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「第2の『けものフレンズ』」 とは何か? : 「キズナアイ問題」 あるいは「旧統一教会問題」との相似性において

まず最初に、「鑑賞する」ということについて書いてみよう。

ある作品をみて、「感動した」とか「すごかった」とか「共感した」とか「良かった」とかいう感想は、じつのところ、何に「感動した」のか「すごかった」のか「共感した」のか「良かった」のかが、さっぱりわからないものでしかないのだが、そういう感想を聞かされた人は、それで、その人が「何か、わかったのだろう」と思うし、そういう感想を口にした人自身、それで「何か」がわかったつもりになっている。

しかし、その「何か」を追求していくと、じつは、ほとんど何もわかっていないようなところで、そのように語られることの方が多いという事実に、私たちは気づかされざるを得なくなる。

例えば「感動した」
「何に」感動したのかと問えば、「アニメ」の場合だと、おおむね「ストーリーに」と答えるだろう。中には、マニアックに「作画に」と答える人もいるかも知れない。

では、「ストーリーの何に感動したのか?」と問えば、これこれのシーンにと具体的に答える人もいれば、「主人公たちの友情に」と答える人もいるだろう。
前者に対し、「そのシーンの何に感動したのか?」と問えば、そのシーンで描かれた「主人公たちの友情に」と答えるかも知れない。
ではさらに「主人公たちの友情について、どう感じたから、あなたは感動したのか?」と問うた場合、その回答は難しくなる。というのも「友情は素晴らしいものである」というのを大前提として、そのように語っている人というのは、「友情とは何か。それはなぜ素晴らしいのか」というところまでは、およそ問うたことがないからである。

しかしまた、「友情」を「友情一般」として、ただ「素晴らしい」というだけで、その作品に描かれた「友情」が素晴らしいと言ったのだとしたら、それは「友情さえ描かれていれば」つまり「型どおりに(紋切り型に)友情が描かれていさえすれば」感動できるということになってしまうが、しかし、それは「感動」の美名に値するものなのか?
それは、「パブロフの犬」のような、単なる機械的な条件反射でしかないのではないか。餌を見せられた、無意識に唾液が出るといった、およそ「理性」とは無関係な「生理的反応」でしかないのではないか。

一一しかし、そんなものを「感動」と呼ぶのは、どこか本質的なところで、間違っていやしないだろうか。

だが、実際のところ、人間は「生体機械」なのだから、「情動」というのも、基本的には機械的なものなのかも知れない。
昔の小説家は、よく「読者を泣かせるのは簡単だ。例えば、無垢な子供や、健気な動物を不幸な目に遭わせれば、それで読者は気を揉むし、その逆境から救われて幸せになれば、良かったと安心して感動する。また、感動の涙を流す。けれども、笑わせるというのは、そう簡単なものじゃないんだ」という趣旨のことを語っていた。
「笑い」の問題は、それ自体なかなか難しいことなので、ここでは措くとして、問題は「心がふるえる」態の「感動」というのは、意外に薄っぺらなものだ、と語られていることの方が重要であろう。

というのも、私たちは「感動」とは、なにやら無条件に素晴らしいものだと信じきっている。だから「感動しました」と言っておけば、それですべて片づくかのように思い込んでおり、「感動しました」を伝家の宝刀のごとく、しかしながら、やたらと無闇に振り回しがちなのだが、もしも「感動」が「パブロフの犬」のごとき、無意識の、つまり「何も考えていない」単なる「条件反射的なもの」でしかないのだとしたら、ただ「感動した」と言っただけでは、何も語ったことにはならないし、語ってもいない、それは「無内容な言葉」でしかない、ということにはならないか。
それは「呼吸をしました」あるいはせいぜいのところ「食事をしました」程度の事実しか語っておらず、作品について、自身が感じたところを、何も語っていないに等しいのではないのだろうか。

