見出し画像

永井紗耶子 『木挽町のあだ討ち』 : 縄田一男でも褒められる「時代小説」

書評:永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)

「時代小説」はあまり読まない私が、どうして本作を読んだのかというと、ネットニュースで『年度ベスト級のミステリ『木挽町のあだ討ち』を読むべし!』と題するレビュー(酒井貞道「新刊めったくたガイド」)を目にしたからである。

レビューの中身まで読んでしまうと、いわゆる「ネタバレ」になってしまう恐れがあったから、その時点でレビューは読まなかったのだが、私が、このとき期待したのは「作者は、プロパーのミステリ作家ではないようだが、この作品にはミステリ的な仕掛けがあり、それが『年度ベスト級のミステリ』だということなのだろう。それは、プロパーのミステリ作家ではないからこそ書けた、一度きりのアイデアなのかもしれない」と、そういうことであった。

疑う隙なんぞありはしない、あれは立派な仇討ちでしたよ。
語り草となった大事件、その真相は――。
ある雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による仇討ちがみごとに成し遂げられた。父親を殺めた下男を斬り、その血まみれの首を高くかかげた快挙はたくさんの人々から賞賛された。二年の後、菊之助の縁者だというひとりの侍が仇討ちの顚末を知りたいと、芝居小屋を訪れるが――。新田次郎文学賞など三冠の『商う狼』、直木賞候補作『女人入眼』で今もっとも注目される時代・歴史小説家による、現代人を勇気づける令和の革命的傑作誕生!』

(Amazon『木挽町のあだ討ち』の内容紹介文

作者は「時代小説の俊英」らしい。
つまり、「時代小説家」として、「書ける」作家だというのは、ほぼ間違いない。
しかし、それだけなら、私は読まなかった。
あくまでも、私は『年度ベスト級のミステリ』を期待したのである。

一一で、その結果は、どうであったか?

ミステリとしては「凡作」である。
と言うか、「本文260ページ」ほどの本作において、私は「89ページ」の段階で、本作における「ミステリとして仕掛け」がハッキリとわかってしまい、それによって、本作が「どういうお話かも、すべてわかってしまった」からだ。

もちろん、著者の「時代小説作家」としての力量は、確かなものだ。つまり「いい話」を書いて、読者の「涙と共感を誘う」力量がある、というのは間違いない

だが、物語も半ばに達する前に、基本的な「仕掛け」が見抜けてしまい、そのことによって、本作が「どのような作品なのか」もわかり、結末までが見えてしまうというのでは、以降は「その予想の当否を確認するためだけ」に読む、気の抜けた読書になってしまう。

しかも、その結末は、「予想」どおりに「そのまんま」であり、「最後の一捻りも無い」と確認させられるような作品では、「ミステリ」としては、実のところ『凡作』どころか、端的に「失敗作」だと言って良いくらいなのだ。

だから、どうして「この程度の作品を『年度ベスト級のミステリ』などと呼んだのだろうか?」と思い、本作を読み終える直前に、前記レビューを読んでみると、なんと、次のように書いてあるのではないか。

『ミステリ愛好家であれば、最終章を待たずして、本書の真相を予見するのはそう難しくない。』

しかしまた、レビュアーである「酒井貞道」は、次のように続けて、自己の過大評価を「フォロー」してもいる。

『しかしわかっていても魅入られる物語はある。本当に強靭な物語は、真相が読めた程度ではびくともしないものだ。『木挽町のあだ討ち』は疑いなく、そのような強い小説である。断言し保証します。この蠱惑的なまでの見事な誂えに、抗う術のあるべきか。』

無責任な『断言』であり『保証』だと言えるだろう。
この、「時代小説」としては『蠱惑的』と読んでも良い作品は、しかし「ミステリ的な仕掛け」によって、物語の展開までもが、全部「見透かされてしまう」、その程度の作品なのだ。

もちろん、ミステリに関して「初歩の知識」も持たない人なら、あるいは、人並みの推理力も無いような人なら、「ミステリとしての仕掛け」を見抜くことができないかもしれないし、だとすれば、物語がどのあたりに落ち着くかもわからず、最後まで楽しく読み進めることも可能だろう。
だが、仕掛けと結末が完全に見抜けてしまっては、「物語としての魅力」は、半減どころでは済まないのである。

