見出し画像

ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体 ナショナリズムの 起源と流行』 : 「国民」 という幻想

書評:ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』(NTT出版)

名著として、あまりにも名高い本で、私もこれまで何度か買っては積読の山に埋もれさせてきたのだが、今回やっと読むことができた。
なお、この本は「初訳版」の後に「増補版」が出て、現在は「定本版」が出ているが、私の読んだのは「増補版」である。したがって、「定本版」で増補された新稿「旅と交通」は読んでいないが、大勢に影響はないだろう。

さて、本書『想像の共同体』だが、これがなかなかの難物である。つまり、一読して理解できるような本ではない。

むしろ、文章自体はこなれていて読みやすいし、著者の真面目で前向きで人間愛にあふれる人柄がその文章にも表れていて、好感を持つことができる。
学術書において「著者の人柄は関係ないだろう。要は中身(情報)だ」とおっしゃる方もあろうが、それは間違いだ。著者の人柄は、文体に限らず、中身にも確実に反映されており、著者の人柄も感じ取れないような読者には、中身を十全に読み取ることなど、もとより不可能だからである。

ではなぜ、本書は、いわゆる「難解」なのかというと、それは、例えば「フランス現代思想」書のような「独自な表現が多用されており、単語レベルからして、理解が困難」といったようなこと、ではない。

前述のとおり、むしろ、文章自体は読みやすいのだが、そこでの議論の前提となる「知識」に対する、著者の期待レベルが高いのだ。つまり「これくらいは知っていて当然」だと著者が考えている、読者に期待されている「知識レベル」が高い。だから、著者が当たり前のように展開している議論の前提をよく知らない読者は、その議論にはついていけない、ということになるのである。

Amazonの「定本版」のレビューでも、現時点で「124」もの評価が寄せられていて、レビューもそこそこ寄せられているものの、その内容を見ると、本書が「ナショナリズムを論じた古典的名著」だというのは「よく知っています」という、そうした「定評」を語った紹介文が多く、言い換えれば、それ以上のレビューが(ざっと見ただけだが)見当たらない。
それどころか、「参考になった」数が多く寄せられているのは、レビュアー「AKamemori」氏のレビュー「訳がひどい」とか、レビュアー「1984」氏のレビュー「とにかく難しい」などの、「内容(理解)以前」の評価なのだ。

前記のとおり、私は、本書の翻訳が悪いとは、まったく思わない。
失礼ながら「AKamemori」氏のご意見は「難解=翻訳が拙い」という、自己正当化の短絡的発想によるものだと思う。

そして、レビュアー「1984」氏のレビュー「とにかく難しい」には、まったく同感である。

『 1984(5つ星のうち3.0)

とにかく難しい
(2021年8月20日)

とにかく難しいです。

まず、読者がかなり膨大な知識量の持ち主であることが前提として書かれてます。
例えばキリスト教、イスラム教、仏教や儒教など、様々な宗教や文化の知識はもちろん、それぞれの文化で使われている専門用語とその専門用語に対する様々な解釈というような、広く深い知識を持っていることが前提になっています。

また、著者か翻訳者がどういう解釈で使っているのかハッキリしない言葉のオンパレードです。
例えば1例を出すと「現実の直接放射」「存在論的現実」「領域的広がり」「原理的に純粋な記号の世界」などなどです。

そのうえそれを、文学的な言い回しで語ってくるからたまりません。

少なくとも、僕には読むことができませんでした。
『「想像の共同体」を読む』という本があったほうが良いのではないでしょうか。』

特に、この『様々な宗教や文化の知識はもちろん、それぞれの文化で使われている専門用語とその専門用語に対する様々な解釈というような、広く深い知識を持っていることが前提になっています。』の部分だ。

『著者か翻訳者がどういう解釈で使っているのかハッキリしない言葉のオンパレード』という部分については、言葉の使い方に関することだから、ぜんぶ説明するのは不可能なので、「文脈」から理解するしかないと思うのだが、「知識がないことには読めない」という指摘は、間違っていないと思う。

で、著者がどうして、このように「不親切な書き方」をしてしまったのかというと、それは著者が「素人に教えるように書いている」のではない、からだ。
つまり、著者と同様の問題意識を持っている、学者共同体の中にいる人たちを「読者」として想定しているため、同時代人や専門家には「分かりきった説明」はしていない(例えば、後に挙げる、ある作品が、誰のものかの説明をしていない)し、執筆段階での「最先端の知見=定説になっていない知見」も果敢に取り込んでいるから、同業者である専門家にはスリリングであっても、ど素人にはいささか「敷居が高い」、ということになっているのである。

