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京極夏彦 『地獄の楽しみ方 17歳の特別教室』 : 京極流〈式神返し〉 あるいは、 デプログラム

書評:京極夏彦『地獄の楽しみ方 17歳の特別教室』(講談社)

『 来年、東京で立派な運動会をやるでしょう(笑)。金メッキの円いものもらえるやつですね。』(P70)

私たちが「オリンピック」と呼び慣わしている「世界運動競技会」のことを、本書の著者・京極夏彦は「運動会」と呼んで見せている。
これは一種の「呪い」であり、「洗脳」行為の一種だと言っても良いだろう。

京極夏彦はどこかで「言葉とは、すべて呪である」というようなことを書いていたが、そのとおりで、言葉が意味を伝える道具である以上、それは自ずと、語り手の現実認識(解釈)を他者に伝え、影響・感化を与えるものなのだから、言葉という、言わば〈式神〉を差し向けられた方は、多かれ少なかれ、その影響を被らないわけにはいかない。
そうした意味で、あらゆる言葉は〈呪〉だと言えるのである。

本書において京極夏彦は、読者に対し「小説は、どう読んでもかまわない」という趣旨の、とても物わかりの良いことを言って、引導を渡している。
たしかにこれは間違いではないし、嘘でもないだろう。

しかし、ウンベルト・エーコが『エーコの読みと深読み』の中で書いていたと記憶するが、「読み(読解)」というのは、京極夏彦がここで匂わせているほどには「完全に自由」というわけではない。
そこに何がしかの言葉がある以上、その言葉による意味の限定があるのは当然のことで、その言葉の限定から完全に自由な読みは、すでに「読み」の範疇にはなく、むしろ個人的な「妄想」の類いだと呼ぶべきだろう。
たしかに、ある文章の「読み(解釈)」は無限に多様だけれども、それは無条件に自由だという意味ではない。つまり、そこに言葉がある以上、その言葉は「読み=解釈」を何がしか規定し、方向づけるものであり、「読み=解釈」は、その方向性の指し示す範囲において「無限に自由」だということでしかないのだ。

つまりこれは、エーコが提起した「読みと深読み」の問題である。
「読み」とは、通常の意味での「解釈」、つまり「字義どおりの解釈」を意味するが、「深読み」というのは「現に言葉として書かれていること以上の意味を、そこに読み込むこと」であり、それこそが京極夏彦の言う「小説はどう読んでもかまわない」という境地なのである。
しかし、これも先述のとおり「完全に自由」というわけではない。方向性の限定はある。それがまったく無いとなれば、それは言葉を無視して、勝手な妄想を膨らませていることと、なんら選ぶところがないからである。

つまり、「深読み」とは常に「誤読」と境を接しており、優れた『誤読』が「深読み」であり、的はずれな「誤読」は、単なる「誤読」でしかない。あるいは、時に「魔境(誤った悟り)」ですらある、ということなのだ。

京極夏彦は本書で、そのあたりをわざと曖昧に語っており、どんな「的はずれな読み」いわゆる「単なる誤読誤解」の類いも「あり」だというニュアンスて語っているが、京極も、本気でそう思っているわけではないはずだ。

と言うのも、前述のとおり京極夏彦は、「世界運動競技会」を「オリンピック」と呼んで特別に有り難がる人たちの「解釈」を、「不適切なもの=不適切な解釈」として、現に批判しているからである。
つまり、京極夏彦は、言葉が規定する「解釈」が「完全に自由」だなどとは考えておらず、おのずと「不適切な解釈=誤読」も「ある」と考えていて、その「不適切な解釈=誤読」を批判しているのである。
京極夏彦は「オリンピックと呼ばれる世界運動競技会」を「勝たねば意味のない運動競技会」だとする「解釈」を批判して、「それも所詮は、運動競技を楽しむ会の一種でしかない(のだから、勝たねば意味はない、というものではない)」という「解釈」を「正解(正しい解釈)」として、読者に提示しているのだ。

さて、本書を読んだどれだけの読者が、京極夏彦の言う「小説の読みは、完全に自由である」という言葉に、疑いを持つことが出来ただろうか?
そこに一片の疑いを持つことも出来なかったとしたら、その人は、京極夏彦の「呪」にあてられた「信者」であると言えよう。
京極夏彦の言う「小説の解釈は、完全に自由である」という、かなり「非常識=不自然」な意見を鵜呑みにしたのだとしたら、その人は「暗示にかかりやすい、権威主義的な人」だということを、心すべきなのである。

無論、私も、「オリンピックと呼ばれる世界運動競技会」を、所詮は「運動会」だと思っているし、「勝たなければ意味のない運動会」だとも思っていない。昨今の日本でありがちな、「金の亡者」による、そんな「暗示=洗脳=呪」にかかってはいない、へそ曲がりの一人である(したがって、天皇に小旗を振って感動するような、頭の悪い「愛国者」にもなれない)。
だから、京極夏彦の「オリンピック」に対する「(所詮は、楽しむための)運動会」という評価・解釈を、卓見であると高く評価するのだけれども、しかし、それも「一つの解釈」であって「特権的な(唯一の)解釈」だとは思わない。「より適切な解釈」にすぎない、と「解釈」するのである。

そんなわけで、本書の読者は、本書における京極夏彦の「運動会」という言葉が、露骨なまでに典型的な「呪」であることくらいは、気づかなければならぬ。そうでなければ「京極ファン」の名折れであろうし、京極堂・中禅寺秋彦も、きっと不機嫌に眉を顰めてみせて、あなたを「猿」呼ばわりすることであろう。

無論、私のこの「レビュー」もまた「呪」であり、世間に放たれた「式神」であることは、論を待たない。
本書で京極夏彦が実践して見せているように、「呪」とは、それを当てられた者を、喜ばせることもあれば、怒らせることもあるのだが、いずれにしろ、相手の意識に深く食い込む(取り憑く)こと、そして否応なく影響する(無視や受け流すことができない)ことが重要であり、それでこそ優れた「呪」なのだ。

初出:2019年12月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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