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マーク・トウェイン 『ハックルベリー・フィンの冒険』 : ハック的な「良心」を取り戻せ!

書評:マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(全2巻・光文社古典新訳文庫)

『おいらの考えるとこじゃ、たぶん、神さまは二つあるんだな。でもって、未亡人の神さまに当たりゃ、しょうもねえ人間でも運が向くかもしんねえけど、ミス・ワトスンの神さまに当たったら最後、何もいいことなしってこと。おいら、いろいろ考えて、未亡人のほうの神さまにつきてえもんだと思った。むこうがそれでいいんならの話だけど。でも、むこうにとっちゃ、何も得はなさそうだしな。おいらなんか無学だし、下の下だし、根性も曲がってるし。』(上巻P46)

今頃になって、児童文学の名作中の名作『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下『ハックルベリー』と略記)を読んだのは、先日読んだ、小塩真司著『「性格が悪い」とはどういうことか ダークサイドの心理学』(ちくま新書)に、本書が紹介されており、その部分にとても惹かれたからである。

このレビューでも紹介したとおりで、この本で検討にふされているのは、人間の心の「ダークサイド」の問題である。
つまり、人間の心の中には、例外なく「ダークサイド」に分類される「悪しき属性」が存在しており、それがどのようなかたちで、他の属性と連携しつつ発現するのかを、関連する内外の研究成果を紹介しながら検討したのが、同書なのだ。

同書は、タイトルが『「性格が悪い」とはどういうことか』となっているために、うっかり、人間には「性格が悪い人間」と「性格が良い人間」の2種類がいるかのような印象を与えがちなのだけれども、そうした理解は、完全な間違い。

「ダークサイド」と表現されていることからも分かるとおりで、人の心には「ダークサイド」もあれば、言うなれば「ブライトサイド」もある。同書では、そういう表現は使われておらずともだ。

つまり、人の心には、「真っ黒」的な「極」と、「真っ白(純白)」的な「極」があって、その間には、「灰色」を中心とした「切れ目のないグラデュエーション」がある、というばかりではなく、両極は単純に「極から極へと変移する」のではなく、「両極が結びつく」ことだってある。

例えば、「正義のために、あの権力者を殺そう」と考えるテロリストなどは、ある意味では、非常に高い理想としての「正義」を信じつつ、しかし行為としては、決して好ましいものではない「殺人」という暴力に訴えてしまう。
つまり、こうしたテロリストというのは、私たちの多くがそうであるような、生ぬるい「灰色」状態ではなく、言うなれば「漆黒と純白」が結びついたところに生まれた、エッジの効きすぎた「性格」なのである。

そんなわけで、『人間には「性格が悪い人間」と「性格が良い人間」の2種類がいる』というのは、完全に間違い。

そもそも、人間の性格というのは、「純白」でもなければ、「漆黒(真っ黒)」でもあり得ない。
「純白」というのは、「神」さまだけだし、「漆黒」というのは「悪魔」だけなのだが、その「神」も「悪魔」も、所詮は人間が生み出した「観念」であり、実在しないのだから、ましてや人間がそのような「両極のどちらか」だなどというようなことは、論理的にも実際にもあり得ないのである。

言い換えれば、あり得るのは、「いかにも立派そうな人(純白そうな人)」と、「無差別連続殺人犯のような人(漆黒そうな人)」であって、言うまでもなく、「いかにも立派そうな人(純白そうな人)」の中にも、困った性格(ダークサイド)は存在するし、「無差別連続殺人犯のような人(漆黒そうな人)」の中にも、好ましい性格(ブライトサイド)は存在している。

要は、その「含有比率」であり、さらに重要なのは、どの部分がどのように発現するのか、その「発現の仕方」なのだ。

いくら良いものを持っていようと、それを表に出せなければ、その人は「良い人」だと評価されない。実際「客観的な評価」とは、そういうもので、表に現れた「好ましくない部分だけ」を見られることになるし、そこしか見えないのだから、そこを評価するしかないのである。それはやむを得ないことなのだ。
一方、心の中にどんなに「悪魔」的な性格を飼っていようと、それを表に出さなければ、その人は、「良い人」「立派な人」だと見られ、そう評価されることになる。これは、「正体を隠している」と言って非難しているのではなく、自分の悪い部分を、自力で完璧に押さえつけている、と言っているのだ。つまり、それは好ましいことなのである。

