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山本七平 『池田大作の日本人の宗教心』 : 〈かくれ棄教者〉 山本七平の 棚上げ信仰論

初出:山本七平『池田大作の日本人の宗教心』( さくら舎 )

山本七平が「キリスト教カトリックの信者」であったというのは、周知の事実である。そんな山本の著作の大半は、キリスト教の信仰そのものをテーマとしたものではなかったのだが、いつでも何かしらキリスト教についての言及はあった。

日本のキリスト教徒は、カトリックとプロテスタントを合わせても、総人口の1、2パーセントと言われており、そのことからも分かるとおり、日本の文物において、比喩として「キリスト教についての専門知識」を常用する必然性は、ほとんどは無い。と言うよりも、むしろそれは、不親切であり、不適切であると言っても過言ではないだろう。

しかし、キリスト教信者の山本は、それでも「キリスト教について語りたかった」のであろうか。つまり、己が信仰について、他者にもその「福音」を語り、宣教(布教)しようとしたのだろうか。
しかしながら、本書において「創価学会の折伏弘教」の強引さを批判していることからもわかるように、山本自身は、そのような「相手の都合や感情を無視した、押しつけがましい布教」には否定的であるようだし、じっさい山本には「キリスト教信仰の唯一正当性」を語るといった著作は無いようなのだ。つまり、山本は、「キリスト教信仰」について積極的に学ぼうとするような読者を、自身の読者に想定してはいなかったのである。

ならば山本は、日本人に馴染みのうすいキリスト教の「専門知識」を、わざわざ「ひけらかし」たかっただけなのか。あるいは、専門知識をひけらかすことで、読者を威圧できると計算して、故意にそれを語って見せたのであろうか。

もちろん、山本七平自身は、それを否定するだろうが、論理的にはそれしかない。

つまり、積極的な布教の意志がなく、それでいて、必然性のないところで、わざわざ専門的な知識を語るとすれば、それはもう「衒学趣味」でしかなく、そこには多かれ少なかれ、その知識をひけらかすことに自慢を感じ、かつ、それによって他者を威圧して、多少なりとも「知的優位」に立てるという見込みがあったのであろうという推定は、ほぼ当を得たものであるはずだ。
もしも、そうした意識なくして、読者に馴染みのないキリスト教の専門知識を毎回語っているのだとしたら、山本七平は「考えなしに」つまり読者への配慮もなく、書きたいことを垂れ流し的に書いていた、ということになろうが、さすがにそうではないと、私は思う。

というのは、山本七平の文章というのは、基本的に「読者煽動」型であり、その意味でなら、常に読者の感情に対しての配慮を怠らないものだったからだ。
つまり、山本は、自身の思うがままに読者をコントロールし「扇動」せんがために、読者の「俗な感情に媚びている」。これはまさに、大西巨人が言うところの「俗情との結託」。今風に言うならば「欺瞞的なポピュリズム」の言説だと言えるだろう。

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山本七平という評論家の特徴について、山本の『ある異常体験者の偏見』についてのレビュー「にせユダヤ人の〈ルサンチマン〉:山本七平論」で、

『山本七平の〈詐術〉とは、その「変装術」と「くどいほどの熱い演技力(筆力)」にあると言ってもよかろう。
「ある時はユダヤ人、ある時は異常体験者、またある時は片目の運転手」かも知れないのが、山本七平という「文筆芸人」なのだ。』

と指摘した。
そのでんで言えば、本書における山本七平は、ひとまず「にせ宗教学者」ということになるだろう。

山本七平は、ユダヤ・キリスト教の、特に「聖書学」に詳しい人ということになっているし、前述のとおり、山本自身もそれを常日頃から繰り返しアピールしている。だから、山本七平読者の多くは漠然と、山本が「宗教一般にも詳しい人」だという「印象」を持っているだろう。
また事実、本書の「第四章」は、それまでの「創価学会・池田大作批判」から一転して、それとは無関係に、主に「親鸞」などについて語るものとなっているのだが、この唐突な話題転換が示す「編集の意図」とは、山本が、当時よくいた「創価学会攻撃ライター」の一人ではなく、「宗教学(的見地から批判)者」であるという印象を与えようとするものに他ならない。
つまり、本書でも、このような「編集的印象操作」によって、読者にとっての山本は「宗教学者」のように感じられるようになっているのである。

