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信田さよ子 ・ 上間陽子 『言葉を失ったあとで』 : 〈現場で闘う〉人の 言葉

書評:信田さよ子・上間陽子『言葉を失ったあとで』(筑摩書房)

本書は、カウンセラー(臨床心理士)の信田さよ子と、社会学的調査研究に止まらず当事者対応にも関わり、それをノンフィクションとして公刊して注目されている上間陽子の、対談集である。
私は、信田さよ子と上間陽子の二人とも、読むのは初めてなのだが、これは大変面白い本だった。

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何が「面白い」のかといえば、要は「ホンネ本」だということなのだ。
では、その「ホンネ」とは、どういうことに関して、どこから語られる「ホンネ」なのか。
それは、「DV(ドメスティック・バイオレンス=家庭内暴力)」などの「虐待被害者やその加害者」に、面と向きあって対応する者としての、「現場の声」だと言えるだろう。

ここで語られるのは、「原則論」や「抽象論」ではなく、被害者や加害者たちを眼の前にして、それに対応しなければならない者の「きれいごとだけでは済まされない、闘う人の言葉」、つまり「言葉を失うような現実」を前にして、それでも発せられた「言葉」である。

例えば、二人は、論壇覇権的な抽象的議論に満足している男性理論家などを「名指し」で批判している。
「ある人が」などという誤魔化しは無しで、「名指し」で斬り捨てて見せるのだ。

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(本書で、宮台真司は「少女たちの現実を見ていなかった」と批判されている)

本来、「名指し」で批判するのなら、相応の根拠をしっかりと示さなければならないのだが、本書ではそれはなされていない。あくまでも、対話におけるシンプルな説明だけで、バッサリを斬り捨てておしまいだ。
だが、こうした一見無造作な態度も、決して無自覚になされたものではない。
要は「反論したいのなら、いつでもかかって来なさい。返り討ちにしてあげるから」という不敵な構えを大前提として、それはなされているのである。

こう言ってはなんだが、こうした物言いは、男性の物書きには、滅多に見ることはできない。
男性の物書きが誰かを批判する場合、「面倒な論争になっても構わない」という覚悟までは、まず持たないから、相手を名指しにすることはなく、一般論的に「ある人が、こんなことを書いてましたが」とか「こういうことを言う人がいますが」といった書き方をする。それで、「個人攻撃」の責任を避け、直接対決を回避しようとするのだ。要は「喧嘩する(対決する=白黒つける)気が無い」のである。

他者の「意見」を否定することはしても、「意見の持ち主」を批判することはしない。「意見」と「意見の持ち主(発言者)」を切り分ける「観念操作」によって、無難に「意見」の方だけを批判否定して、抽象議論のレベルにおいて、マウントを取ろうとするのである。一一まことにこれは、男性的な所作だと言えよう。

これに対して、信田さよ子や上間陽子は(特に、信田は)、「意見」と「意見の持ち主(発言者)」を恣意的に切り分けるような「観念操作」による「責任回避」を許さない。「意見」というものは、「意見の中身」ももちろん大切なのだが、しばしば「誰が」それを発したのかという点が、それ以上に重要なことがあるからだ。

例えば、「親が幼児を殴った」というのと「幼児が親を殴った」というのでは、その「意味するところ」も違えば「現実的な結果(被害程度)」も違っている。
したがって「暴力の現場」では、「行為は同じなのだから、どっちもどっち」だとか「喧嘩両成敗」といったことにはならないし、そのような誤魔化しを許すわけにはいかない。それを許してしまえば、結局のところは、「強者」を擁護して、そちらに加担することにしかならないからだ。
具体的に言えば「彼が奥さんを殴ったのも、理由のないことではない。ある意味では、彼だって被害者であり、一方的な、加害者・被害者関係など、現実には存在しないんだよ」といった、「抽象的な正論」に堕してしまうのである。

だから、信田は、次のように言う。

『日本の臨床心理学の多くはフロイトに依拠してきました。フロイトの精神分析は中立性を基本にしています。passive neutralと言うんですかね。どちらかではなく、両方を俯瞰的にとらえる立場に治療者がいるという前提が、中立を意味します。だから中立・客観はむしろ当たり前の問題なんです。
 私はそれは無理ではないか、その場合の中立は必ず「力のある側」「強い側」に与してしまうのではないかと思っています。暴力の問題は中立性にこだわると扱えないし、被害者に問題があるように見えてしまうでしょう。』(P17〜18)

まったく同感である。

事実、私も先日、「新本格ミステリ作家」界隈で発生しながら、長らく隠蔽されてきた「DV」問題を扱ったレビュー「〈宇山秀雄殺し〉の謎を解く:『宇山日出臣追悼文集』の密室」の中で、次のように書いている。

