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飯田一史 『「若者の読書離れ」というウソ 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』 : 飯田一史のウソ

書評:飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』(平凡社新書)

見てのとおりで、本書のメインタイトルは『「若者の読書離れ」というウソ』である。だが、このタイトル自身が、「ウソ」である。

どういうことなのかというと、「若者の読書離れ」というのは、「誤認に基づく、誤った言説」であり、その意味で「誤り」でしかなく、決して「ウソ」ではないからだ。

「ウソ」というのは、日本語的には「虚偽の言説」をいうのであって、「虚偽」というのは「故意」のあるものを言う。
つまり、「言説内容が正しくない」と知っていながら、故意に、それが「さも正しいものであるかのように語られた言葉」を「ウソ」というのだ。
したがって、その言葉を発した当人が、それを「正しいと信じて」発していた場合、結果として、それが「誤り」であったとしても、それを「ウソ」とは呼ばない。

例えば、Aが「君は右利きだったよね」と確信を持って言ったところ、当人であるBに「左利きだよ。いまごろ何言ってんの」と返されたとする。
この場合、AはBを右利きだと「誤認」していたのだが、その「誤認に基づく言説」を「ウソ」と言うべきだろうか?

もちろん、そうではない。「誤認に基づく、事実に反する言説」と「故意に基づく、事実に反する言説」は、決して同じではないからである。
別の事例で言うなら、「過失致死」と「殺人(故殺)」は別物だ、というのと同じことなのだ。

では、本書のメインタイトルである『「若者の読書離れ」というウソ』は、本当に「ウソ」なのかと言えば、もちろん、そうではない。

「若者の読書離れ」というのは、本書でデータ的にも立証されているとおりで、「古いデータ」と「そのイメージ」に由来する、「現状についての誤認」であり、その「誤認による言説」なのであって、そこには「ウソをつこう」という「故意」はないのだから、それは決して「ウソ」などではない。単なる「誤った言説」に過ぎないのだ。

そしてそれを、そういうことだとわかっていながら、わざわざ「ウソ」だと表現する行為(言説)こそ、正真正銘の「ウソ」なのである。

ではなぜ、本書著者の飯田一史は、『「若者の読書離れ」というウソ』という「ウソ」をついたのだろうか?

それは無論、その方がインパクトがあって、キャッチーであり、売り上げに繋がりそうだからである。『「若者の読書離れ」という誤解』では、いかにも書名として弱いのだ。

したがって、要は、売上のためならば、見も知らぬ「不特定の人たち」を「嘘つき」呼ばわりすることも辞さないのが、本書の著者であり、本書の編集者だということなのである。

もしも、「若者の読書離れ」ということを主張する人を「名指し」にしていたなら、飯田は決して「ウソをつくな」とは言わなかったはずで、まず間違いなく「それは間違った認識ですよ」と、その誤認の訂正を求めたはずである。
そうでないと、相手から「なるほど私は誤認していたようだ。だから、認識を改めよう。しかし、あなたが私を嘘つき呼ばわりしたのは、誤認に基づくものではなく、故意に基づく、あるいは悪意の基づいて故意になされた誹謗なのだから、訂正と謝罪をしていただきたい」と言われて、逆ネジを喰らわされることになるかもしれないからである。
だから、本書では、「若者の読書離れ」と言っている人たちが、具体的に誰なのかは、まったく示されておらず、ただ漠然と「そんな、わかってない奴らがいる」とし、それに対して「私の方は、正しく認識している」と自慢しているだけなのだ。

(「日本人の読書離れは進んでいるのか」2007年の記事より)

そして、こうした「自分の言葉のウソ」、つまり「『「若者の読書離れ」というウソ』という言葉は、ウソである」という認識は、飯田自身にもある。
だから、本書では『「若者の読書離れ」というウソ』を立証したり、追求したりすることは一切せず、単にそれが「誤解であることを立証するだけ」に止まるのだ。そもそも、それしかできないのである。