で、ここまで長々と小塩書の紹介をしたのは、本作『ハックルベリー』のテーマとは、まさにこれだったからである。

「良心とは何か?」
「善良さとは何か?」

一一まさにそこを、「鋭く」突いているのが、『ハックルベリー』に込められた「批評性」であり、本作は「楽しいだけの、児童文学」などでは、決してないのである。

そもそも、著者のマーク・トウェインという人は、「批評的」な文章を書いていた人であり、その延長に彼の文学もある。そして、その代表作が『ハックリベリー』なのだ。

比較文学の石原剛が、本書「解説」に書いているとおりで、本書『ハックルベリー』は、アーネスト・ヘミングウェイウィリアム・フォークナーといった、数多くのアメリカ文学の巨匠たちから、最大限の賛辞を贈られている。

『あまりに有名とはいえ、ヘミングウェイの「アメリカの近代文学はすべてマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』という一冊の本から出発している」という言葉や、ウィリアム・フォークナーの「(トウェインは)本当の意味で最初のアメリカ作家であり、我々はみな彼の跡継ぎであり、トウェインの子孫なのだ」という言葉の意味をしっかりと受け止めるべきであろう。』
(「解説」より、下巻P370)

ひところ日本でも、「ネット右翼」などの跋扈を受けて、「反知性主義」という言葉が流行した。
それで「反知性主義」をタイトルに冠した書籍がたくさん刊行されたのだが、その多くで使われる「反知性主義」とは「知性を蔑ろにする態度」というほどのものであった。

もちろん「知性」は蔑ろにするべきではないのだが、この「反知性主義」という言葉が生まれたアメリカでは、この言葉は、決して否定的な意味で使われていたわけではない。
そうした事実を広く紹介したのが、キリスト教プロテスタントの神学者であり、アメリカ文化の研究家でもある森本あんりの著書『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』であった。

同書は、ドナルド・トランプへの熱狂的な支持という、日本人にはちょっと理解し難いと感じられた部分について、リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』などの先行研究に依拠しつつ、アメリカ史に遡って、紹介したものである。
つまり、そこで「キリスト教プロテスタント」が関連してくるのであり、『ハックルベリー』を読めば、それは明らかな「歴史的な事実」だということも、よくわかるのだ。

私は以前、ルーシー・モード・モンゴメリ『赤毛のアン』を論じて、このアメリカにおける「プロテスタンティズムの倫理」というものを体現する人物として、マリラ・カスバートを名指した。アンを、誤って孤児院から引き取ってしまったカスバート兄妹の、あの気難しいおばさん、マリラである。
この物語の本質が、マリラ体現された「真面目さと極端な倫理主義」が、アンの体現する「自然(児)」性と出会うことよって、正しく「止揚」される物語だと、私は大筋でそのような説明したのだ。

言い換えればこれは、マリラの中の「純白主義」的な部分が、アンという「自然児」の持つ「自由奔放さ」という、「プロテスタンティズムの知性主義」からすれば「好ましくない部分(ダークサイド)」とが出会うことによって、双方が「バランスのとれた大人」に成長してゆく物語なのだと、私はそのように解説したのである。

で、この『赤毛のアン』は「1908年」発表の作品で、カナダ人作家であるモンゴメリが、カナダで執筆しアメリカで出版した作品。一方、『ハックルベリー』の方は、その20年近く前の「1885年」に刊行されていた作品である。
つまり、『アン』もまた、『ハックルベリー』の末裔であり、言うならば、女の子版『ハックルベリー』だとも言えるのだ。

(アニメ『赤毛のアン』より)

だが、もちろん両者には、小さからぬ違いもある。
それは、前記のとおり『アン』が「和解の物語」だとすれば、『ハックルベリー』は「批判(批評)の物語」であり、後者の根底には、「偏頗な倫理主義」としての「プロテスタンティズム」に対する「対決姿勢」がはっきりと見てとることができる
後年の作品である『アン』の方は、『ハックルベリー』に比較すればの話だが、いかにも女性作家ものらしく、かなり穏健で「和解的」。だからこそ、「明るく楽しい」物語にもなっているのだ。

もちろん、作家の個性を、「性別」に還元して語るのは、いかにも「雑」なやり方である。男性にも「優しく温和な人」もいるし、女性にだって「尖って戦闘的な人」もいる。

だが、歴史的に考えるならば、そうした「ジェンダー・バイアス」が機能してきたという事実は否定できず、それが好ましいことではないとしても「女性的な女性作家」「男性的な男性作家」という評言は、基本的には「肯定的」なものとして使われたから、そうしたタイプが「支持され、好まれた」というのもまた、歴史的な事実として、認めないわけにはいかない。「是非善悪の話」ではなく、「事実関係の有無の問題」として、そうだということなのだ。

