マーク・トウェイン 『ハックルベリー・フィンの冒険』 : ハック的な「良心」を取り戻せ!
書評:マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(全2巻・光文社古典新訳文庫)
今頃になって、児童文学の名作中の名作『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下『ハックルベリー』と略記)を読んだのは、先日読んだ、小塩真司著『「性格が悪い」とはどういうことか ダークサイドの心理学』(ちくま新書)に、本書が紹介されており、その部分にとても惹かれたからである。
このレビューでも紹介したとおりで、この本で検討にふされているのは、人間の心の「ダークサイド」の問題である。
つまり、人間の心の中には、例外なく「ダークサイド」に分類される「悪しき属性」が存在しており、それがどのようなかたちで、他の属性と連携しつつ発現するのかを、関連する内外の研究成果を紹介しながら検討したのが、同書なのだ。
同書は、タイトルが『「性格が悪い」とはどういうことか』となっているために、うっかり、人間には「性格が悪い人間」と「性格が良い人間」の2種類がいるかのような印象を与えがちなのだけれども、そうした理解は、完全な間違い。
「ダークサイド」と表現されていることからも分かるとおりで、人の心には「ダークサイド」もあれば、言うなれば「ブライトサイド」もある。同書では、そういう表現は使われておらずともだ。
つまり、人の心には、「真っ黒」的な「極」と、「真っ白(純白)」的な「極」があって、その間には、「灰色」を中心とした「切れ目のないグラデュエーション」がある、というばかりではなく、両極は単純に「極から極へと変移する」のではなく、「両極が結びつく」ことだってある。
例えば、「正義のために、あの権力者を殺そう」と考えるテロリストなどは、ある意味では、非常に高い理想としての「正義」を信じつつ、しかし行為としては、決して好ましいものではない「殺人」という暴力に訴えてしまう。
つまり、こうしたテロリストというのは、私たちの多くがそうであるような、生ぬるい「灰色」状態ではなく、言うなれば「漆黒と純白」が結びついたところに生まれた、エッジの効きすぎた「性格」なのである。
そんなわけで、『人間には「性格が悪い人間」と「性格が良い人間」の2種類がいる』というのは、完全に間違い。
そもそも、人間の性格というのは、「純白」でもなければ、「漆黒(真っ黒)」でもあり得ない。
「純白」というのは、「神」さまだけだし、「漆黒」というのは「悪魔」だけなのだが、その「神」も「悪魔」も、所詮は人間が生み出した「観念」であり、実在しないのだから、ましてや人間がそのような「両極のどちらか」だなどというようなことは、論理的にも実際にもあり得ないのである。
言い換えれば、あり得るのは、「いかにも立派そうな人(純白そうな人)」と、「無差別連続殺人犯のような人(漆黒そうな人)」であって、言うまでもなく、「いかにも立派そうな人(純白そうな人)」の中にも、困った性格(ダークサイド)は存在するし、「無差別連続殺人犯のような人(漆黒そうな人)」の中にも、好ましい性格(ブライトサイド)は存在している。
要は、その「含有比率」であり、さらに重要なのは、どの部分がどのように発現するのか、その「発現の仕方」なのだ。
いくら良いものを持っていようと、それを表に出せなければ、その人は「良い人」だと評価されない。実際「客観的な評価」とは、そういうもので、表に現れた「好ましくない部分だけ」を見られることになるし、そこしか見えないのだから、そこを評価するしかないのである。それはやむを得ないことなのだ。
一方、心の中にどんなに「悪魔」的な性格を飼っていようと、それを表に出さなければ、その人は、「良い人」「立派な人」だと見られ、そう評価されることになる。これは、「正体を隠している」と言って非難しているのではなく、自分の悪い部分を、自力で完璧に押さえつけている、と言っているのだ。つまり、それは好ましいことなのである。
で、ここまで長々と小塩書の紹介をしたのは、本作『ハックルベリー』のテーマとは、まさにこれだったからである。
「良心とは何か?」
「善良さとは何か?」
一一まさにそこを、「鋭く」突いているのが、『ハックルベリー』に込められた「批評性」であり、本作は「楽しいだけの、児童文学」などでは、決してないのである。
そもそも、著者のマーク・トウェインという人は、「批評的」な文章を書いていた人であり、その延長に彼の文学もある。そして、その代表作が『ハックリベリー』なのだ。