そして実際、そうなのだと思う。
多くの人は、こうしたことを考えたこともなく、ほとんど条件反射的に「感動しました」という言葉を口にしている。そう言っておけば、作品を「理解した」ことになると思っているからであり、そう言っておけば、「何が?」あるいは「何に?」などとしつこく問われることもないとわかっているからだ。

例えば、「くだらなかった」と否定的な意見を言えば、多くの場合に「何が?」「どこが?」と問い返されるだろう。批判否定するからには「根拠」を示せというわけだ。

だから、そう問われた場合、あのシーンが「くだらなかった」と言えば、「どうくだらなかったのだ?」と問われ、例えば「あんなのありがちな描写だ」とか「描き方が薄っぺらい」などと答えれば、相手は「私は、そうは思わなかった。それはあなたが、あの作品の良さを理解できなかっただけにすぎない」と返された場合、後は、どちらの感想が適切なものであったのかという、鑑賞者自身の「能力」が問われることになってしまう。(他人の作った)作品どうこうではなく、鑑賞者である個々(自身)の「能力」が問われ、肯定者と否定者個人のどちらに、より「鑑賞力」があるかが問われることになるのだ。

つまり、自分自身が、他者からの「評価の対象」になってしまうのだが、それに耐えられるだけのものを持っている人が、いったいどれだけいるだろう? 能力を問われて、平然としていられるだけの力を持っているという、自己確信を持てるだけの、具体的な裏付けのある人が、どれだけいるだろうか。

実際のところ、そんな人はほとんどいないから、特に今の多くの人は、否定批判することを避ける。要は「説明責任」を負いたくないのだ。「そう言うお前はどうなんだ?」と問い返されたくないのである。そうした問いに、根拠を示して答える自信がないのだ。

しかしながら、根拠不明であっても、多くの人は自身に「鑑賞能力がない」とは思っていない。そうは思いたくないからである。根拠のない自信も、自分ひとりで持っている分には何の問題もない。
それが問われるのは、意見表明するからで、しかも否定的な意見を述べるからだ。

つまり、無難に肯定的意見を述べている限りは、その根拠を問われることがないから、多く人は、根拠不明な自身の鑑賞能力の存在を信じて、「感動しました」というマジックワードを口にするのである。
その言葉の意味するところは「私は理解している。私にはその能力、つまり鑑賞能力がある」というアピールだ。ほとんどそれだけといっても、過言ではないのかも知れない。

(「感動しました」「泣きました」「10回観ました」)

また、そういう事情だからこそ、言いっぱなしの言い逃げができる「匿名」だと、批判的否定的な評価を口にする人が、グッと増えるのだろう。
「匿名」であれば、不都合な事態になっても、姿を暗ますことで「説明責任」を回避できるという安心感があるから、つい「本音」が漏れる。
しかし、そのようなかたちでしか本音が語れない人というのは、そもそも「語るに値するもの」など持っておらず、要は「鑑賞能力」などを持ってはいない人だ、ということなのである。

ことほど左様に、「わかっている」つもりで「わかっていない人」というのはたいへん多い。
私は、先日書いたレビュー「たつき『けものフレンズ』 の非凡性:演出家・たつき監督のすごさについて」の中で、「こう簡単に書いても、多くの人は、その意味がわかっていないだろう。わかっていないのに、わかったつもりになっていたはずだ。だから、本稿ではそれを詳しく説明する」という趣旨の趣旨説明をしたのだが、そこで指摘したような「自覚されることのない無理解」というのは、山ほどある、というよりも、もしかすると、そっちの方が多いかも知れない。ちょっと複雑な議論だと、多くの人は、それが理解できない。
にもかかわらず、「平易な表現」で書かれていればいるほど、それを理解したような「錯覚」にとらわれているような場合の方が、むしろ多いのではないか。
例えば、私が今ここで語っていることを、本当に理解している人がどれだけいるのか、疑わしいというよりも、「ほとんどいない」と断じた方が、よほど正確なのではないだろうか。

