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石戸諭 『ルポ 百田尚樹 現象 愛国ポピュリズムの現在地』 : 百田尚樹読者と 〈リベラルがウケない理由〉

書評:石戸諭『ルポ百田尚樹現象 愛国ポピュリズムの現在地』(小学館)

先行レビュアーの「名無しの国家権力の飼い猫」氏が、本書著者を『リベラルの誠実及び劣化の見本』として、否定的に論じている。しかし、「リベラルとしての劣化」を問題にするためには、「劣化以前のリベラル」を十二分に知っていないと論じようもないはずなのだが、そのあたりがいささか疑わしい。氏は「劣化以前のリベラル」を、どれほど知っており、「高く評価」していたのであろうか。

私も、同氏が言うように『本書の長所と短所は、著者が毎日新聞出身』らしい部分にあるとは思うのだが、『本書の長所と短所』とするところが、同氏とは少々違っているようだ。

私が思う、本書著者の「毎日新聞出身のリベラル」らしい「長所」とは、「意見の対立する相手を論じるにあたっても、自己抑制的に、公正たらんとする」ところであろう。
一方、その「弱点」とは「公正たらんとするあまり、物言いに切れ味が感じられない」点で、これは「知的な堪え性」のない読者には、いささかつらい部分だろう。本書著者自身も書いているとおり、イマドキの「普通の人々」たる読者は、「公平で慎重」であることよりも、「わかりやすく断定的に痛快」な方を好むからである。
つまり、百田尚樹の「通俗感動小説(エンタメ)」を読むような調子で本書を読もうとすれば、おのずと「面倒くさい」という、否定的な印象を受けざるを得ないのである。

ただし、本書は「公正」たらんとしているのと同じくらい、「読みやすく」書こうとして書かれたものだから、「社会学的現象」を扱った本としては、ぜんぜん読みにくくはないので、これくらいで難しがられても困る、とは言えよう。
本書は、百田尚樹その人を論じたものではなく、百田尚樹がモテはやされる現状の所以を探求している。だから「百田尚樹現象」なのだ。

百田尚樹の特異な性格は、インタビューからもわかるように、その「こだわりのなさ」である。つまり「読者にウケるためなら、主張を引っ込めることも辞さない」「大切なのは読者を楽しませることだ」という、およそ「保守思想」の人とは思えない、その異様な「軽さ」だ。

では、百田尚樹とは、「思想」「主義」の人ではないのか。

一一そうなのだ。本人も語るとおり、百田は明確な「思想」や「信念」があって、その「敵」を批判しているのではなく、彼が「権威」を認めるものに「反発」しているだけなのだ。
それは多分に「感情的」であり、だからこそ「論理的整合性」や「一貫性」というものに対する「こだわりがない」のである。そして、そこが「左翼」や「リベラル」との大きな違いであり、好対照な部分だと言えよう。

「左翼」や「リベラル」には、まず「思想」や「信念」があって、そこから必然的に導き出される言動であるからこそ、そこでは「論理的整合性」や「一貫性」というものが重視されるが、百田の場合には、その時々「これは面白い」「これは正しい」「これは不愉快だ」と、目の前の「これ」に対する「感情(的評価)」には誠実なのだが、そこには通時的に「一貫した思想・信念」というものが存在しないから、その時々の気分や都合によって、言うことがコロリと変わったりするのである。

とは言え、百田は突然変異的に生まれたのではない。百田の「反権威主義」には、「新しい歴史教科書をつくる会」という源流がある(「背景」ではない)。
本書では、この「つくる会」を代表する三人の人物(藤岡信勝・小林よしのり・西尾幹二)を取材して、背景を異にする三人が「反権威」という点で一致しながら、それぞれの「こだわり」を持って、それぞれの立場から「日本の歴史(解釈)」に向き合った姿を紹介している。

つまり、この三人は、「反権威」という点で、百田尚樹と態度を同じくし、その点で、それまでの「左翼リベラル的な(と思えた)歴史解釈」を批判したのだけれど、百田と違うのは、彼らが明確な「思想」なり「信念」を持っており、それに従って(こだわって)行動していた、という点なのだ。

この三人と百田は、「歴史修正主義者」として「似たような存在」だと思われがちだが、じつは「一貫した思想・信念」の有無と、それへの「こだわり」の有無において、両者の間には大きな「断絶」が存在するのである。

言い変えれば、「藤岡信勝・小林よしのり・西尾幹二の三人(つくる会の三人)」は「信念を持つ反権威」として、「信念を持つ権威(左翼・リベラル)」に対抗したのであり、その意味では「信念を持つ者どうしの対決」であったのだが、百田の場合は、そうではない。百田の場合は「ノンポリ感情主義の反権威」であり、その百田が、「信念を持つ権威(左翼・リベラル)」と敵対したのである。
しかし、「信念を持つ権威(左翼・リベラル)」の方は、「つくる会の三人」と百田を、誤って「同一視」したがために、百田への批判を空回させてしまったのだ。

このように、いま問題となっている「百田尚樹現象」とは、「空虚な主体」とか「中心の不在」とでも表現できるようなもので、「つくる会」のような「芯」が、そこにはない。
だから、その表面的な「道具立て」から、百田やその周辺のファンやネット右翼を、「歴史修正主義者」や「保守」だと誤解して、「主義者」としての「矛盾」や「至らなさ」を批判しても、「暖簾に腕押し」「糠に釘」になってしまう。「議論がかみ合わない」どころか、そもそも「議論が成立」しないというのは、対抗軸が完全にズレているからだったのだ。

では、こうした「基本的な態度のズレによる、議論の不成立」状況を、どのようにして乗り越えれば良いのか。
その答は、本書では、示されていない。
ただ、方途を示すものして、終章で柳田國男の、次の言葉が紹介される。

「あなたの思うことは私がよく知っている。代って言ってあげましょうという親切な人が、これからはことに数多くなることも想像せられる。そういう場合にどこがちがう、またはどういうのが最もわが意を得ているを決定するには、まずもって国語を細かに聴き分ける能力を備えていなければならぬ」(P324)

つまり、日本人が日本語を『細かに聞き分ける能力を備えていなければ』、基本的にこの問題(百田尚樹現象)は解決しないので、適切な「教育」こそが必要だ、ということだ。

議論に興味がなく、その能力もないから、議論のできない「普通の人々」。それゆえに、(あえて言うが)今のように薄っぺらな「感動」に脊髄反射的に流されるだけの「普通の人々」に、「考えて、自己統制的に選択し、行動する」というようなことを期待するのは、とうてい無理なのである。

また、こうした人たちが百田尚樹のような「感動を与えてくれる作家」をモテはやし「自らの代弁者」だとする娯楽現象も無くなりはしないだろう。百田尚樹が消えたとしても、第二第三の「流行作家」は、必ず出現するのである。
だから、「普通の人々」に「感動(情動)」だけではなく「理知」を求めるという道は、必要ではあれども、極めて困難なものとならざるを得ないのである。

初出:2020年6月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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