『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』 : 特集記事を総括する。
雑誌評:『情況 2024年夏号 【特集】トランスジェンダー』(情況出版)
本書に収録された特集論文の中には「すでに崩壊した論壇」というような言葉も見られた。だから「今、論壇で話題の」という形容をつけて良いものなのかと迷ってしまうが、仮に形骸化しているとしても、一応のところ「論壇的」に「今や話題」なのが、この「トランスジェンダー」問題である。
私は、この問題の存在を知った1ヶ月弱前以来、関連書を3冊読んでいる。
言い換えれば、まだ3冊しか読んでいない、ほんの「初心者」だと言えるだろう。
だがまた、本書の寄稿論文を読んでみると、当事者以外だと、この問題の存在について、ごく最近知ったという者も少なくはない。
したがって、この「トランスジェンダー」問題についても、本来であれば、もっとその実態が明らかになってから論じるべきなのかもしれないが、残念ながらこの問題は、そんなに悠長には構えていられない喫緊の課題であり、だからこそ、「最近この問題を知った」という論者までが、危機感を持って、本特集に寄稿したのだとも言えよう。
したがって、この問題については、「すべて知ってから、おもむろに見解を表明する」というわけにはいかないのだ。
だから「勉強を進めつつ、その時点での持てる知識において、誠実に自分の見解を語るしかない」ということになるのである。
そんなわけで、この問題の存在を知って、まだ1ヶ月弱であり、関連書を3冊(本誌を含めれば4冊)しか読んでいない私であろうと、この問題のかかえる「緊急性」を知った者としては、積極的に発言していかなければならないと思う。
そうしなければ、この問題は、「議論」を経ないまま、「政治的」に力のある方によって、ゴリ押し的に押し切られてしまいかねない状況にあるからだ。
この「トランスジェンダー」問題とは、一一「トランスジェンダーの人たちの問題」と言うよりも、正確に言うならば、「トランスジェンダリズム」の問題と言えるだろう。つまり、「トランスジェンダー主義」という「イデオロギー」のもたらす問題なのだ。
「トランスジェンダー」とは、次のようなものである。
本来「トランスジェンダー」とは、「性別をトランス(移動・変化)さえること(あるいは人)」のことであった。簡単に言えば「男から女に変わる」「女から男に変わる」という「性転換をする人」のことであり、しかもそれは、基本的には「不可逆的に決定的なもの」であり、「男から女になって、また男に戻る」とか「その逆」とか「それ以上に、コロコロ変わる」といったことまでは想定されていなかった。
なぜなら、「トランスジェンダー」の「性自認」とは、出生時に医師の与えたものとは違っていても、当人の中では「確たるもの」だと考えられていたからだ。
したがって、「身体は男だが、心は女だから、体を改造して女に変わる」とか(その逆)いったものが、本来の「トランスジェンダー」だったのである。
だが、「トランスジェンダリズム」というのは、そういう「具体的」で「固定的」なものではなく、もっと「観念的」であり「思想」的「主義」的なものであり、だから「イデオロギー」的な「観念」なのだと言い得る。
具体的に言うならば、「トランスジェンダリズム」とは「男であるか女であるかは、当人の自己認識(性自認)で決めるものであり、身体が男であるとか女であるとかいった解剖学的な事実は、どうでもいい。肝心なのは、個人の心(自己認識)であり、それに基づく意志的な選択なのだ」というものなのである。しかも、肝心なのは「当人の認識と意志」なのだから、当人の認識が変わることがあっても、それはそれで正しいと、全肯定されるのである。
つまり、「トランスジェンダリズム」とは、一種の「精神至上主義」であり、その意味ではある種の「理想主義」なのだが、その一方で、「肉体的現実」を「二の次」あるいは「無視」するにも等しいものでもあったため、「そうは言っても、肉体的現実は無視できまい」という「現実主義」「保守主義」的な立場の者との「軋轢」を生んでもいるのである。
ここで、いささか「趣味」に淫するものの、わかる人には、とてもわかりやすい、比喩的な説明をしてみよう。
すでに「古典」となった傑作テレビアニメ『機動戦士ガンダム』という作品があって、この作品には、「ニュータイプ」という「人類の進化形態」が描かれる。
人類が宇宙に進出して数世代を経るうちに、その環境変化に伴う空間認識の変容などによって、感覚的なもの拡張された子供たちが生まれてきた。
言うなればそれは、地上的な「二次元」感覚ではなく、宇宙空間的な「三次元」的に感覚の拡張された新世代(の一部)のことである。
同作の中では、この「ニュータイプ」は、ほとんど「超能力者」的に表現されており、「極度に直観に優れた人」的な描写にしかなっていないのだが、これはアニメの作り手も作品鑑賞者も、当然皆「オールドタイプ」なのだから、「ニュータイプ」を「自然」に描くことが困難だというのは、致し方のないところではあろう。
