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天祢涼 『少女が最後に見た蛍』 : 「本格ミステリ性と人間描写」の トレードオフ

書評:天祢涼『少女が最後に見た蛍』(文藝春秋)

初めて読む作家のミステリ作品である。
作家名には見覚えさえなかったのだから、普通であれば絶対に買わなかった。だが、帯の文句が私を惹きつけて離さなかった。読まずにおくことはできなかったのだ。

『警察官になったのは、あの子の自殺に責任を感じてるから?

子どもによる事件を次々と解決に導く
敏腕女性捜査員の心には
かつて、唯一救うことのできなかった少女が
深い影を落としていたー一

最高にエモーショナルな社会派本格ミステリ 』

本書帯の表面に刷られた惹句である。
私が、この惹句のどこに惹かれたのかというと、

『警察官になったのは、あの子の自殺に責任を感じてるから?』

の部分だ。

すでに何度も書いていることだが、私は19歳の歳から40年間、警察に勤め、昨年の7月に退職した人間である。
定年退職直前の、こんな中途半端な時期に依願退職したのは、その数ヶ月前に、同居していた母を亡くして、完全な独り身になったからだ。つまり、いやいや働くモチベーションが無くなってしまったので、暑い日中の交通検問に従事しながら、ふと「辞めよう」と思ったその翌日には、上司に退職する旨を伝えていた。
ドラマのように、いきなり「退職届」を突き出すといったことではなく、直属の上司にその意を伝え、段階を踏んで上に上げてもらったうえで、筋を通して辞めたのだ。だからだろう、思ってもみなかったことだが、満期定年退職ではないのに、退職時に1階級上がっていたりもした。
もっとも、それは私の望んだことではなかったから、自分としては、公言していたとおりに「生涯一巡査」を貫いたと自負している。

私がなぜ「生涯一巡査」にこだわったのかといえば、それは、好きで警察官になったのでもなければ、好きでやっていたのでもないからだ。
私の文章を読んで下さっている方ならお分かりのとおり、私はどちらかと言えば「左翼リベラル」であり「反体制」的な人間で、こうした性格は、若い頃から基本的には変わっていない。

ただ、幼い頃から絵を描くのが好きだったことから、高校生の頃には「アニメーターかマンガ家になりたい」と本気で考えて、ろくに勉強もせず絵ばかり描いていたため、大学受験に見事に失敗してしまった。これが、思いもよらず警察官となる遠因である。

アニメーターやマンガ家というのは、なりたいからといってなれるような職業ではない。よほど抜きん出た才能があるのなら別だが、私のそれは、到底そこまでのものではなかった。ただ、夢見ていただけの「ちょっと絵が上手い子供」だったのである。
それで、ひとまず大学を受験したのだが、それで合格できるほど甘い話ではなく、しっかり不合格となり、浪人か就職かとなったわけだが、いまさら受験勉強をする気にもならない。かと言って、なりたいアニメーターかマンガ家に、すぐなれるというわけではないから、ひとまずどこかに就職しなくてはならなかった。
だが、他になりたいものがなかったので、ずるずると就職浪人をしているうちに、父が持ち込んできた「警察官採用試験」の話を、断れずに受けたところ、通ってしまった。おおよそこのような経緯である。

したがって、好きで警察官になったわけではない。
ただし、全寮制の「警察学校」での厳しい生活に堪えられずに(ケツを割って)すごすごと逃げ帰るというのはプライドが許さなかったので、運動音痴でありながらも「根性だけ」で食らいついていき、めでたく卒業して、一線に赴任することができたのである。
で、そのあとは「三部制の交番勤務は、時間に余裕がある」というのがわかって、辞められなくなってしまった。なにしろ私は趣味人だから、何よりも大切なのは「自由になる時間」だったのだ。

そんなわけで、私は「警察官」という仕事にこだわりも愛着もないし、それは「警察」組織に対しても、同じである。
もちろん、個人的に好きな人や尊敬する人はいたが、組織総体としては、やはり「体制側」でしかない、という基本的な評価は変わらない。もちろん、その存在意義を語ることもできるが、それよりも「問題点」を指摘したい気持ちの方が、辞めた今でさえ大きいのである。
そして、そんな私が、

『警察官になったのは、あの子の自殺に責任を感じてるから?』

という言葉に惹きつけられたのは、私の場合、「警察官になった理由」ではなくて、「警察官として思い残した」ことを想起させられたからである。
「何とかしてあげたかったけれど、出来なかった」という忸怩たる想いでは、本作の主人公と、同じ気持ちだったのだ。

だが、そのことについては、次の記事に書いているから、ここでは繰り返さずに、本書のレビューに移りたい。

 ○ ○ ○

購入後で気づいたのだが、本書は、所轄署生活安全課に勤務する女性警察官・仲田蛍を主人公とする「仲田シリーズ」の4冊目である。
これも、普通ならシリーズ途中から買うことなどなかっただろう。

