見出し画像

『宗教問題 Vol.36 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食い荒らす!』 : 〈宗教〉の問題は、 人間の諸事万般に通ず。

書評:『宗教問題 Vol.36 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食い荒らす!』

誌名どおり「宗教問題」を扱った雑誌だが、表紙タイトルの上に『宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン』とあるとおりで、「学術誌」ではなく、「ノンフィクション誌」である。
したがって、個々の宗教宗派についての「教義教学的な検討」といったものはほとんどなく、ごく常識的に「言ってることとやっていることが、バラバラじゃないか」という社会的常識レベルで「実際問題」に対する検討と追求のなされている記事が多い。

私は、興味のある特集の号だけを買っており、前回買ったのは「創価学会と選挙」を扱った号だったと思うが、今回は「ネット」ということで購入した。
バックナンバーを見てみると二つ前の34号の特集が「神社本庁が溶ける!」となっているので、これも読んでみてもいいなと思っている。
150ページほどで定価も900円と、『ユリイカ』や『現代思想』のように、やたら分厚かったりしないのも、気楽に読めて助かるところだ。個々の記事が短めで、その点はやや物足りないものの、広く新しい話題に触れられるのが便利な雑誌と言えるだろう。

さて、今号の「大特集 ネットが宗教を食い荒らす!」だが、インターネットの出現によって、各宗教宗派が大きな影響を受けているというのは想像に難くない。宗教宗派においても、時代に取り残されるか、逆に時代の波の乗れるかは、今やネットを使いこなせるか否にかかったいると言っても、あながち過言ではないだろう。
だが、具体的なことは、当事者ではないので、いまいちピンと来ない。それで今号を手に取ってみたのだが、色々と興味深い事実を知ることができたし、さすがに「ネット」特集というだけあって、これまでに著作を読んだことのある執筆者が何人も登場していた。

例えば、「幸福の科学」大川隆法総裁の長男でありながら、「幸福の科学」を離れてYouTuberに転身し、その後「幸福の科学」の内幕を描いた『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』(文藝春秋)を刊行して注目された、「宏洋」のインタビュー記事が載っている。

また、宗教系YouTuberとして著名な「えらてん(えらいてんちょう)」こと「矢内東紀」へのインタビューも掲載されている。
ほぼYouTubeを見ない私が、たまたま矢内の「宗教系リポート」を視て感心し、その後に刊行された著作『「NHKから国民を守る党」の研究』(ベストセラーズ)も読んだ。

この他に見知った名前としては、たまたま今回は最終回だったのだが、連載記事「日本のカトリックに未来はあるか」を書いている「広野真嗣」の「独占直撃! 高見三明大司教」も、攻めた記事で面白かった。
私は、広野の著書で「小学館ノンフィクション大賞受賞作」の『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々』(小学館)を読んでいる。

○ ○ ○

しかし、こうした言わば「人気者」の記事だけが面白い、というのわけではない。
むしろ、大した稼ぎにはならないであろう「宗教ネタ」を、使命感を持って地道に追いかけているノンフィクション・ライターたちの文章は、短いながらも熱のこもった充実した内容で、それぞれに面白く読むことができた。

個人的に、いちばん興味深かった記事は、真鍋厚の「オンラインサロンは新時代の宗教か」で、昨今流行の「オンラインサロン」が、「非宗教」ではあっても、「新宗教」的な色彩の極めて濃いものである点を、鋭く指摘している。
私も、「SFプロトタイピング」という手法を売り物にしている「ビジネス・コンサルタント」で、SF作家でもある「樋口恭介」を批判する書評の中で、真鍋文の次の部分を引用している。

『「オンラインサロン」の歴史は浅い。ここ10年ほどで急速に普及してきたインターネットを介した月額制のコミュニティサービスだ。ジャンルは、ビジネスや起業、スキルアップ、美容、ファッション、恋愛など多岐にわたる。代表的なオンラインサロンとしては、西野亮廣エンタメ研究所、PROGRESS(中田敦彦 onlain community)、HIU(堀江貴文イノベーション大学校)などがある。
 オンラインサロンの利用者数は堅調に増加しており、ICT総研によれば、日本国内におけるオンラインサロン利用者の総数は2019年末で25万人、20年末で53万人と1年で倍増しており、今後も成長を続けるとの見方である。利用者数は21年末で74万人、25年末には145万人に達すると予測している。年間の利用総額(会費の年間合計)は20年で74億円、21年で98億円、25年には183億円に達する見込みだ。(「2021年オンラインサロン費用に関する調査)。
 オンラインサロンのプラットフォームを含めて、その市場動向が世間の耳目を集める一方で、コミュニティサービスという形態に特有のトラブルも多い。』