しかし、この事実は、著者が「傲慢」だとか「不親切」だということではない。
「専門書」というものは、元来、そうしたものであるし、本書は、素人向けの「入門書」ではないからである。そのあたりを、読者の方でも、混同してはいけないのだ。

そして、そうした意味で、「1984」氏の『「想像の共同体」を読む』という本があったほうが良いのではないでしょうか。』というご意見は、知ったかぶりの「切り貼り内容紹介」レビューとは違って、正直な感想であり、正しい指摘であるといえよう。

本書には、「宗教」だけではなく、「歴史」「地域史」「文化史」「文学」など、かなり広範な知識が要求される。
そして著者は、それを読者に押しつけているのではなく、そもそも、そのくらいの知識がないことには、「国民」という概念が「どこから出てきて、どのようにして定着したものなのか」なんてことは探りようもないから、そうした知識を「自明の前提」としているだけなのだ。

そして、「文学」について言えば、知識だけではなく、「文学」を楽しむことのできる趣味人でもある著者は、それを踏まえた「表現」なども駆使している。
これは、著者としては「堅苦しいだけの記述にならないように」との、著者なりの配慮なのだが、この配慮も「教養人」向けのものだから、そうではない読者には、余計に「難解」になってしまうという事態を招いてしまっているのである。

つまり、著者としては、良かれと思って「精一杯のこと」をしているのだが、最先端の「専門家」が「精一杯のこと」をしたら、素人がついていけないのは、むしろ当然なのである。
「素人向け」を意識するのなら、もっと「水で薄める」べきなのだが、著者は、そんな「水増し」ものを提供するつもりなど毛頭なく、お買い得な「濃厚ジュース」を売ったものだから、素人にはついていけない(飲み下せない)ものになってしまったということなのだ。

で、かくいう私も、ついていけなかった「素人」の一人である。
ただし、私が「専門書を読む」場合のスタンスは、一つでも二つでも得るところがあれば良い、というものであって、ほとんどぜんぶ理解できなければ「損をした」などというものではない。
それは、身の程知らずというものだからである。そんなに「専門知」を得たければ、1冊でそれを得ようなどとは思わず、最低でも100冊は読め、というのが私の考え方だ。

例えば、私が「キリスト教」の素人研究を始めた当初、キリスト教の専門書、例えば「神学書」に書いてあることなど、完全に理解不能だった。
だが、それでも、どんどんと読んでいくうちに、だんだんと専門知識が身についてきて、キリスト教的な発想が理解できるようになっていった。
もちろん、「キリスト教神学者が読んでも難解な、キリスト教神学書」は、私にとっても難解だというのは、いうまでもないことだとしてもである。

で、本書がそのような、見かけによらず歯ごたえのある「専門書」だというのを前提とした上で、そこで語られていることを大雑把にに紹介するのなら、それは本書訳者による「訳者あとがき」の次の言葉が、最もシンプルにまとまったものだろうと思う(※は、ルビ)。

『国際連合(※ ユナイテッド・ネーションズ)(諸国民の連合)の時代を生きる我々にとって、国民国家(※ ネーション・ステート)一一「平等一体になる国民(※ ネーション)の共同事務機関」というフィクションによって、意味付けられる国家一一は、政治生活の基本的枠組みとなっており、国民国家に存在論的根拠を与える「国民」は、我々には自明の前提となっている。しかし、それにもかかわらず、「国民(※ ネーション)」と「国民主義(※ ナショナリズム)」の概念については、はなはだしい理論的混乱がみられる。それは、たとえば日本語において、「ネーション」が「国民」「民族」と、また「ナショナリズム」が「国民主義」「民族主義」、そしてときには「国家主義」とすら等置されることにただちにみてとれよう。本書は、こうした「国民」概念の混乱のなかで、「国民」を「想像の共同体(※ イマジンド・コミュニティ)」ととらえ、そうした「想像の共同体」が、人々の心の中にいかにして生まれ また世界に普及するに至ったのか、その世界史的過程を、「聖なる共同体」と「王朝」、「メシア的時間」と「空虚で均質な時間」、新しい「巡礼」の旅、「言語学・辞書編纂革命」、「海賊版の作成」などの概念を鍵として解き明かしている。』(P343〜344)