『宇山は、基本的には「中立的」であろうとしただろうが、しかしその一方で、その「中立」とは「ことなかれ」ではなく、「弱い者を守る=強きのイジメに加担しない」という原則を保持したうえでの「中立」であったから、どうしても宇山は「古参勢力(清涼院流水以前の作家)」の側から「どうして、清涼院たちの肩を持つのか」と責められるかたちにならざるを得ず、その不本意な「板挟み」状態によって「心労が絶えなかった」というのは、まったく想像に難くないのである。』

ここで、清涼院流水という作家をいじめた「京都大学ミステリ研究会出身の先輩作家」を非難している私から見てすら、被害者である清涼院流水は、人格的に問題のある人物に思えた。だから「先輩作家」が彼を嫌うのも、致し方のないところだとは思うのだが、しかしそれが、「イジメて良い」ということを意味しないというのは、当然の話である。

対等に喧嘩や論争をするのならいいが、「先輩」という優位に立って、しかも「徒党を組んで」イジメをするというのは、とうてい許されない「パワハラ」だと言うべきだろうし、かつて同じ大学サークルに所属した顔見知りの先輩後輩という「極めて近い間柄」からすれば、これは一種の「近親者いじめ」であり「DV」だとも言えよう。

そのあたりを、私は清涼院流水の近著を扱ったレビューの中で、次のように書いている。

『私もまた、基本的には、そうした(※ 否定的な)『コズミック』(※ 清涼院流水のデビュー作)評に同意していたけれども、ただ、この「袋叩き」的な雰囲気には、むしろ批判的に反発した。いかにも「マニア」らしい、「村」の(※ 村八分的な)感性が大嫌いだったからだ。

だから、当時の私は、『コズミック』を「ミステリ」としても「小説」としてもまったく認めない立場を表明しつつも、清涼院流水批判には与せず、むしろそれに疑義を呈し、「清涼院流水批判」を批判するものを書いていた。

そんな、当時の「空気」を象徴するエピソードとして、私が、その後も何度となく紹介したのは、当時、人気の絶頂にあった山口雅也が、たしか「鮎川哲也賞の受賞パーティー」の席で、刊行後間もなかった『コズミック』を、わざわざ「晒しもの」にしたことだった。

若干、前後関係の記憶は曖昧だが、私はその時すでに、関ミス連大会で直接、清涼院流水の講演も聞いていたはずで、その時の印象が、かなり悪かった。要は「なんだ、この自信過剰野郎は」という感じだったのだが、それでも山口雅也の「陰口」は、いやらしいと思った。なぜなら、こういうことをする手合いにかぎって、物書きであっても、活字で真正面から否定評価を語ったりはしないからだ。』

(拙論「〈カトリック洗礼〉の力 : 清涼院流水の「今」」より) 

このように、「いじめる側が社会的強者であった場合」、周囲の者はしばしば「いじめられる側にも、問題はあった」とか「いじめた側も、被害者としての一面を持っていた」などと、「一面の真理」を語って、問題を矮小化してしまいがちである。

しかし、そんなことを言っていては、「イジメ」や「DV」といった「力関係の問題」は金輪際なくならないし、その意味で、加害者を擁護し、被害者を見殺しにすることにしかならない。

したがって、「強者の暴力」は、その理由の如何に関わらず、まず否定されなければならないし、否定しなければならない。それが、こうした問題に現場で対処する者には、是非とも必要なことなのだ。

ちなみに、公平を期するために、私自身の「強者の暴力」について書いたものも紹介しておこう。

『例えば、母と同居していた頃、もともと短気な私は、母に相当イライラさせられて、怪我をさせるようなことはないものの、つい手が出てしまうようなことも、正直あった。それで「このままでは(母のためにも、自分のためにも)マズイな」と判断して、ケア・マネジャーにも正直にそうした話をし、「このまま家で面倒は見られない」と訴えたのだ。』

(拙論「「己を知り敵を知れば、百戦危うからず」」より)

『前にも書いていることだが、母と二人暮らししているときは、母にイライラさせられることがしばしばあって、つい手を出してしまうこともあった。怪我をさせるほどのものではない、最低限の自制は働いたものだったのだが、暴力は暴力だ。
流石に「介護殺人」にまでは至らないであろうけれど、「このままではまずい」という意識はあったから、母を一晩、一人で家に置いておけなくなった段階で、家での介護は続けられないということで、施設に入ってもらったのである。』

(拙論「母の〈アン・バースデイ〉2022年4月17日:一一〝虚無〟に捧ぐる供物にと」

母が、具体的にどのようなことをして私をイライラさせたのかは、問題ではない。それが、仮に私を立腹激怒させるに値する言動であったとしても、所詮、母はひ弱な老婆であり、私は健康な男性なのだから、母に手をあげるなどという行為は、容認され得るものではないのである。
また、それがわかっていたからこそ、私も『暴力は暴力だ。』と書いたのだ。