「ミステリとしての仕掛け」が見抜けた場合、本作に残るのは「泣かせる人情話」の部分しかない。
つまり、「いい話だなあ」とか「泣かせるなあ」という部分「だけ」で小説を読むような読者なら、本作を最後まで楽しむことも、それは可能であろう。
だが、「先の読めない物語としても楽しみたい」とか「知的な部分での楽しみも与えてほしい」と望むような読者には、本作は「失敗作」でしかないのである。

 ○ ○ ○

【※ 本作のミステリとしての仕掛けについて、ネタをわりますので、未読の方はご注意ください】

「あらすじ」に、

『ある雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による仇討ちがみごとに成し遂げられた。父親を殺めた下男を斬り、その血まみれの首を高くかかげた快挙はたくさんの人々から賞賛された。』

とあるけれど、すでにここだけで、ある程度「本格ミステリ」を読んできた読者なら「あれかな?」と思いつくだろう。

しかし、「まさか、今更あれはしないだろう。もっと新しいことをやってくれるんじゃないか」と期待する。
なぜならば、予想どおりに「あれ」だったなら、そんな作品は、到底『年度ベスト級のミステリ』になど、なりようもないからである。

「あれ」とは何か?

それは「本格(謎解き)ミステリ」における、「首斬りトリック」(の一種)である。

「本格ミステリ」においては、「首斬り殺人」というのが、よく描かれる。
これは「首斬り殺人」というものが、表面的には猟奇的で「ショッキングなもの」であり、その点で読者の興味を惹くからなのだが、しかし、優れた「本格ミステリ」というものは、単に「表面的な派手さ」などには、価値を置かない。
そうではなく、その「表面的な派手さ」の裏側に「巧緻な企み」を仕掛けるのである。だからこそ、「知的」な読み物たり得るのだ。

例えば、古典的な作品では、「首を切って、持ち去る」ことにより、「被害者を誤認させる」ということをする。
今は「DNA鑑定」があるから、そう簡単にはいかないが、昔は首が無ければ、「身体特徴」や「指紋」でしか、個人の特定ができない。しかし、「身体特徴」というのは、例えば、隻腕であるとかいった、よほどの珍しい特徴がないかぎり、個人特定の決定的な証拠にはならない。なぜなら「身体特徴」は、ある程度なら「偽装」できるからだ。
したがって、昔であれば、確実な個人特定は「指紋」しかなかったのだが、しかしこれも、基本的には、指紋の記録が残っている「前科者」にしか適用できないから、その意味では非常に限られたものでしかない。
だから、本作のように「指紋」による個人特定すらできない時代においては、「首斬り」によって「入れ替え」をやるのは、きわめて容易だと言えるだろう。

だが、本書の「ミステリとしての肝」は「衆人環視の下での首斬り」という点である。
だからこそ、「殺されたと考えられている人物」の入れ替えは困難なはずだ、ということになるのだが、しかし「衆人環視の入れ替わりトリック」などというものも、ミステリの長い歴史の中では山ほど考案されてきており、「新案」に限らなければ、さほど難しいことではない。

本作の作中人物も「人は意外に、目の前で人が惨殺されるシーンを、しっかりとは見ていないものだし、記憶してもいない」と言っているとおりで、人は「目の前で人が殺されている」という「思い込み」を持ってしまえば、意外に「細部の観察」は疎かになりがちなのだ。
だから「衆人環視」というのも、実は、あまり当てにならないのである。

そうなると、「首斬り」と「衆人環視」という条件についてのクリアは、さほど難しいものではない、ということになる。
ならば、残るは、「なぜ、わざわざそんなトリックを弄したのか?」という「動機」の問題となるだろう。それさえクリアできれば、本作のトリックは「たぶん、あれしかないだろう」と、容易に特定できてしまうのである。

で、この「なぜ、わざわざそんなトリックを弄したのか?」という謎についての説明が、本書「89ページ」になされていた。
だから私は、これは「仇討ちによる、首級取得に見せかけた、首斬りの物理トリック」だと確信できたのだ。