飯田一史は、本書の「はじめに」の冒頭部で、こう断っている。

『 この本は、10代、とくに中高生の読書を扱う。おそらく書名に興味を引かれて手に取られた方が大半だと思うが、サブタイトルの「中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」を扱っている。
 もちろん、メインタイトルに偽りのない内容を扱っている。けれども、それにとどまらず、いわゆるZ世代が好むものについて知りたいというマーケティング的な動機から手に取ってくださった方にも、日々「どうやったら本を読んでもらえるだろう」と思案している保護者や教育関係者、司書、あるいは出版関係者にも、気づきのあるものをめざして書いた。読者のみなさんが10代だったころとの類似点と相違点を知ることによって、大人が若者を理解し、いいコミニケーションが生まれるきっかけになればと願っている。』 (P8)

「読書家」であれば、著者の飯田一史「ウソをついているという、やましさ」を感じながら、この文章を書いたということに気づくはずだ。

『おそらく書名に興味を引かれて手に取られた方が大半だと思うが、サブタイトルの「中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」を扱っている。
 もちろん、メインタイトルに偽りのない内容を扱っている。けれども、それにとどまらず、』

の部分である。

『おそらく書名に興味を引かれて手に取られた方が大半だと思うが、』というのは、本書のメインタイトルが「ことさらにキャッチーなもの」であると、飯田自身も自覚しているということなのだ「が」、本書の実質的な内容はそこ(メインタイトル)にはなく、『サブタイトルの「中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」を扱っている。』だけでしかない、ということなのだ。

しかし、これだけでは「なんだ、メインタイトルのことについては語られてないのか。それじゃタイトルに偽り(ウソ)あり、じゃないか」と言われそうなので、『もちろん、メインタイトルに偽りのない内容を扱っている。』と「無根拠な断言」としての「ウソ」をついておき、さっさと『けれども、それにとどまらず、』と、「ウソ」ではない「サブタイトルの内容」の方に話題を転じて、不都合な部分から、読者の目を逸らしているのである。一一これは、典型的な「ペテン師の口上」だと断じても良いだろう(違うというのなら、いつでも相手になって差し上げよう、飯田さん)。

 ○ ○ ○

ことほど左様に、本書は「嘘つきの飯田一史」が書いた本である。

だが、「嘘つきの言説」というのも、もちろん頭の天辺から尻尾の先まで「全部がウソ」というわけではない。
ペテン師が人を騙す時も「9割は事実(本当のこと)を話した上で、残り1割のウソで、相手を騙す」ものなのである。ウソの出鱈目ばかりを並べていたのでは、どこかで嘘がバレてしまうに決まっているからだ。

したがって、本書にも「参考にできる事実」は、いくつかならある。

例えば、「中高生の読書離れという認識は、数字的に見て、実態にそぐわない」ということを示す数値データ」は、参考になる。
もちろん、「数値データ」だって使いようで、それでウソを本当に見せることも可能だというのは、その種の本がいろいろと出ているので、そちらを参照していただきたい。
ちなみに、谷岡一郎の著書『データはウソをつく 科学的な社会調査の方法』(ちくまプリマー新書)は、まったく信用ならない本なので、読まない方がいい。

とは言え、本書著者の飯田一史も、自身がデータを扱う専門家ではないということは自覚しており、本書で扱ったデータだけを鵜呑みにしてはいけないというようなエクスキューズ(予防線)はあるから、それはそれで良いだろう。あくまでも「参考資料」として読めば良いのである。

となると、おのずと本書の大半を占めるのは、サブタイトルの「中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」の部分であり、このあたりについては、年長者世代には参考になるはずだ。
そして、そのエッセンスは、第二章「読まれる本の「三大ニーズ」と「四つの型」」に書かれている、「三大ニーズ」と「四つの型」である。

中高生が本に求める「三大ニーズ」とは、次のとおり。

(1)正負両方に感情を揺さぶる
(2)思春期の自意識、反抗心、本音に訴える
(3)読む前から得られる感情がわかり、読みやすい

一方、「四つの型」は次のとおり。

(1)自意識+どんでん返し+真情爆発
(2)子供が大人に勝つ
(3)デスゲーム、サバイバル、脱出ゲーム
(4)「余命もの」(死亡確定ロマンス)と「死者との再会・交流」

