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三宅香帆 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 : その口が言うことではない。

書評:三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)

ベストセラーになっているそうだが、たしかに「本好き」の気を惹くタイトルだとは思う。しかしまた、徹底した「読書家」ならば、このタイトルに、うさん臭さを感じもするだろう。
なぜなら、「働いていると本が読めなくなる」理由というのは、まず、

(1)忙しくて読書の時間が持てない。
(2)仕事で疲れてしまって、本を読む気力が湧かない。

ということなのは、わかりきった話でしかないからだ。

たといここに、レジー『ファスト教養』や、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』などが提起した、「ファスト教養」文化の台頭という、優れて現代的な問題意識を借りてきてみたところで、それは「読まない理由」ではあっても、「読めなくなる」理由の説明にはならない。
「読めなくなる」理由として、「読みたくない」というのは、不適格な回答でしかない。昔から「本を読みたいと思わない人」は、なぜ本が「読めない」のだろうとは考えなかったからである。

つまり、本書のタイトルで問われているのは「読みたいのに、読めない」という状態であって、「読みたいとは思わないから、読まない」人の話ではないのである。

したがって、本書のタイトルが提示する「本を読みたいのに読めないのは、なぜか?」という問いについての「解答」は、やはり、先に示した2点ということになるし、実際、本書も、「ファスト教養を求める、本を読みたくない人」の問題に、わざわざ「迂回」した後、結局は、先に示した2点へと落ち着くことになる。
つまり、何も目新しいことは語られていないのだ。

本書の内容がどういうものなのか、Amazonの紹介ページに記されている紹介文を引用しておこう。

『【人類の永遠の悩みに挑む!】
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。
「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。
自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。
そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?
すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作。

【目次】
まえがき 本が読めなかったから、会社をやめました
序章 労働と読書は両立しない?
第一章 労働を煽る自己啓発書の誕生―明治時代
第二章 「教養」が隔てたサラリーマン階級と労働者階級―大正時代
第三章 戦前サラリーマンはなぜ「円本」を買ったのか?―昭和戦前・戦中
第四章 「ビジネスマン」に読まれたベストセラー―1950~60年代
第五章 司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマン―1970年代
第六章 女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー―1980年代
第七章 行動と経済の時代への転換点―1990年代
第八章 仕事がアイデンティティになる社会―2000年代
第九章 読書は人生の「ノイズ」なのか?―2010年代
最終章 「全身全霊」をやめませんか
あとがき 働きながら本を読むコツをお伝えします』

また、本書の帯文(表側)には、

『疲れて スマホばかり 見てしまう あなたへ
 読書史と労働史で その理由がわかる!』

とある。


一一しかし、本書のタイトルである「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という「問い」の解答は、『読書史と労働史』などという「教養コンプレックスのある人」むけの大袈裟な「回り道」をしなくても、それは初手からわかった話でしかないのだ。つまり、

(1)忙しくて読書の時間が持てない。
(2)仕事で疲れてしまって、本を読む気力が湧かない。

ということである。

では、著者はなぜ、こんな大回りをしてまで、こんな「答のわかりきった問題」に取り組んで見せたのだろうか?

それは、本書がわざわざ「読書史と労働史」を持ち出してみせた点に窺うことができる。どういうことか。

この部分で著者が力説しているのは、結局のところ「読書というのは、もともとは明治政府が、日本の近代化に役立つ人材を育てるために、国策として推奨したことに始まるものであり、その意味では、古い教養主義も、趣味的に娯楽的な読書も、本質的には大差のないものなのだ。ではなぜ、読書に求められるものが変化していったのかと言えば、それは時代の要請が変化したからだ」と、おおむねこういう話である。

だが、ここでポイントとなるのは、著者が「読書の平等性」を、暗に強調している点だ。つまり「読書に、高尚も通俗も無い」と。

なるほど、この言葉は「ベストセラー」を狙う著述家のものとしては、当然のものであり、いかにも「俗耳」に入りやすい綺麗事だ。曰く「みんな一緒で、みんな賢い」

実際、著者は、本書の中で、私も介入した、「書評家の豊崎由美が、読書系TikTokerの けんご を批判した炎上事件」を、「個人名」を伏せたかたちで採り上げて、「どんなかたちであれ、本が読まれるきっかけになるのが、なぜ悪いのだ」と、けんご飯田一史同様、素人読者なみの主張をしている。

