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佐藤学、上野千鶴子、内田樹 編『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』 : 〈叱ってくれる人の恩〉を知るべし

書評:佐藤学、上野千鶴子、内田樹 編『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』(晶文社)

知的劣等感を抱えた人というのは、たいがいは「知識人」に対して反感を持っており、「俺には学問はないが、おまえら象牙の塔に引きこもった学者などより、よほど世間のことを知っているから、何が本当で何が嘘かも、すぐに判断がつく」などと、手前味噌に思いこみがちだし、そういう人たちだからこそ、勉強しようという気もない。いろんな知見に触れて、見聞をひろめようなどという気がないのだ。

劣等感にとらわれた彼らは、今ここの「自分自身」を肯定するのに精一杯なので、今の自分の意見を肯定してくれるものしか求めない。そのため、いわゆる「エコーチェンバー」とか「サイバーカスケード」とかいったようなことになってしまう。

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(※  上は「ネトウヨのマドンナ」桜井よしこ氏)

そして、こうした人たちの代表が、世に言う「ネトウヨ」である。

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もちろん「学者(知識人)も人の子」であれば、いろいろと欠点もあるし、神様のような能力を持っているわけでもない。しかし、だからと言って、彼らを「自分たち」と同様に「凡庸かそれ以下」だなどと考えるのは、あまりにも「自慰的」であり「願望充足的」に過ぎるのではないか。

学者とは「専門家」であり、言うなれば「一芸に秀でた人」なのだ。彼らは「万能の人」ではないのだけれど、人間なのだから、それでいいのである。
それを「おまえらは万能ぶっている」などと決めつけて非難したがるのは、劣等感に発する一方的な恨みつらみによって、その人の目が血走っており、真っ赤に色がついているからである。いわば「天然・色眼鏡」なのだ。

だから「学者など、所詮は一芸芸人だ」と思うのなら、「そのくらいのもの」になって見せればいいのだが、なにしろ、心の底に「俺は凡庸な、つまらない人間だ」という劣等感を隠し持っている人たちは、決して勉強しようとはしない。
勉強して、人に誇れるような結果が出なかったら、恥をかく、と考えるからである。だから「勉強ができないのではない。やらないだけだ」と、そんなふうに、ほとんど喜劇めいた、自己正当化に走るのである。

無論、若者が「うっせえ! 学者がナンボのもんじゃあ!」とツッパるのはいい。その負けん気を成長のバネにしてくれたらいいのだが、劣等感にとらわれている人というのは、若かろうが年寄りであろうが、前述のとおり、勉強をしない。だから、幾つになっても「無知」のままだ。無知のままで世間に認めて欲しい、甘ったれなのである。

そして、そんな人が、たまさか生まれだのコネだのに恵まれて、社会的に地位を得たりすると、安倍晋三や菅義偉だの、あるいは「奈良県知事リコール署名不正問題」で批判されて『僕はそんなセコいことしません。そんな貧乏ったらしい発想できません。』などと的外れな「自慢」をした高須克弥や、責任問題からセコく距離を取ろうとしている河村たかし名古屋市長のような人間になるのである。
彼らに共通する「教養が感じられない」という特徴は、そういうことなのだ。

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その点、さすがに本書の書き手は、頭の出来が違う。本書執筆者の皆さんが、人間的になんの問題もない聖人君子だとは思わないけれど、さすがに文章は読ませるし、言うまでもなく、「ネトウヨ」系のバカには、到底こういう文章は書けない。
とにかく、本書のタイトル(『学問の自由が危ない 日本学術会議問題の深層』)から予想されるような退屈な文章ばかりということではまったくなくて、「面白い」文章が少なくなのだ。

そこで、私がオススメの収録論文を、いくつか紹介しておこう。

(1)高山佳奈子先生の文章は「こんなわかりきったことについて、どうしてバカを相手にしなくちゃならないの」という立腹ぶりがハッキリと窺え、たいへん人間味のある文章であり、好感が持てる。この先生の授業は、きっと緊張感があって面白いのではないかと思う。生徒に媚びるようなことは絶対にない、豪傑のごとき先生である。

(2)池内了先生の文章は、「日本学術会議」のメンバーと言えども、決して一枚岩ではなく、やはりと言おうか、残念ながらと言おうか、むろん全員ではないけれども「科学技術」系の先生には、権力に媚びてでも「予算を潤沢にもらって、好きに研究をしたい」という、かなり社会性に欠けた「研究バカ」もいる、という事実を教えてくれる。
だからこそ、文系の先生が、引き止め役として頑張らなければならないし、それゆえに、今回任命拒否をされた6人の学者は、いずれも文系の先生なのである。

(3)学術会議の会員ではないが、今回の問題に「学問の危機」を感じて、本書の編者の一人となった、ご存知、内田樹先生の文章は、さすが手練れの「批評家」だけあって、他の先生方では真似のできない、思いもかけない「逆説的な洞察」を開陳している。これは、抜群に面白いので必読だ。