そんなわけで、私が今回書きたいのは、以前に書いたレビュー「『けものフレンズ』騒動は、なぜ燻り続けるのか?:「資本主義経済」の呪い」で書いた、たつき監督による『けものフレンズ』だけではなく、まったくの別スタッフによる作品『けものフレンズ2』を、同様に高く評価する人というのは、両者を区別して「独立した作品(コンテンツ)」だと見るのではなく、すべての「けものフレンズ・コンテンツ」を一体のものとして見るという「特徴がある」、とした点であり、その意味するところの補足である。

つまり、コンテンツ個々を「独立した個々の作品」と見ることが出来ず、「関連コンテンツをひとまとめに一体のものとして見る」という態度が、どのような問題を含んでいるのかを、もうすこし具体的に語りたいと思ったのだ。
というのも「ここが問題だ」と指摘しても、そこの「何が問題なのか」について理解した人は、例によって、ほとんどいなかったはずだからである。

 ○ ○ ○

そこで今回は、「note」において、比較的多く「けものフレンズ」関連の記事を書いておられる「アッキー」氏の、興味深い記事を採り上げてみたいと思う。
「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」と題された記事だ。

アッキー氏は、この記事で、たつき監督が、「けものフレンズ」後に初めて発表した、シリーズもののアニメ『ケムリクサ』について、同作が「どうして、第2の『けものフレンズ』と呼ばれるほどの、ヒット作にならなかったのか?」と問うて、その原因を考察している。

(irodori版『ケムリクサ』)

私はまだ、この『ケムリクサ』を視ていないので、どの程度の出来の作品なのか、個人的には評価できないのだが、しかしそれは、たつき監督の作品であること、特に否定的な評価を目にすることもないといったことで、それなりによくできた作品なのではないかと思っており、機会があれば、ぜひ視たいと考えている。

実際、アッキー氏の同論考では、『ケムリクサ』は次のように紹介されている。

『たつき監督作品の独特な雰囲気とポストアポカリプス味はあるが、様々なアニマルガールとの出会いと自分探しの旅を描いていたけものフレンズとは違って、主人公とヒロイン及びヒロインの家族を除くと生き物が存在せず、ムシと呼ばれる機械の様な怪物が跋扈する世界で資源を求め旅をする点やヒロインの家族の一部や旅先で出会う友好的なムシや過去の世界の人物など意外と亡くなるキャラが多いややハードなSF作品と言った違いがある。

テレビアニメ版ではオリジナルアニメ版では描かれていなかった資源を求める旅路、死んだ筈の家族の登場、赤い霧や荒廃したビルのある世界になった原因の判明、始まりの人間やわかばとヒロイン及びその家族の正体、宇宙との意外な接点など新しい要素がありファンからも好評であった。また、テレビアニメ版の前には世界観が知れる趣味のアニメなるショートアニメをX(旧Twitter)に投稿し、放送終了後にはけものフレンズの時と同じく12.1話がニコニコ動画とYoutubeにて投稿された。

しかし、前述した通り今現在ケムリクサは「あのたつき監督が作った知る人ぞ知る名作」と言った立ち位置で初代けものフレンズの時の様な熱狂的な流行にはならなかった。』

つまり、作品としての評判は「とても良かった」のだが、『初代けものフレンズ』のような『熱狂的な流行』には『ならなかった』という評価である。

(テレビアニメ版『ケムリクサ』)

そこでアッキー氏は、なぜ『ケムリクサ』が『初代けものフレンズ』のような『熱狂的な流行』には『ならなかった』のかという謎について、「作品の出来」ではなく、「商品としての売り方」に注目して、考察を加えている。つまり、

原因1 関連作品や続編が出なかった

原因2 パートナシップ方式の失敗

などがその原因だ、といった具合である。

そして、この分析の結論として、「最後に」で、次のように書いている。

『ケムリクサは売れていなかったのではなく、ヤオヨロズ側やジャストプロ側のゴタゴタで売り上げがでなくなったというのが私の結論だ。』

つまり「作品の出来は良かった」のだが、業界的な『ゴタゴタ』が災いしたため、『初代けものフレンズ』のような「大ヒット作」にはなれず、「マニアうけ」に止まったのだろう、ということである。