『 菊之助殿はじっと聞いていたが、やがて深い吐息と共に話し始めた。
「私は、作兵衛を怨んでおりませぬ。作兵衛は元々、当家の家人でした。身分こそ違えども父は内々では、友とさえ呼んでおり、私も幼い時分はよく遊んでもらっておりました。それ故にこそ、仇とても討つには忍びないのです」』(P89)

つまり、親の仇討ちをしなければならなかった菊之助は、じつのところ個人的には、仇である作兵衛を殺したくなかったのだ。

しかし、親を殺されて黙っているのでは「武士の面目が立たない」ということで「仇討ち」をしなければならない、ということになってしまった。そして、それを果たさなければ、国元へは帰れないし、母を一人残したままになるから、菊之助は「仇討ちはしたくないけれど、しないわけにもいかない」という「ジレンマ」を抱えて苦しんでいた。

(楊洲周延作「曽我兄弟夜討ノ図」)

ならば、当然、ここで仕掛けられる「ミステリ的なトリック」とは、「殺したふり」のトリックということになる。そうすれば、菊之助のジレンマは、解消されるからだ。

「首を斬り落として殺したふり」をしたとすれば、それは実際のところ「そう見せていた」という「お芝居」でしかなくなる。
しかしまさか、「心優しい菊之助」や、彼に同情を寄せる「心優しい森田座の面々」が、作之助の身代わりとして、別の人物を犠牲にするなんて「ホラー」的な手法を選ぶわけもないから、おのずと「作之助に対する首斬り」は「首に見せかけた死物(端的に言えば、模造品)」を使ったトリックだということになる。そして、こんなトリックなら、(すぐには思い出せないが)前例などいくつもあるのだ。

だから、私としては、「あらすじ紹介」文に、

『ある雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による仇討ちがみごとに成し遂げられた。父親を殺めた下男を斬り、その血まみれの首を高くかかげた快挙はたくさんの人々から賞賛された。』

と書いてあるのを読んだ際に、「まさか、あれではないだろうな」と否定的に考えたのは、このトリックが、あまりにも古臭くて手垢に塗れたものであり、そんなものを、いまさら持ち出してくるとは思えず、ましてや、そんなトリックを使った作品を『年度ベスト級のミステリ』だなどと評する「無責任なプロのレビュアー」がいるとは思わなかったからである。

ともあれ、「動機」と「トリック」が「89ページ」でわかってしまうと、残りの部分は「ああ、ここで作者は、謎解きのための伏線を張っているな」と「確認する」作業が残っているだけなのだ。

たしかに作者は「泣かせる庶民」を描ける作家だが、彼らの「人の良さ」を「トリック隠蔽のための手段=彼らは基本的に嘘つきではない」に使っているのだから、その「良い人たち」の描写も、少々鼻白むものとなってしまう。
そして、最後まで読んで、やっと「実は、こういう真相でした」と言われても、「そんなことは、とうの昔から、丸っとお見通しだよ」としか思えないから、「いい話だったなあ」などと、能天気に感心することなどできなかったのである。

レビュアーの「酒井貞道」は、

『本当に強靭な物語は、真相が読めた程度ではびくともしないものだ。『木挽町のあだ討ち』は疑いなく、そのような強い小説である。断言し保証します。この蠱惑的なまでの見事な誂えに、抗う術のあるべきか。』

と書いて、本作の『誂え(しつらえ)』、つまり「作り」が堅牢だから『真相が読めた程度では(※ 小説としての価値は)びくともしない』と言っているのだが、そんなことはない。

いくら「作りがしっかりしている」としても、その「作りが、曲のないものだった」ならば、読者は、そんなものには満足できないのだ。
いくら、きっちりと作られていようと、そもそもデザインが凡庸であったなら、(舌の肥えた読者は)作りの堅牢さだけで満足できるわけがないのである。

最も、こうした感想は、本書のトリックが容易に見抜ける程度の「読者」に限られていて、小説を読むのに「泣けた」とか「感動した」とかいった、およそ「知性を必要としない読書体験」しか求めていない(子供舌の)読者になら、通用しもするだろう。

しかし、こんなものを『年度ベスト級のミステリ』だなどと本気で言うのであれば、そもそも「酒井貞道」は、ミステリを語る資格のない「ミステリのど素人」だということになるし、ただ「誇大広告」として『年度ベスト級のミステリ』だなどと評したのなら、「読者に不誠実な嘘つき」だということにしかならないのである。