(4)ドイツ思想哲学の専門家である三島憲一先生も「日本学術会議」の会員ではないし、そもそもナチスに牛耳られた過去を持つドイツの専門家として、学者の「ヘタレ」ぶりには通暁しているから、学者の「権威主義」に対しても遠慮がなく、決して「日本学術会議」にも問題なしとはしないものの、しかし、今回の場合は、敵(ネトウヨ系政治家)のレベルが低すぎて、ひとまずそういうレベルの話ではないということで、両睨みで辛辣かつ痛快な文章を綴っている。

(5)著名な生命科学者であり、かつ歌人としても一流の永井和宏先生の文章は、悠揚迫らざる知性の輝く名文だ。そんな先生は、学者の仕事には「前衛」と「後衛」の2種類があって、決して「前衛」だけではない、という点に注意を促す。
「前衛」とは「新たな知見や技術を解明開発して、社会を引っ張っていく」立場であり、「後衛」とは「とめどなく進んでいく社会を、その知見によって後方から見守り、道を誤りそうになったら、引き止め軌道修正を促す」という役目のことだ。そして、永井先生は、日本学術会議の仕事は、むしろ「後衛」にこそ重点が置かれるべきだし、世間もその重要性をもっと認識すべきだと訴えておられる。
「日本学術会議には、社会の役にたたない、文系の学者が多い」などと非難している「ネトウヨ」などには思いもつかない意見だろうが、これは盲点を突いた、実に重要な指摘だ。
日本学術会議の会員になるには、客観的な学問的実績が必要であり、そのためおのずとそこそこの年齢に達した学者でなければ会員になることができない。研究の最前線でキャリアの半ばにある若手研究者では、まだ実績が十分ではないから、会員にはなれないのである(準会員的な、若手任用制度はある)。
しかし、「前衛」としてなら、むしろ若手研究者の方が優位かもしれない。だがまた、若手には「後衛」の仕事は務まらない。それをするには「豊かな経験」が是非とも必要だからである。
つまり、経験豊かな、ある程度、歳を重ねた学者が集う「生きた知の集積組織」だからこそ、日本学術会議は「後衛」をこそ努めるべきなのだ。それができるのは、彼らだけだからである。

そんなわけで、私は、永井先生の意見に大賛成である。

劣等感のある人は、人から意見されるのを、とても嫌う。自分に十分な能力がないと思い、欠点や問題点もあると自覚しながら、その事実から目をそらそうとしているからこそ、そこを「正しく指摘」してくる人には、腹が立って仕方がない。
例えば、宿題があるのに、どうしても気が向かないので、宿題を後回しにしてゲームをしている子供がいたとしよう。そこに親が「あなた、まだ宿題が終わってないでしょう。先に済ませてから、ゲームをしなさい」などと「正論」を口にしようものなら、子供の方は、そんなことは言われなくてもわかっていると思っているからこそ、激怒して「わかってるよ! もうちょっとしたらする気だったのに、やる気がなくなった!」などと、幼稚な反発するのである。

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しかし、こうした「耳に痛い助言」をしてくれるのは、親が、子のことを思えばこそ、なのである。そして、子供がそのことに気づくのは、親を失って、ずっと経ってからなのだ。

もちろん、「ネトウヨ」の中には「そんな親ばかりじゃない。子のためを思ってではなくて、子供が勉強しないと、自分も損だと思って言っているだけだ」と反論する人もいるかもしれない。
なるほど、そのとおりだ。そういう親もいるだろう。そういう親に育てられたからこそ「劣等感の持ち主」になったのかもしれないが、しかし、それもまた、とうてい一般論とは言えないだろう。
つまり、個々には色々なケースがあっても、しかし「助言してくれる人を、大切にしなければならない」という原則は、永井先生も指摘するとおり、愛読書が呉兢の『貞観政要』だという菅義偉首相も(読んでいるなら)知っているはずのことなのである。

では、現政権が「日本学術会議」にやろうとしていることの本質とは何なのか。

それは「口うるさい親」に対する「親殺し」である。
愚かな子供は、口うるさい親がいなくなれば「俺様の天下がやってくる」と、そう単純に考えがちなのだが、世の中はそう甘くはない。守ってくれる親がいなくなった先には、冷たい「世間」が待っているのである。

だから、「ネトウヨ」御用達の「甘ったるい駄菓子」めいた本(例えば、白川司『日本学術会議の研究』など)ばかり読んでいると、歯がボロボロになって、ろくに物を噛んで食べられない大人になってしまうので、くれぐれも要注意。恐れることなく、本書くらいは読みこなせる大人になってほしいと、そう願うばかりである。

なにしろ、同じ「日本人」なんだしね。

初出:2021年3月7日
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年3月12日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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