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廣瀬涼 『タイパの経済学』 : 「タイパ」は 呪いである。

書評:廣瀬涼『タイパの経済学』(幻冬舎新書)

「タイパ」というのは、もちろん「タイム・パフォーマンス」のことだ。では、「タイム・パフォーマンス」とは何かといえば、それは「時間対効果」のことである。
それは「時間的効率性」のことであり、「一定の時間内に、どれだけの効果が得られるのか」を問題とする考え方である。当然、「最小の時間で、最大の効果を得る」ということが目指されるわけだ。

一一ここまでなら、誰でもわかる。だが、本書著者の問題意識はその先にあって、そこが読み取れた読者には、本書は「タイパが良かった」となるし、読み取れなかった読者には「タイパが良くなかった(悪かった)」となる。
つまり、「タイパ」とは、絶対的な、あるいは客観的な価値ではないのである。

近年、「タイパ」という言葉が注目されるようになったのは、本書でも言及されているとおり、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社文庫)や、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)などが取り上げた「今どきの消費形態」が、驚きを持って世間に受けとめられ、注目されたからである。

稲田書で取り上げられたのは「映画を早送りで観る人たち」であり、レジー書で取り上げられたのは「お手軽に教養を身につけようとする人たち」で、一見してわかるように、両者は「欲しいものを、手っ取り早く摂取する」という点で共通しており、どちらもその摂取対象が「教養」的なものだと言えよう。「映画に詳しい」というのも、「教養」の一種なのだ。
そして「手っ取り早く」という部分で、「タイパ」が問題となるのである。

本書著者は、年長者の目をひく、この「若者たちの、特異な消費動向」については、上記の2冊を代表として「すでに語り尽くされた感がある」とし、そのあとで「タイパ」を語るには、何をすればよいのか迷ったという。
しかも、「活字メディア」というのは、今や「タイパが悪い」メディアの代表格なので、そこで「タイパ」を問題にするというのは、反時代的でもあれば、いかにも胡乱な話であるようにも感じられた。

しかしながら、著者はこれまで「オタクの消費行動」を研究してきた社会学者なので、その観点から「タイパ」の意味を「深掘り」しようと考えた。
「タイパ重視の消費行動」の「表面的な奇矯さ」だけを、ネタ的に面白おかしく紹介するような本なら、すでにいくつも書かれているのだから、本書著者は「それが、何に由来するものなのか?」を探り、「タイパ重視」という今どきの消費行動の「本質」を、本書で探ろうとしたのである。

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さて、私は上の文章で、

『本書著者の問題意識はその先にあって、そこが読み取れた読者には、本書は「タイパが良かった」となるし、読み取れなかった読者には「タイパが良くなかった(悪かった)」となる。
つまり、「タイパ」とは、絶対的な、あるいは客観的な価値ではないのである』

と書いたが、「タイパ」問題の肝は、ここにあると断じて良い。
つまり、「タイパ」ということに振り回されている人というのは、「タイパ」が、絶対的なもの、客観的なものだと「勘違いしている」のだが、実際にはそうではない、ということだ。

例えば、本書著者は、「タイパ」と混用されている言葉として、それ以前からある「コスパ」(コスト・パフォーマンス)との比較を行っている。
一一まず、本稿の読者は、自分に両者の区別をつけられるかを、考えてみて欲しい。実のところ大半の人が、両者を「似たようなもの」と思い、混同したまま、曖昧に使っているのではないだろうか。

「コスパ」(コスト・パフォーマンス)とは「費用対効果」のことである。つまり「費やした金銭的投資に、見合う効果を得られたか」を問題にする考え方だ。
一方、「タイパ」の方は前述のとおりで、「費やした時間に、見合う効果が得られたか」を問題にするものだ。

一見してわかるとおり、両者の違いは、「コスパ」が「費用(金銭的投資)」を問題とし、「タイパ」は「時間(的投資)」を問題としているという点ある。
つまり、「コスパ」重視か「タイパ」重視かの違いは、簡単に言えば「費用(金銭)」重視か、「時間」重視かという違いであるとも言えるだろう。一一だから、両者は「似ている」とも言えるし、本質的に「違っている」とも言える。

「コスパ」というのは、どの程度「予算(資本)があるのか=金銭的投資が可能なのか」によって、その意味するところが大きく変わってくる。つまり、「資本」の豊かな人ならば、余裕を持って「費用をかける=金銭的投資をする」ことができる。

例えば、高い料理を食べる、高い絵を買う、といったことを通して「本物」(による「本物」)の「教養」を身につけることができる。「資本のある人」にとっては、「本物の教養」が手に入るのなら、高い料理や高い絵といったものも「安い買い物」だということになり、要は「コスパが良い」ということにもなる。
こうした人たちにすれば、「安物買い」では「本物の教養」は身につけられないから、結局は「安物買いの銭失い」ということにしかならず、それは逆に「コスパが悪い」ということにしかならない。

