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『けものフレンズ』 騒動は、なぜ燻り続けるのか? : 「資本主義経済」の呪い

たつき監督によるアニメ『けものフレンズ』の第1シリーズ(以下『1』と略記)が放映されたのは「2017年1月11日 - 3月29日」。

『ざっくりカドカワさん方面よりのお達し』によって、たつき監督のシリーズ第2作からの降板が告知され、降板反対の「大騒ぎ」になるも、結局は、大スポンサーKADOKAWA角川書店)」の意向どおりに、続編シリーズである『けものフレンズ2』(以下、『2』と略記)は、木村隆一監督以下、『1』とはまったく別のスタッフによって制作された。

しかしながら、その出来や内容が、多くの『1』ファンのからの否定的評価や反発を招き、「けものフレンズ2期炎上事件」と呼ばれる騒ぎに発展して、最後は制作関係者への「殺人予告」によって逮捕者まで出す、不幸な展開となってしまった。
ちなみに、『2』の放映期間は「2019年1月15日 - 4月2日」である。

現在が2023年だから、『2』が放映終了してからでも、すでに4年以上の歳月がすぎているにもかかわらず、いまだ『2』をこき下ろされた『2』のファンは、『2』をこき下ろした『1』のファンへの恨みを忘れておらず、事あるごとに『1』ファンの「荒らし」行為を批判し、併せて、大ヒットした『1』への肯定的な作品評価についてまで、注文をつけたがっている模様である(ちなみに、「批判」と「荒らし」の区別もつかない人が少なくない)。

また、そのために『1』のファンは、『1』に対する『2』のファンの「難癖」めいた批判に腹を立てる結果となり、両者の「小競り合い」は、いまだ止む気配を見せていない。

私は、この「小競り合い」が、まったく不毛なものでしかないと思うから、そろそろやめたらどうか、という趣旨のレビュー「『けものフレンズ』と『宇宙戦艦ヤマト』:『2』という呪い」を、先日アップした。

しかしながら、恨み骨髄に達している人たちには、このような「正論」は、およそ通用しない。
わかりやすい例で言うならば、「パレスチナ問題」である。

『1』であれ『2』であれ、『けものフレンズ』のファンの99パーセントは「パレスチナ問題」のことなど、よく知りはしないだろう。
というのも、『けものフレンズ』という作品が「広く愛された」のは、それが基本的には「可愛らしくて、癒される世界」を描いていたからで、長年にわたっていっこうに終結する気配さえない「パレスチナ問題」という「嫌な現実」とは、およそ真逆であり縁遠いものだからだ。

「パレスチナ問題」とは、第1次世界大戦後、イギリスとフランスの委任統治下におかれていた中東のパレスチナ地方に、ナチスドイツによって大虐殺の被害をうけたユダヤ人の国を作ろうと、イギリスやフランスが考えたことに端を発するものだ。

言うまでもなく、ユダヤ人とは基本的にユダヤ教徒であり、ユダヤ教徒がもともと住んでいたのは、「旧約聖書」にも描かれているとおりで、中東のパレスチナ地区である。
そこに、もともとあったユダヤ人国家は、周辺諸国との戦争によって歴史的に消滅し、ユダヤ人たちは、やむなくその地を去って、世界へと離散していった。これを、旧約聖書の「出エジプト記」に描かれた「出エジプト」になぞらえて「エクソダス(脱出)」と呼びもするが、以降、ユダヤ人は「祖国を持たない流浪の民」となってしまう。

離散したユダヤ人が、ナチスによる迫害などの悲惨な目に遭ったのは、磔刑になったイエス・キリストを「偽預言者」などと罵倒したという「新約聖書」の遠い記述があったからで、キリスト教徒の間では、長く「ユダヤ人は、イエスを殺した、呪われてしかるべき民族」だと、そう考えられたからである。
また、イエスがこの世に再臨して「最後の審判」がなされるまでは、死ぬことさえできないという「さまよえるユダヤ人」の伝説も、こうした文脈から生み出されたものだ。