じっさい、山本七平は、本書において、「宗教としての創価学会」や、それに類するものとして併置し言挙げする「戦後(新聞)民主主義」について、鋭く批判を投げかけており、山本に批判的な私でも、なるほどと納得させられる部分が少なくない。
しかし、そのような鋭い「宗教批判」は、山本自身の「キリスト教信仰」に跳ね返って来はしないものなのだろうか。

山本七平が、無宗教の「無神論者」であるというのであれば、それは納得もできるのだが、山本が創価学会を批判する言葉の多くが、多かれ少なかれキリスト教にもそのまま適用できるものなのに、山本はなぜ、いつでもそこで「キリスト教の問題点」については、スルーしてしまうのか。

山本は、前記『異常体験者の偏見』の中で、

『事実と違えば、聖書だろうが毛沢東だろうが、「事実と違う」と言うだけのことである。』
 (『ある異常体験者の偏見』文春文庫版P312)

という、ごもっともな「啖呵」を切っているが、これが「嘘」ではないのならば、山本は、創価学会を斬った、その返す刀でキリスト教信仰をも斬らなければならないし、斬っているはずである。
なぜならば、山本七平個人にとっても、世界にとっても、創価学会よりもキリスト教の方が、良かれ悪しかれ、ずいぶん重要な存在であるはずだからである。

なのに何故か山本は、その宗教に関する知識を動員して、創価学会や戦後民主主義を批判して見せはしても、自身の信仰であるキリスト教については、厳格な評価裁断をスルーしてしまう。これは、明らかに、物書き・批評家として不誠実な、分かりやすいほどの「ダブル・スタンダード」だとしか言えないだろう。
私が好きなノーム・チョムスキーもよく言うように「人を批判するのなら、その同じ基準で自己をも批判しなければならない」というのは、「人間倫理の基本」であって、山本七平のような「プロの評論家」にとっては「職業倫理」でもあるはずなのだ。

ところが、山本七平には、それが無い。
創価学会や戦後民主主義を批判する舌鋒が、自身のキリスト教に向かうことは、絶えて無いのである。
そしてこれは、「物書き(文筆家・批評家)」としての「職業倫理」に反するだけではなく、「信仰者」としての「信仰(倫理)」そのものにも反するのではないだろうか。

山本七平が、真に自身のキリスト教信仰を「最も大切なもの」と考えているのであれば、すべての問題は最終的に、そのキリスト教信仰に収斂されていくはずである。
創価学会を批判しても、戦後民主主義を批判しても、それはそのまま、「最も大切なもの」である「自身のキリスト教信仰」を問う道具にしかならないはずなのだが、山本七平の議論や思考というのは、いつでも「世俗の問題」に止まって、「キリスト教信仰の深み」に届くことは、絶えて無い。そもそも、それに向かおうという姿勢が、まったく見られないのだ。

前述のとおり、山本七平の文章には、必然性もないのに、キリスト教の専門的な知識についての言及があるその一方で、「キリスト教信仰そのもの」への深い探究が無いのは、いったい何故なのか。

山本七平には、「キリスト教」に関する著作も、少なからずありはする。
それは、こんな具合だ。

 『聖書の常識』
 『聖書の旅』
 『旧約の風景』
 『ガリラヤの道』
 『山本七平の旧約聖書物語』
 『十字架への道』
 『人間としてみたブッダとキリスト 山本七平・宗教を語る』
 『歴史の都エルサレム』
 『ビジネスマンのためのマーシャール』
 『禁忌の聖書学』
 『山本七平とゆく聖書の旅』
  (Wikipediaより)

この「キリスト教関連著作リスト」を一暼して明らかなのは、その内容が「聖書学」に限定されていることである。しかも、内容が「旧約聖書」に偏っている、という点だろう。
もちろんそれは、山本七平が、専門の聖書学者ではなくとも持っていた「聖書学」への専門的な興味が、「旧約聖書」に偏っていたからなのだろう。「新約聖書」については、そこまでの学的な知識や興味を持たないから、あえて語らなかったのかも知れない。

しかし、山本七平は、「旧約聖書」だけを奉じる「ユダヤ教徒」ではない。
「旧約聖書」と「新約聖書」を共に奉じ、「新約聖書」の語る「主イエス・キリスト」への信仰こそがキリスト教であり、山本七平もそんなキリスト教徒の一人であるはずなのだが、しかし、山本七平の著作には「イエス」の影が、極めて薄い。

山本七平の場合、キリスト教を「学者」的に語ることはよくあるのに、自身の「信仰」として語ることはほとんどない。
山本が語るのは「キリスト教徒とは」どういうものかといった「宗教学者的な論評」であって、「自身の信仰心」そのものではない。
山本七平が語る「キリスト教」とは、研究対象としての「客観的なキリスト教」であって、自信が生きている「主体的なキリスト教」ではないのである。

では、何故こうなるのか?