「テレビ売れ」に怒る作家、「TikTok 売れ」に怒る書評家

 テレセラー、つまりは「テレビのおかげで売れる本」。その筆頭が、大河ドラマによる歴史小説売れ、であった。NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』(1968年)、『天と地と』(1969年)の成功により、書店に原作本が大量に並ぶ、という現象が起きた。
 たとえば海音寺潮五郎『天と地と』。同書は上杉謙を主人公に据えた、戦国時代の歴史小説である。1962年(昭和37年)に朝日新聞社から刊行されたときは上下巻合計2万部程度の売り上げだった。その後1969年(昭和44年)の大河ドラマ放送期間中に、朝日新聞社は廉価版(全3巻)を刊行。すると合計150万部を売り上げ、ベストセラーになった。
 だが、作者はこのような傾向に腹が立ったらしい。なんと海音寺潮五郎は、「テレビが栄えて、文学がおとろえつつある」と述べて引退宣言を発表したのだ(澤村修治「ベストセラー全史【現代備】」)。
 ……突然個人的な感想を挟んで恐縮だが、私はこの逸話を読み、正直「TikTokで本が売れることを嘆く現代の大人と一緒だ!」と叫んでしまった。TTokで小説を紹介する文化が台頭したときも、そのことをSNSで批判した書評家に賛否の声が寄せられた。そう、ここにあるのは現代と変わらない構造ではないが。
 現代においてTiTokは短時間で動画が移り変わることが重視されている新しいメディアであり、個人でじっくり読ませる小説というメディアと対極の存在かもしれない。だが、それでも入り口はTITokだろうがなんだろうが、本と出会えるなら何でもいいはずだ。と私なんかは思うのだが、この「海音寺潮五郎、テレビ売れに微怒引退宣言」を見る限り、「新興メディアの登場によって文学の影響力が後退することを危惧する」傾向は、昭和から令和に至るまで変わっていない。実際、テレビが娯楽の中心となり、70年代のサラリーマンの「休息」の象徴が、小説ではなくテレビとなったのはたしかであろう。それはまさに現代の私たちの「休息」の象徴が、小説やテレビではなくスマホとなったのと同様に。
 1970年(昭和45年)の時点で、テレビの登場によって本の影響力の弱体化を危惧する声はあった。だがテレビによって小説はむしろ、歴史小説やエンタメ小説といったジャンルのべストセラーを生み出すことに成功したのではないか。事実、『天と地と』はテレビがなかったらここまで影響力を持たなかったのだ。
 いつだって、私たちは書店に行かないと本が選べないわけではない。書店の外側であるときはテレビで、あるときはスマホで……本への入り口を得ている。』(P127〜129)

いかにも、俗ウケのベストセラーを狙って書いている「読書系ライター」らしい、「売れたのが嬉しいくせに、買ってくれた読者に注文なんかつけるな」という、露骨に読者に媚びた「俗情との結託」ぶりである。

ここで、著者が書いているのは、海音寺潮五郎やその後の司馬遼太郎が「ベストセラー作家」たり得たのは、結局のところ彼らの小説も「時代の求める教養書」だったからだ、ということだ。「それしかないじゃないか」と(なお、同様の例として「源氏鶏太のサラリーマン小説」なども挙げられている)。

たしかに、彼らの小説は、そういうものとして受容され消費されたのだろう。彼らの小説が「時代の求める教養書」であったからこそ「ベストセラー」になったのだとは、私も思う。
また実際、だからこそ私は、いまだに海音寺潮五郎や源氏鶏太は無論、同時代の作家だった司馬遼太郎さえ読んでいない。なぜ、読んでいないのかと言えば、それらの作品が「通俗的な教養書」扱いとなっていることに、不快感を感じていたからだ。
「そんなもので、教養が得られると思うなよ」と、そうした「読者」層をこそ、ハッキリと見下していたからである。

で、そんな私の話は別にして、著者は、ここでこうした「ベストセラー作家」たちを挙げて、彼らが「ベストセラー作家」になり得たのは、その作品が「時代の求める教養書」として読まれていたからだと指摘した上で、しかし、海音寺が「そうした読まれ方をしていると知って、不本意だと断筆宣言した」とか、司馬が「自分の小説が、社長さんの朝礼での訓育に使われるような読まれ方を快く思っていなかった」などと指摘して、いかにも「なに言ってるんだよ、いまさら」という調子で、大作家であっても、故人の場合は「名指し」で馬鹿にして見せるのだ。
言葉は、私ほど露骨ではないが、さすがは「俗ウケライター」らしく、「慇懃無礼」に。