だから、そうした技術的な問題はひとまず横に置くとして、この作品で面白いのは、この「ニュータイプ」的な「新人類」性を強調する独立国家「ジオン公国」が誕生して、それまでの「地球連邦」に対して独立戦争を仕掛ける際に、「地球連邦」を批判するロジックとして「重力に縛られた者たち」というような表現(レトリック)を使うことだ。
つまり、自分たちは「ニュータイプ」的に「自由な空間認識」に生きているのに、「地球連邦」の今だ「重力に縛られた」感覚しか持ち得ない「オールドタイプ」たちが、その「旧弊な感覚と論理」で、我々までも「地上の重力」に縛りつけておこうとするのは不当なことだと、そう主張するのである。
これは、「ニュータイプ」の独自性とその自己決定権を主張する「ジオン公国」側としては「当然のこと(要求)」なのだが、「地球連邦」側からすれば、まだまだごく一部の存在でしかない「ニュータイプ」という「特異性」を担いでの、「ジオン公国」の「ニュータイプ」云々という主張は、所詮「政治的な口実」であり、一種の「ペテン」でしかない、ということにもなる。
「連邦」としては、「実際のところ、お前らの大半もオールドタイプなんだし、いまだ曖昧な少数例外であるニュータイプを基準にして勝手なことを主張されては、連邦(社会)はバラバラになってしまう」と、このような考え方だと言えるだろう。
つまり、「トランスジェンダリズム」とは、この「ジオン公国」における「ニュータイピズム」みたいなものなのである。
たしかに、そういう「少数派」も存在して、それへの社会的な配慮も必要だし、そうした人たちが増えていくのであれば、それに応じて社会を改良していくことも必要だろう。一一だが、そういう人たちがいるから、これからは「ニュータイプ」のロジックに従ってもらわなくては困るなどと言われても、今度は大半の「オールドタイプ」の方が困る、ということなのだ。
「トランスジェンダリズム」の「男であるか女であるかは、個人の自己認識(性自認)で決めるものであり、身体が男であるとか女であるとかいった解剖学的な事実は、どうでもいい。肝心なのは、個人の自由意志であり、自己決定なのだ」という「理想論」あるいは「極論」は、人間には「男女の性別」があると信じてきた、大半の普通の人たちにとっては、当然のことながら、容易に受け入れられるものではない。
だから、男女なんて「そんなものは、幻想である」とか「旧弊な制度である」などと、短兵急なことを言っても、すぐに納得が得られることなどあり得ないのだ。
では、すぐに納得が得られないのだとすれば、どうするのか? 一一そこが問題なのである。
「トランスジェンダリズム」側、つまり「LGBT活動家(運動家)」あるいは「トランス活動家(運動家)」と言われる人たちは、「まず制度的な変更を優先して、その後、多くの人には、時間をかけて馴れてもらう」という考え方をする。
なぜなら「理解を得てから変える」などと言っていては、いつまで経っても変わらないし、その間「トランスジェンダー」は「少数者」としての偏見や不利益を受け続けることになるのだから、まずは「完全に平等な制度」へと形式を正してから、古い感覚の皆さんには、それに「馴れてもらう」しかない。つまり、「形から入って、意識を改めてもらう」という考え方なのである。
だが、「反トランスジェンダリズム」側から言うなら、
「そんな、既成事実で押し切ろうとするような、乱暴なやり方は認められない。それにそれは、自分たちの主張が自明に正しいものだというのを前提としたやり方だが、それが本当に正しいのか否かの議論はまだ始まってもいない。だから、まずは徹底的に議論をして、お互いの意見のすり合わせをした上で、変えるべきところは変える、残すべきところは残すということで進めないと、そんな急進主義的な、あるいは革命的なやり方は、社会そのものを破壊しかねない危険なものだ」
というようなことになるのである。
つまり、双方の意見には「一長一短」があるのだ。
「トランスジェンダリズム」側の主張は、いささか手前味噌な「理想論」であり、「今の現実」を軽視しているきらいがある。
さらに、穿って言えば、たぶん彼らの本音には「そんな古いものなど、さっさとぶっ壊してしまえば良い。性的な少数者を救うという正義のためならば、そうしたことも許されるし、そのくらいのことをやらないと、何も変わらない」というような、急進主義的な「乱暴さ」がある。
一方の「反トランスジェンダリズム」の側は、一応のところ「穏健」ではあるものの、それは「既成の社会体制」に配慮するという意味において穏健なものでしかなく、その背後には「性的少数者に犠牲を敷いている」という現実に対する配慮が、十分とは言いかねるところがあるのだ。
だから、「トランスジェンダリズム」派に言わせれば、「あなた方を納得させられないかぎり、永遠にこちらが犠牲を強いられなければならないのか?」と、そういう話にもなるのである。
したがって、両者の主張の折り合いは容易なことではつけられず、いきおい「改革派」である「トランスジェンダリズム」派(以降は「トランス派」と略記する)は、「話し合いなど時間の無駄だから、われわれは、ロビー活動などの実効性のあるやり方で、実務的に話を進めていく」という「ノーディベート」戦術を採用して、「反トランス派」を無視することになる。