そして、以上のような分析の上で、アッキー氏は「おまけ 逆襲のけものフレンズ」と題して、次のように語っている。
重要なところだから、全文引用しておこう。

『2019年 けものフレンズコンテンツ(※ 木村隆一監督による 『けものフレンズ2』のこと)は炎上の炎で包まれた!けものフレンズ2最終回はとっても満足したが2.5%とニコニコ動画至上の最低の評価を喰らい、関係者(細谷Pや木村監督や原作者吉崎観音氏)は勿論関連団体に対する誹謗中傷が止まず、けものフレンズコンテンツは絶滅したかに思えた・・・だがけものフレンズコンテンツは絶滅していなかった!

・・・などと某世紀末救世主伝説のOPのナレーションみたいなことを言ってみたが、大体現在のけものフレンズはこんな感じである。嘗てけものフレンズ界隈はネット史上最大級の炎上していたが、現在までしぶとく続いている。なぜケムリクサは消えて、けものフレンズは生き延びたか不思議ではないだろうか。それは戦略の違いで、けものフレンズはケムリクサと違い最初からメディアミックス作品だったことでアニメの失敗を他のコンテンツで挽回することができるからだ。

今のけものフレンズはアプリであるけものフレンズ3とVtuberであるけものフレンズVプロジェクトに力を入れている。けものフレンズ3ではケロロ軍曹、ぷよぷよ、サンリオ、にじさんじ、手塚プロダクション、ガチャピン、くまモン、沼津港深海水族館、のんほいパークとコラボしており、けものフレンズVプロジェクトもにじホロやななしいんくやぶいすぽやあおぎり高校などと比べると登録者数が低く地味だがその分ニッチなファンが多く、少ないながら切り抜きやMADなどがある。

また、公式が衰退している時も二次創作は活発だったことも大きいだろう。中にはけものフレンズRの様な公式への当て付けを目的とした作品や関係者やキャラクターに対するヘイト創作を目的としと作品も存在していたが、ちゃんとした二次創作も存在していた。その当時の状況をけもフレアンチサイドは公廃二栄(公式を廃れさせ、二次創作を栄えさせる。腐敗した公式の影響がない、二次創作を新たな公式にするという意味の造語)と称していたが、まさかケムリクサ側の公式が消滅するとは思わなかっただろう。

結果として、「平成最後のクソアニメ」やら「見てて吐き気、寒気、重度の頭痛に襲われて体調崩した」と散々非難されていたけものフレンズが生き延びたのだった。現在のけものフレンズは2017年頃の大ブーム期と比べるとかなり減ってしまったが、細々と続いている。』

以上をまとめるなら、たつき監督の手から離れた、「『けものフレンズ2』以下のコンテンツとしての、けものフレンズ」は、

『ケムリクサと違い最初からメディアミックス作品だったことでアニメの失敗を他のコンテンツで挽回することができ』
(中略)
『結果として、「平成最後のクソアニメ」やら「見てて吐き気、寒気、重度の頭痛に襲われて体調崩した」と散々非難されていたけものフレンズが生き延びたのだった。現在のけものフレンズは2017年頃の大ブーム期と比べるとかなり減ってしまったが、細々と続いている。』

としている。

つまり、個々の作品としては「凡作」または「単なるグッズ」にすぎないのだが、「売り方が良かった」から、「けものフレンズ」の「商標」をなんとか守っている、ということである。

そして、この「おまけ」部で、アッキー氏が言いたいのは、「良い作品でありながら、売り方で失敗した『ケムリクサ』」よりも、「凡作以下でありながらも、売り方のおいて延命を果たした『けものフレンズ2』以下のコンテンツ」の方が、「売れた」という意味においては「第2の『けものフレンズ』」の名に値するのではないか、ということなのだ。

木村隆一監督による『けものフレンズ2』)