したがって、「知的な読者」は、本作を読まなくてもいい。
途中でネタが割れてしまって、「読み」の楽しみが半減するのは、必定だからだ。

しかしまた、読書に「泣ける」とか「感動できる」とかいったこと「だけ」を求めるような読者なのであれば、本作は、そうした意味における「時代小説としては」優れた作品ではあるから、読めば良いと思う。
こんな私でさえ、思わずホロリとさせられるシーンが何度もあったくらいなのだから、「泣きのカタルシス」を求めているような読者の「マスターベーション(自慰)」の役には立つはずで、そうした期待なら裏切らない作品ではあるからだ。

 ○ ○ ○

さて、ここで話をガラッと変えて、「時代小説の限界」という問題について書こうと思う。

これまでの議論からも分かるとおり、「時代小説」というものは、基本的に「人情話」であり「勧善懲悪」の「良いお話」であり、その意味で「非現実的なフィクション」であり「現実逃避の具」であると言っても、基本的に間違いではないだろう。

もちろん私だって、「通俗小説」「大衆小説」の代表選手としての「時代小説」というものの存在価値は、認めている。
人間、時には「現実逃避」も必要だし「マスターベーション」も必要だからだが、それが「すべて」だとか、それが「重要」だなどと、安易に思い込んでもらっては困る。
人間とは、良かれ悪しかれ、そんなに「薄っぺらに一面的」なものではないのだ。

そしてそれは、そんな小説を喜んで読んでいるような人が、現に、「時代小説に登場するような、わかりやすく一面的な善人」などではない、という現実にも明らかだろう。
現実には、そんな「絵に描いたような善人」など、滅多なことでは存在しないからこそ、それは「娯楽」として有り難がられる「ファンタジー」なのである。「現実」ではないからこそ求められてしまう、「現実逃避のための非現実」なのだ。

したがって、そうしたことがわかった上で、「娯楽小説」として「時代小説」を読むのならばいい。
人間、時には「息抜き」も必要だからだが、しかし「息抜き」ばかりしていては、その人が「腑抜けてしまう」というのも事実である。

この世界には、「直視するに堪えないような酷い現実」が山ほどあるから、そればかりを見つめていたら、人間は、現実の世界に絶望せざるを得ないだろう。
だが、だからと言って、「息抜き」のための「フィクションとしての理想像」ばかりを求め、それが「現実」だなどと勘違いするようになってしまったならば、その人は「薬物中毒者」と同様の存在でしかなくなってしまう。

「理想」というのは、あくまでも「そうではあり得ない現実」を生き抜くための「心の支え」であって、それそのものが「現実」なのではない。

例えば、「人の善意を信じるべきだ」というのは、たしかに間違いではないし、「理想」ではあろうけれども、他人のその言葉や態度が、本物の「善意」に出たものかどうかは、容易に分かるものではないのだから、現実問題として私たちは、適切に「疑い」を持った上で、適切に「判断」する責務を、独立した社会人として、個々に負ってもいる。

だから、大人であれば、ただ「信じればいい」というものではない。ただ無闇に信じるというのは、かえって「無責任」でしかない。
なぜならそれは、疑うべきを疑って、自分の身は自分で守るという「責務」を放棄した態度でしかないからである。

無論、騙す方が悪いというのは、わかり切った話だ。しかし、騙す人間がいないかのごとく振る舞う人間も、現実に対して「無責任」だということなのだ。

そんなわけで、人間は、「良いお話」という「フィクション」に酔って「現実逃避」している「だけ」ではダメで、「現実に存在する悪意」から、少なくとも自分の身を守るための「知性」を身につけなければならない。
もしも、「人を疑うなんてことをしたくない」というのならば、騙されたとわかった時に「信じていたのに!」などと「泣き言」を言わないことである。

たしかに騙したのは相手でも、それを信じたのは「自分の責任」だからで、誰もが信じるわけでもないことを、無闇に信じるというのは、社会人の行動として「不適切」であり、その意味で「無責任(一人前の責任を引き受けていない)」と言えるのだ。