すると、「反トランス派」からは「民主主義の根幹である話し合いを否定する、横暴な態度だ」と批判されることになるのだが、「トランス派」は、それをも無視することになって、事態は「急を要する危機的なもの」となってしまっているのである。
○ ○ ○
さて、私がこれまで読んできた、この問題に関する本とは、本誌『情況 トランスジェンダー特集号』を除けば、次の3冊ということになる。
(1)アビゲイル・シュライアー『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』
(2)斉藤佳苗『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』
(3)キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』
この3冊に共通するのは、いずれも「反トランス派」の立場から書かれたものだ、という点である。
そして、その内容とは、「差別をなくそう」という「大義名分」の陰で進められている「トランス派」の乱暴なやり方を、世間の人たちは、まだまったく知らされていないため、その「差し迫った危険性」を知らせようとするものだと、そう言えるだろう。
そして、この3冊を読んだ際の私の態度といえば、基本的に「事実報告は、知識を与えてくれるものとして尊重するが、危機を煽る態の、著者の主張自体は鵜呑みにせず、あくまでも批判的に突き放して読む」というものだった。
で、(1)については、内容の大半が「事実報告」だったので、おおむね肯定的に読んだのだが、(2)と(3)については、(1)と同じ立場に立つものとは言え、「事実報告」を主眼としたものではなく、その「事実」に対する自分たちの「解釈」に基づく、その「立場と考えを語ったもの」だったので、この2冊に関しては、かなり厳しい評価を与えることになった。
要は、(2)と(3)の立場には、「トランス派」の急進主義を批判して、
ところのある主張ともなっていて、そこを私は批判したのだ。
殊に私が強調したのは、「トランス派」が、哲学者ジュディス・バトラーの「ジェンダーとは制度的なフィクションである」という趣旨の主張を理論的に取り入れているせいで、「反トランス派」である(2)と(3)は、バトラーまで、一緒くたに敵視してしまっているのだが、それは誤りだ、という点である。
私に言わせれば、「トランス派」によるバトラー利用は、自分たちに都合のいいところだけを切り取って利用する「美味しいとこ取り」でしかなく、バトラーのそれを理解してのものだとは言えない。
したがって、いくら「トランス派」が憎いからといって、バトラーまで敵視するのは、「トランス派」と同様の「バトラーに対する無理解」でしかないから、そういう誤った態度は改めるべきだということである。
つまり、「政治問題」に必死になるあまりに頭に血が上り、「理論的」にいい加減になってしまうと、もともと十分に知的ではなく、もっぱら「政治的」な「トランス派」と、「似たもの同士」の「目くそ鼻くそを嗤う」なってしまうぞ、という趣旨の批判を、私は(2)と(3)のレビューで展開したのである。
したがって、私の立場は、単純に「トランス派」でもなければ「反トランス派」でもない。
原理的には「人は、男女二元論という今の制度的な幻想から解放されて、平等が目指されるべき」とは考えるのだが、しかしそれは、性急に「実効性」を追い求める「ノーディベート」の急進主義によるものであってはならない。
あくまでも「話し合いによる相互理解」において、合意に基づいて、徐々に社会を変えていくという「漸進主義」でないと、社会が混乱をきたし、結局は双方のためにならないことになる蓋然性が低くない。
だから、「性的マイノリティ」に、これ以上の「犠牲」やら「忍耐」を強いるのは本意ではないけれども、「社会そのもの」を破壊してしまっては元も子もないので、「性的マイノリティ」に対しては、可能な「手当」をしつつ、議論による理解を進めてゆき、その先の「改革」を目指すというのが穏当であろう。一一と、おおよそそういう立場なのである。
○ ○ ○
さて、そんな「穏健中道派」的な私が読んだ、4冊目の関連書となるのが、本誌『情況 トランスジェンダー特集号』なのだが、本誌で初めて、私は「トランス派」の意見に、直接に接することができた。
本誌は「論壇誌」として、まずは両派それぞれの考えを明らかにすべきだ、という立場から編集されている。
これは、同誌が「2022年・春号」で「キャンセルカルチャー」特集を組んでおり、基本的には「キャンセルカルチャー」という態度に明らかな「問答無用」という立場を批判する立場から出てきたものであろうし、本誌が「論壇誌」である以上、これは、当然の立場だとも言えるだろう。
ただし、「双方の意見が聞きたい」といくら求めたところで、そもそも「実効性」を重視して「ノーディベート」を主張する「トランス派」が、この求めに易々と応じるとは限らない。