そんなわけで、『ハックルベリー』も、作者であるトウェインも、非常に「男性的」である。つまり「批評的=攻撃的」ということだ。

実際トウェインは、自作『ハックルベリー』の「本質」を、次のように語っている。

『何よりも作者トウェイン自身が、刊行から約十年後に書き記した日記の中で、『ハック・フィン」はつまるところ「(※ ハックに体現される)健全な心と(※ ミス・ワトソンなどに象徴される)捻じ曲げられた良心がぶつかり合い、(※ 捻じ曲げられた)良心が敗北を喫する物語である」と述べており、まさに「捻じ曲げられた良心」の敗北と「健全な心」の勝利が(※ 本作第16章で)宣言される』

(「解説」・下巻P392、以下(※)は引用者による補足説明)

「勝負・勝敗」という観点から語っているところが、いかにも「男性的」なのだ。

ともあれ、問題とすべきなのは、「知性」そのものでも、それを尊重しなければならないと考える「知性主義」そのものでもない。また、「倫理」そのものでもなく、倫理的であらんとする「倫理主義」そのものでもない。
問題なのは、正しく「知性的」であったり「倫理的」であったりすることではなく、それが誤って「捻じ曲げられた知性主義」や「捻じ曲げられた倫理主義」になりがちだということなのだ。

そして、そのような「捻じ曲げった思想」に対して反発するのが、本来の「反知性主義」であり「反倫理主義」なのだ。
それらは決して、「愚か者であること」や「不道徳であること」を推奨しようとするものではない。
そうではなく、「偽物の知性」や「偽物の倫理」が語る「偽物の言葉(きれいごと)」に対する、それらに「騙されてはならない」という訴えであり、批判なのだ。

言うなれば、本来的な意味でのアメリカの「反知性主義」とは、「ハックルベリー・フィンに還れ!」という声なのだ。一一それが今や「捻じ曲げられた反知性主義」になっているとしてもである。

ともあれ、本書『ハックルベリー』の「反知性主義」の本質というのは、次のような言葉にも端的に示されている。
それは、本稿の冒頭に掲げた、次のような、ハックの言葉だ。

『おいらの考えるとこじゃ、たぶん、神さまは二つあるんだな。でもって、未亡人の神さまに当たりゃ、しょうもねえ人間でも運が向くかもしんねえけど、ミス・ワトスンの神さまに当たったら最後、何もいいことなしってこと。おいら、いろいろ考えて、未亡人のほうの神さまにつきてえもんだと思った。むこうがそれでいいんならの話だけど。でも、むこうにとっちゃ、何も得はなさそうだしな。おいらなんか無学だし、下の下だし、根性も曲がってるし。』(上巻P46)

つまり、ここで「二人いる神さま」として語られている「ダグラス夫人(未亡人)の神さま」と「ミス・ワトソンの神さま」というのは、前者が「愚かな者、罪深き者に対しても、慈悲の恩寵を垂れる救いの神」であり、後者は「最後の審判で、人を天国行きと地獄行きに選別する、残酷な神」ということである。
そしてこれは、トウェインに言わせるならば、前者が「健全な心に宿る神」であり、後者は「捻じ曲げられた(ひ弱な)心に宿る神」ということになるのである(ここでトウェインの思想は、同時代のニーチェにも通じていると言えるだろう)。

実際、だからこそハックは、「神の権威」を背負って、ガミガミとその「倫理観」を押しつけて来るミス・ワトスンの求める「まともな人間」からドロップアウトして、元の「自由人」になろうと、逃れの「冒険の旅」に出るのだし、この旅の伴侶となるのは、ミス・ワトスンの所有にかかる、合法的な「奴隷」たる黒人ジムだったのだ。ジムもまた「自由」を求めて逃亡し、ハックと合流し、彼に助けられることになるのである。

本作での、クライマックスと言えるのが、「解説」で石原剛も指摘している「第16章」である。
ここでハックは、自身の「良心」を試されることになる。

ハックは自分のことを、ミス・ワトスンが求めるような「まともな生活=文化的な生活」には馴染まない「ダメな人間」だと思っている。
だから『おいらなんか無学だし、下の下だし、根性も曲がってるし。』と「本気」でそう言うのだ。
これは、「謙遜」でも「卑下」でもなく、当時の「良識」からすれば、そういうことになってしまうのだ。

「神の命より、すべての生物の管理者に据えられた、霊長類たる人類は、当然のことながら、それ相応に、倫理的で知的で文化的な生き方をしなければならない(でないと、地獄行きだ)」という「キリスト教倫理」が人々を支配していた。
その中でもそれが、潔癖なまでに高められたのが、その厳格さで知られるカルヴァン派に発する「プロテスタンティズムの近代主義的な倫理観」であり、その流れをひく「ピューリタン(清教徒)」によって作られた国であるアメリカは、当初このような、それこそ「清く正しく美しく」というに等しい「指導理念としての理想」の下に、その新しい国づくりが進められていたのだ。

