宏洋 『神になりたかった男 回想の父・大川隆法』 : カリスマ依存は終わらない
書評:宏洋『神になりたかった男 回想の父・大川隆法』(幻冬舎)
今年(2023年)3月2日、宗教法人「幸福の科学」の創設者にして、組織トップの「総裁」であった大川隆法が、66歳の若さで亡くなった。
死因は公けにされてはいないが、現代医学を否定していた大川隆法は、体調を崩したにもかかわらず入院治療を受けることもなく、自宅療養を続ける中で倒れ、不帰の人となったという。
これについて、大川隆法の長男で、本書著者である「宏洋」は、隆法がコロナに罹患し、それを悪化させたあげくの死ではなかったかという推測を示している。
若い人は知らなくて当然だが、「幸福の科学」は一時期、たいへん勢いのある「新新宗教」の教団であった。
私自身は、小学生の頃に両親ともども家族4人で「創価学会」に入会していたので、他宗を批判(折伏)する創価学会の会員らしく、「幸福の科学」の登場に、比較的早い時期から一定の興味を持っていた。「教祖は東大卒のエリートだそうで、集会を各地で開いて信者を増やしているそうだ。でも、教祖は、父ちゃん坊やみたいな頼りなさそうなヤツなんだけど、どうしてあんなのに騙されるかなあ」というような印象を持ち、そう評してもいた。「貫禄」ということで言えば、創価学会の当時の池田大作会長には比べるべくもない、およそカリスマ性に欠ける人物に見えたのである。
もちろん、大川隆法を評価する上でのポイントは、彼の「東大卒」という、異色の学歴である。なにしろ、それまでの「新宗教」の教祖といえば、さほどの「学歴」を持たない者の方が、むしろ多かったからだ。
敗戦後の日本社会に、雨後の筍のごとく生まれたという「新宗教」は、敗戦で多くのものを失った庶民を励ますものとして誕生した、「貧乏人と病人のための宗教」だと言われた。また、地縁を持たない地方出身者に、コミュニティを提供するものとして成長した、とも言われた。創価学会も、そうした「新宗教」教団のひとつであり、その典型であったと言えよう。
「新宗教」の「教祖」の多くは、年齢的にいっても、まだ大学への進学率の低かった戦前生まれの人たちだし、それは信者も同様だった。
また、戦前の「大卒者」といえば、今とは違って「一部の知的エリート階層」だったから、基本的には「無宗教」が当たり前だった。戦争で負けたのも、国民大衆が「天皇は現人神だ」などという「宗教」プロパガンダを鵜呑みにしたからだ、という認識もあったはずだ。だから、世間からも一目おかれていた知的エリートたる「学士さん」が、宗教をやるなどというのは、およそ外聞も悪く、彼らの高いプライドが許さない、恥ずかしいことでもあったのであろう。
ところが、時は移り、日本が急激な経済復興を果たしてのち、「バブル経済期」(1986年12月〜1991年2月)と呼ばれる、経済的に豊かな時代に突入する。
すると、戦後の「新宗教」に頼った「貧しい庶民」はいなくなり、「一億総中流」といわれる中で「経済的には何不自由はないが、心が貧しい」と感じるような人たちがおおぜい出てきて、「自分探し」を始めた。
「私は、なんのために生まれてきたのか?」「私は、なんのために生きているのか?」「目先の享楽に明け暮れ、ぼんやりと生きているだけの、こんな私でいいのだろうか?」「自分らしさって何だろう? 生きるに値する、本当の自分って何?」などといったことを考え始めた。経済的な豊かさだけでは得られない「心の充実」あるいは、その豊かさを求めるようになったのである。
もちろん、今となってみれば、一種の「贅沢病」だとも言えるだろうが、当時の人たちにとっては真剣な問題であったし、人々は、それを「心の時代」だと呼んだ。「(経済に支えられた)物の豊かさ」ではなく、「内面の豊かさこそが大切なのだ」と、一応はごもっともな考えを持つようになった。
そして、そんな新時代にふさわしい、「新しい宗教」が求められるようになったのである。
そういう、いかにも意味ありげな「贅沢な発想」を持てる人が大量発生してきた「経済的に豊かな時代」では、すでに「大学進学率」は、限りなく100パーセントに近づいていた。高望みさえしなければ、どこかの大学にはもぐりこめるようになり、すでに「大卒者」は「知的エリート」でもなんでもなくなっていた。逆に「大卒」でない者は、よほどの馬鹿か、大学へも行けぬ貧乏人だという印象を持たれるような時代となっていた。
また、だからこそ、「大学進学」とは「大学へ行きさえすれば良い」というものではなかった。「一流大学」に行かなければ「知的エリート」とは認められない、そんな時代になっていたから、「受験戦争」が加熱したりもしたのである。