昨今、どのような本が「売れているか」を知っている人なら、「なるほど」と納得できるだろうし、「その特徴を、要領よくまとめている」と感心できるはずだ。これは、参考にしていい見識だと言えるだろう。

だが、本書の価値は、ここまでである。

あとは、いま若者に読まれている文芸ジャンルのあれこれの作品が、いかに、上の「原則」に従っているかを、いちいち検証したものであり、それが本書の紙幅の大半を占めている。

しかし、上の「原則」を、「なるほど」と思った人は、要は「いま売れている本」がそういうものだと「わかっている」せいで納得したのだから、その「わかっていること」を、「あれもそうだ、これもそうだ」と、たくさんの実例を挙げて、ほとんど同じ説明を繰り返されるというのは、端的に言って「退屈」でしかない。

(エモい)

「いま売れている本」が、どういう内容なのかを知らない人なら「へえーっ、そうなのか」となるかもしれないが、自身、それなりに本を読んでいた上で、「若者にはもっと(違った)本を読んでほしい」と考えるような人の大半は、本書の大半を占める飯田の説明を「くどい」と感じて当然なのである。
したがって、それをそのようにも感じないで「へえーっ、今はこういう本が読まれているのか」などと感心するような人は、そもそも「若者にはもっと本を読んでほしい」などと考えるほどの資格などなく、その人自身が、もっと幅広く本を読んで、視野を広げるべきなのだ。

したがって、このレビューをここまで読んだ人は、すでに本書を読む必要はない。
本書の「眼目」は、上に紹介した部分に尽きていて、あとは蛇足的な「くどい説明」にすぎないからである。

 ○ ○ ○

さて、「はじめに」で飯田一史も断っているとおり、若者に読書を進めるにしても、ひとまず、若者がどのようなものを求めているのかということは、知っておくべきだろう。そうでないと、自分が「(主観的に)良いと思うもの」の押しつけにしかならないからである。
また、だからこそ飯田は、本書で「中高生が求めている本とは、どういうものか」の紹介をしているのだ。

だが、この一見もっともらしい飯田の意見も、じつは「底が抜けている」。
というのも、そもそも「なぜ読書をした方が良いのか」という点は、いっさい考えておらず、単に「若者に読書をさせるには、どうすれば良いか」という問題意識に立って、「まずは若者のニーズを知りましょう」という話をしているだけだからである。そのため、本質的にズレた議論にしかなっていないのだ。

本書の、Amazonページに寄せられた、現時点で「59」の評価の平均は「5点満点の、4・2」であり、まずまず良い評判だと言えるだろう。
だが、その中で唯一「1点」をつけている人がいたので、レビューのない(点数だけの)悪意票かなと思い確認してみると、ちゃんと「1点」をつけた根拠を示すレビューを書いていた。
「nella」氏の、レビュー「質の話じゃないんだね」である。

『年寄りの現役司書です。年寄りが、若者が本を読まなくなったと嘆く時、「量」の話はしていないんだよね〜。
なので確かにタイトルの通り、若者の読書離れはウソであると言えると思う。漫画もラノベもアニメやゲームのノベライズも本であり、若者は年寄りが思うより全然読書している。
でも結局「これだけの量を読んでいますよ!」と示されても、それが「質」的にどうなのかって疑問は解消できない。その話を聞きたかったんですよね。(以下略)』

この冒頭部分に続く「以下略」した部分で開陳される、同氏のご意見には、必ずしも賛同はしないのだけれど、本書『「若者の読書離れ」というウソ』が、読書の「量」の話に終始して、「質」の問題は不問に伏しているというのは、「nella」氏の指摘どおりである。
そして、読書においては、「量」の問題もさることながら、「質」が重要だというのは、論を待たないであろう。

そこで話は、より本質的な「なぜ、(特に若者は)本を読むべきなのか」という問題になる。

「なぜ、読書をするのか?」という問いに対して、まずいちばん大きな理由は「楽しみで」ということになるだろう。
つまり「娯楽としての読書」である。

だが、大人が若者に「本を読むべきだ」という理由は、「娯楽としての読書をすべきだ」ということではなく、「読書によって、読解力(知力)がつくからだ」というのが大きいはずだ。つまり「知的鍛錬としての読書」である。
「読書」が「単なる娯楽」であったなら、大人は、あるいは政府は、子供たちに「本を読め」と強いることはしないだろう。「もっとマンガを読め」とか「もっと映画を観ろ」などと言わないのは、それがほとんど「知的鍛錬にはならない」ことを知っているからである。