つまり、「コスパ」とは、「予算(資本)の有る無し」によって、その(得られる物の)具体的な中身は大いに違ってくるのだが、多くの場合、「コスパ」を問題にするのは、「予算に乏しい人」たちであろう。
したがって、そうした「貧しい人」たちによる「乏しい予算を、いかに効率的に遣うのか?」というのが、実質的な「コスパ」問題となっているのである。

例えば、「千円で、牛肉が何グラム買えるのか」といった問題。
もちろん、「たくさん」買えた方が「コスパが良い」ということになるし、これが一番わかりやすい例であろう。
ただし、「安く大量に買えれば良いのか」と言えば、もちろん、そんな単純な話ではない。「品質」の問題があるからだ。
つまり、いくら「安く大量に買えた」としても「品質が悪い」のであれば、それは「コスパ」が良いとは言えない。例えば「不味すぎて、ほとんど捨てた」とか「捨てるのはもったいないから、不味いのを我慢して、長期間食べ続けた」というような場合、かえってコスパは「悪かった」ということになるはずだ。
つまり、コスパとは、対象の「値段」だけではなく「品質」をも同時に問題となり、両方が揃って、初めて「コスパが良い」ということになるのだが、しかし、これは前にも書いたように、「予算」が潤沢ではないという前提での、その中での「兼ね合いの問題」でしかないのである。

では、「タイパ」の方はどうなのだろうか?
「時間は、1日24時間、誰にも平等に与えられている」などとよく言われる。金持ちであろうと貧乏人であろうと「1日24時間」を所有しているというのは事実だし、場合によっては「金持ちだけれど、金儲けに忙しくて、自由になる時間が少ない」という人も少なくないだろう。
となれば「貧乏人」が考えるべきは、「予算(資本)」の有無が前提となる「コスパ」ではなく、誰でも平等に持っている「時間」の運用問題である「タイパ」だ、ということになるのではないだろうか。一一少なくとも、そのように考えられるような「時代」になったからこそ、「タイパ」が話題に上るようになったのではないだろうか。
つまり「経済的二極化」が進んで、貧乏人が増えたからこそ、「コスパ」ではなく、「タイパ」が喫緊の問題となった、ということなのではないか。

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しかしながら、貧乏で「予算(資本)」に乏しいからこそ、「時間効率性において、大量に摂取したい」と考える人たちの、「摂取したいもの」とは、何なのであろうか?

例えば、そこで問題になるのが、「ファスト映画」や「ファスト教養」といったことになる。
要は、「手っ取り早く、映画の内容を知りたい」あるいは「手っ取り早く、知識を得たい」というのが、「ファスト」の「ファスト」たる所以なのだが、この場合に看過されているのは、「映画の価値とは何か?」「教養の価値とは何か?」といった、本質問題である。

例えば「映画」で考えてみると、そもそも映画とは「筋がわかれば、それでいい」ものなのか?

逮捕者が出たにもかかわらず、Youtubeには数多くのファスト映画がアップされている

無論、そうではあるまい。普通、映画は「楽しむため」に観るのであり、楽しめないのでは意味がない。
では、「筋がわかる」だけで楽しめるのかと言えば、無論、楽しめない。
例えて言えば、「人間」とは「骨格標本」のことではない。「人間」には「骨」だけではなく、「肉」もあれば「臓器」や「心」もあり、それらの総合されたものを「人間」と呼ぶのだから、「骨格」だけを知ったところで、「人間」を知ったことにはならないし、「人間の面白さ」を味わうこともできない。

同様に、「映画」も「筋」を知っただけでは、「映画(作品)」を知ったことにはならないし、「映画」を楽しむことなどできない。
だからこそ、「映画」を当たり前に楽しむ人からすれば、二倍速三倍速で映画を鑑賞するような行為は、「本質」である「映画の楽しみ」を理解しない、それを無視した「邪道」であり「間違い」だということになるのだ。そもそも「筋だけ」わかったって「無意味・無価値」だと考えるのである。

では、二倍速三倍速で映画を鑑賞するような人たち(あるいは、手っ取り早く、教養を身につけようとする人たち)は、何を考え、何を求めて、そんなことをするのだろうか? 「映画の筋だけ」「物事の上っ面だけ」を知って、何の意味があるのか? そんなものを身につけても、自分自身は、少しも「豊かにはならない」のに、どうして?

その答えは「何者かになるため」だと、本書著者は指摘する。
当事者の立場に立って言えば「オタクになるため」である。

「何かに詳しい人」「何かに一家言ある人」要は「何かのオタク」になりたいのであり、裏返して言えば「人に語るべき何も持たない私」であることに堪えられない人たちが、「薄っぺら」でも「内容空疎」でもいいから、人に語れる知識を身につけることで、人から「一目おかれる人間」、今で言う、良い意味での「オタク」になりたい、ということなのだ。