たしかに、アッキーさんのおっしゃっていることは「間違ってはいない」と、私も思う。

だが、「作品本位」の私から見れば、アッキー氏のご意見というのは、「アニメファン」のそれではなく、「マーケター」のそれでしかないから、氏の言われる「第2の初代けものフレンズ」という言葉の意味も、『初代けものフレンズ』のような「優れた作品」という意味ではなく、『初代けものフレンズ』のようにとまでは言わないまでも、それなりに「売れた商品」ということでしかない、ということになる。

(こんな「ビジネス書」もある。)

要は、これは「作品として駄作でも、商品としてヒットすれば、それで勝ち」という「価値観」においての「第2の『けものフレンズ』」ということでしかないから、「作品本位」の私からすれば、そんな「KADOKAWA流の価値観」での評価など、何がなんでも「金儲けがしたい人」以外には、「無意味」なのではないか、ということにしかならないのだ。

単純な話、アッキー氏のような(マーケター的)価値観で作品を視ている人というのは、「作品としての質」ではなく「ヒット作か否か」だけで、視る作品を選んでいるわけであり、要は「作品そのものを、見る目がない」ということにしかならない。
私が、あるいは、シオドア・スタージョンがいうところ(「SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである」)の「9割の凡人」というのは、そもそもまともな「鑑賞能力」がないから、流行っているものを追いかけるだけであり、それを「自分は作品を理解している」などと「勘違いしているだけ」ということになるのである。

当たり前の話なのだが、多少とも「鑑賞能力」のある人は「良質な作品(よく出来た作品)」を求めるのであって、「9割の凡人」たちの評価に頼った「流行作品」を求めているのではない。
「優れた作品」からは「良質な感動」が得られるから、「鑑賞能力のある人」は「良質な作品」を求め、その「良質性」を味わうのである。

一方、「ミソとクソ」の区別ができない「味覚オンチ」と同様に、作品の「質的良否」の区別がつかない、鑑賞能力のない人は、当然のことながら「良質な作品の良質さ」がわからないのだから、「ミソとクソ」は、その人にとっては等価でしかない。
ならば、世間で人気のある方を評価しておけば「間違いない」となるのは、理の当然なのである。

そんなわけで、アッキー氏のご論考は「マーケット分析」としては、たいへん興味深いものであり、よく書けた文章だとは思うものの、「作品分析・評価」という点では、何もない、と言っても良いだろう。
なにしろ、氏の興味は「売れたか売れなかったか」ということでしかないし、要は、資本主義経済おける「勝者」であることにしか興味がないようなもの、「作品鑑賞」とは全く無縁な論考だったからである。

つまり、アッキー氏の同論考のタイトルにある「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という設問は、『初代けものフレンズ』のような「売れた商品になれたか否か」という意味での問いでしかなく、『ケムリクサ』と「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」とでは、どちらが「第2の『けものフレンズ』」の名に値する「良質な作品なのか?」という問いにはなっていない、のである。

(「優れた作品」ではなく「売れる商品」を求めるのが、コンテンツ産業というもの」)

「作品の質」ということでは、アッキー氏も認めているとおりで、『ケムリクサ』の方が「第2の『けものフレンズ』」なのは、論ずるまでもなく明らかなことである。
ただ、うまく「売り込めなかっただけ」であり、『ケムリクサ』は、言うなれば「不遇な名作」だということなのだ。

無論、「作品の質」においては、「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」など、「第二の『けものフレンズ』」などであり得ないのは、わかりきった話でしかないし、それはアッキー氏も認める事実なのだ。

一一しかし、アッキー氏のこの論考を読んで、「やっぱり、『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツこそが、正当な『けものフレンズ』継承者だ」などと考えた人は、氏の論考を「読めていない」ということになる。

問題は、「第2の『けものフレンズ』になれたか(否か)」ではなく、その「第2の『けものフレンズ』」の『第2』とは、どういう意味での『第2』なのかということなのに、そうした人たちは、それをまったく読み取れていないのである。
そして、読み取れていないという事実にすら、まったく自覚がない、ということなのだ。