では、現に本誌に登場した「トランス派」とは何者なのかと言えば、それは「トランス派の中においては、比較的、言論を重視するタイプの穏健派」だと、一応はそういうことになるだろう。つまり、完全に「ノーディベート」というのも何だから、求められれば「立場の説明はしますよ」というタイプの「トランス派」だということになる。
言い換えれば、本誌に登場した「トランス派」というのは、「反トランス派」が問題としているような「急進主義者」ではない、ということにもなろう。
だから、本誌に登場した「トランス派」だけを見て、「なんだ、反トランス派が言うほど、話にならない連中ではないじゃないか」と考えるのは「間違い」である。
現実には、本誌の登場した「トランス派」などとは比較にならない、完全に「政治的急進派」としての「トランス派」も存在していて、むしろそこを「反トランス派」は問題視しているのだということを、正しく理解しなければならないのである。
さて、本誌に収められた特集論文は、次のとおりである。
それぞれの頭につけた記号は、私の判断による、「○」は「トランス派」、「◎」は「反トランス派」、「△」は「どちらでもない派」(「中立」ということではない)ということになるだろう。
つまり、論文の本数としては、「反トランス派」の方が多いが、これは「情況編集部」が意図したことではなく、噂どおりに「トランス派」に「ノーディベート」を採用する者が多かったと、そう、解釈すべきだと思う。
また、そうではないというのであれば、「トランス派」は、積極的にディベートの場に出てくるべきだろう。
ちなみに、私の立場はと言うと、「反トランス派」寄りの「どちらでもない派」くらいに思っていただければ良いと思うし、先に示した3本のレビューに、私の考え方は、すでに明示してある。
さて、ここからは、全体を見渡した上での私の分析を語り、さらにその上で、可能なかぎり、それぞれの論文についての感想を書くことにしよう。
○ ○ ○
まず、全体として言えることは、一見したところ「穏健なトランス派」に見える(10)のインタビューにおける、「れいわ新選組」所属のトランスジェンダーの政治家・よだかれん(依田花蓮)の言葉が、「トランス派」を考える上で、最も注目すべきものだと思う。
というのも、よだの言うことは、一見「穏健」に聞こえるが、じつのところ「当てにならない話」でしかないと、そう断じて良い、いい加減なものだからである。
例えば、「トランス派」と「反トランス派」の対立において、「わかりやすい争点」として、しばしば取り上げられるのが、「身体が男性のままでも、心は女性だから、私は女性である主張する、トランス女性」が、法的にも「女性」だと認められると、そんな「トランス女性」が、これまで「生物学的な女性の占有空間」であった「女性用トイレ」や「女風呂」にも入ってくるようになるかも知れず、それは「それまでの生物学的女性」には、我慢ならないことであるとする問題で、そう主張する「反トランス派」の批判に対する、「トランス派」としての、よだの「反論」の中身だ。
よだは、次のように主張している。
まず、ここである。
よだは、世の中を変えていくためには『一つは、理解とか共感とかっていう人々の感情。もう一つは、法律や制度を整えるっていうこと』だと言う。一一ここまでは、もっともな話である。
そして、「反トランス派」が批判するのは、よだのような「トランス派」は、「法律や制度」を変えることばかりに重きを置くために、「理解や共感」を得るための「議論」をしようとはせず、意識的に「ノーディベート」戦略を採っている、という点であった。
では、ここで、よだは「理解や共感」を得るための「議論」を「する」と言っているのかというと、そうではない。
要は、トランスジェンダーが、たくさん世に出ていって「目から馴れてもらおう」ということなのだ。
つまり「議論」をして「頭で納得してもらおう」というのではないのである。要は「馴れ」という既成事実を「理解と共感」と呼んでいるのであり、「説明して納得してもらう」とは、ひとことも言っていないのだ。
これは前の引用文に続く部分だが、ここで問題となるのは、
と断じている点だ。
要は、「そんな事実はない」と言っているのだが、これは明白に「嘘」である。
例えば、日本国内ではまだ多くはないとはいえ、すでに次のような事例が、国内でさえ現に起こっているのだ。
・「心は女性だ」と女湯で入浴した男 建造物侵入で逮捕の訳 #専門家のまとめ
建造物侵入罪で逮捕された「肉体的には男」の主張した「心は女だ」というのは、要は「自分は、肉体は男だけれど、心は女の、トランスジェンダーの女性である」という意味である。
したがって、『「女性トイレにトランスジェンダーが入ってきて性犯罪を犯す」とか「男性器がついたままのトランスジェンダーが女性のお風呂に入ってくる」みたいな』話は『デマや誹謗中傷』ではなく、「事実」として存在しているということなのだ。
では、よだはなぜ、こんなあからさまな「事実」を否定して、『デマや誹謗中傷』だなどと言うのか? そこにどんなロジックがあるのかというと、それは次のような理屈になる。