ところが、この程度の道理のわからない者が、非常に多い。なぜなら、加害書のものであれ被害者のものであれ、他人の言動を論評する者の多くは、そのほとんどが「強者」だからだ。

自分が現に「被害者」の位置に立たされておれば、問題は「他人の話」でもなければ「一般論」でもあり得ず、対応しなければならないのは、自分が今、現に直面している「難問」である、ということになる。
これを裏返して言えば、他人のことを論評して「中立者」たり得ていると思っているような者は、間違いなく「被害者」ではないし、「被害者の側」の人間でもない。彼あるいは彼女は「中立的な判定者=特権者=強者」のつもりなのだ。

だが、「中立的な判定者」のつもりでいる彼あるいは彼女も、実際には「社会的関係の網の目」の中に組み込まれており、決して「社会的関係」から超然として無関係でいられる「例外者」などではない。つまり、彼あるいは彼女にも、「強者」としての上司先輩等もいれば、「弱者」としての部下後輩等もいて、彼あるいは彼女も、その関係性の中で現に生きているのである。
だとすれば、彼あるいは彼女が、現に「平穏な社会生活」を無難に送ろうと思えば、「上司先輩(強者)」の側と「部下後輩(弱者)」の側のどちらにつくほうが「得策」か。それは、言うまでもないことだろう。

したがって、「他人の加害・被害」について、自分は「公正中立」であり得ると思っているような「頭の悪い人間」は、間違いなく、実質的には「強者の側」に付いて生きており、その判断は、無自覚ではあれ、「強者」に都合の良いものになりがちだというのは、理の当然である。
人は、自身に不利益となるような価値判断は、無意識にでも避けるものなのだ。

そしてこのような現実があるからこそ、「DV」や「虐待」の現場で、それらと闘っている信田や上間は、「客観的第三者」を装った、無自覚な「強者への追従者」に容赦がない。
「強者への追従者」に「故意」はなくても、彼らのその無自覚な「中立者的言動・論評」は、間違いなく、それ自体が「DV」や「虐待」の側に与するものでしかないからである。

そして、念のために付け加えておくならば、自身を「被害者」の側において、その「強者としての地位」から、他者を「問答無用」に切り捨てるような「自称・弱者」は、決して「弱者」ではない。
それは「弱者(という立場)」利用の「強者」でしかないのだ。少なくとも、その「発言」の瞬間においては、彼あるいは彼女は、「強者」として発言し、そのように振舞っているのである。

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「仏壇継承者」という見出しのついた部分で、上間が興味深いことを語っている。

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『 さっき沖縄の母娘関係には独特の濃密なしんどさがあるとおっしゃっていました。調査をしていて感じるのは、コミュニティをどうやって守るかというしわ寄せが娘たちに来ているということです。まずは母にしわ寄せが来ているので、今度は母が娘に負わせるのだと思うんですけど。
 いまお話しした近親者の性暴力も、やっぱりコミュニティのなかの強者がやっているんです。気づいていても、だれも止められない。調査をして気が付いたのは、長男の性暴力です。父親もありますけど。いま気になっているのは、兄ですね。』(P35)

この「仏壇継承者」というのを「跡取り息子としての伝統継承者」と言い換え、さらに「本格ミステリマインド継承者」と言い換えるなら、「新本格ミステリ作家界隈における、清涼院流水いじめ」の本質が、理解しやすいと思う。

要は、その「界隈」において「常識」と化した「本格ミステリは素晴らしい」という価値観を、自明視して疑うことを知らないなら、その価値観を共有しない者は、その価値観の「継承」を阻害する者(異分子)として、「悪」と認識されざるを得ない。彼は、悪意の有無にかかわりなく、「伝統破壊者」という「悪」なのである。
したがって、そんな「悪」を「悪」だと評価し、阻害し、「黒い羊」としてコミュニティの犠牲の祭壇に捧げるのは、まったく「正しいこと」だと、そのコミュニティの中では観念されてしまう。

また仮に、そうした価値観を絶対視しない人がいたとしても、そのコミュニティに属しているかぎりは、その共同体の価値観を否定して生きていくことはできない。そんなことをすれば、自分が次の「標的」になるか、それを避けてコミュニティを去るか、しかなくなってしまうからである。だからこそ『気づいていても、だれも止められない。』ということになってしまうのだ。

したがって、こうした「力関係による被害者」を出さないようにするためには、「セクト的な善悪価値観の判定問題」に捉われることなく、「暴力は悪だ」と前提した上で「どうすれば、暴力を減らすことができるか」という「実効性」の問題を考えなければならない。
つまり「加害者の倫理的責任問題」も、もちろん重要ではあるけれど、当面対処しなければならないのは、そこではないし、手順を間違えれば状況を悪化させることさえあるのだという「現場の知」を働かせなければならない、ということなのである。