言い換えれば、「大学進学」が当たり前になった時代だからこそ、「東大卒」という肩書きは、人々の憧れになった。
昔なら、庶民とは無関係だったものが、きわめて身近なものとなり、それでいて多くの人には手の届かない「憧れの対象」となったのである。
したがって、「幸福の科学」や「オウム真理教」といった「新新宗教」の場合は、戦後の「新宗教」の信者たちとは違い、お金もあれば、それなりに学歴もある人たちが、それに満足することができなくて、「より豊かな精神世界」を求めて入信していったのである。まただからこそ、教祖は「東大卒のエリート」だとか「チベットで修行してきた行者」だとかいった「特別な人」ということになったのだ。「バブル経済期」に相応しく、「宗教教祖」も「ブランド化」していたのである。
だが、本書の「解説」で、『宗教問題』誌の編集長である小川寛大が指摘しているように、現在、ほとんどの「新宗教」が信者を漸減させているのに対し、より後発の「新新宗教」のほうは、完全に消えてしまったものが少なくないという。
これは、「豊かな時代」に生まれた「バブル宗教」だからこそ、日本社会が経済的に行き詰まると、それに応じてそうした教団もダメになっていくというのは、いわば必然的なものではあったのだろう。今や人々は、「心の豊かさ」以前に、まず「当たり前の経済生活」を確保するのに忙しくなったのである。
そして、「幸福の科学」もまた、2010年代に入ると凋落の兆しが差し始め、他ならぬ「次期総裁」と目されていた本書著者の離反など、いろいろなことが重なり、危機的状況が徐々に深まっていった。そして、そんな中でついに、肝心のオンリーワン教祖が、あっけなく急逝してしまったのである。
本書では、大川隆法の長男であった著者が、「家族として見た大川隆法」像を紹介するとともに、著者なりの「大川隆法」論を語っている。
要は、大川隆法は「コンプレックスをバネにして、宗教で成り上がった男」だったという大川隆法理解を、自身の体験から導き出しており、とても説得的な分析となっている。
ただし、こうした「大川隆法像」は、本書著者の前著である『幸福の科学との決別 私の父は大川隆法だった』でも描かれていたことで、内容的に重複する部分も少なくない。
しかしながら、本書の場合は、前著にはなかった「教団運営のカラクリ」の紹介があり、それは手厚いものではないにしろ、興味ぶかい読みどころとなっている。本書は、前著を読んだ私が読んでも、じゅうぶんに面白かったのだ。
ちなみに、私は、社会人になった後に、創価学会を退会している。
原因は、自民党と連立政権を組んでいた、与党・公明党が、アメリカの「イラク攻撃(戦争)」(2003年〜2011年)を支持し、それを組織母体である創価学会が、明確に批判しなかったからだ。
戦後の焼け野原に生まれた創価学会の「売り」は、長らく「絶対平和主義」だったのだが、「権力」に近づいた結果、その基本方針を投げ捨てたのを目の当たりにして、私は「この宗教は、明らかに間違っている(力が無い)」と判断し、創価学会を去ったのである。
そして、その後の私は、「宗教とは何なのか」という問題を、趣味の読書を通して考え続けた結果、比較的早い時期に、確信的な「無宗教の無神論者」であり「積極的な宗教批判者」へと転じたのであった。
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さて、肝心の本書『神になりたかった男 回想の父・大川隆法』だが、上に書いたとおり、「宗教」に(肯定的であれ否定的であれ)興味を持つ者には、たいへん興味ぶかく面白い読み物となっている。
本書における「大川隆法論」的な部分は、家族として長年身近に接してきた者にしか書きえないものだし、じゅうぶんな説得力がある。
著者をして「親である大川隆法から離反した人物なのだから、その証言を鵜呑みにすべきではない」との意見も当然あるわけだが、問題は、本書著者の語っていることが、十二分の「説得力を持っている」という事実である。
前著でも、そうだったが、本書を読めば、著者が父親を「憎んでいるわけではない」というのが、はっきり伝わってくる。
むしろ著者の、父・大川隆法へのスタンスは、「憎しみ」ではなく、「哀れみと悲しみ」だというのがわかる。それはまるで、「犯罪に走った出来の悪い息子を語る親」のような「やるせなさ」に満ちたものなのだ。親子の立場が、まるで逆なのだが、そうした距離感だからこそ、どこか痛々しくも、リアルなのだ。嘘を感じないのである。