それはたぶん、山本自身、キリスト教を「学的」にしか見ていないからである。つまり、山本は「キリスト教信仰を生きてはいない」のだ。山本の「キリスト教」は、学者として見る「キリスト教信仰」であり、「研究対象」ではあっても、「信仰対象」にはなっていないのだ。
言い変えれば、山本七平には、本質的に、正統的な「キリスト教信仰」、すなわち「新約聖書」の描く「イエス・キリストの、愛の信仰」が無い。

『異常体験者の偏見』についてのレビューでも指摘したとおり、山本七平にあるのは、新約聖書的な「愛の思想」ではなく、被征服民族たるユダヤ人が作り上げた「民族神ヤハウェを奉ずる、ルサンチマンの思想」なのだ。
だから、山本七平は「新約聖書」や「イエスの愛の思想」について、それを「我がこと(信仰)」としての突っ込んだ言及ができない。端的に「それを信じてはいない」からである。
(ついでに言っておくと、だから山本は「反民主主義の保守主義者」なのである。占領国アメリカへのルサンマンを抱えつづけるが故に、戦後民主主義を否定したい、保守主義者なのである。そしてその意味で、山本七平にとっては、ユダヤ人と日本人は、パラレルな存在なのだ)

つまり、山本七平は「にせキリスト教徒」なのだ。
山本が「ユダヤ教徒」であると言うのなら、それはいちおう筋も通るが、「キリスト教徒」にとっては「新約聖書」の描く「イエスはキリストである」という内容こそが、信じるべき「福音」であり、それは、「旧約聖書」に「予告」されてはいても、書かれてはいないことなのである。

「新約聖書の伝える福音」を、そして、その「福音」の中身である「主イエス・キリストの愛の思想」を信じ奉じ、それに生きなければ、その人は「キリスト教徒」とは呼びがたいのであるが、山本は、まさにその意味においての「キリスト教徒」ではない。
山本七平は、内実的には、キリスト教を信じてはいない「にせキリスト教徒」なのだ。

では何故、山本七平は、その事実を認めて、キリスト教を捨てようとしないのか。
なぜ『事実と違えば、聖書だろうが毛沢東だろうが、「事実と違う」と言うだけのことである。』と豪語した、その「読者との約束」を違えるのか。

それはたぶん、山本七平という文筆家の「信頼性」を支える要素として、最大のものが、彼の「キリスト教信仰」という「肩書き」だからであろう(第二の要素は「戦争体験」ではないか)。

山本七平が、どんなに「敵」を批判しても、それが「政治的な党派性」に発する「イデオロギー的な批判」だと思われにくいのは、山本がしばしば「キリスト教の専門知識」を語る「キリスト教徒」だからに他ならない。

「キリスト教信仰」という、「世俗」と一線をひいた位置に立っているかのように見せるからこそ、山本七平は「政治的な党派性」から「イデオロギー」を語っているというふうには、見られにくいのである。
つまり、山本七平の「キリスト教信仰」は、読者に対して「客観的立場のイメージ」を、効果的に演出しており、だからこそ、職業評論家としては、これは捨てがたい「属性」なのだ。
そして、それ故にこそ、信じてもいない「キリスト教信仰」を、信じている振りをし続け、それをアピールするために、無難に「旧約聖書学」を誇示し続けたのである。

したがって、山本七平という人は「信仰者」ではない分、「信仰」や「宗教」というものを「客観視」できている。
山本七平は、じつは私と同じ「無神論者」であり、その意味で「棄教した元信者として、宗教の内幕に詳しい宗教学者」だとも言える。
だからこそ、創価学会の問題点を鋭く指摘し、「リアリティー」を持って批判することもできたのである。