つまり、ここからわかるのは、著者が基本は「娯楽小説愛好家」であって、それを「古い教養主義的読書家」から見下されるのが我慢ならなかった(たぶん、コンプレックスを持ち、恨みつらみを抱えていた)ので、「読書史と労働史」という「権威」を持ち出し、本書を喜ぶような「娯楽的読書層」に向けて「読書というのは、高尚の通俗もないんですよ。それは歴史を勉強すればわかります」と、そうアピールして、要は「自己正当化をしているだけ」の本なのである(さらに言うと、「かつての教養」への復讐をした)。

だからこそ、最初から答のわかりきっている『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をタイトルにして、通俗的読者を惹きつけた上で、その問題とは直接関係のない「読書史と労働史」を延々とならべた挙句、最後は、わかりきった解答に回帰するというような、面倒くさいだけの、エセ教養書(本書)を書いたのだ。
つまり、本書の主眼は、実のところタイトルに示された部分にあるのではなく、単に「通俗的娯楽読書家」でしかない著者自身を「自己正当化」することにあったのだ。
そしてその上で、世間主流の「自分と似たような、通俗的娯楽読書家」を味方につけて、自著を「ベストセラー」にしようとした、ということなのである。
それが、「私をそのまま(現状のままで)認めて!」という世間の欲望に迎合した、「俗情との結託」ということなのだ。

なお、いちおう説明しておけば、海音寺潮五郎や司馬遼太郎が、自著が「ベストセラー」になりながらも、その「読まれ方」に、不快感を表したり、苦言を呈したりしたというのは、作家として「当たり前」のことでしかない。

なぜなら彼らは、本書の著者である三宅香帆のように「ウケれば、それで良い」「売れれば、それで良い」「大衆的欲望に迎合することなど、恥じはしない」などとは、考えていなかったからである。

海音寺や司馬は、娯楽小説としても読める「面白い小説」を書いたのだけれど、しかし彼らの場合は「面白ければ、それ良い」「ウケれば、それで良い」「ベストセラーになることが、目的だ」とは考えていなかったのだ。たしかに「楽しんでもらえる小説」を書こうとはしたが、しかし、それが「すべて」ということではなかった
彼らは彼らなりに、その小説の中に「同時代における問題意識」を込め、読者に「楽しむと同時に、考えてほしい」という願いを込めていたのである。

ところが、実際には多くの場合、彼らの小説は「娯楽小説」として消費されたし、その上、娯楽としてしか読んでいないそんな読者が、したり顔で「この本は、過去の物語ではなく、この時代の求める教養書なんだよ」などと「自慢話のタネ」にすることに、心底うんざりしていたのである。
だからこそ、もちろん「売れるのはありがたい」と認めた上で、「しかし、それだけじゃないんだよ。そういう読み方だけで満足して欲しくない。私が求めているのは、ハウツー本的な回答や範例に満足することではなく、自分の目で時代の難問と向き合う勇気なんだ」と、そう言いたかったに決まっているのだ。多少なりとも「まともな作家」であれば、それくらいの「志」は、当然のこととして持っていたのだし、豊崎由美けんご に対し、「売れれば良いのか!」と噛みついたのも、彼女なりに「読書家」としての「志」を持っていたからなのである。

ところが、時代は、そうした「志」を失った「通俗作家」と「通俗読者」に占められてしまい、だからこそ、本書著者や飯田一史のような「通俗読書ライター」も現れ、まんま「俗に媚びて」ベストセラーを書くことにも成功したのである。

著者は、本書の結論部分で「読書とは、ファスト教養を求める人のように、ノイズと思えるような不必要な情報を遠ざける、というのではなく、新たな情報としてのノイズと出会う場所と考えるべきなのだ。ノイズは、避けるべきものではなく、むしろ求めるべきものなのだ」と、おまえがそれを人に言うのか、というような「正論」で締めくくっている。

こういう「自分が何を言っているのかわからない」頭の悪さというのは、結局のところ、当人が、まともに「異論(ノイズ)」と向き合ってこなかった証拠以外の何ものでもない。

豊崎由美が「売れれば、それで良いのか」という言葉に込めた「面白ければそれ良いのか」「自分が求めていない高尚な思想を、無用のものとして避けていて、それで良いのか」といった「問いとしてのノイズ」を避けていただけではなく、それを「匿名」で誹謗中傷して、「自己正当化」していたのは、他でもない、本書著者である「三宅香帆」自身なのである。

最後に「恥を知るために、ノイズのある本を読め。若造よ」と、本書著者を激励しておきたい。

(「俗情との結託」という言葉を残した大西巨人は、次のようにも語った。
『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』「運命の賭け」より)



(2024年6月19日)

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