それ故、そうした「理想」からすれば、ハックが望むような、「反文化的」に「自堕落な生活」など、とうてい認められるものではなかった。
また、少なくとも「建前」としては、社会全体が、そのような「理想」を掲げていたからこそ、ハックのような「素直な子供」は、そうした「既成の倫理観」を否応なく内面化しており、それによって、自分の「だらしなさ=正直な気持ち」を責めなければならないことにもなったのである。

で、そんなハックが、ダクラス夫人の庇護のもと、ミス・ワトスンに躾けられる生活にうんざりし、前作『トム・ソーヤの冒険』でその入手経緯の紹介された、合法的な全財産をすべて捨ててまで、窮屈な「文化的な生活」から出奔したというのだから、彼が「奴隷」のジムが「自由」を求める気持ちに共感したのも、ごく自然なことだった。
逃亡奴隷を庇うことは「犯罪」であり「善くないこと」であると知りながら、しかし、ハックは、自分の「実感」を優先して、ジムとの旅を続けていたのだ。

だが、それでもハックの中には「内面化された、文化的な倫理観」もたしかに存在していて、それが「他人の財物である奴隷を、お前が勝手に逃すことは、許されない悪徳だぞ。それは、窃盗や器物損壊と同様、他人に対して不当に損害を与える行為なのだ」と、心の中でハックを責め続けていたのである。

そして、この「矛盾する二つの気持ち」を曖昧に誤魔化しながら、ジムとの逃亡の旅を続けていたハックは、とうとう、この「第16章」で、「どちらの倫理を選択するのか」という、ギリギリの局面に立たされることになる。

