関わる建築など、人間のつくり出す様々なものが関わっている。「表象文化論」の研究においては、「表象」という観点から、人間への理解を深めるものである。
表象文化論学会においては、次のように説明される。

〈「表象」という概念は、哲学においては「再現=代行」であり、演劇では「舞台化=演出」、政治的には「代表制」を意味しています。表象文化論学会は、この「表象」という概念を、さまざまな文化的次元の関係性の核を表わすキー・コンセプトとし、文化的事象を孤立した静的対象として扱うのではなく、それが生産され流通し消費される関係性の空間、すなわち、諸力の交錯する政治的でダイナミックな「行為」の空間の生成と構造を考察しようとするものです。
— 表象文化論学会、表象文化論学会「表象文化論学会について」〉』

(※ Wikipedia「表象文化論」より。
 文中の段落おとしで表記された引用文部分は、ここでは〈〉で括った)

いかにも「学問」ですと言いたげな「自家説明」だが、平たく言えば、「映画をはじめとした、あらゆる文化芸術作品」を「その表象に着目」して「これまでとは違い、ジャンル越境的に、各種の先行学問や方法論を駆使して、動的に捉えていく学問」である、というほどのことである。

(「表象文化論学会」の雑誌『表象』)

言い換えれば、これまでの「学問」というのは、自覚的に「研究対象を限定」し、「研究方法を定め」、それによって研究対象を「定点観測」的に研究してきた。

だから、「地味で退屈」だったのだ。

だが、そんな「旧弊な学問形式」では、「少子高齢化」の進む今の日本においては、学生を集めることはできない。
それに、2000年頃から始まった「大学改革」では、大学も「自力でしっかり稼げ」というような、政治圧力なんてものもあったから、ウェルカムな大学作りが否応なく推進されもしたのだろう。

したがって、旧来の堅苦しい学問形式の縛りは捨てて、「広く文化芸術作品等についてなら、何を研究してもありですよ。その分析研究の方法論も、何でもありですよ」というのが、今どきの学問である「表象文化論」の「本質」なのではないだろうか。

これまでの「学問」のように、明確かつ「固有の方法論」を持っているわけではなく、「何でもあり」だという点が「新しい」し、その点が「表象文化論」の唯一の「独自性」だということである。

では、これまでの「学問」には、どうして「表象文化論のような自由さ」がなかったのだろうか?

それは無論、それまでの学問が「学問とは、科学的な探究であらねばならない」といった、近代主義的な考えを基本としてきたからであろう。
明確な方法論に従って、厳密に観察し、そして思考するのが学問であり、「思いつき」をあれこれ並べ立てるのが学問ではないと、そう大真面目に考えていたから、どうしても「堅苦しい」ものにならざるを得なかったのではないか。

だが、そういうのは、今や「流行らない」。
そんなのでは「学生が集まらないから、商売もあがったりだ。だから、そうではなく、学生が、面白そうだということをやらなければならない。それを学問の形式に落とし込んで、ニーズに応じて提供しなければならない」というようなことではなかったか。

「そんなものは、学問ではない」などと、大真面目に、その学問的な厳密さや固有の形式などこだわっていたら、商売があがったりだ。
そうした本来の学問的探究というのは、それを突き詰めるに才能のある一部の学者が個々に進めれば良いことであって、一般の学生にまで求めるものではない。そもそも、学生たちはそんなものを求めていないのだから、それを無理強いしても、どうなるものでもない。
だから、そこは学生のニーズに合わせて、それらしい学問ジャンルを仕立てあげて、それを提供すれば良いではないか」というようなことだったのではないだろうか、実際のところ。

そして、こうした発想こそが、「大学改革」が「大学」に求め、おのずと実現したことなのではないだろうか。その結果は、あまり評判が良いものではなかったとしても。

「表象文化論」が誕生した「1987年」とは、「バブル経済」が最高潮にあった頃で、高校生の大半が自動的に大学へ進学し、大学が、ポストモダンな「レジャーランド」と化した、と言われた時期ではなかったか。
要は、大学は、勉強しにいくところではなく、遊びに行くところになっていたから、大学の方だって、そういう学生の求めに応じて、伝統ある「実学」とは真逆の「趣味の学問」もありだと、そんなふうに変化しだしていたのではないだろうか。

たとえば、それまでの「国文学科」でなら、「筒井康隆」を研究したいと言っても、「推理小説やSFなんてものは、文学じゃないんだよ。だからダメだ」と却下されていたのが、徐々に「それもあり」だと緩和されてきて、もしかすると今の「文学部」では、漫画がアニメを論じることも、OKになっているのかもしれない。

無論、文学と漫画や映画やアニメに、ジャンルとしての「貴賎はない」のだから、何を研究してもよいとなるのは、じつに好ましいことだ。
研究方法だって、決まり切ったやり方をひたすら強いられるのではなく、人それぞれのやり方でやるというのも望ましい。それで成果が出ることだってあるだろう。

だが、そうした「なんでもあり」的なものを、はたして「学問」と言えるのだろうか?