アッキー氏の論考を読んで「第2の『けものフレンズ』は、『ケムリクサ』ではなく、『けものフレンズ2』以下の正規コンテンツなんだ!」などと喜んだ人は、忌憚なく言えば、頭が悪く、読解力がない。おのずと作品鑑賞能力も、その程度のものでしかない、ということにしかならない。一一これが、「駄作は駄作でしかない」という、論理的な読みというものの厳しさなのだ。

そもそも、「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という「問いの立て方」が、ミスリードでしかない、ということに、多くの人は気づかなかったであろう。

このタイトルが意味するのは「ケムリクサは、なぜ初代けものフレンズほどのヒット作になれなかったのか?」という意味でしかない。
つまり、決して「作品としての正統性」を問うているわけではなく、「商品としての正統性」を問うているだけなのだが、その区別のつかないのが、「『けものフレンズ2』以下のコンテンツ」を支持している人たちなのである。

そもそも、『ケムリクサ』は、『初代けものフレンズ』のような作品を目指して作られたものではない。たつき監督が「『けものフレンズ』とは別方向」で、その個性にしたがって作った「別作品」なのだ。
決して「第2の『けものフレンズ』」を目指したわけではないからこそ、バカでもわかる「可愛らしさ」だけを売り物にしたような作品にはしなかった。あえて「2匹目のドジョウ」を狙わなかったのである。

それに「ケムリクサはなぜ第2の初代けものフレンズになれなかったのか?」という問いは、「作品創造(クリエイト)」という意味においては、意味をなさない「誤った問い」でしかない。

例えば、「アニメ『スペースコブラ』は、なぜ第2のアニメ『あしたのジョー』になれなかったのか?」などと問うのは、あまり意味のないことである。
なぜなら、出崎統監督は『スペースコブラ』を「第2の『あしたのジョー』」にしようとして作ったわけではなく、別作品として「優れた作品」にしたいと考えて作ったのであり、その意味では、『ケムリクサ』のたつき監督も、まったく同じことなのだ。
優れた作家は、リスクを引き受けてでも、安直な「2匹目のドジョウ」を狙ったりはしないものなのである。

(出崎統監督の「代表作」の一つにはなれなかった『スペースコブラ』)

 ○ ○ ○

しかし、こうしたことはすべて「優れたクリエーター」の心理や矜持の問題であって、「凡庸な鑑賞者」あるいは「凡庸な消費者」には、たぶん理解不能であろう。
「前作がヒットしたのなら、同じ路線で、2匹目のドジョウを狙うのが当然であり、私たちも似たようなものなら、それで満足だ」という程度のことしか考えられないからである。

だが、『初代けものフレンズ』のような「優れた作品」は、そんな「見る目のない人たち」には作れないし、そんな人たちだけを当てにして作っていたのでは「ろくなもののはならない」というのも、わかりきった話だろう。
要は「易きに流されて」いては、まともな作品など作れないのであり、本物の「作家」は、「商品」ではなく、まず「作品」を作るのだ。その上で、その「作品」が売れてくれれば嬉しい、ということでしかない。「売れれば良い」ということではないのである。

しかしながら、鑑賞能力のない「凡庸なファン」というのは、残念ながら「中身の区別がつかない」から「外見的に、似たようなもの」を求めてしまいがちだ。
その良い例が、下に紹介する「キズナアイ」をめぐる、同種の問題である。

「あじさんま」氏による「ファンから見たキズナアイちゃん騒動」と題されたこのレビューは、たいへん痛ましい内容であり、同情を禁じ得ないものだ。

(キズナアイにとっての「自己」とは何か?)