そんなわけで、例外はあるとしても、「時代小説」の多くは、非現実的な「善意のファンタジー」であると言えよう。

たしかに、作中には「悪意」も登場するし、「悪役・悪人」も登場する。しかしそれは、「読者が自身を投影すべき対象」ではない。
「時代小説」の読者というのは、必ず「善人」の方に自己を投影し「こうした弱い善人たちに共感する私って、なんて善人なんだろう」と自己陶酔し、「悪人」が懲らしめられる物語を読んで、清々する。

しかし、そんな読者が、現実では、むしろ「弱い者いじめ」をする側であったなどというのは、ぜんぜん珍しい話ではない。
なにしろ、自分の中の「悪意」に気づく「知性」も無く、単純に自分を「善人」だと思えるような人は、容易に、「気に入らない存在」を「悪」と決めつけて、袋叩きにすることも辞さない。
自分は「善人」なのだから「非道なことなどするわけがない」という具合で、しばしば「自己懐疑」という「知性」に欠けているからである。

例えば、本書の帯に推薦文を寄せている、「文芸評論家」の「縄田一男」なんかも、「善意」を語る「時代小説」の推薦者には、最も不似合いな人間なのだが、「時代小説」の読者の多くは、なにしろ「知性」を持たない「権威主義者」だから、縄田の「文芸評論家」という「肩書き」をそのまんま信じてしまうし、時代小説を「たくさん読んで、よく知っている」というだけで、「時代小説のオーソリティ」だなんて思ってしまう。
それくらいに「知性」を欠いた、「盲信者」なのだ。

私は、縄田一男の「アマチュア時代」のことをよく知っているが、この男ほど「人間の善意」から遠い男もいない。

縄田については、私は、いまや「時代小説の大家」と呼んでもいいであろう「宮部みゆき」の、そのSF作品を集めた異色短編集『さよならの儀式』のレビューの中で、ざっと次のように紹介しているから、まずはそちらを読んでいただこう。

『宮部みゆきは「(面白い物語を、人間を)書ける新人作家」として高く評価されたからこそ、逆に「新本格ミステリ作家」だとは見られなかったのである。

しかし、だからと言って、宮部みゆきが、綾辻行人以下の「新本格ミステリ作家」のような「ミステリ・マニア」ではなかったのかと言えば、そんなことはない。
宮部が、十分に「ミステリマニア上がりの作家」だったというのは、彼女が、マニアックな探偵小説専門誌『幻影城』のファンクラブとして発足した、「怪の会」の会員であった事実からも明らかだろう。

ただ、宮部の場合は、「ミステリマニア」ではあったけれど、「それだけではなかった」。
SFも読めば、ホラーも読むし、ファンタジーも時代小説も読む、そんな「大衆小説全般を愛読する読者」だったのであり、そこが彼女の強みでもあれば、当初、わかりやすい「プロパー作家」にはなれなかった、ある意味では(当初の)弱みでもあったのでもある。

ちなみに、「新本格ミステリ以前」からのミステリマニアのサークルであった「怪の会」は、当時、長谷部史親と縄田一男の二人が、別格の「二大巨頭」的に君臨していた、特異なサークルであった。
長谷部は、当時すでに『探偵小説談林』という評論書を公刊していた「うるさ型」のミステリマニアだったし、縄田一男の方はのちに「時代小説評論家」に転じるようなマニア気質の持ち主だった。

そして、この二人に共通していたのが、「新本格ミステリ以前」的な「本格ミステリと言えども、人間が書けているというのは、小説としての最低条件だ」とする価値観である。

だから、彼らは「新本格ミステリ」をまったく評価せず、むしろ積極的に否定し、攻撃した。
綾辻行人の「館シリーズ」などは、『違法建築もの』と呼ばれて、悪意を持って揶揄され嘲笑された。それがのちに「新本格バッシング」として語られるようになった(ものの、端的な例だった)のである。