一一つまり、これもまた「承認欲求」の問題であり、「自己充実」の話ではない、のである。だから「ファスト映画」や「ファスト教養」でかまわない、ということになるのだ。

それに、「(中身のある)本物」と「(薄っぺらい)偽物」とでは、どちらが多いかと言えば、無論、後者の方が圧倒的に多いに決まっている。
したがって、自分に「承認を与えてくれる他者」の大半もまた「偽物」であり、要は「いいね」を押してくれるのも、「本物」と「偽物」の区別がつかない「偽物」たちなのだから、自分も「本物」になる必要などないのだ。どうせ、多くの人には、そんな区別などつかないのだから。

いや、さらに言えば、「本物」になど、なってはならない。
世間の大半を占める「偽物」は、「本物」が理解できない。言い換えれば、自分たちに近い「偽物」しか理解できないため、その同類たる「偽物」にシンパシーを感じて「いいね」を押すのだから、なまじ「本物」になどなってしまうと、多数派である「偽物」の理解が得られず、その支持も得られないために「いいね」ももらえず、結果として「承認欲求」が満たされないことにもなってしまうのだ。

だから、「承認欲求」を満たすためになすべきは、「本物」になることではなく、「偽物」になることなのだ。「一流」になることではなく、「二流」になることなのだ。

何も持たない「三流」のままでは、「承認」が得られなくて苦しまなければならないけれど、そこから頭ひとつ抜け出して「二流」になれれば、大勢を占める「二流・三流」の人たちからの、「共感」という「承認」が得られる。
ところが、欲ばって頑張りすぎ「一流」になどなってしまうと、「二流・三流」の人たちには「理解不能」なので、その支持を得られなくなってしまう。だから、「一流」など目指すべきではないし、うっかりとでも「一流」になどなってはならないのだ。

ちなみに、スポーツでの「一流」は、「二流・三流」の人でも、ひとまず「すごい」ということだけなら理解できる。「映画」や「文学」や「芸術」や「学問」などとは違い、少なくともその上っ面においては、わかりやすいのである。
しかしながら、「スポーツ」においても「一流」になることは極めて困難だし、素人にもわかりやすいものだけに、「二流」では支持が得られない。そこが、「映画」や「文学」や「芸術」や「学問」などとは違い、承認を受けるための道具としては、誤魔化しが利きにくいところなのである。
つまり、「ファストスポーツ」などというようなものは、承認欲求を満たすための道具にはならない、ということなのだ。

(「ファスト」では、大谷翔平もどきにもなれない)

そんなわけで、「映画」についても「深い理解と鑑賞のできる人」になど、なってはいけない。
目指すべきな、「映画についての(浅い)知識が豊富なオタク」なのだ。「あれはこういうお話だよ。これはこういう内容だ」といったことを語れる人なら、その人が実際には、そうした映画作品を観ていなくても構わないし、理解していなくてもかまわない。いや、なまじ理解していたり、自分の理解を持っていたら、そのことが「深い情報」として「余計な(理解不能な)重いノイズ」となってしまうから、そうしたものは、むしろ「無いほうが良い」ということになるのである。

だから、そんな「何者かになりたい=オタクになりたい」と考える人は、「タイパ」を問題にする。

「深い知識を得て、本質に至ることで、全体の見取り図(全体観)を身につける」といった「本質的態度」などといったものは、所詮「その他大勢」でしかない「凡人」には身につけようのない「不可能なもの」なのだから、凡人は凡人らしく「中身の無い二流」を目指すべきだと、そう考える。
そして、そうしたものを目指すのなら、おのずと「時間をかけずに、薄っぺらでもいいから、大量の情報を身につける」ということが目指されることになる。
これが、「ファスト映画」であり「ファスト教養」が求められるようになったことの、意味なのである。

「ファスト映画」や「ファスト教養」といった「ファストなもの」を求める人たちというのは、結局のところ「本物」になることを諦めてしまった上で、それでも「承認されること」だけは諦められずに「何者かとしての二流=オタク」を目指した人なのだと言えよう。

それまでの上の世代の人たちは、自分にさしたる才能など無いことをなかば承知しつつ、それでも、「本物」であること、「一流」になることに憧れ、それに少しでも近づこうとした。
最終的には「本物」にも「一流」にもなれないであろうことを、なかば承知しつつも、その「憧れ=夢」に生きることを選んだ。

なぜ、「憧れ=夢」に生きることを選んだのかと言えば、「憧れ=夢」を捨てることとは、すなわち「自分に絶望すること」だと考えたからだ。つまり、楽しく生きるためには、目指すべき「夢」が必要であり、その「夢」は「夢」なりに、多少のリアリティを感じることはできたのである。

ところが、今の日本では、「憧れ=夢」に、一抹のリアリティも感じられなくなってしまった。
だから人々は、期待水準を下げることで生き残ろうとし始めた。「夢のグレードを下げる」ことで、絶望することを避けようとし、その結果、「本物」ではなく「偽物」、「一流」ではなく「二流」を目指すことになった。

「何者でもない」私としての「三流」に止まることが、「絶望」しか意味しないのであれば、多くの人は、まだしもリアリティの感じられる「偽物」であり「二流」を目指すしかなかった。

一一これが「ファスト」に救いを求める人たちの「無意識」であり、根底的な「不安」の正体だったのである。


(2023年10月24日)

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