つまり、「トランス女性(肉体は男のまま)」が戸籍上で「女性」になったとしても、実際には「女性トイレ」や「女風呂」に入ったりすることはできないような「法的な建てつけになっている」から、そんな心配はないんだ、という理屈なのである。
だが、この「言い訳」は、明らかにおかしい。
まずは、『「女性トイレにトランスジェンダーが入ってきて性犯罪を犯す」とか「男性器がついたままのトランスジェンダーが女性のお風呂に入ってくる」みたいな』話は、「法規」がどうなっておろうと、すでに現に発生している「事実」であって、金輪際『デマや誹謗中傷』ではない、ということ。
まあ、せいぜい「針小棒大な言い方だ」と反論するので精一杯な話なのに、それを「事実」ではない『デマや誹謗中傷』だと言い切ってしまえば、そちらの方が、「嘘」であり「デマ」だということにしかならない。
次に、「肉体が男性のままの、トランス女性」が『手術要件をなくして性自認のみで戸籍上の性別を変えられるようになったとしても、公衆浴場ルールのような社会的なルールは変わらないんです。』という説明だが、それは「現時点」ではそうだ、というだけの話でしかない。
つまり「今のところは、そう」なのだが、実際に法改正がなされて「肉体が男のままの、トランス女性」が「女性」だと認められれば、「女性が2種類」あることになって、「旧来の女性(肉体も女性)」は「女性トイレ」や「女風呂」に入れるのに、「新しい女性(肉体が男のトランス女性)」には「その権利が無い」となれば、やがてそれは「差別」だということになり、「完全な平等としての同権」が、早晩求められることになるはずだ。
実際、法律でも「同権の女性」ということになっているのだがら、「女性トイレ」や「女風呂」に入ってはいけないという、「肉体は男のままの、トランス女性」に課せられた「付帯条件」は、「差別条項だ」と批判されることになって、いずれは改正され、「肉体は男のままの、トランス女性」も、「女性トイレ」や「女風呂」を使えるようになる公算が、極めて高い。なにしろ法的には「同じ女」だからである。
つまり、よだはここで「今はこうなっているから大丈夫だ」という説明をしているだけで、当然のことながら「将来のこと」までは、何の保証もしていないのだ。
また、仮に「将来的にも、絶対に変わりませんし、変えさせません」と、よだが保証したとしても、そんな保証をする権限は、よだには無いのだし、よだの死んだ後までの保証もできないのである。
したがって、よだのここでの「保証」は、「今のところは」という「期間限定の保証」でしかないのだが、『「女性トイレにトランスジェンダーが入ってきて性犯罪を犯す」とか「男性器がついたままのトランスジェンダーが女性のお風呂に入ってくる」みたいな』ことを心配している、主に「肉体も女性」の人たちの心配とは、そんな「期間限定」の話ではなく、この先もずっとの「心配」なのである。
それに、先に書いたとおり、よだは「理解と共感」を、「議論や説得」ではなく、トランスジェンダーが多く露出することで「馴れてもらう」という「既成事実」による「変更」を考えているのだから、「今のところは」という「期間限定の保証」など、永続的なものとは考えていないのも明らかだろう。
つまり「みんなが馴れてくれば、完全な同権を実現して、肉体が男性のままのトランス女性も、女性トイレや女風呂が使用できるようになるのは、むしろ当然である」と考えているに違いないのである。それが、人の心の「論理的な一貫性」というものなのだ。
さらに、注意しなければならないのは、よだが、「反トランス派」のことを、『トランスヘイターの方』とか『ヘイター』などと呼んでいる事実である。
『の方』なんて付けても、相手を「ヘイター」つまり「差別者」呼ばわりしたのでは、初めから「話し合う気など無い」のだと、そう理解していいだろう。その気があれば、「論敵」を、何度も「ヘイター」呼ばわりしたりはしないはずだからである。
つまり、よだの本音も、所詮は「ノーディベート」だということなのだ。
さて、さらにここで留意しなくてはならないのは、こんなよだであっても「トランス派」の中では比較的「穏健派」であり、インチキくさい説明ではあっても、いちおうは、自分たちの立場を「説明する」というスタンスを採っている、という事実である。
つまり、言い換えれば「比較的穏健」な、よだですら、こんな「インチキな説明しかしない」し、その本音が「ノーディベート」なのであれば、「トランス派」の本流の本音とは、ゴリゴリの「ノーディベート」であり「本当のことを話す必要などない」と思っているのは、まず「間違いない」ということにしかならない、ということである。
「トランス派」の中では穏健派っぽい、よだの、しかし、その「インチキな説明」によって、「トランス派」の「ノーディベート」戦略が、ここで明らかになっている。
「トランス派」の広告塔(露出的存在)であるよだが、ここで「トランス派」の「本音」を不用意に明かして、「墓穴を掘った」事例として、このインタビュー記事は、きわめて重要な意味を持つものなのだ。