帯の惹句に『子どもによる事件を次々と解決に導く敏腕女性捜査員』とあるとおりで、どうやらこのシリーズは「少年問題」を扱っているようだ。
仲田蛍の「生活安全課」とは「少年犯罪」を中心とした、少年非行防止のために「少年問題」を広く扱う「少年係」を含む、昔で言う「防犯課」である(したがって、風俗営業、DV問題、ゴミの不法投棄といったものを扱う係も含まれている)。ちなみに、ここで言う「少年」とは法律用語であって、「男の子」と「女の子」を含めた概念だ。

そんなわけで、このシリーズでは「少年非行」の問題を扱っており、その点で私の琴線にも触れたわけだが、ただ、少し引っかかったのは、帯に『社会派本格ミステリ』と書かれている点だった。

「少年に関わる社会問題」を扱っているのであれば「社会派」と呼ぶのは、当然である。しかし「本格ミステリ」という属性は、必ずしも「少年問題」が含みもつ「繊細な機微」にはそぐわない部分があるのだ。

単なる「社会派本格ミステリー」というだけなら気にもしないが、わざわざ『本格ミステリ』と「ー」を外しているからには、このシリーズは自覚的に「論理的な謎解き推理」の物語になっているはずなのだ。だが、果たして、その「本格ミステリ」性が、「少年問題の含みもつ、繊細な機微」を描くのに、マイナスに働いてはいないかと、そう心配したのである。

また、購入後に、著者名を検索したところ、著者が「メフィスト賞」の出身者だと知ったのだが、これも心配要因となった。
というのも、「メフィスト賞」というのは「規格はずれな(変わった)本格ミステリ」の書ける作家を求めて設立された公募新人賞なので、いわゆる「人間が描ける」という作家的属性とは、真逆に近い性格のそれだったからである。

もちろん、そういう「規格はずれな(変わった)本格ミステリ」ばかりを書き続けるというのは、職業作家としては極めて困難だ。だから、このシリーズのように、ある意味では「無難」な「社会派ミステリ」を書いたのかもしれないが、それでも、わざわざ「本格ミステリ」と断るからには、「メフィスト賞」の尻尾を残してはいるはずで、その点が「マイナス」に働いていなければと心配した。

(メフィスト賞受賞作『キョウカンカク』)

で、結果はどうだったかというと、私の心配は大筋で的中していた。

決して出来が悪いというわけではないのだが、案の定、「社会派」性と「本格ミステリ」性が齟齬をきたしている部分があり、結局のところ、どちらにしても「不徹底・中途半端」になってしまっている。
「一粒で二度美味しい」とは言えるものの、それは、駄菓子的に「お手軽な魅力」であって、「社会派」作品としても、「本格ミステリ」作品としても、「傑作」と呼ぶにあたいする重厚さを欠く結果となっていたのである。

では、なぜそうなるのかと言うと、もともと「本格ミステリ」というのは、「論理ゲーム」小説であるからこそ、「人間を描かない」ことを前提とした、特異な文学形式だからなのだ。
つまり、「チェスボード上の駒」に「人間性」はいらない。むしろ、あっては困るのである。「チェスの駒=将棋の駒」は「ルールに定められたとおりに動かなければならない」。そうでなければ、そもそも「フェアなゲーム」が成立しない。

ところが「生身の人間」というのは、そうではない。その時の気分や感情によって、行動がイレギュラーに変化することがある。いつもの習慣を、明確な根拠もなく「何となく、気が変わって」変更したり、守らなかったりすることがある。そこが「人間心理の機微」であり、そういう「微妙な揺らぎ」を描かなくては「人間を描いた」ことにはならない。

だが、「本格ミステリ」における「登場人物」というのは、前述のとおり「チェスの駒」なのだから、性格が不規則に変わってはいけない。それだと、チェスプレイヤーたる名探偵が「論理的な推理」で「真相=正解」に至ることが不可能になってしまう。
したがって「人間の問題を扱う社会派小説」と、「非人間的なキャラクターを前提とする本格ミステリ」とは、本質的に馴染まない性質を持っていると言えるのだ。

しかしこう書くと「社会派ミステリーの巨匠・松本清張がいるじゃないか」という人も出てこよう。
だが、松本清張は「社会派ミステリーの巨匠」ではあっても、「本格ミステリの巨匠」ではない。

たしかに、松本清張の初期作品には「トリッキーなアイデア」を盛り込んだ「本格ミステリの傑作」がある。例えば『点と線』『ゼロの焦点』などがその代表例だが、しかし清張作品の多くは、「社会派推理小説」ではあっても、「本格ミステリ」とは呼び難い作品が多かった。
またその証拠に、清張ミステリーに影響を受けた「社会派ミステリー」がブームとなって、「本格ミステリ」の「知的ゲーム」性が失われたからこそ、その後に「社会派ミステリー」を仮想敵にする(島田荘司がバックアップした)「新本格ミステリ」が勃興することにもなったのだ。

