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雫井脩介 『犯人に告ぐ』 : 『犯人に告ぐ』の告げるもの

書評:雫井脩介『犯人に告ぐ』(双葉社)

旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年5月4日】

※ 再録時註:『犯人に告ぐ』は、雫井脩介の代表作と言ってよいだろう。2004年の「週刊文春ミステリーベスト10」第1位で「第7回大藪春彦賞受賞」作。私は、雫井作品をこれしか読んでいないが、それは作者が「本格ミステリ」作家ではないからだ。しかし、凡百の本格ミステリなどより、よほど読む価値のある作品である)

雫井脩介の評判作『犯人に告ぐ』(双葉社)を読んだ。
この作品は『2005年度版 このミステリーがすごい!』では第8位に止まったものの、その後「2004 週刊文春ミステリーベスト10」で堂々の第1位に輝き、「第7回大藪春彦賞受賞」を受賞し、さらにはジャンルをミステリーに限定しない「2005年 本屋大賞」では、ミステリーとしては唯一ベストテン入りの第7位入選を果たした、誰もが認める傑作エンターティンメントである。

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法月綸太郎『生首に聞いてみろ』(『2005 このミステリーがすごい!』第1位)、綾辻行人『暗黒館の殺人』、麻耶雄嵩『螢』、天城一『天城一の密室犯罪学教程』など、昨年の評判ミステリを読んでいる私からしても、この『犯人に告ぐ』を含め、これらの中で一番面白い「小説」はと言えば、それは「本屋大賞」の結果が示しているとおり、この『犯人に告ぐ』だと断言できる。

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「興味深い」という意味で「面白い」というのならば、天城一の本も十分に面白いのだが、この人の作品は文章が読みにくい上に、こだわりが「本格ミステリ」的側面に偏しているため、エンターティンメント性が低いという難点があるのだ。だから、興味を「本格ミステリ」性に限定できるマニア読者には格別な面白さもあるのだが、普通に言えば、あまり面白い「小説」だとは言いかねる。
また、もちろん「本格ミステリ」としてなら、法月、綾辻、麻耶らの作品の方が「よく出来ている」とも言えるが、より正確に言えば、『犯人に告ぐ』は「ミステリではあっても、本格ミステリではない」ので、その「ない」部分を比較しても優劣をつけても、まさに意味が「ない」のである。

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では、『犯人に告ぐ』は、いったい何を描いた「ミステリー」なのであろう。

私は、本作を「人の情」を描いた作品だと思う。
この作品では、「事件(の展開の意外性)」や「犯人(の意外性)」は左ほど重要ではなく、むしろ事件捜査を通して、一人の刑事の「心の変遷(屈折と癒し)」を描くことが主眼だった。

だから「ストレートに人間を描くこと(=人間と対峙すること)」に興味を見い出しえない「本格ミステリ」の諸作との比較は、あまり意味がないのだ。

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(ドラマ版『犯人に告ぐ』)

物語は、かつて誘拐犯捜査の現場責任者として捜査に関わりながら、結果として犯人を取り逃がし、誘拐された少年を殺されるという最悪の失態を演じた刑事(警視)が、再度、連続少年殺害事件の陣頭指揮を一任されるところから始まる。

かつての誘拐事件では、警察の組織的な問題が原因で、最悪の結果を招いたにもかかわらず、主人公ひとりが、現場責任者としてその責めを負わされ、誰もが避けたい記者会見の場にまで、刑事部長の代わりに事件担当責任者として臨むはめになった。

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大阪府警・富田林警察署からの被疑者逃走事件での謝罪会見。2018年)

マスコミは、警察の失態を呵責なく攻撃し、何か捜査に落度があったのではないか、警察は遺族に謝罪すべきなのではないかと、と嵩にかかって攻撃してくる(私は、このシーンで、先の「JR西日本脱線事故」の記者会見において、記者の一人が、記者会見に臨んだJR西日本の幹部に対し「貴方はさっき、ポケットに手を突っ込んで歩いてましたよね。それで本当に反省してると言えるんですか」と声を荒げていた場面を思い出した)。