つまり、単に「反トランス派」が、「トランス派」のことを、『デマや誹謗中傷』で「ノーディベート」で卑怯だと言っているのではないことが、よだの「インチキな説明」から、明らかになった。
「反トランス派」の指摘に「嘘」はなかったということが、ここで逆証明されたのである。
○ ○ ○
そんなわけで、本誌に掲載された特集論文は、当然のことながら、両派ともに「ピンからキリまである」のだが、双方の意見を総合的に見れば、「反トランス派」の「危惧」はもっともであり、「トランス派」の「被害者アピール」は、それが事実だとしても、「旧来の世間の常識に生きる人たちへの配慮が無い」という点に問題がある、と言えよう。
要は、「旧来の世間の常識に生きる人たち」とは、要は、その自覚の有無に関わりなく「差別してきた側」の人たちなのだから、「今度はそちらが我慢する番だ」というのが「被害者だった側=トランス派」の「本音」なのである。
「どうして、いつまでも、こっちばかりが我慢していなくちゃいけないんだ」という「怨みの念」が、元「被害者側」による元「加害者側」に対する、ごく当たり前の「報復感情」としてあるのだ。だからこそ、主導権を握ってしまえば「やりすぎる」おそれは当然あるし、「約束を守らない」おそれだって、あって当然なのである。
実際、ノンフィクション作家の斎藤貴男は、(03)の記事「リベラルとトランスジェンダー」で、次のような事実を、報告している。
ここで斉藤の言う『ああ、やっぱりそういう前提なのか』というのは、要は「それが本音だったんだな、やはり」ということである。
つまり、「トランス派」が、いかに「私たちは、誰も傷つけようなんて思っていない。ただ、当たり前に平等に扱って欲しいだけです」などという「真っ当なこと」を言ったとしても、それは多くの場合、「綺麗事」の「公式見解」でしかなく、「本音ではない」ということなのだ。
もちろん、本気でそう思っている人も、中にはいるだろう。だが、決して主流派ではない。聖人君子は、少数派だからこそ、聖人君子と言われるものなのだ。
ともあれ、「トランスジェンダー」当事者ではない「トランス派の弁護士」でさえ、このように「虐げられてきた者の権利を獲得するためには、虐げてきた人たちに痛い目を見てもらうのも仕方がないことだし、当然のことだ」という趣旨のことを語るくらいなのだから、これまで現に差別され虐げられてきた「トランス当事者」が、彼らを「変態」扱いして「蔑視してきた人々」、つまり「旧来の価値観を当たり前に受け入れてきた男女」に対して「恨みつらみ」を抱いていたとしても、それは無理からぬことだし、彼らが「建前」は別にして、本音では「今に見てろよ。目にものを見せてやる」と、そういう「復讐の念」を抱えていたとしても、何の不思議もないことなのだ。
そのことを、この「トランス派の弁護士」の言葉は、ハッキリと語っているのである。「今度は、あなた方に、つらい思いをしてもらう番だ」と。
したがって、総論としての私の考えは、「性的マイノリティ」への理解は増進されるべきであるが、あくまでもそれは「話し合いのよる相互理解」によって進められるべきであり、「制度改革」ありきで「理解は後からついてくる」などという「トランス派」のやり方は、好ましいものではない、ということだ。
そんなことを強行すれば、「理解は後からついてくる」どころか、その強引なやり方に「恨みつらみ」を募らせ、「被害者意識」を持つ人たちが少なからず出てくるだろう。
その結果、おなじみの「憎しみと報復の連鎖」的なものが、そこに生まれるだろうし、その結果、日本人の中でも「古い価値観を重視する人」と「新しい価値観を重視する人」の間に、「対話不能」の、決定的な「分断」が生み出されてしまい、社会が混乱する恐れが低くない、ということである。一一人間は、「決まったことだから、それでいける」なんて、そう「理屈通りにはいかない」ものなのだ。理屈はどうあれ、「憎い」相手まで、理解しようとはしないものなのである。
だから、遺恨を残すような「解決手段」は、決して解決をもたらさないのだ。
したがって私としては、今の「トランス派」の「議論はせず、既成事実を重ねて押し切る」というやり方には、反対である。
よだかれんの「誤魔化しに満ちた綺麗事」など到底信じられず、むしろ、斎藤貴男のレポートに登場した「トランス派弁護士」の言葉の方が、「トランス派の本音」であろうとしか思えない。
つまり彼らには、少なからず「下剋上」の感情があるのだ。
単なる「平等になりたい」ではなく、「これまでの恨みつらみを今こそ晴らし、自分たちが受けてきた屈辱を思い知らせてやる」という感情が、多かれ少なかれある。
残念ながらそれは、人間の感情として、ごく「自然なこと」だからこそ、そのことは否定し得ないのである。
○ ○ ○
さて、ここからは、特集論文個々について、簡単に紹介しておこう。
(01)の、本誌編集長・塩野谷恭輔による「特集によせて トランスジェンダーの権利擁護と、開かれた議論のために」は、残り少ない「論壇誌」として、その「使命の自覚と覚悟」を語ったものであり、そのことが、次の言葉に語られている。まったく同感である。