比較文学の石原剛が、本書「解説」に書いているとおりで、本書『ハックルベリー』は、アーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・フォークナーといった、数多くのアメリカ文学の巨匠たちから、最大限の賛辞を贈られている。
ひところ日本でも、「ネット右翼」などの跋扈を受けて、「反知性主義」という言葉が流行した。
それで「反知性主義」をタイトルに冠した書籍がたくさん刊行されたのだが、その多くで使われる「反知性主義」とは「知性を蔑ろにする態度」というほどのものであった。
もちろん「知性」は蔑ろにするべきではないのだが、この「反知性主義」という言葉が生まれたアメリカでは、この言葉は、決して否定的な意味で使われていたわけではない。
そうした事実を広く紹介したのが、キリスト教プロテスタントの神学者であり、アメリカ文化の研究家でもある森本あんりの著書『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』であった。
同書は、ドナルド・トランプへの熱狂的な支持という、日本人にはちょっと理解し難いと感じられた部分について、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』などの先行研究に依拠しつつ、アメリカ史に遡って、紹介したものである。
つまり、そこで「キリスト教プロテスタント」が関連してくるのであり、『ハックルベリー』を読めば、それは明らかな「歴史的な事実」だということも、よくわかるのだ。
私は以前、ルーシー・モード・モンゴメリの『赤毛のアン』を論じて、このアメリカにおける「プロテスタンティズムの倫理」というものを体現する人物として、マリラ・カスバートを名指した。アンを、誤って孤児院から引き取ってしまったカスバート兄妹の、あの気難しいおばさん、マリラである。
この物語の本質が、マリラ体現された「真面目さと極端な倫理主義」が、アンの体現する「自然(児)」性と出会うことよって、正しく「止揚」される物語だと、私は大筋でそのような説明したのだ。
言い換えればこれは、マリラの中の「純白主義」的な部分が、アンという「自然児」の持つ「自由奔放さ」という、「プロテスタンティズムの知性主義」からすれば「好ましくない部分(ダークサイド)」とが出会うことによって、双方が「バランスのとれた大人」に成長してゆく物語なのだと、私はそのように解説したのである。
で、この『赤毛のアン』は「1908年」発表の作品で、カナダ人作家であるモンゴメリが、カナダで執筆しアメリカで出版した作品。一方、『ハックルベリー』の方は、その20年近く前の「1885年」に刊行されていた作品である。
つまり、『アン』もまた、『ハックルベリー』の末裔であり、言うならば、女の子版『ハックルベリー』だとも言えるのだ。
だが、もちろん両者には、小さからぬ違いもある。
それは、前記のとおり『アン』が「和解の物語」だとすれば、『ハックルベリー』は「批判(批評)の物語」であり、後者の根底には、「偏頗な倫理主義」としての「プロテスタンティズム」に対する「対決姿勢」がはっきりと見てとることができる
後年の作品である『アン』の方は、『ハックルベリー』に比較すればの話だが、いかにも女性作家ものらしく、かなり穏健で「和解的」。だからこそ、「明るく楽しい」物語にもなっているのだ。
もちろん、作家の個性を、「性別」に還元して語るのは、いかにも「雑」なやり方である。男性にも「優しく温和な人」もいるし、女性にだって「尖って戦闘的な人」もいる。
だが、歴史的に考えるならば、そうした「ジェンダー・バイアス」が機能してきたという事実は否定できず、それが好ましいことではないとしても「女性的な女性作家」「男性的な男性作家」という評言は、基本的には「肯定的」なものとして使われたから、そうしたタイプが「支持され、好まれた」というのもまた、歴史的な事実として、認めないわけにはいかない。「是非善悪の話」ではなく、「事実関係の有無の問題」として、そうだということなのだ。
そんなわけで、『ハックルベリー』も、作者であるトウェインも、非常に「男性的」である。つまり「批評的=攻撃的」ということだ。
実際トウェインは、自作『ハックルベリー』の「本質」を、次のように語っている。
「勝負・勝敗」という観点から語っているところが、いかにも「男性的」なのだ。
ともあれ、問題とすべきなのは、「知性」そのものでも、それを尊重しなければならないと考える「知性主義」そのものでもない。また、「倫理」そのものでもなく、倫理的であらんとする「倫理主義」そのものでもない。