つまり、私たちの多くは、「国家」というものの存在を自明視しているし、私たち一人一人が「国民」というものであるということについても、およそ疑いを持っていない。一一いや、本書を読むほどの人なら、それらについて、多少なりとも「疑い」を持っているだろうし、「国家とは、政治・統治システムの一種にすぎない」とか「国民とは、国家というシステムを前提としたメンバーシップでしかない」などと考えているだろう。

「キリスト教批判者」であり「宗教批判者」である私も、当然「国家は、政治的統治システムの一種でしかなく、自明の前提でもなければ、ましてや偏愛の対象でもない」と考えているし、「国民とは、システム的な契約的観念であり、幻想でしかない」と突き放して考えている。要は、「国家はしばしば信仰対象であり、愛国心はそこに発生する信仰心の一種にすぎない」と、そう考えている。

当然、そんな私には「愛国心」などは無く、「国家」とは、メンバーがよりよく生きるための「人工的なシステム」でしかなく、私は、そんな人工的システムの従属するものとしての「国民」などではないと、大筋このように考えている。したがって、「国家」とは、我が身を犠牲にしてでも守らなければならないものだとは、つゆ思ってはおらず、その意味での「愛国心」など、私には無いのだ。

けれども、そんな私ですら、「WBC(ワールド・ベースボーク・クラシック)」を観ていれば、(どこの国の選手であろうと、個人的には縁もゆかりもない赤の他人であることは、まったく同じなのに、まるで知り合いででもあるかのように)思わず「日本チーム」を応援するし、世界中のあちこちにひどい政治体制が蔓延していたとしても、ひとまず「腹がたつ」のは「我が国」の政治に対してであって、他の国の問題については、どうしても「二の次」になってしまう。

特に後者は、単に「直接自分に関わるから」ということだけではなく、やはり「日本人として、こんなことでは恥ずかしい(よそ様に恥じる)」という感覚があるからであり、これはやはり、批判的なものではあれ、間違いなく「愛国心」の発露で、その意味では、他国の政府の不手際よりも、まず日本政府の不手際に厳しい私は、間違いなく「愛国者」であり、「ナショナリスト」の一種なのである。一一ことほど左様に、私たちには「国民国家」が、否定しがたく身に染みついているのだ。

だから、「国民国家」の問題を、頭で理解しているだけではダメだ、ということになる。
しかしまた、ただ闇雲に「否認」しても、それはどこかで私たちの中に生き残るものだからこそ、私たちは「国民」意識の出自とその正体を、しっかりと見定めた上で、それを相対化していかなければならない、ということになるのである。

 ○ ○ ○

しかし、こう書いたところで、私たちの中に深く根を下ろした「国民」意識を、相対化することなどできない。
そこで、その根深さを「譬え話」にしてみよう。

本書の「原註」に、次のような記述がある。

『(12)Illuminathons,p.259. 天使の瞳は『ウィークエンド』の後ろ向きに移動するカメラの上であり、その目の前で無限に続くハイウェイの上、次から次えと残骸が瞬間的に大きく浮かび上がっては地平の彼方へ消え去っていく。』
(P270・第9章「歴史の天使」の原註(12))

これは、ヴァルター・ベンヤミン「歴史の天使」を引用した本文部分(P268)について付された「原註」なのだが、私はここを読んで、「あれっ?」と思った。

というのも、この『天使の瞳は『ウィークエンド』の後ろ向きに移動するカメラの上であり、その目の前で無限に続くハイウェイの上、次から次えと残骸が瞬間的に大きく浮かび上がっては地平の彼方へ消え去っていく。』というのが、ジャン=リュック・ゴダールの映画『ウイークエンド』の描写にそっくりだったからだ。
本文にも、註にも、この『ウイークエンド』が、ゴダールのそれだという説明は無いのだが、著者アンダーソンは、ゴダールを観ていた、ということなのであろうか?