私はこれまでに「創価学会批判本」などもいくらかは読んでいるが、そうしたものの「創価学会憎し」という語りと、本書著者の語りとは、まったく異質で、本書著者の冷静かつ「哀しいユーモア」を湛えたその文体から、語られた内容の嘘偽りのなさが、はっきりと伝わってくるのだ。
このあたりについては、前著でも同じで、私は前著のレビューで、次のように書いている。
この印象は、本書を読んだ今でも、基本的には変わらなかった。ただ、大川隆法の生前に書かれた前著に比べれば、やはり「ひと息ついた」という感じはある。
いまの著者にとっては、「運命の父」である大川隆法その人は、すでに批判の対象ではなくなって、哀れみの対象となったからであろう。
したがって本書については、「幸福の科学」論や「大川隆法」論といった、限定的で個人的な問題を扱った本としてではなく、著者の(「幸福の科学」には限定されない)「宗教批判者」としての側面について、以下に紹介したいと思う。
著者は、宗教の内部で育った人らしく、その批判は、一見軽そうに見えて、確固たる芯を持っている。それは、「宗教」の罪悪を、他人事だとは決して思えない人の、「宗教批判」なのだと言えるだろう。
このあたり、私の物の見方とまったく同じである。
すなわち、「宗教」の本質は、いわゆる「宗教」に限られるものではなく、要は「権威に対する依存」である、という考え方だ。
だから私は、本書解説者の編集する、宗教ジャーナリズム誌『宗教問題』を採り上げたレビューで、次のように書いている。
とし、下の真鍋文を紹介した。
以上の引用記事を読んだ人の少ない部分が「自分には関係ない」と思うかもしれない。
だが、話は「オンラインサロン」に止まるものではなく、例えば、いま流行の「推し活」などは、完全に同種の「宗教的な依存」だと言えるだろう。
事実、宗教における「教祖」にあたる、推し活での「推し(の対象)」に、過剰なまでに金銭を注ぎ込むことを、「浪費」とは呼ばないで、「お布施」と呼んだりしている。
「推し活」をしている人たちにすれば、「宗教と一緒にするな」と言いたいところだろうが、その「推し対象」に興味のない者から見れば、常識の範囲を逸脱した「お布施的浪費」を支える心理というのは、「宗教的依存」そのものである。
こうした、「推し活」という新名称で為されている、きわめて資本主義社会的な「宗教的依存」の対象物とは、なにも「宗教教祖」や「アイドル・タレント」などには限らず、例えば、野球選手の「大谷翔平」だとか、「オリンピック級のアスリート」、あるいは将棋の「藤井聡太」などに対するものであっても、本質的には、まったく同じことであろう。
たしかに、その「信者」が、わざわざアメリカまで観戦に行こうが、グッズを購入しようが、それがそのまま「推し(対象)」その人の懐に転がり込むというわけではない。
しかし、多少の中間搾取はあるにせよ、それが最終的には、「推し(対象)」その人の懐に収まる「お布施」である、という本質は、何も変わらないし、その認識もあっての、過剰な「浪費」あるいは「出資」のつもりなのではないだろうか。
要は、自分とは縁もゆかりもない「有名人」に、ほとんど一方的に「貢ぐ」ことによって、自分とその「推し(対象)」とを結びつけて、自分がその対象に「貢献している」と感じることで、何も持たない「空虚な私」を満たすのが、「推し活」というものの本質なのではないか。
よく口にされるものだが、「推し(対象)」の活躍ぶりを見て「勇気をもらった」とかいうのは、当然、当たり前の意味での「勇気」ではなく、「空虚な私」の心を「他人の活躍」に依存することで、虚構的かつ欺瞞的に、一時的に満たした気になったということ、つまり「気散じ」の一種に過ぎないのではないだろうか。
「神」や「仏」は実在しなくても、「お布施」を出すという「現実的行為」によって、それらと関係が生まれたような気になる。実体のない「虚構の権威」を一部「買い取る」ことで、「空虚な自分」を充填し、「何者かになれた」ような「錯覚」を覚える。
そんな「幻想」に依存して「現実逃避」するのである。
で、これは対象が「実在する人間」であっても同じことだ。
ただ、テレビで視て応援しているだけでは、そんなものは「縁がある」とは言えないし、そう「信じる」こともできない。だが、人並はずれて金銭を「貢ぐ」ならば、自分は「信仰対象」と個人的に結ばれているという「錯覚」を抱くことができる。
いくら金を使おうが、実際には「縁もゆかりもない他人」でしかないのに、「貢ぐ」ことで「推し(対象)」に擬似的に憑依して、「空虚な私」という現実からの逃避(トリップすること)を「買う」のである。
