見出し画像

将基面貴巳 『愛国の構造』 : 〈愛国〉の義務など無い

書評:将基面貴巳『愛国の構造』(岩波書店)

「愛国(心)」というものが、何か自明なものであるかのように感じるのは、その人が非歴史的な近視眼しか持たない、無知の人だからである。

そもそも、少数者でしかない宗教指導者層(第一身分)や王侯貴族といった世俗権力者層(第二身分)とは違って、それ以外の庶民(第三身分)にとっては、わざわざ愛すべき「国」などは、長らく存在しなかった。それが歴史的な現実。
自分が生まれ育った土地に愛着があるとしても、それはせいぜい、隣の領主の土地に比べてのことで、彼にとっては「生まれ育った土地としての村とその周辺」以上の、想像もできない広大な範囲を画する「国」などという「観念」は、持ちようもなかったし、存在しもしなかったのだ。

王政を打倒した古代ローマにおいて、まだまだ上層部の観念ではあれ「守るべき理想的な政体としての共和制」を愛すべき対象と考える「共和制パトリオティズム」が成立する。
一部の者が強権をふるって好き放題な統治をする類いの政体ではなく、皆が皆のために話し合って運営される、理想の政体としての共和制。
そうした意味で、共和制とは、常に生成され続けるべき理想であって、今ここにある政体が、そのまま無条件に是認されたり肯定されたりするものではないというのが、キケロの考えた「共和制パトリオティズム」である。

これがヨーロッパ世界では脈々と受け継がれ、やがて、第三身分の権利を実現したフランス革命において、この理想が「ついに実現した」と考えられた。つまり、「共和制パトリオティズム」が「理想」としたものが、現にあるフランスという国家と重なっ(て見え)たのである。
そのため、フランスという国家においては、理想は求められるものではなく、実現したものであり守るべきものとして理解された。理想の国だからこそ、祖国を愛し祖国を守れということになった。
そして、以降、あらゆる近代国家が、自国を「実現された理想としての国家」として位置付け、国家をそのように理解する国民を育てあげるようになる。

国家は、愛し守るべき祖国として人々に教え込まれ、現政体を理想と考えるべきものとしての「愛国」理解が、自明視されるようになって、文字通りの理想の国家の実現を求める態度は、むしろ「愛国」に反するものとされてしまう。

つまり、現在の「国家」とは、フランス革命以降に形成された近代国家であり、それへの「愛国」とは「まだ見ぬ理想としての祖国」といった観念を失った、現状追認の国家崇拝であり、国家宗教となってしまった。

ことに、近代国家であることを国策として輸入した明治政府によって形成された近代国家としての日本は、最初から「共和制的な理想」など、つゆほども持っておらず、ひたすら富国強兵のために、国家に貢献するための国民作りがなされ、それに利用されたのが「天皇」という古い宗教的権威だったのである。

つまり、近代的理性の立場から、今では、国家とは「人々がお互いの利益のために契約的に設立した制度でありシステムでしかない」はずなのだが、現実には、国家のために国民が形成された、国家支配層のための国民国家になっている、と、そう言っても過言ではあるまい。

だからこそ、著者は「愛国(国家への奉仕)」を自明のものとする「愛国的ナショナリズム」ではなく、日本でも「共和制パトリオティズム」の考え方を見直し、自明なものとして洗脳的に押し付けられている「国家」や「愛国」という観念を相対化して、その弊害の除去を進めるべきだと考える。

そして、その際に問題となるのが、個人の自立心の強度である。
自分の脚で、現実の重力に抗して立てないような虚弱者は、国家によって贋造された国家権威に依存することで、自身が一人前の人間だと思おうとする。つまり、国家にアイデンティティを委ねるのだ。
だからこそ、そんな彼にとっては、現政体は理想を実現した、権威あるものでなければならない。批判の余地のある、不完全なものであってはならないのである。
盲目の「愛国者」とは、こういう人たちなのだ。

例えば、本書の著者が、本書のエッセンスを可能なかぎり平易に説こうとした『日本国民のための愛国の教科書』(百万年書房)という著作があるが、これへのレビューを見ても、その内容を理解できないがために、低評価を与えているレビュアーがいる。
わからないなら、評価はできない、というのが当たり前の理性的な判断だが、なぜわからないものに低評価を与えて、それを否定しようとするのか?

それは、自分のわからないものが高く評価されるのは、自分の無能力を認めることになる(沽券にかかわる)と感じられているからだ。だからこそ、わからないものは、否定されなければならない。自分がわかるものだけが素晴らしいと評価されなければならない、と考えてしまう。

こういう人は、当然のことながら、「愛国」的である。
他所のことは知らないが、我が国は素晴らしい、素晴らしいに決まっている、それがわからない奴は間違っている、と断ずる。
そうしなければ、自分個人の立つ瀬が無くなり、アイデンティティが大きく揺らぐことになるからだ。

そういう虚弱者の群れによって正当化されているような、盲目的な「信仰としての愛国(心)」を、自立者が強いられるのは、言うまでもなく、迷惑以外の何者でもない。
自立者が、任意に、つまり自由に、国家に貢献できるとすれば、それは自国の現実を是々非々で客観的に評価して、その欠点弱点難点を正していくことに他ならない。
他所に恥じない国へと自国を客観的に高めていくことこそが、真の国家への貢献であって、我が身大事の依存的盲信者でしかない今どきの「愛国者」など、その内実としては「愛国擬態者」に過ぎないのである。

本書は、「愛国」の問題を、世界的な研究議論を跡づけることで、それらを知らない多くの日本人に、古くて新しい視点を開いてくれる。
世界と歴史に目を開く勇気があるならば、自国のためにも、本書を手に取るべきである。その勇気を持つべきだ。
マスターべージョンの具でしかない、世間の狭い「愛国」書に止まることは、結局のところ、亡国のための、自己愛的な現実逃避でしかないのである。

日本人よ、勇気を持って、世界と歴史の現実に対峙せよ。

書評:2020年3月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○









 ○ ○ ○






























この記事が参加している募集

読書感想文