そして「現場」とは「殺るか殺られるか」という「闘争の現場」であり、そこに立つためには「リスクを引き受ける覚悟」が、是非とも必要なのだ。だから、信田や上間は、「論敵」を名指しにする。
「泥沼の論争」になるのを恐れて、無難に「名指し」を避けるのではなく、「名指し」することで、こちらの「覚悟」を示して、「論敵」の機先を制するのだ。「覚悟があるのなら、いつでもかかって来い。返り討ちにする用意ならできているから」という意思表示である。

信田は、カウンセリングを行うにあたって「念書」の類を、いっさい取らないという。
そういうものを事前に取っていたのでは、クライアントとの深いところでの信頼関係が築けないからだ。

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周知のとおり、病院で手術を受ける場合、この手の「念書」を必ず取られる。それにサインしなければ、たとえ手術の必要な患者であっても、手術はしない、ということ(脅し)である。
無論これは、万が一にも手術の結果が好ましいものではなかった場合に、患者やその家族から告訴されることを恐れるための、訴訟対策だ。

外科手術であれカウンセリングであれ、どんなに最善を尽くしたところで、悪い結果が出ることはあり、時に患者を死に至らしめることもある。
また、医師やカウンセラーであっても、時には失敗もするしミスもする。その結果、いつもなら救えた命を救えない場合だってあるだろう。なにしろ、人間のすることなのだから、完全に失敗やミスを無くすことはできない。

しかし、その手術やカウンセリングで、家族を失ったり、不具者にされたりした者は、「失敗しました。でも、人間のすることだから、時にはそういうこともあって当然なので、これは不可抗力です。したがって、運がなかったと思って諦めてください」と言われても、とうてい「はい、おっしゃるとおりですね」と諦めることなどできず、その医師やカウンセラーの失敗やミスを捉え、処罰や賠償を求めて提訴する、一一などという話は、決して耳新しいものではない。

だから、医師やカウンセラーは、患者やその家族に、少々の「疑念や不信感」を与えることになったとしても、最悪の事態の備え(保険)として、あらかじめ「念書」を取っておくのであり、これは今や当たり前になっているのだ。

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だが、その「当たり前」を、信田はしない。しかも、それでいて、これまでに一度も訴えられたことはない、と言う。

これは、結局のところ、最後は誠心誠意「闘うしかない」という覚悟を、信田が持っているということであり、その覚悟は、自ずと患者にも伝わるということなのであろう。

言うまでもないことだが、「念書」を取っておろうといまいと、訴えられる時は訴えられる。
同様に、出版物などにおいて、プライバシーに配慮して「仮名(かめい)」を使っておろうと「それは、私をモデルにしたものであり、おかげで私は、大きな損失を被った」と訴えられることもある。
だから、自分のやっていることが「最善」であると信じているのであれば、最後はその信念を持って、堂々と闘うしかない。

例えば、手術で失敗したなら、失敗した責任は取るにせよ、人間のやることなのだから、手術に失敗はつきものなのだということを、認めさせなければならない。それが認められないのなら「今後、あなたは手術をいっさい受けないのだな」というところまで詰めなければならない。
「文学におけるモデル問題」であれば「たしかに、このモデルは貴方であり、隠し方が中途半端であったために、貴方に迷惑をかけたことについては、責任を負おう。しかし、人間はゼロからものを作るわけではなく、すべての表現には、その前提となる何らかの経験や体験があり、現実的なモデルがある、ということは認めてもらわなくては、この世に〝作品〟は存在しえず、貴方だって社会生活を営んでいくことができないはずだ。だから、モデルへの配慮は必要だが、それが完璧ではあり得ないということは、貴方の送っている生活の現実に即しても、絶対に認めてもらわなくてはならない」と、そこまで詰める覚悟があるか否かなのだ。

実際の裁判においては、そこまで詰めることもなく、表面的な法的判断で裁断されることも多いだろうが、問題はそこではない。
問題なのは「やるんなら、徹底的にやるぜ。その覚悟が貴方にはあるのか? 私にはある。だから」こそ、「念書」も取らなければ、「ある人が」などという誤魔化しもしないのだ、という「覚悟」なのだ。

そして、その覚悟において、人は一定の「信用」を得るからこそ、信田はこれまで告訴されたこともないのである。信田は「告訴されない方法」を考えるのではなく「告訴を恐れるようなことなどやっていない」という「自信」に裏付けられた「態度表明」を行なっているのだ。

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このように、本書の二人の著者には「現場で闘う者の覚悟」がある。だからこそ、きわめて率直であり、その意味で面白く、私好みであった。
今後も、この二人の著作に注目していきたい。

(2022年5月12日)

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