『自由がこんなに近づいたと思うとからだじゅうブルブル震えて熱が出そうな気がしてくる、ってジムは言った。おいらのほうも、ジムの言うこと聞いてると、からだじゅうブルブル震えて熱が出そうだった。ジムはほんとにもうすぐ自由になるんだってことが頭ん中ではっきりわかってきたから。で、それは誰のせいかっていうと、おいらのせいだから。そのことがどうしても良心にひっかかって、どうしようもなかった。気になって、気になって、落ち着いてらんなかった。一つとこにじっとしてらんなかった。自分のやってることがどういうことなのか、前ははっきりわかってなかったけど、いまはわかった。で、そのことが心に貼りついて、いてもたってもいらんなかった。おいらが悪いわけじゃねえや、だっておいらがジムをもともとの持ち主から逃がしたわけじゃねえんだもん、って自分に思わせようとしたけど、ダメだった。そのたんび、良心がこう言うんだ、「けど、おまえはジムが自由になろうとして逃げてんのを知ってたじゃねえか、岸までカヌーを漕いでって通報することだってできたのに」って。そのとおりなんだ。言い訳しょうがなかった。そこがいちばん痛えとこだった。良心が言うんだ、「気の毒に、ミス・ワトスンがお前に何をした? 目の前で自分の黒ん坊が逃げてんのに、それを見て見ぬふりされるほど恨まれなくちゃなんねえことを、ミス・ワトスンがしたか? そんなひどい仕返しされるようなことを、ミス・ワトスンがしたか? ミス・ワトスンはおまえにお聖書を教えようとしただけじゃねえか、行儀を教えようとしただけじゃねえか、良かれと思ってあれこれしてくれただけじゃねえか。違うのか?」って。
 おいら、自分がものすごく性悪で最低なやつに思えて、死んじまいてえぐらいだった。おいらは筏の上で行ったり来たりうろうろして、自分で自分を責めた。ジムもおいらの横で行ったり来たりうろうろしてた。おいらたち二人とも、じっとしてらんなかった。ジムが躍り上がって「ケイロだ!」って言うたんび、おいら、鉄砲で撃たれたような気がして、もしほんとにケイロだったらなさけなくて死んじまうと思った。
 おいらが頭ん中で自分を責めてるあいだ、ジムはずっとしゃべりつづけてた。自由州に着いたら、まずとにかくカネをためるんだ、1セントも使わずにがんばるんだ、そんで、カネがどっさりたまったらカミさん(※ 奴隷であるジムの妻)を買い取るんだ、カミさんはミス・ワトスンが住んでたとこの近くの農場主の持ちもんなんだ、そんで、そのあとは夫婦で働いて子ども二人を買い取るんだ、もし主人が売らねえって言ったら、隷制度廃止論者たちに頼んで盗み出してもらうんだ、って。
 ジムの話を聞いてて、おいら、血が凍りそうになった。前は、ジムはぜったいこんな口きかなかったのに。もうすぐ自由になれると思ったら、こんなに変わっちまうんだ。昔っから「黒ん坊に寸を与えりゃ尺を欲しがる」(※ 「甘い顔を見せると、すぐにつけ上がって、あれこれ要求してくる」というほどの意味)って言うけど、そのとおりだ。
おいらがちゃんと考えなかったからこんなことになったんだ、って思った。この黒ん坊はおいらが逃亡を助けたも同然だ、それがこんどは自分の子どもを盗むなんて言ってのけるーーその子どもってのは、おいらが会ったこともねえ誰かの持ちもんだ。おいらに恨まれる筋合いなんか一個もねえ誰かの持ちもんなんだ。
 ジムがそんなこと言うのを聞いて、おいら、がっかりした。見下げはてた野郎だと思った。おいらの良心はこれまでにねえぐらいヒリヒリ痛んで、とうとう、おいらは自分の良心に向かって、「かんべんしてくれよ、まだ間に合うから。おいら、最初に明かりが見えたとこで岸まで漕いでって通報するから」って言った。そのとたん気が楽になって、心が晴れて羽根みてえに軽くなった。気に病んでたことが、きれいさっぱり消えた。おいらは鼻歌気分で、岸に明かりが見えねえか目をこらした。そのうちに、明かりが見えた。ジムがうれしそうな声で言った。
「助かっただよ、ハック、わしら、助かっただ! 跳び上がってかかとを打ち鳴らすだよ、あれがケイロだ。やっとこさ着いた。わしにはわかるだ!」
 おいらは言った。
「おいらがカヌーを出して見てくるよ、ジム。もしかしたら、違うかもしんねえから」ジムは大急ぎでカヌーの用意をしてくれた。自分の古い上着をカヌーの底に敷いておいらが座る場所を作ってから、オールを渡してくれた。漕ぎ出そうとしたとき、ジムが言った。
「あとちょっとで、わし、万歳って叫ぶだよ。そんで、わし、言うだよ、これはぜんぶハックのおかげだ、って。わしは自由人になった、ハックのおかげがなけりゃ自由人にはなれんかった、ハックのおかげだ、って。ジムは一生忘れねえだよ、ハック。
おめえさんはジムの一生でいちばんの友だちだ。おめえさんはいまのジムのたった一人っきりの友だちだ」
 おいら、大急ぎでカヌーを出そうとしてた。ジムを通報するために。けど、ジムの言葉を聞いたら、なんか、すっかりその気が萎えちまった。そのあと、のろのろ漕ぎながら、カヌーを出したのがよかったのか、そうじゃねえのか、自分でよくわかんなくなった。五〇メートル近く進んだとこで、ジムが声かけてきた。
「行っといで、ハック、おめえさんはほんとの友だちだ、ジムとの約束を守ってくれるたった一人の白人だ」
 おいら、吐きそうだった。けど、通報するしかねえ。こっから逃げ出すなんて、できねえ。ちょうどそんとき、ボートが近づいてきた。男が二人乗ってて、鉄砲を持ってた。ボートが止まった。おいらも止まった。男の一人が言った。
「むこうに見えるのは何かね?」「筏です」って、おいらは言った。
「きみは、あの筏から来たのか?」
「そうです」
「筏には誰か乗っているのか?」
「一人だけです」
「じつは、今夜、黒ん坊が五人逃亡した。むこうのカーブの上のほうで。きみの筏に乗っているのは、白人か、黒人か?」
 おいら、すぐに返事できなかった。しようとしたんだけど、言葉が出てこなかった。一秒か二秒、心を鬼にして言っちまおうとしたんだけど、根性が足りなくて一一おいらときたら、ウサギほどの根性もありゃしねえんだ。決心がぐらついたのがわかった。おいらはあきらめて、こう言った。
「白人です」』(上巻P271〜276)

ハックはこうして、「嘘」をつくのである。
彼にしてみれば、心の中をも見抜いてしまう「神」さまに恥じるべき行為をしたのだ。

だが、ここでハックが示したのは、「自由を求める人間への共感」という「自分一個の倫理」であった。

社会一般の「他人の財物に手をつけてはならない。他人に損害を与えてはならない」という、言うなれば「刑法的=法的な倫理」への「抵抗」だったのだ。
ハックには、自分の選択が「神の意志」に反することのように思えて苦しかったのだが、それでも、自分の「実感(としての良心)」に反することは、どうしてもできなかったのである。

