永井紗耶子 『木挽町のあだ討ち』 : 縄田一男でも褒められる「時代小説」
書評:永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)
「時代小説」はあまり読まない私が、どうして本作を読んだのかというと、ネットニュースで『年度ベスト級のミステリ『木挽町のあだ討ち』を読むべし!』と題するレビュー(酒井貞道「新刊めったくたガイド」)を目にしたからである。
レビューの中身まで読んでしまうと、いわゆる「ネタバレ」になってしまう恐れがあったから、その時点でレビューは読まなかったのだが、私が、このとき期待したのは「作者は、プロパーのミステリ作家ではないようだが、この作品にはミステリ的な仕掛けがあり、それが『年度ベスト級のミステリ』だということなのだろう。それは、プロパーのミステリ作家ではないからこそ書けた、一度きりのアイデアなのかもしれない」と、そういうことであった。
作者は「時代小説の俊英」らしい。
つまり、「時代小説家」として、「書ける」作家だというのは、ほぼ間違いない。
しかし、それだけなら、私は読まなかった。
あくまでも、私は『年度ベスト級のミステリ』を期待したのである。
一一で、その結果は、どうであったか?
ミステリとしては「凡作」である。
と言うか、「本文260ページ」ほどの本作において、私は「89ページ」の段階で、本作における「ミステリとして仕掛け」がハッキリとわかってしまい、それによって、本作が「どういうお話かも、すべてわかってしまった」からだ。
もちろん、著者の「時代小説作家」としての力量は、確かなものだ。つまり「いい話」を書いて、読者の「涙と共感を誘う」力量がある、というのは間違いない。
だが、物語も半ばに達する前に、基本的な「仕掛け」が見抜けてしまい、そのことによって、本作が「どのような作品なのか」もわかり、結末までが見えてしまうというのでは、以降は「その予想の当否を確認するためだけ」に読む、気の抜けた読書になってしまう。
しかも、その結末は、「予想」どおりに「そのまんま」であり、「最後の一捻りも無い」と確認させられるような作品では、「ミステリ」としては、実のところ『凡作』どころか、端的に「失敗作」だと言って良いくらいなのだ。
だから、どうして「この程度の作品を『年度ベスト級のミステリ』などと呼んだのだろうか?」と思い、本作を読み終える直前に、前記レビューを読んでみると、なんと、次のように書いてあるのではないか。
しかしまた、レビュアーである「酒井貞道」は、次のように続けて、自己の過大評価を「フォロー」してもいる。
無責任な『断言』であり『保証』だと言えるだろう。
この、「時代小説」としては『蠱惑的』と読んでも良い作品は、しかし「ミステリ的な仕掛け」によって、物語の展開までもが、全部「見透かされてしまう」、その程度の作品なのだ。
もちろん、ミステリに関して「初歩の知識」も持たない人なら、あるいは、人並みの推理力も無いような人なら、「ミステリとしての仕掛け」を見抜くことができないかもしれないし、だとすれば、物語がどのあたりに落ち着くかもわからず、最後まで楽しく読み進めることも可能だろう。
だが、仕掛けと結末が完全に見抜けてしまっては、「物語としての魅力」は、半減どころでは済まないのである。
「ミステリとしての仕掛け」が見抜けた場合、本作に残るのは「泣かせる人情話」の部分しかない。
つまり、「いい話だなあ」とか「泣かせるなあ」という部分「だけ」で小説を読むような読者なら、本作を最後まで楽しむことも、それは可能であろう。
だが、「先の読めない物語としても楽しみたい」とか「知的な部分での楽しみも与えてほしい」と望むような読者には、本作は「失敗作」でしかないのである。
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【※ 本作のミステリとしての仕掛けについて、ネタをわりますので、未読の方はご注意ください】
「あらすじ」に、
とあるけれど、すでにここだけで、ある程度「本格ミステリ」を読んできた読者なら「あれかな?」と思いつくだろう。
しかし、「まさか、今更あれはしないだろう。もっと新しいことをやってくれるんじゃないか」と期待する。
なぜならば、予想どおりに「あれ」だったなら、そんな作品は、到底『年度ベスト級のミステリ』になど、なりようもないからである。
「あれ」とは何か?