(02)のベンジャミン・クリッツァーによる「「焚書」のレトリックに踊らされないために 『トランスジェンダーになりたい少女たち』宣伝手法の問題について」と、(07)の森田成也による論考の2本だけは、アビゲイル・シュライアーの『トランスジェンダーになりたい少女たち』のレビューを書く際、今回の本誌通読に先んじて読んでおり、そちらに、本論考に対する批判的な評価を語っておいたので、ここでは繰り返さない。
(03)の斎藤貴男による「リベラルとトランスジェンダー」は、昔から彼のファンだった者には嬉しい文章だ。斎藤は「変わっていない」と、そう感じさせられたのである。
(04)の岩波明による「トランスジェンダーの「沼」」は、『トランスジェンダーになりたい少女たち』の「監訳者」として、同書の邦訳版出版をめぐる、あれこれのトラブルの顛末を紹介したものである。
(05)の白井聡による「トランスジェンダリズムとは何なのか?」は、最近になってこの問題の存在を知った白井が、危機感を募らせて、その勉強結果をもとに、自分なりに「トランスジェンダリズム」の問題点を訴えた文章である。
党派的な損得に流されない、しごく真っ当で良心的な文章だ。
(06)の「[書面インタビュー]笙野頼子 女消しに抗して、世界権力に異議を」は、個性派作家・笙野頼子へのインタビューで、笙野の立場は「反トランスジェンダリズム」である。
クセの強い個性派小説家だけあって、いささか奇矯と呼んでも良いような表現が頻出するが、笙野の本気さは疑い得ない。
(07)の森田成也による「自由に対する左からの脅威 アビゲイル・シュライアー本をめぐる諸問題」は、(02)の紹介部分で書いたとおり、『トランスジェンダーになりたい少女たち』のレビューを書いた際に読んでおり、そこへ共感的な感想を書いておいた。
要は、「ネトウヨ(右)がやっても、リベラル(左)がやっても、出版妨害は出版妨害だ」という、真っ当な主張である。
(08)の三橋順子による「成立から二十一年、「GID特例法」の今」は、昔のトランスジェンダー当事者の、「長い歩みだった」という感慨を語るもので、共感できる内容である。ただし、「社会を変える」ことについて、「相手の立場で考えてみる」という視点には欠けているともいえよう。
なお、「GID特例法」とは、「性同一性障害特例法」の略称で、すでに医学の世界では「性同一性障害」というものは、存在しないということになっている。「障害」ではなく「トランスジェンダーという個性」だと考えられるようになったのだ。
(09)の安冨歩による「LGBTの非存在について」については、タイトルのとおりで、そもそも「LGBTは存在しない」という視点に立つ、そのユニークな考え方を語ったもので、そうした自己規定としての各種「概念」があるからこそ、「差別される者とする者」という関係が生まれてしまうのであるから、そんな「物の考え方」は捨てるべきだ、とする主張だ。
これは、ある意味ではジュディス・バトラーの「ジェンダーは制度的なフィクションである」という主張と似ているのだが、しかしこの論考に限って言えば、安冨は「原則論」を語っているだけで、そんなことのできる(そんなふうに考えることのできる)人はほとんどいない、という「現実への配慮」が感じ慣れないところに、少々引っ掛かりを覚えた。
なお、安冨歩については、ずいぶん前に『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語』(2012年刊)を読んで、好感を持っている。
(10)の「インタビュー よだかれん トランスジェンダー当事者の可視化で広げる人々の理解」については、すでに書いたとおりで、私はこの人を信用しない。
「れいわ新選組」には好感を持っていただけに、こんな人を衆院選候補者に擁立するようではと、その信頼まで揺らいでしまった。
(11)の「ポストモダンとトランスジェンダー」の小谷野敦は、かつて私がコテンパンに批判した男である。
本論考での小谷野は、もともとの「保守派」らしく、当然のことながら「反トランス派」として、いかにももっともらしいことを語ってはいる。だがそれは、敵手の程度が低すぎるからにすぎない。
小谷野は、最後に「仮名で書くのは卑怯だ」などと、最もらしく大見得を切っているが、卑怯ということでは、小谷野自身、決して誰にも負けていないし、その事実は、下のレビューを読んでいただければ明白だろう。
私は直接、小谷野とやり合って、その「ログ」を全文公開しているのである。
(12)の前田和男×尾辻かな子×沢辺均による「[鼎談]子ども向けのLGBT入門絵本から読み解く日本の性的マイノリティ運動の歩み」は、自分たちが刊行した、ベストセラー絵本に関する事情を語り合ったもので、大した内容ではない。
ただし、最後に付された前田と沢辺のコメントは、今の「トランス活動家のやり方は、かつての部落解放同盟のやりすぎや、新左翼の仲間割れによる自滅の道を、そのまま繰り返す恐れのあるものだ」という見方を示していて、私が、斉藤佳苗著『LGBT問題を考える 基礎知識から海外情勢まで』のレビューで、解同と新左翼も持ち出して指摘したことと、まったく同じ話である。