つまりこれが、本来言うところの、アメリカの「反知性主義」なのだ。

「理屈」では逃亡奴隷を通報した方が「正しい」に決まっている。けれども、この時のハックは、そうした「理屈」としての「知的かつ倫理的な判断」を選択することができなかった。
あんなに自由になれると喜び、自分のことを「唯一の白人の友人だ」と言ってくれているジムの信頼を裏切ることなど、どうしてもできない。一一そう、ハックは「感じて」いたのである。

『「さよなら」おいらは言った。「できるだけ、逃亡奴隷は逃がさないようにします」男たちは行っちまった。おいらは筏にもどった。気分は最低で最悪だった。だって、自分が間違ったことをしたってことは、はっきりわかってたから。おいらなんか、正しい道をおぼえようとしても、どうせ無理なんだ。最初のガキのうちからちゃんと育たなけりゃ見こみなし、ってこと。ピンチのときがんばれるように支えてくれるもんがねえから、負けちまうんだ。けど、ちょっと考えて、待てよ、って思った。もし正しいことをして、ジムを突き出したとしたら、いまよりましな気分だっただろうか? ううん、ひでえ気分になっただろう一一いまと同じ気分がするに違えねえ。だったら、正しいことを教わったとこで何の役に立つんだ? 正しいことをしようとすりゃ面倒なことになって、正しくねえことをしてりゃ面倒になんねえんだったら? そんで、損得も同じだとしたら? おいら、そこでひっかかって、答えがわかんなくなった。そんで、もう、そのことは考えねえことにして、これからはいっつも、そんときそんときに都合がいいほうにしようと思った。』
(下巻P280)

学のないハックがここで言う『そんときそんときに都合がいいほうにしよう』とは、決して「自分の利益になる方」という意味ではない。
学のある私たちの表現に言い換えるなら、それは「良心の命ずるところに従って行動する」ということなのだ。
ハックは、学問がないから、「それらしい言葉」で自身を「飾る」ことはできなかったが、学問のある者でも滅多に持つことのできない「良心」を持ち、それに従って行動のできる、「時代の倫理」を超えた少年だったのだ。

『ハックルベリー・フィンの冒険』というこの物語が、今も多くの読者の心をうつのは、こうしたところにある。

ハックの「言葉にはできない良心」を、ペラペラとご立派な倫理を語りうる、学のある私たちは、いつしか失っていたように思える。
だからこそ、もう一度、ハックのような「言葉にならない良心」を取り戻して、ハックのような、何者にも縛られない、どんな権威にもひれ伏したりはしない「自由な人間」になりたいと、そう願わずにはいられないのだ。

そして、こうした感動は、単に本書の読者層としての子供たちだけではなく、大人の心をも打つ。
なぜなら、マーク・トウェインが、その批評を差し向けたのは、子供ではなく、大人たちだったからである。
こざかしくも利口ぶった、そのくせ「良心」というものを見失ってしまった大人たちに、その銃口は向けられていたのである。

 ○ ○ ○

「銃口」というと、本作を読んでいて、「これは、まるで私のことだな」というような、本筋とは離れた挿話が、この物語には描かれている。
それは、上巻後半の「第21章から第22章」で描かれる、変わり者シャーバーンによる「酔いどれボグス射殺事件」と、その後の騒動の際にシャーバーンの語った「大衆批判」である。

ボグスは、タチの悪い酔っ払いである。
日頃は気の良い男なのだが、酔っ払うと他人に迷惑をかけてばかり。けれども、酔いが覚めるとケロッとそのことを忘れて、いつもの気の良い男に戻ってしまう。そのため、住民たちの多くは、ボグスに対し決定的な手を打つことができずに困っていたのだ。
ところが、ある日、そのボグスが、一匹狼的な変わり者のシャーバーンに絡んで、いきなり射殺されてしまう。
ボグスには一人娘がいたので、射殺するなんてあんまりだということで、村の誰かが「シャーバーンを吊しちまえ!」と声をあげ、多くの人がその声に煽動されるかたちで、シャーバーンの家へと押しかけていった。