それは「本格(謎解き)ミステリ」における、「首斬りトリック」(の一種)である。
「本格ミステリ」においては、「首斬り殺人」というのが、よく描かれる。
これは「首斬り殺人」というものが、表面的には猟奇的で「ショッキングなもの」であり、その点で読者の興味を惹くからなのだが、しかし、優れた「本格ミステリ」というものは、単に「表面的な派手さ」などには、価値を置かない。
そうではなく、その「表面的な派手さ」の裏側に「巧緻な企み」を仕掛けるのである。だからこそ、「知的」な読み物たり得るのだ。
例えば、古典的な作品では、「首を切って、持ち去る」ことにより、「被害者を誤認させる」ということをする。
今は「DNA鑑定」があるから、そう簡単にはいかないが、昔は首が無ければ、「身体特徴」や「指紋」でしか、個人の特定ができない。しかし、「身体特徴」というのは、例えば、隻腕であるとかいった、よほどの珍しい特徴がないかぎり、個人特定の決定的な証拠にはならない。なぜなら「身体特徴」は、ある程度なら「偽装」できるからだ。
したがって、昔であれば、確実な個人特定は「指紋」しかなかったのだが、しかしこれも、基本的には、指紋の記録が残っている「前科者」にしか適用できないから、その意味では非常に限られたものでしかない。
だから、本作のように「指紋」による個人特定すらできない時代においては、「首斬り」によって「入れ替え」をやるのは、きわめて容易だと言えるだろう。
だが、本書の「ミステリとしての肝」は「衆人環視の下での首斬り」という点である。
だからこそ、「殺されたと考えられている人物」の入れ替えは困難なはずだ、ということになるのだが、しかし「衆人環視の入れ替わりトリック」などというものも、ミステリの長い歴史の中では山ほど考案されてきており、「新案」に限らなければ、さほど難しいことではない。
本作の作中人物も「人は意外に、目の前で人が惨殺されるシーンを、しっかりとは見ていないものだし、記憶してもいない」と言っているとおりで、人は「目の前で人が殺されている」という「思い込み」を持ってしまえば、意外に「細部の観察」は疎かになりがちなのだ。
だから「衆人環視」というのも、実は、あまり当てにならないのである。
そうなると、「首斬り」と「衆人環視」という条件についてのクリアは、さほど難しいものではない、ということになる。
ならば、残るは、「なぜ、わざわざそんなトリックを弄したのか?」という「動機」の問題となるだろう。それさえクリアできれば、本作のトリックは「たぶん、あれしかないだろう」と、容易に特定できてしまうのである。
で、この「なぜ、わざわざそんなトリックを弄したのか?」という謎についての説明が、本書「89ページ」になされていた。
だから私は、これは「仇討ちによる、首級取得に見せかけた、首斬りの物理トリック」だと確信できたのだ。
つまり、親の仇討ちをしなければならなかった菊之助は、じつのところ個人的には、仇である作兵衛を殺したくなかったのだ。
しかし、親を殺されて黙っているのでは「武士の面目が立たない」ということで「仇討ち」をしなければならない、ということになってしまった。そして、それを果たさなければ、国元へは帰れないし、母を一人残したままになるから、菊之助は「仇討ちはしたくないけれど、しないわけにもいかない」という「ジレンマ」を抱えて苦しんでいた。
ならば、当然、ここで仕掛けられる「ミステリ的なトリック」とは、「殺したふり」のトリックということになる。そうすれば、菊之助のジレンマは、解消されるからだ。
「首を斬り落として殺したふり」をしたとすれば、それは実際のところ「そう見せていた」という「お芝居」でしかなくなる。
しかしまさか、「心優しい菊之助」や、彼に同情を寄せる「心優しい森田座の面々」が、作之助の身代わりとして、別の人物を犠牲にするなんて「ホラー」的な手法を選ぶわけもないから、おのずと「作之助に対する首斬り」は「首に見せかけた死物(端的に言えば、模造品)」を使ったトリックだということになる。そして、こんなトリックなら、(すぐには思い出せないが)前例などいくつもあるのだ。