山本七平は、じつは挫折していた「キリスト教信仰」の経験を通じて、「宗教」というものの「建前と本音」という現実をよく知っていたから、創価学会の「痛い所」をチクチクと突くことができた。
自身が「キリスト教徒」として突かれたくない「本音」や「現実」の部分について、それを創価学会にあてはめて類推すれば、「宗教団体の裏側」を知っているだけに、自ずと創価学会の弱点を効率的に突くのも、容易なことだったのである。

しかし、山本七平のやっていることは「ユダの裏切り」でしかない。
イエスの十二大弟子の一人であったユダは、イエスの側近であったからこそ、イエスを権力に「売る」ことができたのである。

前述のとおり、山本七平も「棄教者=信仰を捨てた者」であるからこそ、じつに有効に、信仰者の弱点を突く「裏切り」行為ができたのだ。内情を知っているスパイも同然だからこそ、ピンポイントで弱点を突くことができたのである。

しかし、「にせ信者による、信者づらでの内部告発」というやり方は、「欺瞞」に支えられた、アンフェアなものでしかない。たしかに「有効」ではあるけれど、「倫理性」には欠ける「汚いやり口」だと言えるだろう。
だからこそ、山本七平は、自身の「キリスト教信仰」が、実質的に「死んでいる」ことを認めることができなかった。彼にとって「キリスト教信者という肩書き」は、有効な「商売道具」となっていたからこそ、「信仰」の実質を失ってはいても、それをわざわざ公に認めて、公然と信仰と決別して、正直にその関係性を整理するということをしなかったのである。

私は、『ある異常体験者の偏見』のレビューにおいて、山本七平の根底にある「被害者意識」を指摘した。山本の「ルサンチマン」とは、そうした「被害者意識」を源泉として湧き出したものなのである。

考えてみて欲しい。ユダは、きっとイエスや他の使徒たちに対して、強い「被害者意識」を持っていたはずだ。「私はイエスに、こんなにも尽くしたのに、それに報いてもらえなかった」という「被害者意識」を持っていたはずだ。そして、それが「恨みつらみ=ルサンチマン」となって、ついに彼はイエスと同信の仲間たちを「裏切り」、イエスを官憲に売り渡すのである。

山本七平の生涯も、ユダのように「国家権力」の側について「小銭を得る」ものだった。その意味では、山本もユダも、社会的には勝者の側に立っていた。
しかし、彼らの内面は、決して「勝者」のものではなく、「勝者」を誇示し続けなければならない、寂しいものだったはずだ。
また、だからこそ山本七平は、死の床に横たわるまで「ルサンチマン」に発する「毒」を吐き散らさなければならない生を、生きなければならなかった。

無論、彼自身、自分が、再臨したイエスによって天に召されるとは思っていなかったであろう。
彼は「神の国」ではなく、この「地上での栄華」を選んだ「無神論者」だったからである。

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ちなみに「創価学会批判」書としての本書について一言しておくと、これはもう完全に「よくある凡庸な批判誹謗本」にすぎない。

本書に限った話ではないけれど、山本七平は、名前を出さない「知人」だとか、「ある僧侶」だとか、「ある牧師」だとかいった、「発言責任を問えない第三者」の発言を持ってきて、それを傍証にしつつ、自己の「本音」を語らしめるという、いかにも姑息な手法を常用する。
「私は、そんなことに興味はないが」とか「どうでもいいことだが」などと言って、いかにも「第三者」ぶって見せるのだが、紹介される証言がいかにも恣意的だ。

また、本書における「資料」の出所も、いかにも「反創価学会陣営からの提供」だというのが見え透いており、外部の者には容易には入手できない資料を、造作もなく引用しているのだが、これは、資料提供者がおり、しかもその資料提供者が、反創価学会側に偏していて、だからこそ、そのあたり「党派的な偏頗さ」についても、曖昧に誤魔化して語らないのである。

私は、元創価学会員であり、創価学会の虚偽を批判してきた人間だが、しかし、山本七平のような、自身の「党派的属性」を隠した上での、陰険姑息かつ卑怯な批判をしようとは思わない。
そんなことをしなくても、客観的事実に即して公正に、創価学会の嘘を批判することは、容易に可能だからである。

もっとも、そういう公正な批判では、山本七平読者(ファン)層の「ルサンチマンに発する俗情」を満足させることは出来ないのであろう。
彼らが読みたいのは「公正な批判」文ではなく、彼ら個人の「恨みつらみ」を晴らして、溜飲を下げさせてくれる、彼らの俗情に媚びた「山本七平的な文章」だからである。

初出:2019年12月21日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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