(『宗教問題』2021年秋季号、P28〜29)

『 筆者は以前、オンラインサロンが人々を訴求する要素は、主に「コミュニティ」「物語性」「自己啓発」の3つのキーワードに求められると分析した(「オンラインサロンに金を払う人が満たす心の奥底」2020年9月3日付、東洋経済オンライン)。具体的に説明すると、「〝選民感〟をくすぐる集団への帰属」「魅力的な物語への持続的な参加と貢献」「成長や成功が期待できる役割と任務」と表現できるだろう。』

(前同P29)

『 現在流行っているいくつかのオンラインサロンに共通する傾向として興味深いのは、実践主義的な色彩を強く打ち出しながらも、リーダーのキャラクターとその「物語性」を重視しているところだ。
 世間との軋轢を抱えるカリスマ的な人物が、新規事業を起こしたり、芸術作品をつくるといった困難な課題に挑戦し、人々は自己の資源を投入して下支えするとともに、コミュニティの一員としてその物語を生きることができる。ここにおいてとりわけ注目すべきなのは、オンラインサロンの主催者に立ちはだかる「外敵の存在」だ。
 これも新宗教の教団にありがちな試練とそっくりである。マスコミだけでなく、ソーシャルメディアでたたかれることが多いカリスマ的な人物は、むしろその苛烈な攻撃が教えの正しさを証明しているように思われるがゆえに、支持者の忠誠心はより強固なものとなり自分たちの正当性を確かなものにする。これはイエス・キリストの時代から連綿と続くお馴染みの構図である。
 毀誉褒貶の激しいオンラインサロンの主催者は、時に勃興期の新教団を率いる若き教祖のように振る舞ったりもするが、そのことに驚くほど無自覚であったりする。彼らは古の伝道という文脈ではなく、双方向性によって評価が常に可視化され、収益に直結するエンターテインメントの観点から理解を深めているのであり、洗練されたビジネスモデルに仕立て上げようとしている。例えば西野亮廣は、オンラインサロンの将来像をどう考えるかと聞かれて、次のように答えている。
「これまでは世間的に知られている人の声が大きかったですが、今後はファンを持っている人が強くなると思います。自分のファンをいかにつくるかという点で、大事なのは物語です。僕のオンラインサロンでも、うまくいこうが失敗しようが、挑戦しているときに会員が増えます。漫画やドラマと一緒で、1回上がって、ピンチや失敗があって下がって、そこから再起する。このN字形を自分の人生でもやらないといけません。完璧な事業計画書を作っても、あまりファンは生まれません。あえて負けやピンチを作ることも大切なんです」(「西野亮廣、知名度よりファン大切 オンラインサロンの秘訣を語る」2019年8月17日付、福井新聞オンライン)
 ここで言及されている「あえて負けや失敗をつくること」は、自作自演でも構わないことを示唆している。リアリティ番組がやらせに満ち満ちていても、少しも人気が衰えないことからもその威力は立証されている。10分ごとにクリフハンガー(盛り上がるシーン)を組み込む海外ドラマのように、真に重要なことは「物語を興ざめさせないこと」なのだ。負けやピンチが計画されたものか判別できないほどの迫真性を持ち、危機感を共有するメンバーが進んで出費や奉仕に努めること、それがエンターテインメントとしての圧倒的な強度を生み出すのである。』

(前同P31〜32)

つまり、「ビジネス」の世界に、「オンラインサロン」という新たな形で、「宗教的なもの」が蔓延り始めているという話なのだが、これは本来の意味での「ビジネス」の世界には止まらない新事態なのだ。

例えば、保守派評論家の古谷経衡がその小説『愛国奴』(文庫版では『愛国商売』と改題)で描いた「保守業界」においても、「オンラインサロン」による「信者的ファンの囲い込み」が見られ、「保守思想」と「宗教」の親近性が、わかりやすく窺われる。