平たく言うと、「バーチャルYouTuber」として生み出さた「キズナアイ(Kizuna AI)」は、「バーチャルアイドル」としての人気が高まり、その人気は「中国」などにも広がったのだが、そのため(中国語に対応するため等の理由で)「中の人」の人数が増えて、オリジナルの「中の人」の仕事が(相対的に)減ってしまい、中には邪推に近い批判もあるにしろ、少なくないファンが「中の人が別人のキズナアイなど、所詮、偽者でしかない」という不満を漏らしはじめた。
こうした事態(騒動)に対して、「あじさんま」氏の立場を語ったのが、同稿なのである。

で、「あじさんま」氏の個人的な結論は、次のようなことになる。

『私は声を大にして言いたい!!!もしあなたが「キズナー」であるならばアイちゃんの言葉を、彼女の行動を信じてほしい。情報に踊らされずに、自分の目で見て信じた情報を信じてほしい。
(中略)
私はアイちゃんに惹かれて、アイちゃんを推し、追い掛けてからたくさんの良い経験をしました。本当に、今まで灰色だった世界がアイちゃんを通して色がつけられたような。そんな感覚です。きっとこれを馬鹿馬鹿しいと思う方もいるでしょう。ですが事実です。ソースは私自身。彼女に出会えていない世界を私は想像できない。のめり込みすぎているのかもしれない。でも私はもっと、ずっと彼女の活動を、動きを見続けていたい。新しい曲を聴いていたい。
思い出してほしい。どうやって彼女を知りましたか?どのようにして彼女を好きになりましたか?私はその時の感情を絶対に忘れない。彼女の小さな動きは私を幸せにしてくれる。歌は癒しと同時に刺激的な気持ちにしてくれる。彼女のエンターテインメント性は我々の想像をいつも大きく超えてきた。本当に、本当に彼女のすべてが大好きなのです。その気持ちを、今一度思い返してほしい。彼女のことが大好きな気持ちを。』

要は、キズナアイのファンであるならば、「公式」の見解を「信じるべきだ」ということである。
これまでキズナアイによって癒されてきた「私たちファン」であれば、それが「正しい」姿勢だ、とそういう主張なのだ。一一だが、これは所詮「盲信」でしかない。

例えば、それまで「聖人君子」だと信じられてきた「教祖」のスキャンダルが報じられたときに、多くの「信者」は「マスコミの報道に惑わされてはいけない。私たちは、教祖様に救われて、今の自分があるのだから、肝心な時に教祖様を信じなくてどうするのだ!」と力説する。これは、かつての池田大作個人崇拝の創価学会員」などと、まったく同じことなのである。

もちろん、「信じたい=甘い夢を見続けていたい」という気持ちは、理解できないわけではない。
しかし、だからと言って、私はこうした「盲信」を容認することはできない。「好きで信じて、好きで金を注ぎ込んでいるのだから、その人の勝手じゃないか」では済まないのは、「旧統一教会」などの事例を見れば明らかなはずだ。
「現実」に基づかない「幻想」への依存は、結局のところ、その本人だけではなく、周囲の者まで不幸にする場合が少なくないし、社会的な害悪にもなる。
要は「自分さえ(今が)良ければ、それで良い」ということでは済まされない。「信じる信じない」ではなく、「何が正しいのか」が、問われなくてはならないのだ。つらくとも、それを問わなくてはならないのである。それが、責任ある「大人」というものだからだ。

だから、現実を直視できない、弱い人である「あじさんま」氏は、もっともらしく「キズナアイへの愛と感謝」を語りながらも、「コンテンツとしてのキズナアイ」が延命されるのなら、「オリジナルの中の人」が蔑ろにされることも黙認すべきだ、という態度になってしまっている。つまり、「自分さえ良ければ、恩人を蔑ろにすることも厭わない」ということにしかなっていないのだ。

したがって、厳しく言うならば、「あじさんま」氏に「愛」を語る資格などない。
むしろ「あじさんま」氏に対しては、「早く、その病的な依存から脱却しなさい」と、厳しくも「愛」ある助言をすべきなのである。

一一で、この「あじさんま」氏の事例は、そのまま「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」に依存する人たちと、まったく同質だと言えるだろう。
「キズナアイ」の場合と同じで、「中身は変わっても、外見が同じなら、同じものだと信じて、惰性的に依存し続けたい」ということでしかないのである。

