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斎藤貴男 『カルト資本主義』 : カルト国家 〈日本〉

書評;斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫→ちくま文庫)

まずもって、面白い。しかも「名著」である。ただし「電波系の人」を怒らせる可能性は大だ。

本書が「名著」である所以は「特殊な(面白い)事例」を報告しているように見えながら、それが「普遍的な問題」であることをしっかり伝えているからだ。つまり、まったく「他人事」ではない。

そして、単行本(1997)、文春文庫版(2000)、につづいて三度目の刊行となる今回の筑摩文庫の「増補版」(2019)では、その「普遍」性が特に強調されている。
単行本、文春文庫版の時代には、まだ「予兆としての特殊事例」でしかなかったものが、「増補版」の現在の日本においては、すでに全面展開し始めており、今回の増補分は、その点を強調するものとなっている。

単行本、文春文庫版では、超能力、気、永久機関、万能微生物EM、稲盛和夫、船井幸雄、ヤマギシ会といった事例が紹介されており、本来「理性的」であって然るべき企業や役所においてすら、「非理性」的なものがいつの間にか浸透している事実が報告されていた。
その上で著者は、結局のところ、そうしたものが「人をコントロールして、金儲けをするための道具」として利用されている、という点を問題にする。つまり「変なことを信じている人たちがいる」といった「個人的な問題」ではなく、「変なもの(カルト的なもの)を利用して、他人をコントロールし、搾取する人たちがいる」という「社会的な問題」を告発していた。
言い変えれば「カルト的なものが、動員の技術として悪用されている=非理性的なものが、理性的に悪用されている」とも言えよう。

単行本、文春文庫版では、この「非理性的なもの」が、まだ比較的わかりやすい「カルト的なもの」に止まっていたのだが、「増補版」の現在では、「非理性的なもの」が「道徳」や「倫理」にまで(政治的に)拡大されてきており、それらを「動員の技術」として利用した、わかりやすい事例が「東京オリンピックのボランティア動員」なのだ。

オリンピックにボランティアとして動員される人たちは、必ずしも進んで参加表明したわけではない。
企業の社員として、あるいは学生として「参加しておかないと、協調性のない奴という烙印を押されて、不利益を被りそう」という裏事情があって(圧をかけられて)、やむなくボランティアに名乗りを上げた人も少なくないのだ。

もちろん、いくら「美辞麗句を並べた建前」を掲げられたとしても、何万人、何十万人という人が、それを鵜呑みにして、進んで「タダ働き」を申し出たというような「気味の悪い事態」よりは、まだしも「嫌々ながら仕方なく」の方が、精神衛生的には健全であるとは言えよう。だが、いずれにしろ、そんな状態が、社会的政治的に不健全なものであるというのは論を待たない。
私たち日本人は今や「北朝鮮国民」あるいは、先の「戦時日本国民」と同様の状態に置かれつつある。

そこで問われるのは「個の強度」なのではないだろうか。

「嫌なものは嫌」「そんなの関係ねえ」「私は私」「それはあなた方の価値観ですよ」「私の勝手」「私は、そうは思わない」「馬鹿馬鹿しい」一一こうした「毅然たる言葉」を、どれだけ確信を持って口にできるかが、問われる時代となっているのである。


初出:2019年4月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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