また、前述の通り、およそ「宗教」とは真逆であることを売りにしている「SF小説」の世界ですら、同様のかたちで「顧客の囲い込み」を考える者が出てきているという事実を、樋口恭介らによる「SFプロトタイピング」という「商品展開」の事例などが示しているとも言えよう(「SF的発想は、SF小説にとどまらず、未来を拓くその発想において、ビジネスにも役立つ」といった感じで宣伝をされるビジネスモデル)。
(※ ちなみに「SF」とは、一般には「サイエンス・フィクション」の略称と理解されているが、SFマニアの世界では「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」の略称という意味も付与されている。つまり、自分たちの「SF」は、科学的かつ思弁的である、という「選民感」の色濃い自称である)

このように、「宗教」とは、一見したところ真逆だと考えられ、当事者もそのように自負し喧伝しているジャンルにおいてすら、「宗教性」というのは、その自覚を欠いたまま蔓延るものであり、だからこそ、そこに危険性もあると言えよう。

もちろん「宗教はアヘンである」としたマルクスの思想でさえ、結果としては「アヘン」として働いた部分があったのだから、人間の「思想」的な産物は、ひとつ「宗教」に止まることなく、その多くが、知性を眠らせる「アヘン」として働くことがあっても、なんら不思議な話ではないだろう。

極論すれば、「正義」も「理想」も「夢」も「希望」も、実体を持たないにも関わらず、強く人を惹きつけて、その「ヴィジョン」において、人をひきづり回す力を持つという点では、「宗教」の一種と言えないこともない。
だから要は、それが「実体のない」虚構・幻想・観念の類いなのだという認識を持った上で、その「実態なきもの」を、自覚的に「道具」として利用できるかどうかが、「(無自覚な)アヘン濫用」となるか「(自覚ある)道具的観念の利用」となるかの分かれ目になるのである。

したがって、私に言わせれば、「理想の宗教」とは「実体としての宗教を解体して、実効性のある理想を構築するところに存在する」と言えよう。「理想の宗教」とも呼ぶべき「理想」や「信念」を持つからこそ、「現実逃避としての宗教」を批判し、その解体を目指すと同時に、それに替わるものの提示提供を目指すのである。

無論、これは言うほど簡単なことではないのだが、基本的な方向性としては、こうしたものでなければならないと考えている。

○ ○ ○

さて、この他にも、今号では、いま流行りの「簡素型葬儀」を商品とする葬儀業者の「商業主義的実態と問題点」が、業者名を示しての具体的なトラブル事例として紹介されており、たいへん参考になる。
彼らにとっては「葬儀の簡素化傾向」も「ビジネス・チャンス」に過ぎず、前述のように「ビジネスが宗教化する」一方で「宗教行為がビジネス化する」という方向性もあるのだ。

大浦春堂の紹介する「ネット上での御朱印高額転売」問題などは、ゲーム機やマスクなどで耳新しいところである「転売問題」が、「宗教」の世界をも侵食している現実を示す。

特集記事ではないが、「「ソニー神社」と出雲大社教の内情」(本郷四朗)などは、斎藤貴男の古典的ノンフィクション『カルト資本主義』で提示された問題が、いまだに尾を引いている現実を示して興味深い。

さらには「特別読み物」の「公明党議員の違法融資斡旋疑惑「私は遠山清彦議員と金の話をした」」(中山雄二)という記事も、公明党に限らない「政治とカネ」の問題だとは言え、結局は「宗教」が、汚職に対する「ブレーキ」にはなり得ていない現実を伝えている。
公明党が「政権のブレーキ」になれないのも当然なのだ。「人間の欲望は、宗教より強い」からである。

そもそも、人間が「宗教」を求めること自体が「欲望」に発するのだから、「宗教」よりも「欲望」の方が「本源的」であるというのは、当然と言えば当然なのである。

一方、鈴木貫太郎のレポート「クラスターを出したブラジル系宗教」は、タイトルから連想される「ありがちな偏見」を排して、マイノリティの心の支えとなっている弱小教団への温かい視線が印象的であった。

(2021年12月24日)

○ ○ ○












 ○ ○ ○







 ○ ○ ○






 ○ ○ ○
















 ○ ○ ○








































 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文