だから、私が「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」に依存する人たちに言いたいのは、世の中には、他にいくらでも素晴らしい作品があるのだから、それを探しなさい、安直かつ怠惰な「依存的盲信」は捨てて、「本物」の喜びを見つける努力をなさい、ということだ。

「キズナアイ」も「けものフレンズ」も、所詮は「見かけだけの容れ物コンテンツ(着ぐるみ)」に過ぎない。
それらが「本物」になるのは、本物の「中身」が盛り込まれた時だけなのだという「現実」を、たとえつらくても、それらの「作品」への「愛」のゆえにこそ、認めるべきなのだ。

実際、「見かけさえ似たようなもの」なら、それは「同じもの」だと、本気で思えるのだろうか?
だとすれば、例えば、「サーバル」や「キズナアイ」を扱った「エログロ同人誌」なども、見かけさえそっくりなら、「正当な作品」だと認めるのだろうか?
コンテンツ延命のためなら、猿の脳でも移植すべきだ、とでも言うつもりなのか?

「そんなものは認められない」というのであれば、どうして、不出来な『けものフレンズ2』や「中の人が別人のキズナアイ」といった「模造品」を認めるのだろうか?
「公式」のいうことが「正しい」という保証など、いったいどこにあるというのか?

多くの場合、「公式」なるものは、「KADOKAWA」と同様、基本的に「金儲け」でやっているというのは、大人なら、本当は誰もがわかっているはずではないか(だから、KADOKAWAは、オリンピックで大会役員に賄賂を渡したのだ)。
それとも、そういう「なんでも支持者=盲信者」たちは、本気で、1ミリの「疑い」も持たずに、「公式」発表を信じているのだろうか? いまだに「大本営発表」を鵜呑みにするほど「無知で愚かな日本人」なのであろうか?

「角川元会長、7カ月ぶり保釈 五輪汚職、保証金2億円―東京地裁」

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たぶん、「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツ」を支持する人たちであっても、「旧統一教会を盲信している人たち」を「愚か」だと思っていることだろう(それとも、分相応に「シンパシーを感じている」のだろうか?)。

だが、いずれにしろ、「現実」を見られないで、ただ盲目的に「信じたいものにしがみつく=依存」という点では、「旧統一教会の信者」と「『けものフレンズ2』以下の、けものフレンズ・コンテンツを支持する人たち」と「中身を問わないキズナアイ信者」とは、所詮、同質なものでしかない。

こうした人たちは、うすうす自身の愚かさに気づいていながら、しかし、その現実を見たくないからこそ、無理にでも目をギュッと瞑っている、哀れな人たちなのだ。

したがって、私がやっているのは、端的に言うと洗脳はずし」なのである。

カルトの洗脳」をはずすのが、困難事であるように、「薬物依存」などに代表される「依存症」から、人々を脱却させることさえ、けっして容易なことではない。
当人が、脱却したいと思っていても困難な「依存からの脱却」を、それを望んでいない人に対して行うというのは、とてつもない困難事であるというのは、分かりきった話である。
だが、そうした人たちが「自分さえ良ければ良い」という意識から、周囲の人や社会にアダをなす以上は、決して放置しておいて良いことではない。

(消費拡大に直結した「推し」活推しの本ばかりではない)

無論、私にできることは「言葉をつくす」ことだけであり、そんな言葉は、耳と目を塞いだ多くの「盲信者」たちには届かないだろう。
だが、こうしたことを書いておくことには、大きな意味があると私は信じている。

それは「盲信」だの「依存」だのといった「反社会的な愚行」は、何も「宗教」や「アルコール」や「ギャンブル」や「セックス」などといったものに限定されるものではないということを、まだそうした「悪徳」に染まっていない人へ向けての、警鐘とし得るからである。

前にも書いたことだが、たつき監督が『けものフレンズ』の最終回で描いていたのは、外部への「旅立ち」であった。
「ぬくぬくとこのままで」だけでは済まされないという現実を、あの最終回は「新たな大冒険の始まり」として描いていたのではなかったろうか。

(2023年9月24日)

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