(13)の千田有紀による「学問の危機と『キャンセル』の方法論」は、千田が「トランスジェンダリズム」に、学問的に疑義を呈したせいで、いかに酷いイヤガラセに遭ってきたかを語ったものだと言えるだろう。
なお、千田は、私がレビューを書いた、キャスリン・ストック『マテリアル・ガールズ フェミニズムにとって現実はなぜ重要か』に解説を寄せており、私はこの解説文で、初めて千田の存在を知った。
そして、千田がこの解説で「キャンセル」行為を批判しており、そして千田が「武蔵大学の教授」であることを知って、それなら「キャンセル」で有名な、同大学の「北村紗衣」教授を知らないわけがないから、「解説」での「キャンセル」批判の責任を取って、北村紗衣を『批判せよ』と書いたのだが、本誌掲載の当論文で、千田が、北村紗衣を含む「呉座勇一に対するオープンレター」に署名した面々を批判していたことを知ったので、先のレビューに【お詫びと訂正】を書き加えておいた。次のようなものである。
なお、私の不勉強については謝罪したが、しかし、千田がキャスリン・ストックを『ストック教授の切れ味に、只者ではないと感じるだろう。』(同書解説・P329)と書いて高く評価したことに対し、
とした評価については、当然、撤回したわけではないことも、申し添えておく。
千田の「トランス派」に対する、批判や怒りはもっともなものだと共感するが、キャスリン・ストックを褒めているようでは、「読み手(の力量)」として「ダメだ」という評価は、変わってはいないということである。
(14)の阿部智恵による「身体改変的性別越境主義について 「性別」破壊論・序章」は、阿部が主張する「身体改変的性別越境主義」というものの紹介文である。阿部は、この考え方を広めようと、いささか右翼めいた形式での「運動」をしているようだ。
その主張するところは「男のまま(あるいは、女のまま)の肉体で、法的に異性になったと主張するから、周囲からの反発を買うのだから、本当に肉体改造し切ってしまえば、問題は起こらないし、周囲の理解や善意に頼る必要もない」という趣旨のものだ。
考え方としては、「同情などいらない」式に徹底しているところが、なかなか私の好みではあるのだが、その「右翼」めいた、組織名や役職名、あるいは、同様に古めかしい文体では、世間の理解の妨げにしかならないと思う。
また、そもそも、そんな徹底性を「大衆」に求めても、絶対に無駄だと、私は思っている。
まあ、阿部が大衆を信じるというのであれば、止めだてする気はないけれど、そのいささかナイーブな感覚が痛々しくさえ感じられる。
(15)の蘭茶みすみによる「在りたい私、私が決める メタバースとトランスジェンダー」は、バーチャル世界でのジェンダーからの解放の「現在」を報告するもので、そういうのも「あり」だとは思うが、しかし、当面、人間は肉体を捨てきれないのだから、そのあたりでの齟齬をどうするのかという部分が語られていないので、良いところだけが語られた「宣伝文」という印象は否めない。
(16)の谷口一平による「なぜジェンダー・クリティカルはペドフィリアと連帯しないのか?」は、哲学的に徹底した文章で、個人的には、本特集論文のなかで最も面白かったし勉強にもなった。
谷口が問題とするのは、「LGBTQ」が、「政治的な世間体」から「ペドフェリア」などの世間ウケしない「性的指向」を排除したことの欺瞞性と、それを指摘して批判する「ジェンダー・クリティカル」のフェミニストたちも、ペドフェリアを「トランスジェンダリズム派」批判の道具には使っても、ペドフェリアと連帯しようとはしない狡さを、両睨みで批判している。つまり、どっちも「ずるくて卑怯だ」ということであり、その点で、私の立場に近い。
また、併せて、「性交可能年齢」の法的設定の問題にも、哲学的に真っ当な批判を差し向けていて共感できる。そもそも「大人と子供の線引き」など、恣意的で政治的なものでしかなく、そんなものは「存在しない」のだというのは、ジュディス・バトラーの「ジェンダーは制度的なフィクションにすぎない」という主張と、同趣旨のものである。「すべては、制度的な虚構(フィクション)」なのだ。
(17)の佐藤悟志による「トランスヘイトの自由こそ基本的人権である」は、右翼活動をしている人らしい、単細胞な「敵味方二元論」を一歩も出ない、独りよがりなアジテーションにすぎない。
しかし、それでいて「何万人にイイねをもらった」とかいうようなことを自慢しているところが、妙に「今風」でもある。私よりいくらか年下なだけで、そこまで若くもないのにだ。
ともあれ、特集論考の中では、最も幼稚なものだと言えるだろう。
(18)の、本誌元編集長である横山茂彦による「ジェンダーを越境するために 萌え絵とアパレルから」は、特集の問題から一歩以上退いた立場からの、ジェンダーを超えた文化に対する「感性」の芽生えを語ったエッセイである。
ある意味では、「トランスジェンダー」問題の度し難い「政治性」を、編集者的に距離をとった立場から、批判した文章だとも読めるだろう。
(2024年11月13日)
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