主人公とて本音としては「それはこうなんだ、俺のせいじゃない」と言いたいところなのだが、立場上、組織的な問題点を暴露するわけにはいかず「われわれは精一杯やりました。ただ、それに結果が伴わなかったのは、遺憾に思います」というような原則論で返すしかない。
すると、謝罪の言葉を引き出したい記者は「現に被害者は殺されているんですよ。遺族に申し訳ないとは思わないんですか、責任を感じないんですか!」と突っ込み、それには「われわれがすべきことは、一日も早く犯人を逮捕して、それを被害者遺族の方にご報告することだと考えています」と正論で返す。

一一もちろん、こういう型通りのコメントを返している主人公も、「人情」としては、殺された少年や被害者家族に対し「申し訳ない」という気持ちは持っている。
しかし、組織を代表する者として記者会見に臨んでいる以上、個人的な思いを語ることは出来ない。たとえ「これは個人的な気持ちなのですが」と前置きしても、それを個人の意見とは認めてもらえないだろう。なぜなら、記者会見は個人的な意見を語る場ではないからである。

また、折悪しくこの時、主人公には、一人娘が初産のせいで生死の境を彷徨っているという個人的な気掛かりもあり、ただでさえ精神的に追い詰められがちなこうした記者会見で、冷静さを保てる心理状態にはなかった。
その結果、彼は、正義の代弁者だとばかりに、あら探しをし、突っ込みを入れてくる記者にたいし、ついに「何さまのつもりだ!」と声を荒げる失態を演じてしまい、その結果、事件の責任と併せて、左遷ポストに置かれる憂き目を見ることになる。

そんな彼を、行き詰った「連続少年殺害事件」の陣頭指揮官として呼び戻したのは、かつて彼一人に失態の責めを負わせ、左遷ポストに抛擲した、かつての刑事部長、新たに着任した県警本部長であった。
新本部長は、あいついだ不祥事により地に落ちた県警の汚名挽回のために、行き詰った「連続少年殺害事件」を「劇場型捜査」という奇策によって、一気に解決したいという方針を打ちだすのだが、それが失敗した際の保険として、つまり汚れ役として、かつての部下である主人公を、もう一度、捜査の最前線に呼び戻したのである。

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行き詰った捜査を打開するための「劇場型捜査」。
しかし、それは時に、被害者家族の感情を逆撫でするものでもあり、捜査が膠着しはじめると、主人公への世間の風当たりはどんどん厳しくなる。そんな中で、ひたすら事件の解決をめざす主人公と、かつての腹心の部下。

「連続少年殺害事件」の解決後、被害者遺族の一人から「ありがとうございました。本当にご苦労さまでした」と心からの労いの言葉をかけられた主人公は、その時初めて、かつての被害者遺族に対し、心から「申し訳ありませんでした」と謝罪できる自分を見つけるのである。

一一本作は、キャラクターが立っていて、物語の展開にもメリハリがあり、まさに「一気読みのエンターティンメント」である。
しかし、決してそれだけの作品ではないし、「主人公がカッコいい」とか「ラストが泣かせる」とかいった、お定まりの形容にはおさまらない、何かがある。

私が思うに、多くの読者がこの作品に共感を寄せるその理由は、多くの人が心の底で求めている「正義の実現」や「それぞれが捕われている、感情的な苦悶からの解放」を、この作品が、物語としてみごとに形象化している、という点にあるのではないだろうか。

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主人公は、刑事として、逆風に抗しつつ事件解決という成果をつかみ取り、それによって長年の心の桎梏から解き放たれた。
そんな主人公の姿を描く、この作品が語る、もっとも根底的なテーマとは何なのか? 
私はそれを「人として正しいことを行え。結局、それこそが救いの道なのだ」というメッセージなのだと思う。

多くの人に、ぜひお薦めしたい作品である。

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