つまり、大人たちが、若者や子供に対し「もっと本を読め」と言う場合に、その前提としている認識とは「活字本の読書は、知的鍛錬になる」というものである。
たしかに「活字本の読書」も「娯楽」としてなされるのだが、それと同時に「知的鍛錬にもなる」とわかっているから「(活字)本を読め」という話になる。

もちろん、幼児の場合には、その知能の発達段階に合わせて「絵本」の読み聞かせだとか、絵本を読むということで十分だとされる。
しかし、大人になっても「絵本しか読まない」としたら、それは「娯楽としては勝手だけど、大人の読書としては、ちょっとねえ」ということになるはずだ。
で、なぜそうなるのかと言えば、そこに「知的向上心」が感じられず、(ぜんぜん何も読まないよりは、マシだとしても)それでは「娯楽として、マンガばかり読んでいる」というのと、何も違わないからである。

「活字本を読め」というのは、端的に言えば「知的鍛錬のための読書をせよ」ということであって、「娯楽のための読書をせよ」という意味ではないのである。
したがって、「読みやすい本」だけを読んでいても、それは「読書推奨」の意図や目的からは外れている、ということになる。「娯楽」ならば、勝手にすればいいだけの話なのだから。

そして、このような「読書推奨」に関わる根本認識からすれば、本書で飯田一史の語っている「中高生は、どのような本を求めているのか」という議論は、本質的に的を外している、と言えるだろう。

「読みたい本」は、勝手に読めばいいだけであって、問題は、あまり「読みたくないような硬い本」を、どのようにすれば読んでもらえるようになるのか、だからだ。

そして、当然のことながら「読みたくないような硬い本」を読ませるというのは、容易なことではない。
だから、みんな苦労しているのだし、「最初は読みやすい本から入って、徐々に硬い本に誘導してゆき、硬い本の魅力を知ってもらおう」というのが、若者や子供たちに読書を奨める、大人たちの意図である。

したがって、そうした目的を持つ大人たちに対して「いや、子供たちは、硬い本なんか求めていませんよ。なのに、それを押しつけるのは、無理強いでしかなく、そんなのうまくいくわけがありません」と、わかったようなことを言いつつ「若者が求めているのは、こうした柔らかい娯楽本です」と紹介するというのは、Amazonのレビュアー「nella」も指摘するとおりで、飯田一史のピントがズレている、というべきなのだ。

 ○ ○ ○

では、どうして、飯田一史は、こんな「ピンボケ」なことしか書けないのかということだが、その理由は簡単で、要は、飯田は「党派的な意見」を語っているだけ、だからだ。

つまり、自身「娯楽読書」派である飯田一史の「娯楽読書で何が悪い」という意識から、本書は書かれているのである。
だから「娯楽以上の読書をさせたい」と考えている大人たちの問題意識とは、ズレが生じる。
そもそも飯田は、自身「硬い本」が好きではないのだ。たとえば「文学書」など、ほとんど読んでいないのである。

このように書くと、驚く人もいるかもしれない。
というのも、飯田一史が本書のような「若者寄りの本」を書くのは、「大人寄りの本」を十分に読んだ上で、あえて立場的に「弱者」である若者の方に「寄り添って」書いているのだと、多くの人は、そう好意的に誤解させられているからだ。

だが、そうではない。
飯田一史は、最初から「柔らかい本」が好きで、進んで「硬い本」を読む気などなかったのに、大人たちが「そんな柔らかい本ばかり読んでいてはダメだ」と言うのに反感を覚え、「柔らかい本で何が悪い」と主張したいがために、「今の流行り」という「多数派」の側に、擦り寄っているにすぎないのである。

本書を見ても分かるとおり、飯田一史という人は、もともとは「娯楽としての推理小説」などを読み、かつて流行した「新本格ミステリ」を読み、そこから出てきた「ライトノベル」寄りの、新感覚派のミステリ作家に共感した。その「新感覚派」の代表選手が、西尾維新である。