だが、当然のことながら、この二人は、同じ「怪の会」の会員で、「人間の書ける」宮部みゆきの方は高く評価していたし、逆に綾辻行人ら「新本格ミステリ作家」を揶揄する際に、宮部を引き合いに出すことさえあった。
したがって、宮部としては、同世代のミステリファン出身作家として共感を抱いている「新本格ミステリ作家」たちに対して、悪句雑言を浴びせるのを楽しんでいるかのような(年長の)長谷部・縄田ペアが、いくら褒めてくれるとは言え、自分を引き合いに出すことに、内心おだやかではいられなかったであろうというのは、容易に察しのつくところである。』

つまり、縄田一男は、「時代小説評論家」になる以前は、「ミステリ・マニア」だったのだ。

だが、縄田らの、とうてい「批評」や「批判」などとは呼べない、単なる「悪口」にも関わらず、「新本格ミステリ」ブームが盛り上がっていき、縄田らが酷評した新本格ミステリ作家たちが人気作家となり、売れっ子作家になってしまうと、もはや「ミステリ界」には、縄田一男の居場所はなくなっていた。

「新本格ブーム」の初期には、島田荘司綾辻行人などが、しばしば「新本格バッシング」という言葉を口にしていたが、これが具体的に意味しているのは、基本的には「縄田一男と長谷部史親」の所業だと思って間違いはない。

それは、当時、縄田や長谷部と同じ「怪の会」に所属して、彼らを批判していた私がいうのだから間違いないし、そのことは、当時を知る「ミステリ業界関係者」の誰に聞いてもらってもかまわない、確固とした事実である。

で、上のレビューの中では触れなかったが、縄田らの「新本格ミステリ」に対する具体的な悪句雑言としては、他に、綾辻行人などと同様「新本格ミステリ第一期生」である「芦辺拓」についての、

「芦辺拓がここにいたら、地面に叩きつけて、踏み躙ってやりたい」

といった音葉なども、わかりやすいものであろう。

これは、記憶で書いているから、一言一句このままだとは言わないが、ほぼこのままであると断じてもいい。
違うというのなら、原文を紹介して貰えばいいし、私としても「怪の会」の会誌『地下室』のバックナンバーを確認する手間が省けて好都合なくらいである。

ともあれ、当時の縄田一男は、「新本格作家」に対しては「年長のミステリマニア」であり、しかも「時代小説だって読んでいる、アイデア一辺倒の幼稚なミステリなど認めない、小説というものをよく知る読者」だという自負があったのであろう。

だから「ぽっと出の、小説の何たるかもわかっていないような学生作家が、作家先生ヅラするな」という「妬み」もあって、このような「悪口雑言」を放つことになったのだが、しかし、オタクというのは、ツブシがきかないものだから、縄田は、アマチュア時代の「コネ」に頼って、まずは「時代小説評論家」になるしかなかった。
「新本格ミステリ」作家が主流となった「ミステリ界」では、彼らの居場所はなかったからである(ちなみに、長谷部史親は古本屋になった)。

縄田一男の場合、「評論家」と言っても、それは「批評」「評論」が書ける、ということではない。
平たく言えば、その「オタク的知識」を活かした「紹介屋」であり「誉め屋(幇間的紹介者)」でしかない。

そもそも、「時代小説」の世界というのは、大筋において「耳に優しい言葉」しか求めていない読者が多いから、「コネと知識」さえあれば、「評論家」という名の「紹介屋」には、なれるのである。

そんなわけで、「評論家」になったあとの縄田一男は、人が変わったように、「悪口」は無論のこと、「否定的な評価」すら語らなくなった。
その方が、「現実」を見たくない「時代小説ファン」や「時代小説家」には、ありがたい存在であったからだ。

 ○ ○ ○

しかしである、「人間の善意」を寿ぐ「時代小説」という「娯楽」ジャンルにおいて、縄田一男のような人間が「推薦者」であるということほど、「時代小説」というジャンルの「現実」や「本性」を照らし出す事実も、またとないのではだろうか。

(1)
『「そうするとね、お前さんがお前さんの胸の内を見捨てることになっちまう。わかるかい」』(P37)

要領よく生きることは、傍目には「(社会的な)成功」のように見える。
しかし、そのために、多くの人は、自分が大切にしていた「胸の内の本当の思い」を見捨て、裏切ることになる。そんな生き方は、内面的には、決して幸福なものではあり得ない、という意味である。