本書の著者・宏洋は、こんなことも書いている。
もちろん、ここでの「主婦信者」というのは、「バブル経済期」に信者となった、比較的経済的に恵まれた人たちで、経済的な豊かさだけではなく、「心の豊かさ」をも求めた結果なのだと言えるだろう。
しかし、「信仰」そのものにそれを求めず、教団に「所属すること」に救いを見出しているところが、何とも皮肉に思えるが、むしろこちらの方が、リアリティがある、ということなのかも知れない。
しかし、こうした人たちに比べると、現在「推し活」にのめり込んでいる人の多くは、必ずしもそこまで「経済的に豊か」だというわけではないのでないか。
「専業主婦が暇を持て余して」とか「子供を育て上げて暇になり」とかいったことではなく、「経済格差」が広がる中で、経済的下層に属する人が、結婚を含めた「自分自身の社会的な成功や夢」を諦めた上で、その夢を「他人」に託すべく、「推し(対象)」に貢いでいるなんてことも、決して珍しくはないはずだ。
つまり、経済的に余裕があった上で、さらに「心の豊かさ」を求めているというのではなく、むしろ「経済的にも明るい展望が持てない」からこそ、せめて「推し活」によって、「この現実」から逃避したいという人が、身分不相応な「お布施」を、自分から「貢いでいる」という状況があるのではないだろうか。
当人としては、それで満足なのだろうし、「自分の金を何に使おうと勝手だし、好きでやっているのだから、放っておいてくれ」と言いたいだろうその気持ちはわからないでもない。私自身、趣味にバカほど金を遣ってきた人間だから、五十歩百歩だという気もしないでもない。
ただ、趣味に「無駄遣い」するのと、例えば「統一協会に、なけなしの金を献金する」のとでは、どこか本質的に違うように思うのだ。
例えば、「趣味の無駄遣い」は、まったく自分のための無駄遣いで、「他人」にとっては無意味に等しいことだというのは、金を遣う当人も、よくわかっている。
ところが、宗教や推し活の「お布施」というのは、なにやら「社会貢献」しているがごとき「勘違い=幻想」がそこにあって、そこで「救われている」気になっているのではないかという、疑いを覚えるのだ。
趣味で無駄遣いしたのなら、後で「無駄遣いしたなあ。(私は)馬鹿なことをしてるなあ」と素直に反省することもできるが、宗教や推し活の「お布施」というのは、熱が覚めた時には、どこか「騙された(体良く踊らされた)」みたいな感じが残るのではないだろうか。しかしそれは、「推しのためにやっている」という意識(勘違い)が、どこかに必ずあるからであろう。
まあ、このあたりの機微は、私自身十分に捉えきれていないところなので、この程度の説明しかできないが、いずれにしろ、「オンラインサロン」や「推し活」に、法外な金銭を注ぎ込んでいる人というのは、側から見れば、それは「宗教狂い」と大差のないものにしか見えないし、その根底にあるのは、本書でも指摘されているとおりで、「承認欲求」の、依存的なかたちでの一時的な解消、であるように思えてならない。
だから、「オンラインサロン」や「推し活」を、単純に「宗教(的依存)」と、区別してはならないと思う。
そんなわけで、私や、本書著者の宏洋が、こうした人たちことを問題にするのは、「宗教団体の中の空気」を経験的に知っているために、「オンラインサロン」や「推し活」といったものにただよう、隠微な「不健全さ」を、より強く感じるということなのではないだろうか。
「宗教」にのめり込んでいる人によく見られる、過剰にイキイキした人というのは、やはり、どこか(狂っているとまでは言わないが)変なのである。不自然なのだ。
そんなわけで、本書は、単に「大川隆法」という、いち人物の「コンプレックスに苛まれた人生の物語」を描くだけのものでもなければ、「幸福の科学という、いち教団の物語」だけでもないように、私には感じられた。
そんな表面的なことではなく、本書から読み取るべきは、他人事ではなく、私たち自身の問題であり、私たちの今の社会全体の問題なのではないか。
それが、大川隆法であり、幸福の科学という宗教団体が象徴する、今日的な意味なのではないだろうか。
本書を、単なる「のぞき見趣味の満足」の具で終わらせるのではなく、「読者自身とこの社会の問題」として読むならば、思いもよらぬほど、意義ある読書とすることもできるのではないか。
著者・宏洋の、真の狙いや願いも、そういうところにこそあるのではないだろうか。
(2023年10月19日)
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