だから、私としては、「あらすじ紹介」文に、
と書いてあるのを読んだ際に、「まさか、あれではないだろうな」と否定的に考えたのは、このトリックが、あまりにも古臭くて手垢に塗れたものであり、そんなものを、いまさら持ち出してくるとは思えず、ましてや、そんなトリックを使った作品を『年度ベスト級のミステリ』だなどと評する「無責任なプロのレビュアー」がいるとは思わなかったからである。
ともあれ、「動機」と「トリック」が「89ページ」でわかってしまうと、残りの部分は「ああ、ここで作者は、謎解きのための伏線を張っているな」と「確認する」作業が残っているだけなのだ。
たしかに作者は「泣かせる庶民」を描ける作家だが、彼らの「人の良さ」を「トリック隠蔽のための手段=彼らは基本的に嘘つきではない」に使っているのだから、その「良い人たち」の描写も、少々鼻白むものとなってしまう。
そして、最後まで読んで、やっと「実は、こういう真相でした」と言われても、「そんなことは、とうの昔から、丸っとお見通しだよ」としか思えないから、「いい話だったなあ」などと、能天気に感心することなどできなかったのである。
レビュアーの「酒井貞道」は、
と書いて、本作の『誂え(しつらえ)』、つまり「作り」が堅牢だから『真相が読めた程度では(※ 小説としての価値は)びくともしない』と言っているのだが、そんなことはない。
いくら「作りがしっかりしている」としても、その「作りが、曲のないものだった」ならば、読者は、そんなものには満足できないのだ。
いくら、きっちりと作られていようと、そもそもデザインが凡庸であったなら、(舌の肥えた読者は)作りの堅牢さだけで満足できるわけがないのである。
最も、こうした感想は、本書のトリックが容易に見抜ける程度の「読者」に限られていて、小説を読むのに「泣けた」とか「感動した」とかいった、およそ「知性を必要としない読書体験」しか求めていない(子供舌の)読者になら、通用しもするだろう。
しかし、こんなものを『年度ベスト級のミステリ』だなどと本気で言うのであれば、そもそも「酒井貞道」は、ミステリを語る資格のない「ミステリのど素人」だということになるし、ただ「誇大広告」として『年度ベスト級のミステリ』だなどと評したのなら、「読者に不誠実な嘘つき」だということにしかならないのである。
したがって、「知的な読者」は、本作を読まなくてもいい。
途中でネタが割れてしまって、「読み」の楽しみが半減するのは、必定だからだ。
しかしまた、読書に「泣ける」とか「感動できる」とかいったこと「だけ」を求めるような読者なのであれば、本作は、そうした意味における「時代小説としては」優れた作品ではあるから、読めば良いと思う。
こんな私でさえ、思わずホロリとさせられるシーンが何度もあったくらいなのだから、「泣きのカタルシス」を求めているような読者の「マスターベーション(自慰)」の役には立つはずで、そうした期待なら裏切らない作品ではあるからだ。
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さて、ここで話をガラッと変えて、「時代小説の限界」という問題について書こうと思う。
これまでの議論からも分かるとおり、「時代小説」というものは、基本的に「人情話」であり「勧善懲悪」の「良いお話」であり、その意味で「非現実的なフィクション」であり「現実逃避の具」であると言っても、基本的に間違いではないだろう。
もちろん私だって、「通俗小説」「大衆小説」の代表選手としての「時代小説」というものの存在価値は、認めている。
人間、時には「現実逃避」も必要だし「マスターベーション」も必要だからだが、それが「すべて」だとか、それが「重要」だなどと、安易に思い込んでもらっては困る。
人間とは、良かれ悪しかれ、そんなに「薄っぺらに一面的」なものではないのだ。
そしてそれは、そんな小説を喜んで読んでいるような人が、現に、「時代小説に登場するような、わかりやすく一面的な善人」などではない、という現実にも明らかだろう。