問題なのは、正しく「知性的」であったり「倫理的」であったりすることではなく、それが誤って「捻じ曲げられた知性主義」や「捻じ曲げられた倫理主義」になりがちだということなのだ。
そして、そのような「捻じ曲げった思想」に対して反発するのが、本来の「反知性主義」であり「反倫理主義」なのだ。
それらは決して、「愚か者であること」や「不道徳であること」を推奨しようとするものではない。
そうではなく、「偽物の知性」や「偽物の倫理」が語る「偽物の言葉(きれいごと)」に対する、それらに「騙されてはならない」という訴えであり、批判なのだ。
言うなれば、本来的な意味でのアメリカの「反知性主義」とは、「ハックルベリー・フィンに還れ!」という声なのだ。一一それが今や「捻じ曲げられた反知性主義」になっているとしてもである。
ともあれ、本書『ハックルベリー』の「反知性主義」の本質というのは、次のような言葉にも端的に示されている。
それは、本稿の冒頭に掲げた、次のような、ハックの言葉だ。
つまり、ここで「二人いる神さま」として語られている「ダグラス夫人(未亡人)の神さま」と「ミス・ワトソンの神さま」というのは、前者が「愚かな者、罪深き者に対しても、慈悲の恩寵を垂れる救いの神」であり、後者は「最後の審判で、人を天国行きと地獄行きに選別する、残酷な神」ということである。
そしてこれは、トウェインに言わせるならば、前者が「健全な心に宿る神」であり、後者は「捻じ曲げられた(ひ弱な)心に宿る神」ということになるのである(ここでトウェインの思想は、同時代のニーチェにも通じていると言えるだろう)。
実際、だからこそハックは、「神の権威」を背負って、ガミガミとその「倫理観」を押しつけて来るミス・ワトスンの求める「まともな人間」からドロップアウトして、元の「自由人」になろうと、逃れの「冒険の旅」に出るのだし、この旅の伴侶となるのは、ミス・ワトスンの所有にかかる、合法的な「奴隷」たる黒人ジムだったのだ。ジムもまた「自由」を求めて逃亡し、ハックと合流し、彼に助けられることになるのである。
本作での、クライマックスと言えるのが、「解説」で石原剛も指摘している「第16章」である。
ここでハックは、自身の「良心」を試されることになる。
ハックは自分のことを、ミス・ワトスンが求めるような「まともな生活=文化的な生活」には馴染まない「ダメな人間」だと思っている。
だから『おいらなんか無学だし、下の下だし、根性も曲がってるし。』と「本気」でそう言うのだ。
これは、「謙遜」でも「卑下」でもなく、当時の「良識」からすれば、そういうことになってしまうのだ。
「神の命より、すべての生物の管理者に据えられた、霊長類たる人類は、当然のことながら、それ相応に、倫理的で知的で文化的な生き方をしなければならない(でないと、地獄行きだ)」という「キリスト教倫理」が人々を支配していた。
その中でもそれが、潔癖なまでに高められたのが、その厳格さで知られるカルヴァン派に発する「プロテスタンティズムの近代主義的な倫理観」であり、その流れをひく「ピューリタン(清教徒)」によって作られた国であるアメリカは、当初このような、それこそ「清く正しく美しく」というに等しい「指導理念としての理想」の下に、その新しい国づくりが進められていたのだ。
それ故、そうした「理想」からすれば、ハックが望むような、「反文化的」に「自堕落な生活」など、とうてい認められるものではなかった。
また、少なくとも「建前」としては、社会全体が、そのような「理想」を掲げていたからこそ、ハックのような「素直な子供」は、そうした「既成の倫理観」を否応なく内面化しており、それによって、自分の「だらしなさ=正直な気持ち」を責めなければならないことにもなったのである。
で、そんなハックが、ダクラス夫人の庇護のもと、ミス・ワトスンに躾けられる生活にうんざりし、前作『トム・ソーヤの冒険』でその入手経緯の紹介された、合法的な全財産をすべて捨ててまで、窮屈な「文化的な生活」から出奔したというのだから、彼が「奴隷」のジムが「自由」を求める気持ちに共感したのも、ごく自然なことだった。
逃亡奴隷を庇うことは「犯罪」であり「善くないこと」であると知りながら、しかし、ハックは、自分の「実感」を優先して、ジムとの旅を続けていたのだ。
だが、それでもハックの中には「内面化された、文化的な倫理観」もたしかに存在していて、それが「他人の財物である奴隷を、お前が勝手に逃すことは、許されない悪徳だぞ。それは、窃盗や器物損壊と同様、他人に対して不当に損害を与える行為なのだ」と、心の中でハックを責め続けていたのである。