私の「印象」としては、本書は「ナショナリズム研究の古典」ということで、なんとなく「古い本」という印象があり、一方、ゴダールについては、最近、興味を持って見始めたせいか、「ちょっと前の映画監督」という印象はあっても、「昔の人」とか「古典的」とかいった印象はない。亡くなったのも昨年(2022年)だし、あくまでも「少し前の人」という印象なのだ。
だから、本書著者であるアンダーソンは、ゴダールより前の人であり、ゴダールの映画を観ているような世代の人ではないという印書が、どこかにあったのである。

で、本書巻末の「参考文献」のページ(P ⅱ)を確認してみると、上の『Illuminathons』とは、

『Benjymin.Walter.Illuminathons.London.Fontana.1973, [ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』,(略)]』

となっている。
つまり、本書著者であるアンダーソンが、ベンヤミンの有名な「歴史の天使」を読んだのは、たぶん、この「1973年」の刊本なのであろう(あるいは、引用に使ったのはこの版本で、読んだのはそれ以前の別の版だったのかもしれない)。

(1921年、ベンヤミンは、パウル・クレーの版画「新しい天使」を入手(上)。同年に『暴力批判論』を発表)

私が、ベンヤミンに興味を持ったのは、私が好きだった、ミステリ作家であり評論家である笠井潔の書いた、ミステリ作品『群衆の悪魔』で、ベンヤミンの『パサージュ論』が援用されており、参考文献に挙がっていたからだ(なお『群衆の悪魔』自体は凡作)。
それでベンヤミンに興味を持って、邦訳書『複製技術時代の芸術』くらいは読んだし、「歴史の天使」の部分もどこかで読んでいた。
またそのため、ベンヤミンには「戦前戦中の人」という印象が残っていて、今回調べてみると『1892年7月15日 - 1940年9月26日』(Wikipedia)ということで、おおむねその印象は正しかった。

だから、アンダーソンが、ベンヤミンを読み、引用したというのは、ごく自然なことだ。
本書『想像の共同体』は、著者が、

『 わたしが『想像の共同体』の初版を執筆したのは、一九七八年-七九年のインドシナ軍事紛争を直接の契機としてのことであった(以下略)』

(P10「増補版への序文」より)

と書いているとおりで、1973年刊行(新版)のベンヤミンの著書を読んでいたというのは、すでに「古典」となっていたものを読んだということになるだろう。

だから、それは「順序」として、それで良いのである。同じ「古典」と言っても、ベンヤミンとアンダーソンでは、「世代」が違うのだから、そこに違和感はない。

しかし、そのアンダーソンが、ゴダールの『ウイークエンド』を観ていたとなると、私には「えっ?」という感じだった。『ウイークエンド』は、ゴダールの中でも初期のモノクロ作品ではなく、カラー作品なのだから尚更であった。

そこで、『ウイークエンド』の制作年を確認してみると、一一「1967年」。
ゴダールは、アンダーソンの同時代人であり、『ウイークエンド』は、むしろ本書よりも「古かった」のである。

したがって、ゴダールが「昨年まで生きていた」人であり、その意味で「私の同時代人」であるとするならば、本書著者のアンダーソンも、決して「昔の人」ではなく、親子ほどの年齢差はあれ、やっぱり「私の同時代人」だったのだ。

一一で、私がここで言いたいのは、「イメージと思い込み」ということである。

私たちは「国民国家」というものを、なんとなく「ずっと昔からあるもの」と思っている。
「日本という国」や「日本国民」というものが、なんとなく昔からあったように感じているのだけれども、しかし、そんなものは、私が、アンダーソンを「ひと昔前の人」であり、ゴダールは「ちょっと前の人」で、両者は「同時代人ではない」と「イメージ」していたのと大差のない、「遠近法的錯誤」に過ぎない。

私たちは、かくも簡単に「錯覚」し、それを「当たり前」のように感じながら生活している。
だから、「国民国家」が「近代の発明物」だと言われれば驚き、「それ以前に、国家はなかったのか!?」といって驚くことになる。

だが、「近代以前」には、当然のことながら「国民国家」などといういうものは、存在しなかった。
「宗教共同体」や「王国の中に住む住人(領民)」はいたけれど、彼らは「国民」ではなく、愛するべき「国」など持っていなかった。単に、王の下にいる領主(豪族)に統治されていた領民であり、「郷土」はあっても「祖国」はなく、「キリスト教信者」であっても「国民」などではなかったのである。

つまり「想像の共同体」とは、そういうことなのだ。
「国民国家」というものは、「想像」の中だけにある「観念」であって、「自明な実在物」ではない。
私たちは、それを「相対化する」こともできれば「否定する」こともできる。「他のシステム」を考えることだって可能なのである。

したがって、私たちが、本書『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』から学ぶべきは、私たちが自明視している「国民国家」や「日本語」とは、何を意味しているのか、といったことであって、「翻訳が悪い」などといった、近視眼的な問題ではないのだと言えよう。


(2023年7月25日)

 ○ ○ ○









 ○ ○ ○


 ○ ○ ○






 ○ ○ ○



 ○ ○ ○








 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文