すると、シャーバーンは、ひとりフロントポーチの屋根の上に姿を見せた。
そして、押しかけた人たちに銃をチラつかせながら、次のような演説をぶつのである。

『 ちょうどそんとき、シャーバーンが小さなフロントポーチの屋根の上に出てきた。手に二連式の鉄砲を持って、悠々と落ち着きはらって黙って立ってた。騒ぎは止んで、人の波が後ずさりした。
 シャーバーンはひとこともしゃべらずに、そこに立ったまんま、みんなを見下ろしてた。静かなのがすげえ不気味でいやな感じだった。シャーバーンは、ゆっくりと人だかりを見まわした。目が合った人は、みんなちょっと睨み返そうとするんだけど、できなくて、こそこそ目を伏せた。そのうちに、シャーバーンが笑いだした。楽しそうな笑い方じゃなくて、砂のまじったパンを食ったときみてえな感じの笑い方。
 シャーバーンはゆっくり、みんなを小馬鹿にしたしゃべり方で言った。
「おまえたちがリンチだと? 笑わせるじゃないか。自分たちに人をリンチするほどの肝っ玉があると思っておるところがな! よその町から流れてきた哀れなつまはじき者の女にタールをかけて羽根をまぶして追っぱらったぐらいで、男一人を吊るすだけの勇気があると思っておるのか? ふん。おまえらのような連中など、一万人が寄ってたかってきたところで、屁でもないわ一一昼日中で、背後から襲われんかぎりはな。
 わたしが何も知らんと思うか? おまえたちのことは、裏も表もわかっておるわ。わたしは南部で生まれ育った。北部でも暮らした。並みの連中がどの程度か、知っておる。並みの人間は、臆病者だ。北部では、他人からいいように踏みつけにされたあげくに、家に帰って、神様どうぞ耐え忍ぶ力をお与えください、なんぞと祈るのがせいぜいだ。南部じゃ、真っ昼間にたった一人の賊に駅馬車を止められて、客全員が身ぐるみはがれる体たらくだ。新聞が勇敢だ勇敢だと書きたてるせいで、南部の人間は自分らがよその人間よりも勇敢だと思っているようだが、実際は並みだ。どこが勇敢なものか。南部の陪審員は、なぜ殺人犯を縛り首にしない? そいつの仲間に撃たれるのが怖いからだ。暗闇で、背後からな。ま、連中のやりそうなことだ。
 だから、いつも無罪の評決を出す。すると、夜中にリーダーの男が頭巾をかぶった臆病者一〇〇人を引き連れて出かけていって、その悪党をリンチして吊るす。おまえたちの間違いは、リーダーになる男を連れてこなかったことだ。それが第一の間違いだ。第二の間違いは、闇夜に紛れてこなかったことだ。そして、頭巾をかぶってこなかったことだ。半人前のリーダーは連れてきたようだがな一一そら、そこにおるバック・ハークネスだ。その男がけしかけなけりゃ、おまえたちは大きな口をたたくだけで気がすんでおったに違いない。
 おまえたちみんな、来たくてここへ来たわけではなかろう。並みの人間どもは、トラブルや危険を望まぬものだ。おまえたちも、トラブルや危険は望んでおらんはずだ。だが、半人前のリーダーーそこのバック・ハークネスのことだーが『リンチしろ!リンチしろ!』とわめくから、後に引けなくなった。自分の本性がバレるのが怖いからだ、臆病者という本性がな。それで、みんなで声をはりあげて、半人前のリーダーの尻尾にくっついて、こうやって押しかけてきて、さんざっぱら威勢のいい口をたたく。烏合の素とは哀れなものよ。軍隊もまさにそれ、鳥合の衆だ。連中は、べつに勇敢だから戦うわけではない。数を頼んで、指揮官を頼りにしておるだけだ。しかし、リーダーさえも持たぬ烏合の衆となると、哀れを通り越してそれ以下だ。おまえたちのような連中は、さっさと尻尾を巻いて家に帰って巣穴にもぐりこむがいい。まがりなりにもリンチなんぞをやろうというのなら、暗くなってから、南部式のやり方でやるんだな。そのときは頭巾を忘れるな。リーダーも連れてこいよ。さあ、さっさと散れ。そこの半人前のリーダーも連れていけ」そう言いながら、シャーバーンは鉄砲をぽんと左腕にのせて、撃鉄を起こした。
 集まってた人たちはわっと下がって、散り散りに逃げだした。バック・ハークネスもみんなのあとから逃げてった。形無しもいいとこさ。おいらはその場に残ってもよかったけど、残りたくなかった。』(P411〜414)

これもちょうど先日、アメリカ南部の、旧弊で差別的な「田舎者」の暴力を(それがメインではないが)描いた映画、デニス・ホッパー監督の『イージー・ライダー』のレビューを書いたところだ。

で、この映画は、「アメリカン・ニューシネマ」の代表的な作品のひとつとして、一般的には高く評価しているのだが、映画評論も書いている、「武蔵大学の教授」で「表象文化論」学会の役員だともいう北村紗衣が、「アメリカン・ニューシネマ」の特徴は「暴力とセックスだ」と語って、映画マニアの須藤にわか氏と論争になり、須藤氏が「現に『イージー・ライダー』のように、非暴力的な作品も多々ある」と反論したところ、北村紗衣がこれに再反論して「『イージー・ライダー』にも(南部の田舎者が主人公たちを襲う)凄惨な暴力シーンがある」という趣旨の、間抜けな反論をしていた。