現実には、そんな「絵に描いたような善人」など、滅多なことでは存在しないからこそ、それは「娯楽」として有り難がられる「ファンタジー」なのである。「現実」ではないからこそ求められてしまう、「現実逃避のための非現実」なのだ。
したがって、そうしたことがわかった上で、「娯楽小説」として「時代小説」を読むのならばいい。
人間、時には「息抜き」も必要だからだが、しかし「息抜き」ばかりしていては、その人が「腑抜けてしまう」というのも事実である。
この世界には、「直視するに堪えないような酷い現実」が山ほどあるから、そればかりを見つめていたら、人間は、現実の世界に絶望せざるを得ないだろう。
だが、だからと言って、「息抜き」のための「フィクションとしての理想像」ばかりを求め、それが「現実」だなどと勘違いするようになってしまったならば、その人は「薬物中毒者」と同様の存在でしかなくなってしまう。
「理想」というのは、あくまでも「そうではあり得ない現実」を生き抜くための「心の支え」であって、それそのものが「現実」なのではない。
例えば、「人の善意を信じるべきだ」というのは、たしかに間違いではないし、「理想」ではあろうけれども、他人のその言葉や態度が、本物の「善意」に出たものかどうかは、容易に分かるものではないのだから、現実問題として私たちは、適切に「疑い」を持った上で、適切に「判断」する責務を、独立した社会人として、個々に負ってもいる。
だから、大人であれば、ただ「信じればいい」というものではない。ただ無闇に信じるというのは、かえって「無責任」でしかない。
なぜならそれは、疑うべきを疑って、自分の身は自分で守るという「責務」を放棄した態度でしかないからである。
無論、騙す方が悪いというのは、わかり切った話だ。しかし、騙す人間がいないかのごとく振る舞う人間も、現実に対して「無責任」だということなのだ。
そんなわけで、人間は、「良いお話」という「フィクション」に酔って「現実逃避」している「だけ」ではダメで、「現実に存在する悪意」から、少なくとも自分の身を守るための「知性」を身につけなければならない。
もしも、「人を疑うなんてことをしたくない」というのならば、騙されたとわかった時に「信じていたのに!」などと「泣き言」を言わないことである。
たしかに騙したのは相手でも、それを信じたのは「自分の責任」だからで、誰もが信じるわけでもないことを、無闇に信じるというのは、社会人の行動として「不適切」であり、その意味で「無責任(一人前の責任を引き受けていない)」と言えるのだ。
そんなわけで、例外はあるとしても、「時代小説」の多くは、非現実的な「善意のファンタジー」であると言えよう。
たしかに、作中には「悪意」も登場するし、「悪役・悪人」も登場する。しかしそれは、「読者が自身を投影すべき対象」ではない。
「時代小説」の読者というのは、必ず「善人」の方に自己を投影し「こうした弱い善人たちに共感する私って、なんて善人なんだろう」と自己陶酔し、「悪人」が懲らしめられる物語を読んで、清々する。
しかし、そんな読者が、現実では、むしろ「弱い者いじめ」をする側であったなどというのは、ぜんぜん珍しい話ではない。
なにしろ、自分の中の「悪意」に気づく「知性」も無く、単純に自分を「善人」だと思えるような人は、容易に、「気に入らない存在」を「悪」と決めつけて、袋叩きにすることも辞さない。
自分は「善人」なのだから「非道なことなどするわけがない」という具合で、しばしば「自己懐疑」という「知性」に欠けているからである。
例えば、本書の帯に推薦文を寄せている、「文芸評論家」の「縄田一男」なんかも、「善意」を語る「時代小説」の推薦者には、最も不似合いな人間なのだが、「時代小説」の読者の多くは、なにしろ「知性」を持たない「権威主義者」だから、縄田の「文芸評論家」という「肩書き」をそのまんま信じてしまうし、時代小説を「たくさん読んで、よく知っている」というだけで、「時代小説のオーソリティ」だなんて思ってしまう。
それくらいに「知性」を欠いた、「盲信者」なのだ。