ところが、こうした「新感覚派の若いミステリ作家」の書くミステリとは、たしかに若者にはウケたけれども、従来の「ミステリマニア」や、ミステリマニア上がりの「新本格ミステリ」作家たちには必ずしも評判が良くはなく「あんなものは(形式こそミステリだが、中身は)ミステリではない」という言われ方をした。

そんなおり、時代の流れを敏感に察知した、評論家にしてミステリ作家でもある笠井潔が、そうした「新感覚派の若い作家たち」を「脱格系」と名付けて、擁護しはじめた。
ミステリマニアが好きな「古典的な本格ミステリ」でもなければ、従来それと並立するものと考えられていた「変格ミステリ」でもない、そもそもそうした「本格・変格」といった認識枠とは別のところから生まれてきた若い作家たちを、「脱格系」と名づけることで、従来の価値観から切り離し、擁護しようとしたのである。

だから、笠井潔が、東野圭吾の直木賞受賞作ミステリ『容疑者Xの献身』を「本格ミステリとしては、レベルが低い」という趣旨の評価を語って、自らが設立したも同然の勉強会「探偵小説研究会」の会員までも含めたミステリ界全体から総スカンを食らい、「信任投票に敗れたからには」ミステリ界にはいられないと言って、「探偵小説研究会」の一部メンバーを引き連れてミステリ界から出ていった後、そこで新たに設立した、自称「勉強会」こそが「限界小説研究会」(現・限界研)であり、そこに参加したのが、若き飯田一史だったのである。

つまり、飯田は、最初からずっと「若者向け小説」が好きで、それを読んできた人なのである。
それに、「限界小説研究会」というのは、そもそもそうした「小説の新しい動向(限界小説)」についての研究会であり、従来からある「純文学(文壇文学)」や「古典的本格ミステリ」の研究を目的としたものではなかったのだ。

無論、そのあたりの(昔の)小説も「文学的な基礎教養として、最低限は押さえておく」という「建前」での「新動向の研究」ということになってはいたのだけれど、それは、笠井潔のように、すでに長年読んできた「年長者」には可能でも、飯田一史のような「若者」には、基本的に困難なことであった。「いろんな文芸ジャンルの、内外の古典的な文学作品を読んだ上で、しかも最近の文学作品も広く読む」なんてことは、物理的にも、心理的にも不可能事だったのだ。

それに、飯田一史は、これまで、「若者の読書(や娯楽文化)」関連の本ばかり書いていて、従来の「文学」作品に関する著作は1冊も書いていない。
もちろん、それはそれで「守備範囲」としては勝手にすればいいのだが、「若者の読書」関連の本ばかり書いているというのは、とりもなおさず、否応なく「そのあたりの本と、関連する資料を読む」のが、飯田の読書の中心とならざるを得ず、仕事に直接関係してこない「古典」の読書など、「好きでもないのに、やっている暇なんて無い」となるのは、必然的なことであろう。

よって、飯田一史は「若者向け本」には詳しいけれど、古典的かつ基本的な読書は、あまり出来ていない、と見るべきなのだ(笠井潔の勉強会での、課題本などは別にして)。

しかし、そのことを正直に書いてしまうと「なんだ、自分の好きなところを擁護していただけで、決して客観的な立場からの意見じゃなかったんだ」なとバレてしまうから、古典的かつ基本的な読書の話は「しない」ことで、読者を「当然、ある程度は読んでいるのだろう」という「誤解」に誘導していたのである。一一あまりよく知らないことを、さも知っているかのような顔で語るというのは、「ペテン師」の基本的な技巧なのだ。

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そんなわけで、飯田一史は、基本的に「ウソ」つきであり、意識的な「ペテン師」としての書き手である。

しかしながら、「若者向け」専門とは言え、そのあたりにだけは詳しいというのは事実だから、本書においても、そのあたりだけに限定すれば、参考になる情報も皆無ではない。

だが、そのあたりについては、このレビューの前半部分で、肝心なところは紹介しているから、このレビューを読んだ読者は、もはや本書は読まなくてもいいということになるである。Q.E.D


(2023年11月6日)

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