それで、私が、いつもの如く「シャーバーン」式に「こいつはバカだな」と批判したら、北村紗衣は「管理者通報だ」「誹謗中傷だ」とまるで「ヒス男」のように大騒ぎしだして、須藤氏に対しても、

『『イージー★ライダー』の最後に出てくる田舎の人たちにつながるもの』

だなんていう見当違いの非難(誹謗中傷)を浴びせかけたのである。

だが、実のところ、そのご当人こそが「フォロワー5万人」の力を利用して、「Twitter」での、須藤氏との直接対論において、そうした「外野の声」なよる「優勢を演出した」というのは、先日の私の記事「北村紗衣という「ひと」:「男みたいな女」と言う場合の「女」とは、 フェミニズムが言うところの「女」なのか?」で、次のように書いたとおりである。

『「Twitter」上での「須藤にわか」氏と「北村紗衣」氏の「直接的意見交換」に対し、「北村紗衣」氏の取り巻きである「フォロワー」たちが、「北村」氏の「おかしな絶対定義」を支持して一斉に「そうだそうだ」と声を上げ、一方「須藤にわか」氏の「常識的な定義」に対しては「個人的なお気持ち」だの「出典は俺です」だのと、悪意ある嘲弄を繰り返すことで介入したのは、ネットではよくあることだとは言え、やはり「問答無用の、イジメ的な袋叩き」であり「集団的暴力」として、決して許されない行為であることは、明白なのだ。
だからこそ、後で論じるとおり、真の問題は、こうした「取り巻きの有象無象」ではなく、その跳梁跋扈を知っていながら、そうした「敵手に対するイジメ行為」をありがたく黙認して利用した「北村紗衣」氏の方だと言えるのだ。

ともあれ、そんな集団暴行的な「外野の声」の、あまりの大きさに、多勢に無勢の「須藤にわか」氏の心がすっかり折れてしまい、「これでは議論にならない」と、「北村紗衣」氏との議論の場からの退却したのは、ごく当たり前の判断であって、「北村紗衣」氏の取り巻き連中が考えたような「北村紗衣の勝利」などでは、金輪際あり得ないのである。』

「北村紗衣vs須藤にわか」「X」上の対論が始まると、北村側に加勢する者たちがわらわらと現れ、須藤にファンネルを飛ばして嘲弄。北村は、こうしたものを黙認したまま、自説を一方的に主張した)

そして、かねてから、北村紗衣のこうした「ファンネル・オフェンス」(※ 取り巻きによるヤジなどを利用する攻撃法)の使い方に注目していた、評論家の与那覇潤は、私のこの記事を受け(リンクを張って)、次のようなタイトルの記事をアップしたのであった。

『なぜ、学問を修めた「意識の高い人」がネットリンチに加わってしまうのか』一一ここで言う「加わる」とは、「直接加わる」ということだけではなく、自分に都合が良ければ「黙認する」とか、「陰で煽動する」といったことも含まれよう。
なにしろ「刑法」にも、「共犯」の一種である「教唆犯」というものもあれば、「未必の故意」というのもあるくらいで、そういう法的根拠もないと、「自分の手は汚さない」卑怯者の犯罪を裁くことなど、金輪際できないからである。

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そんなわけで、私たちが本作『ハックルベリー・フィンの冒険』から学ぶべきは、「お勉強で得た(二流の)小理屈」的なものではなく、「この言い分は、何かおかしい」とか「これは酷い」というような「良心的な直観」を大切にしなくてはいけない、ということなのである。

そうでなければ、「頭の悪い大衆」ほど、その種の「小理屈」に、ころりと騙され、「正義に立っているつもりで、卑怯卑劣な悪をなす」ことになってしまうし、そんなことは決して珍しくはないのだ。

つまり、私たちに必要なのは、そうした「ねじ曲げられた良心」だの「ねじ曲げられた知性」ではなく、ハックが体現してみせた『健全な心』としての、「本物の良心であり知性」なのである。



なお、本稿中、北村紗衣氏については敬称を略し、須藤にわか氏には「氏」を付したが、これは、須藤氏がアマチュアの書き手であるためであって、北村氏を「女性差別」したからではないと、いちおう断っておこう。そんな頭の悪い誤解をするような馬鹿はいないと思うが、念のため)



(2024年9月2日)

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