私は、縄田一男の「アマチュア時代」のことをよく知っているが、この男ほど「人間の善意」から遠い男もいない。
縄田については、私は、いまや「時代小説の大家」と呼んでもいいであろう「宮部みゆき」の、そのSF作品を集めた異色短編集『さよならの儀式』のレビューの中で、ざっと次のように紹介しているから、まずはそちらを読んでいただこう。
つまり、縄田一男は、「時代小説評論家」になる以前は、「ミステリ・マニア」だったのだ。
だが、縄田らの、とうてい「批評」や「批判」などとは呼べない、単なる「悪口」にも関わらず、「新本格ミステリ」ブームが盛り上がっていき、縄田らが酷評した新本格ミステリ作家たちが人気作家となり、売れっ子作家になってしまうと、もはや「ミステリ界」には、縄田一男の居場所はなくなっていた。
「新本格ブーム」の初期には、島田荘司や綾辻行人などが、しばしば「新本格バッシング」という言葉を口にしていたが、これが具体的に意味しているのは、基本的には「縄田一男と長谷部史親」の所業だと思って間違いはない。
それは、当時、縄田や長谷部と同じ「怪の会」に所属して、彼らを批判していた私がいうのだから間違いないし、そのことは、当時を知る「ミステリ業界関係者」の誰に聞いてもらってもかまわない、確固とした事実である。
で、上のレビューの中では触れなかったが、縄田らの「新本格ミステリ」に対する具体的な悪句雑言としては、他に、綾辻行人などと同様「新本格ミステリ第一期生」である「芦辺拓」についての、
「芦辺拓がここにいたら、地面に叩きつけて、踏み躙ってやりたい」
といった音葉なども、わかりやすいものであろう。
これは、記憶で書いているから、一言一句このままだとは言わないが、ほぼこのままであると断じてもいい。
違うというのなら、原文を紹介して貰えばいいし、私としても「怪の会」の会誌『地下室』のバックナンバーを確認する手間が省けて好都合なくらいである。
ともあれ、当時の縄田一男は、「新本格作家」に対しては「年長のミステリマニア」であり、しかも「時代小説だって読んでいる、アイデア一辺倒の幼稚なミステリなど認めない、小説というものをよく知る読者」だという自負があったのであろう。
だから「ぽっと出の、小説の何たるかもわかっていないような学生作家が、作家先生ヅラするな」という「妬み」もあって、このような「悪口雑言」を放つことになったのだが、しかし、オタクというのは、ツブシがきかないものだから、縄田は、アマチュア時代の「コネ」に頼って、まずは「時代小説評論家」になるしかなかった。
「新本格ミステリ」作家が主流となった「ミステリ界」では、彼らの居場所はなかったからである(ちなみに、長谷部史親は古本屋になった)。
縄田一男の場合、「評論家」と言っても、それは「批評」「評論」が書ける、ということではない。
平たく言えば、その「オタク的知識」を活かした「紹介屋」であり「誉め屋(幇間的紹介者)」でしかない。
そもそも、「時代小説」の世界というのは、大筋において「耳に優しい言葉」しか求めていない読者が多いから、「コネと知識」さえあれば、「評論家」という名の「紹介屋」には、なれるのである。
そんなわけで、「評論家」になったあとの縄田一男は、人が変わったように、「悪口」は無論のこと、「否定的な評価」すら語らなくなった。
その方が、「現実」を見たくない「時代小説ファン」や「時代小説家」には、ありがたい存在であったからだ。
○ ○ ○
しかしである、「人間の善意」を寿ぐ「時代小説」という「娯楽」ジャンルにおいて、縄田一男のような人間が「推薦者」であるということほど、「時代小説」というジャンルの「現実」や「本性」を照らし出す事実も、またとないのではだろうか。
要領よく生きることは、傍目には「(社会的な)成功」のように見える。
しかし、そのために、多くの人は、自分が大切にしていた「胸の内の本当の思い」を見捨て、裏切ることになる。そんな生き方は、内面的には、決して幸福なものではあり得ない、という意味である。
「大切なものを手放した顔」とは、どのような顔なのであろうか?