(2)
『 あれは大切なものを手放した顔だ。それが何かははっきりとはわからない。しかし今、某(※ それがし)が譲れないと思っているものを譲った途端、あの陥穽に落ちるのだ。それだけが分かる。』(P69)

「大切なものを手放した顔」とは、どのような顔なのであろうか?
それは、「理想」を「綺麗事だ。現実はそんな甘いもんじゃない」などと嘲笑し、見下すことでしか、自己を正当化し得ない「負け犬の卑屈にくすんだ顔」である。

(3)
『 世の道理とは、この娘の言うように、至極簡単なはずなのだ。それは武士であろうと町人であろうと変わるはずがない。清濁併せ呑む、父は言ったが、呑んではならぬ濁りもある。』(P73)

「世の道理」とは『武士であろうと町人であろうと変わるはずがない。』。当然「小説家であろうと、評論家であろうと、一般読者であろうと」変わるはずなどない。
しかし、世の中には、「プロ」であろうとするために『呑んではならぬ濁り』を喜んで呑むような者の方が、むしろ多い。
例えば、縄田一男の推薦文を、その「肩書き」において、差別的に「ありがたい」と受け取るような、作家や編集者の実在である。

(4)
『 浩二郎の悪事に「目を瞑れ」と言った父に、「それは違う」と言いたかった。父親を敬えばこそ、言うべきことがあったはずだ。それをせずに勝手に父に失望し、失望したことに思い悩んだ。それは某の甘えではなかったか。』
(P80〜82)

言うべきことを言うのは、相手に対する「誠実」であり、「(時に捨て身の)愛」である。
だが、それを語る「小説」は多くても、それを実行する「物書き(作家)」など、滅多にいない。
なぜなら、彼らの大半は、単純に「薄汚れて保身的な俗物」でしかないからだ。それが「現実」なのだ。

(5)
『「手前ども役者は、河原乞食だの人外だのと言われ……その一方で、ご贔屓下さる皆々様からは、神仏のごとく崇められ、手前で手前が何者なのか分からなくなっちまう時があります。だからこそ、腹を据えてかからねえと、あっという間に世間の声に振り回されて堕ちちまう」(P82〜83)

この文章を、次のように書き換えたらどうか。
「手前ども小説家は、筆先三寸の売文芸者などと言われ……その一方で、ご贔屓下さる皆々様からは、神仏のごとく崇められ、手前で手前が何者なのか分からなくなっちまう時があります。だからこそ、腹を据えてかからねえと、あっという間に世間の声に振り回されて堕ちちまう」

「芥川賞受賞作家」だ「直木賞受賞作家」だ「山本周五郎賞受賞作家」だ、その「選考委員」先生だなどと崇め奉られて、自分で自分がわからなくなっているような「先生きどり」が、一体どれほどいることだろうか。

(6)
『「忠っていう字は心の中って書くでしょう。心の真ん中から溢れるもんを、人に捧げるってことだと思うんで。それは何も、御国や御主だけじゃねえ。手前の目の前にいる数多の目に、芸を通してしっかり心を捧げる。それを見た人たちが、御国や御主に尽くす力になるって信じているんで。どこが上でも下でもねえ。巡り巡っていくってね……」』(P83)

『心の真ん中から溢れるもんを、人に捧げるってこと』というのは、何も「褒める」ことだけをいうのではない。「それは間違っていますよ」と、憎まれてまでも言う「諫言」こそが「忠義」から出るものであるというのは明白であろう。
幇間のように、心にもない「褒め言葉」を並べて、有力者に取り入ろうとするような者には、「忠」など無い、ということだ。

(7)
『「私はお前さんより性根が悪い。世間ってのは、階段みたいになっていて、上の連中は下の連中を見下している。だから這い上がらないといけないって、手前を追い立ててここまで来たのさ。でも、お前さんの言うように、這い上がろうがずり落ちようが、焼けばただの骨になる。そう考えたらいっそ気が楽になっちまったよ」 』(P119〜120)

「プロの物書きは偉いと思っている」などとは、作家であろうと評論家であろうと、決して口にはしない。「大切なのは、立場や肩書きなどではなく、人としての正しさだと思っている」くらいのことは言うだろう。
しかし、現実には、彼らの多くは『階段みたいになって』いる現実社会において、他人を踏みつけにしてでも『這い上がらないといけないって、手前を追い立ててここまで来た』ような手合いばかりである。
だからこそ、彼らは「本音」を語らないし、長いものにも、喜んで巻かれるのである。

したがって、ここで語られていることは、自分がやっていないこと、できないまま憧れていること、憧れているだけ「まだマシでしょ?」という作者の思いが込められていると、そう言ってもいいだろう。
少々厳しい言い方かもしれないが、異論や反論などないはずだが、いかがか?