したがって、ユダヤ人は、ナチスドイツだけではなく、多くの国で長らく差別を受け続けてきた。
もちろん「職業差別」もあったわけだが、キリスト教では本来「カネ(金銭)」というものを卑しむ倫理観があり、金儲けに邁進することは「マモン(金銭)の神」に仕えること(背教行為)だとさえ考えられた。
また、その根拠は、旧約聖書の「レビ記 25-35~37」における、モーセの次のような言葉に由来する。

『あなたの兄弟が落ちぶれ、暮して行けない時は、彼を助け、寄留者または旅びとのようにして、あなたと共に生きながらえさせなければならない。
彼から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を恐れ、あなたの兄弟をあなたと共に生きながらえさせなければならない。
あなたは利子を取って彼に金を貸してはならない。また利益をえるために食物を貸してはならない。』

このようにして「金貸業」が賎業とされたため、差別されたユダヤ人がこの職業に就いた結果、シャイクスピアの『ヴェニスの商人』やディケンズの『クリスマス・キャロル』などで典型的に描かれているとおり、金貸しと言えば「因業なユダヤ人」というイメージが定着してしまった。
また後年、おりからの「資本主義経済」の到来によって、ユダヤ系の大金持ちが出てきたことから、人々はこれを妬み、それが「ユダヤ人が世界経済を、裏で操っている」といったような「陰謀論」の根拠にもなったのである。

今でこそ、「カネは汚い」とか「金貸業は賤業」だなどという印象や偏見は、ほぼ失われた。
これについては、政治経済学者マックス・ヴェーバーによる、次のような理解もある。

プロテスタント(新教)が登場し、カルヴァン「予定説」などの影響から、「誠実に自分の仕事に勤しみ、世俗的な欲望を満たすための浪費などしない清潔な生き方こそが、神の与えたもうた天職に忠実であり、神のご意志にそって生きているという何より証拠であろう。そうした敬虔な人間は、きっと天国入りが予定されているに違いない」と、こう考えるようになった。
そして、このプロテスタントの「勤勉禁欲の倫理」が、「資本主義」社会の到来とマッチして、西欧は経済的な発展を見たのだ、というのが、マックス・ヴェーバーがその著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で語ったところの大筋である。

で、話を「パレスチナ問題」に戻すと、キリスト教圏の西欧社会で差別された「祖国なき民ユダヤ人」が、ナチスによる大虐殺の被害を受けたため、戦勝国である、イギリスとフランスは、旧約聖書の時代にユダヤ人が住んでいた(ユダヤ人にとっては、神から授かった「約束の地カナン」ということになる)に、新たにユダヤ人国家を作ることにした。よく言えば、ユダヤ人たちを救うため。悪く言えば、トラブルの種であるユダヤ人を、ヨーロッパ世界から厄介払いしようとしたのである。ナチスは、ユダヤ人を絶滅させることで「ユダヤ人問題の最終解決」を図ろうとしたが、連合国は、ヨーロッパの外にユダヤ人国家を作ることで「ユダヤ人問題の最終解決」を図ろうとしたのである。
そして、ユダヤ人、中でも「イスラエルの地に故郷を再建しよう」と考えるシオニストたちは、当然これを歓迎したわけだが、しかし、ここで見落とされていたのは、すでにパレスチナの地には、アラブ人の遊牧民たちが、多数生活していたという事実である。

彼らは遊牧民であるから、土地にしがみつくことはしない。
しかし、それまで自由に行き来していた土地に、あるとき突然、ユダヤ人国家が作られ、国境線が引かれて「この内側はイスラエル国だと決まったから、アラブ人は出ていけ」また「勝手に入ってくることもまかりならん」と言われれば、「先住民」であるアラブ人が納得するはずもない。「後から来たユダヤ人」たちが、勝手に、自分たちの生活の場を奪ったと、そう考えたからである。