それは、「理想」を「綺麗事だ。現実はそんな甘いもんじゃない」などと嘲笑し、見下すことでしか、自己を正当化し得ない「負け犬の卑屈にくすんだ顔」である。
「世の道理」とは『武士であろうと町人であろうと変わるはずがない。』。当然「小説家であろうと、評論家であろうと、一般読者であろうと」変わるはずなどない。
しかし、世の中には、「プロ」であろうとするために『呑んではならぬ濁り』を喜んで呑むような者の方が、むしろ多い。
例えば、縄田一男の推薦文を、その「肩書き」において、差別的に「ありがたい」と受け取るような、作家や編集者の実在である。
言うべきことを言うのは、相手に対する「誠実」であり、「(時に捨て身の)愛」である。
だが、それを語る「小説」は多くても、それを実行する「物書き(作家)」など、滅多にいない。
なぜなら、彼らの大半は、単純に「薄汚れて保身的な俗物」でしかないからだ。それが「現実」なのだ。
この文章を、次のように書き換えたらどうか。
「手前ども小説家は、筆先三寸の売文芸者などと言われ……その一方で、ご贔屓下さる皆々様からは、神仏のごとく崇められ、手前で手前が何者なのか分からなくなっちまう時があります。だからこそ、腹を据えてかからねえと、あっという間に世間の声に振り回されて堕ちちまう」
「芥川賞受賞作家」だ「直木賞受賞作家」だ「山本周五郎賞受賞作家」だ、その「選考委員」先生だなどと崇め奉られて、自分で自分がわからなくなっているような「先生きどり」が、一体どれほどいることだろうか。
『心の真ん中から溢れるもんを、人に捧げるってこと』というのは、何も「褒める」ことだけをいうのではない。「それは間違っていますよ」と、憎まれてまでも言う「諫言」こそが「忠義」から出るものであるというのは明白であろう。
幇間のように、心にもない「褒め言葉」を並べて、有力者に取り入ろうとするような者には、「忠」など無い、ということだ。
「プロの物書きは偉いと思っている」などとは、作家であろうと評論家であろうと、決して口にはしない。「大切なのは、立場や肩書きなどではなく、人としての正しさだと思っている」くらいのことは言うだろう。
しかし、現実には、彼らの多くは『階段みたいになって』いる現実社会において、他人を踏みつけにしてでも『這い上がらないといけないって、手前を追い立ててここまで来た』ような手合いばかりである。
だからこそ、彼らは「本音」を語らないし、長いものにも、喜んで巻かれるのである。
したがって、ここで語られていることは、自分がやっていないこと、できないまま憧れていること、憧れているだけ「まだマシでしょ?」という作者の思いが込められていると、そう言ってもいいだろう。
少々厳しい言い方かもしれないが、異論や反論などないはずだが、いかがか?
そう。人間というのは、「時代小説」が描くほど、「綺麗な人間」と「汚れた人間」に、わかりやすく二分できるものではない。
一人の人間の中には、その両面があって、その対立に「折り合い」をつけながら生きているのが人間なのだけれど、しかしだからと言って、折り合いの付け方が「何でもあり」だというわけではない。
前述(3)のとおり、人間には『呑んではならぬ濁り』というものがあり、「折り合ってはならない一線」というものもある。それを超えて折り合えば、(2)のとおりで『あれは大切なものを手放した顔だ。』ということになってしまうのだ。
菊之助の「真っ直ぐさ」、それゆえの苦しみに同情するからこそ、世の中と「折り合い」をつけずには生きてこれなかった人たちが、菊之助を支援したのだ。なんとか、菊之助には「真っ直ぐなままでいてほしい」と思ったから、菊之助に力を貸したのである。
言い換えれば、彼らは、その人生において「折り合い」「妥協」せずには生きては来れなかったとはいうものの、「最後の一線」だけは譲らず「胸の内」の大切なものを守り抜いたからこそ、彼らは菊之助を「目障り」だと感じることもなければ、「憎む」こともなかった。
言い換えれば、心底「心の汚れてしまった人間」にとっては、菊之助のような人間ほど「目障り」な存在はいない。なぜなら、そんな人間がそばにいると、自分の「汚れ」が、否応なく際立ってしまうからである。
「そういうやり方は間違っていますよ」と忠言しても、多くの場合は「これも時代小説のため。不況の出版業界を盛り上げるためには仕方がないのだ」「綺麗事ばかり言っていたら、このジャンルは廃れてしまうんだよ」とでも返ってくるのが関の山であろう。
だが、「時代小説」がしばしば描く「人間にとっての、真に大切なもの」というのは、そんなものであったのか? それとも、それらは全部「子供騙しの綺麗事」だったということなのだろうか。
今の「プロの作家」というのは、小説家であれ、評論家であれ、ライターであれ、おおむね「私腹を肥やすこと」しか考えていない。
だからこそ、「酒井貞道」のように『年度ベスト級のミステリ』だなどという安易な絶賛を、無責任にも安売りできるのだし、縄田一男のような「偽善者」であっても、「時代小説評論家」が務まるのだ。
そこは、「知性」や「職業倫理」が求められていない場所だから、そんなものでも、用が足りるのである。
(2023年6月10日)
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