そして、この「矛盾する二つの気持ち」を曖昧に誤魔化しながら、ジムとの逃亡の旅を続けていたハックは、とうとう、この「第16章」で、「どちらの倫理を選択するのか」という、ギリギリの局面に立たされることになる。
ハックはこうして、「嘘」をつくのである。
彼にしてみれば、心の中をも見抜いてしまう「神」さまに恥じるべき行為をしたのだ。
だが、ここでハックが示したのは、「自由を求める人間への共感」という「自分一個の倫理」であった。
社会一般の「他人の財物に手をつけてはならない。他人に損害を与えてはならない」という、言うなれば「刑法的=法的な倫理」への「抵抗」だったのだ。
ハックには、自分の選択が「神の意志」に反することのように思えて苦しかったのだが、それでも、自分の「実感(としての良心)」に反することは、どうしてもできなかったのである。
つまりこれが、本来言うところの、アメリカの「反知性主義」なのだ。
「理屈」では逃亡奴隷を通報した方が「正しい」に決まっている。けれども、この時のハックは、そうした「理屈」としての「知的かつ倫理的な判断」を選択することができなかった。
あんなに自由になれると喜び、自分のことを「唯一の白人の友人だ」と言ってくれているジムの信頼を裏切ることなど、どうしてもできない。一一そう、ハックは「感じて」いたのである。
学のないハックがここで言う『そんときそんときに都合がいいほうにしよう』とは、決して「自分の利益になる方」という意味ではない。
学のある私たちの表現に言い換えるなら、それは「良心の命ずるところに従って行動する」ということなのだ。
ハックは、学問がないから、「それらしい言葉」で自身を「飾る」ことはできなかったが、学問のある者でも滅多に持つことのできない「良心」を持ち、それに従って行動のできる、「時代の倫理」を超えた少年だったのだ。
『ハックルベリー・フィンの冒険』というこの物語が、今も多くの読者の心をうつのは、こうしたところにある。
ハックの「言葉にはできない良心」を、ペラペラとご立派な倫理を語りうる、学のある私たちは、いつしか失っていたように思える。
だからこそ、もう一度、ハックのような「言葉にならない良心」を取り戻して、ハックのような、何者にも縛られない、どんな権威にもひれ伏したりはしない「自由な人間」になりたいと、そう願わずにはいられないのだ。
そして、こうした感動は、単に本書の読者層としての子供たちだけではなく、大人の心をも打つ。
なぜなら、マーク・トウェインが、その批評を差し向けたのは、子供ではなく、大人たちだったからである。
こざかしくも利口ぶった、そのくせ「良心」というものを見失ってしまった大人たちに、その銃口は向けられていたのである。
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「銃口」というと、本作を読んでいて、「これは、まるで私のことだな」というような、本筋とは離れた挿話が、この物語には描かれている。
それは、上巻後半の「第21章から第22章」で描かれる、変わり者シャーバーンによる「酔いどれボグス射殺事件」と、その後の騒動の際にシャーバーンの語った「大衆批判」である。
ボグスは、タチの悪い酔っ払いである。
日頃は気の良い男なのだが、酔っ払うと他人に迷惑をかけてばかり。けれども、酔いが覚めるとケロッとそのことを忘れて、いつもの気の良い男に戻ってしまう。そのため、住民たちの多くは、ボグスに対し決定的な手を打つことができずに困っていたのだ。
ところが、ある日、そのボグスが、一匹狼的な変わり者のシャーバーンに絡んで、いきなり射殺されてしまう。
ボグスには一人娘がいたので、射殺するなんてあんまりだということで、村の誰かが「シャーバーンを吊しちまえ!」と声をあげ、多くの人がその声に煽動されるかたちで、シャーバーンの家へと押しかけていった。
すると、シャーバーンは、ひとりフロントポーチの屋根の上に姿を見せた。
そして、押しかけた人たちに銃をチラつかせながら、次のような演説をぶつのである。
これもちょうど先日、アメリカ南部の、旧弊で差別的な「田舎者」の暴力を(それがメインではないが)描いた映画、デニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』のレビューを書いたところだ。