したがって、本書のような「社会派的なテーマ」を扱いながら、同時に「本格ミステリ」だというのは、原理的な「無理」を孕んでいるのである。

もちろん、その難題を克服して「人間が描けた本格ミステリ」というのも、例外的には存在している。
例えば、「日常の謎」派という言葉を生んだ、名手・北村薫の初期シリーズである「噺家・円紫シリーズ」は、日常の中にある「微妙な心理」を「日常的な謎=ふとした細やかな謎」の謎解きを通して、見事に描いて見せた。それが第一短編集である『空飛ぶ馬』であり、第二短編集である『夜の蝉』である。

ところが、この名手・北村薫を持ってしても、それが可能だったのは「短編に限られていた」と言ってもよく、同シリーズ初の長編作品となった第三作『秋の花』では、人間が見事に描けた傑作である反面、「本格ミステリ」としては「印象の薄い作品」になってしまっている。私個人は、この『秋の花』が一番好きなのだが、ミステリファンや、北村薫ファンが、好きな作品を挙げた場合に、『秋の花』が高順位に来ることは、まずないのだ。

どうして、こうなるのかといえば、それは「人間(ドラマ)」をしっかり描きこむと、それを「本格ミステリ」的な「機械的ロジック」では処理しきれなくなるからだ。「機械的論理=形式論理」に徹すると「自然な人間の心情」が描きにくくなるので、「心情」をしっかり描こうとすれば、どうしても「本格ミステリ」性の方が後退してしまうのである。

だから、北村薫にも「本格ミステリ長編」の傑作はあるけれども、それは「本格ミステリ」に振り切ることで、「本格ミステリ」になっているだけで、その分「人間を描く」部分での魅力がなくなっている。そのため、本格ミステリファンは高く評価しても、「人間を描いた小説」を読みたい読者には、見向きもされない作品になってしまってもいるのだ。

ことほど左様に、「人間を描く」ということと「本格ミステリ」であるということの「両立」は困難なのである。しかも「原理的に困難」
だから、本書著者に、その困難事がどれほど成し得ているだろうかと心配しながら、本書を読むことになったのである。

本書の収録作品は、次のとおり。

(1)「十七歳の目撃」
(2)「初恋の彼は、あの日あのとき」
(3)「言の葉」
(4)「生活安全課における仲田先輩の日常」
(5)「少女が最後に見た蛍」

以上5作のうち、最初の(1)「十七歳の目撃」だけが雑誌掲載作品で、後の(2〜5)は、本書のための「書き下ろし作品」である。

前述のとおり、私としては本書に「人間を描く」ことを期待して読み始めたわけだが、(1)の「十七歳の目撃」は、むしろ「本格ミステリ」として、なかなかよく出来ていた。
そちらには、さして期待していなかっただけに、思いもよらぬ捻りがあって「これは、意外に(本格ミステリとして)楽しめるかもしれないぞ」と思ったのである。「このレベルで、人間ドラマの方もしっかり描いてくれれば」と、そう期待したのだ。

書き下ろしの(2〜5)は、一応のところ、独立した短編ミステリとして読める作品になっている。だが、まあ、こじんまりとまとまった佳作程度の出来だ。
しかし、最後の「少女が最後に見た蛍」が表題作になっていることからも分かるように、(2〜4)の作品は、独立したかたちで読める短編であると同時に、じつは、最後の「少女が最後に見た蛍」で、背景にある大きな物語を収斂させるための「伏線」の張られた「前振り」作品だったのだ。
「少女が最後に見た蛍」で描かれる、主人公・仲田蛍の「過去」にまつわる事件の「悲劇性」と、その「救済」劇が効果を発するための、仲田蛍の「人間性」に関わる伏線が、そこで周到に張られていたのである。

だから、「少女が最後に見た蛍」は、いくつかの「本格ミステリ」的な「構図の逆転」はあるものの、基本的には「いい話・感動できる話」になっているし、それで満足できる読者も、少なからずいるだろう。一一だが、私は不満だった。

というのも、感動的なラストを成立させるための、仲田蛍の「人間性」に関わる周到な伏線が張られていたとは言え、「悪役」に当たる登場人物の描き方が、いかにも「一面的で薄っぺら」なのだ。いかにも「憎まれ役」らしい「絵に描いたような悪役」でしかないのである。

しかしこれでは、いくら一方(主人公側)で「人間を描いた」としても、それを成立させるために、別の一方(悪玉側)では「ご都合主義的な人形」しか描けなかった、ということになり、総合的には「不完全・不十分」な作品、と評するしかなかったのである。

もちろん、そこまで求めなければ「まずまず楽しめる作品」ではあるけれども、「人間を描くことと本格ミステリ性の両立」という「歴史的難題」に取り組んだ作品としては、やっぱり「失敗作」だと評するしかなかった。
最初から、作者にそこまでの意図は無かったとしてもだ。

いずれにしろ、この作品においても「本格ミステリ性と人間描写のトレードオフ」関係という難題は、乗り越えられていなかったのである。


(2023年12月20日)

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