私が「笠井潔葬送派」を名乗ってまで批判した、小説家であり評論家であった笠井潔は、柄谷行人との対談(インタビュー)において、「学生時代に左翼弱小セクトのイデオローグをやっていたときに、セクトの仲間の前で『理屈なら、何とでもつけられる』と冗談半分に豪語して、皆から顰蹙を買ったことがあります」という趣旨の「思い出話」を、一種の「笑い話」として話していたが、そのとき語られた、その言葉は、当時の笠井潔の「本音」てあり、たぶん、今の本音でもあることだろう。
つまり、優れた理論家は「白を黒と、理論的に言いくるめるだけの才能を持っている」ということである。
そしてこれは、たぶん世の事実なのだ。理論というのは、いくらそれらしくても、半分は「(そういう)「よく出来たお話」だあり、要は「フィクション」の要素を含んでいる、ということでなのある。

だが、だからこそ「学問」は、そうした「レトリックの弊」から逃れるべく、「厳密な方法論」の遵守に固執してきたのではないだろうか。
それをしないことには、それは「学問」ではなく、「そういう考え方もある」程度のものになってしまうと考え、そうした淪落を怖れたのではなかっただろうか。

だとすれば、「何を論じても良いし、どのように論じても良い」というような「方法論」とは、一種の方法論ではあっても、それは「学問における方法論」ではなく、「学問に対する姿勢(アプローチ)」を示すものでしかない、のではないのか?

「表象文化論」という言葉が、いくら説明されても、どこか曖昧模糊とした「無規定性」を感じさせて、捉えどころがないのは、もともと明確な実態を持たないからではないのか?

ただ、「表象文化論」と名乗っていれば「学問」に見え、「権威」あるものに見えるから、「映画論」や「舞台演劇論」のような、わかりやすく率直な「表象」には、なっていないのではないのか?

「表象文化論学会」が主催する「表象文化論学会賞」の授賞作を見てみると、「写真」「文学」「舞台演劇」「映画」「哲学」など、多様なジャンルの研究書が受賞しており、中にはそのタイトルに「表象」という言葉を含むものもあるなはあるけれど、大半のものは、「表象文化論」という方法論を、特に意識した著作には見えない
端的に言えば、『〜の表象文化論』とか『〜の表象文化学』といったタイトルの本は1冊もなく、むしろ、よそのフィールドから、「表層論」的なアプローチを採用している著作を引っ張ってきている、という印象が強い。
それはちょうど、「日本SF大賞」が、その年ヒットした、隣接領域の作品から授賞作を選んで、自領域の広さをアピールする姿に酷似しているように、私には見える。

しかし、いくら大ヒットしたからと言って、「日本SF大賞」を『ガメラ2』『帝都物語』『新世紀エヴァンゲリオン』に与えるというのは、いささか「無節操」の感が否めないと感じられるのだが、いかがであろうか?
要は「有名人は、みんな仲間だ!」というアピールにしか見えないのである。

(松浦寿輝「表象文化論学会」初代会長の任期最後の年には、「文学」が特集され、東浩紀大西巨人も登場した。いかにもという感じである。)

そして、「表象文化論」というのもまた、その種の「妖怪」のように見える。

実態は無いに等しいのに、実態が無いからこそ、その「虚ろ」に、何やら意味ありげなものが湧いて出る。

「表象文化論」という「表象」の持つ意味とは、そんなものなのではないかと、私にはそう疑われるのである。

素直に「映画学科」では、まるで「専門学校」であり、「アカデミズム」の権威を与えにくかったのかもしれないが、「表象文化論」というジャンルは、「学問」としては、いささか胡散くさいもののようにも感じられるのだが、一一関係者の皆さんの、本音は如何?



(2024年9月6日)

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