(8)
『「遊びだと割り切っていたとしても、ひょいと情が顔を出すことだってある。明るく楽しいだけのやつなんてこの世にいねえよ。どんなやつも手前の中の暗い闇やら泥やらと折り合いを付けて、上手いことやっているだけだ。そいつを見せ合う相手が欲しいと思うのも情ってもんさ。(略)」』(P179)

そう。人間というのは、「時代小説」が描くほど、「綺麗な人間」と「汚れた人間」に、わかりやすく二分できるものではない。
一人の人間の中には、その両面があって、その対立に「折り合い」をつけながら生きているのが人間なのだけれど、しかしだからと言って、折り合いの付け方が「何でもあり」だというわけではない。
前述(3)のとおり、人間には『呑んではならぬ濁り』というものがあり、「折り合ってはならない一線」というものもある。それを超えて折り合えば、(2)のとおりで『あれは大切なものを手放した顔だ。』ということになってしまうのだ。

(9)
『「お前さんにとって武士とは何だい」
 菊之助はまた、じっと考え込むように黙っていたが、やがてはっきりとした口ぶりで言葉を紡ぐ。
「人としての道を過つことなく、阿らず、義を貫くことだと思います」』(P207)

菊之助の「真っ直ぐさ」、それゆえの苦しみに同情するからこそ、世の中と「折り合い」をつけずには生きてこれなかった人たちが、菊之助を支援したのだ。なんとか、菊之助には「真っ直ぐなままでいてほしい」と思ったから、菊之助に力を貸したのである。

言い換えれば、彼らは、その人生において「折り合い」「妥協」せずには生きては来れなかったとはいうものの、「最後の一線」だけは譲らず「胸の内」の大切なものを守り抜いたからこそ、彼らは菊之助を「目障り」だと感じることもなければ、「憎む」こともなかった。

言い換えれば、心底「心の汚れてしまった人間」にとっては、菊之助のような人間ほど「目障り」な存在はいない。なぜなら、そんな人間がそばにいると、自分の「汚れ」が、否応なく際立ってしまうからである。

(10)
『「かような所業は、不忠でございます」
 ご家老を諌めるも、聞き入れるはずもない。
「綺麗ごとを並べて何とする。これも全て、御前様の御為なのだ」
 御前様の御為、という言葉を軽々しく口にする。父上は怒り心頭でいらした。』(P220)

「そういうやり方は間違っていますよ」と忠言しても、多くの場合は「これも時代小説のため。不況の出版業界を盛り上げるためには仕方がないのだ」「綺麗事ばかり言っていたら、このジャンルは廃れてしまうんだよ」とでも返ってくるのが関の山であろう。
だが、「時代小説」がしばしば描く「人間にとっての、真に大切なもの」というのは、そんなものであったのか? それとも、それらは全部「子供騙しの綺麗事」だったということなのだろうか。

(11)
『 ご家老は、私服を肥やすことに余念がなく、それに追従する者を重用しているため、城内は「魔窟のようだ」と父上は作兵衛に漏らしていたという。筋を通そうとしてきた父上が追い詰められたのも無理はない。』(P226)

今の「プロの作家」というのは、小説家であれ、評論家であれ、ライターであれ、おおむね「私腹を肥やすこと」しか考えていない。
だからこそ、「酒井貞道」のように『年度ベスト級のミステリ』だなどという安易な絶賛を、無責任にも安売りできるのだし、縄田一男のような「偽善者」であっても、「時代小説評論家」が務まるのだ。

そこは、「知性」や「職業倫理」が求められていない場所だから、そんなものでも、用が足りるのである。


(2023年6月10日)

 ○ ○ ○




 ○ ○ ○













この記事が参加している募集

読書感想文