で、この映画は、「アメリカン・ニューシネマ」の代表的な作品のひとつとして、一般的には高く評価しているのだが、映画評論も書いている、「武蔵大学の教授」で「表象文化論」学会の役員だともいう北村紗衣が、「アメリカン・ニューシネマ」の特徴は「暴力とセックスだ」と語って、映画マニアの須藤にわか氏と論争になり、須藤氏が「現に『イージー・ライダー』のように、非暴力的な作品も多々ある」と反論したところ、北村紗衣がこれに再反論して「『イージー・ライダー』にも(南部の田舎者が主人公たちを襲う)凄惨な暴力シーンがある」という趣旨の、間抜けな反論をしていた。
それで、私が、いつもの如く「シャーバーン」式に「こいつはバカだな」と批判したら、北村紗衣は「管理者通報だ」「誹謗中傷だ」とまるで「ヒス男」のように大騒ぎしだして、須藤氏に対しても、
だなんていう見当違いの非難(誹謗中傷)を浴びせかけたのである。
だが、実のところ、そのご当人こそが「フォロワー5万人」の力を利用して、「Twitter」での、須藤氏との直接対論において、そうした「外野の声」なよる「優勢を演出した」というのは、先日の私の記事「北村紗衣という「ひと」:「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、 フェミニズムが言うところの「女」なのか?」で、次のように書いたとおりである。
そして、かねてから、北村紗衣のこうした「ファンネル・オフェンス」(※ 取り巻きによるヤジなどを利用する攻撃法)の使い方に注目していた、評論家の与那覇潤は、私のこの記事を受け(リンクを張って)、次のようなタイトルの記事をアップしたのであった。
『なぜ、学問を修めた「意識の高い人」がネットリンチに加わってしまうのか』一一ここで言う「加わる」とは、「直接加わる」ということだけではなく、自分に都合が良ければ「黙認する」とか、「陰で煽動する」といったことも含まれよう。
なにしろ「刑法」にも、「共犯」の一種である「教唆犯」というものもあれば、「未必の故意」というのもあるくらいで、そういう法的根拠もないと、「自分の手は汚さない」卑怯者の犯罪を裁くことなど、金輪際できないからである。
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そんなわけで、私たちが本作『ハックルベリー・フィンの冒険』から学ぶべきは、「お勉強で得た(二流の)小理屈」的なものではなく、「この言い分は、何かおかしい」とか「これは酷い」というような「良心的な直観」を大切にしなくてはいけない、ということなのである。
そうでなければ、「頭の悪い大衆」ほど、その種の「小理屈」に、ころりと騙され、「正義に立っているつもりで、卑怯卑劣な悪をなす」ことになってしまうし、そんなことは決して珍しくはないのだ。
つまり、私たちに必要なのは、そうした「ねじ曲げられた良心」だの「ねじ曲げられた知性」ではなく、ハックが体現してみせた『健全な心』としての、「本物の良心であり知性」なのである。
(※ なお、本稿中、北村紗衣氏については敬称を略し、須藤にわか氏には「氏」を付したが、これは、須藤氏がアマチュアの書き手であるためであって、北村氏を「女性差別」したからではないと、いちおう断っておこう。そんな頭の悪い誤解をするような馬鹿はいないと思うが、念のため)
(2024年9月2日)
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【追記】本稿中の、リンク切れについて(2024年9月12日)
見てのとおりで、私な高山と批判された「北村紗衣」は、私に一度として反論することもないまま、「管理者通報」によって、私の記事、
・「北村紗衣という人:「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、フェミニズムが言うところの「女」なのか?」
(2024年8月30日付)
を削除させました。
これが「フェミニスト批評家」を自称する、「武蔵大学教授」北村紗衣のやり方であり、現実です。
(2024年9月12日)
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【追記】拙稿「北村紗衣という人」削除に関する事情紹介(2024年9月14日)
一昨日ご報告しましたとおり、拙稿「北村紗衣という人」が、突然削除されましたので、そこに書かれたいたことなど、削除に至る事情などを説明した文章を書きました。
こちらも削除される恐れは大いにありますので、早目にお読みいただき、ログ、スクリーンショット、魚拓などと、それぞれに採っておいていただけると幸いです。
(2024年9月14日)
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