しかし、ユダヤ人にしてみれば、パレスチナの地に「再建」された「イスラエル国」とは、もともと自分たちが神から与えられた「土地」であり、そこに住むのは当然の権利で、かつそれは「国際社会から認められている」のだから、自分たちが留守にしている間に、我らが父祖の土地を「不法占拠」していたも同然のアラブ人を追い出すのは当然だ、ということになった。

したがって、ユダヤ人とアラブ人は、ともに「父祖の土地」での生活を守るために、退くことのできない戦いを延々を続け、多くの犠牲者を生み続けることになった。
大雑把な説明だが、これが「パレスチナ問題」である。

で、こうした、どちらにもそれなりの「大義」があるとは言え、不毛な殺し合いは「もう止めよう」「もう止めた方がいい」というような意見は、双方の一部からも出たし、国際社会からも何度も提出され、幾度となく停戦合意がなされたものの、結局それは破られて、国力に勝るイスラエルが優勢なまま、しかし、問題は燻り続けているというのが、現在の「パレスチナ問題」なのだ。

で、私が言いたいのは、『けものフレンズ』をめぐって、延々と続いている「正統権争い」とは、「パレスチナ問題」に酷似しているのではないか、ということである。

もちろん、問題の規模は大いに違うのだけれども、しかしだからと言って、その「本質」が違うとは言えない。
例えば、この「大小2つの未解決問題」に共通しているのは、

(1)どちらが正統な継承者か?

という問題であると同時に、

(2)背後に資本主義的な貪欲が絡んでいる

という点であろう。

 ○ ○ ○

『けものフレンズ』について、まず確認しなくてはいけないのは、アニメ『けものフレンズ』は、たしかにメディアミックス戦略における「複合コンテンツ」としての「けものフレンズ・プロジェクト」の「一部」として作られたものではあるけれども、しかし、アニメの『けものフレンズ』と、ゲームの『けものフレンズ』、あるいはグッズの『けものフレンズ』というのは、同じキャラクターを使っているとは言っても、「作品」としては、明らかに別物、だという点である。

それはアニメ『けものフレンズ』についても言えることで、『1』と『2』とは、まったく別の作品だと言えるだろう。

前述のレビュー「『けものフレンズ』と『宇宙戦艦ヤマト』:『2』という呪い」でも書いたとおり、『宇宙戦艦ヤマト』であれ『あしたのジョー』であれ『巨人の星』であれ、『1』と『2』とは、別作品と考えられ、別々に評価されている。
『あしたのジョー2』のように、メインスタッフの多くが共通しており、かつ作品の出来としても『1』に劣らない(『1』を辱めることにならない)作品であると高く評価された場合に、それは「正統な続編」と認められるような「例外」もあるにはあるが、多くの場合、『1』と『2』は別作品であり、仮に『2』が「続編」を名乗っても、スタッフも違えばその出来も悪いなれば、その『2』は、ファンからは決して「続編」とは認められないというのが、これまでの、ごく当たり前の「評価」だった。要は「何様であろうと、言った者勝ちにはならないし、そうはさせない」ということだったのだ。

これは、何もアニメに限ったわけではなく、一般の劇映画でも同じで『ターミネーター』であろうと『バットマン』であろうと『オーメン』であろうと『トイ・ストーリー』であろうと、まったく同じ。
1作目が評判となって、2作目が作られた場合、『2』が、『1』に劣らぬ傑作になっておれば、それは「正統な続編」と認められるし、不出来であれば「勝手に作った、安易な続編」としか評価してもらえない。ファンからすれば、そんなものを「正式な続編」と認める必要などどこにもない、で済む話だったのである。

(『2』は傑作だったが、『3』は駄作で、『4』は別作品。そのほかにも、いろいろ延々と作られたが…)

こうしたことは、要は、鑑賞者個々が、その作品の価値を判断する、ということであり、従来の「作品評価」においては、これはごく当たり前のことでしかなかった。
いくら製作サイドが「これは、かのヒット作の続編です」と宣伝したところで、それは所詮、1作目のヒットにあやかろうとする「二匹目のドジョウ」を狙った宣伝文句にすぎない。問題はあくまでも「作品の中身」であり出来であって、それが『1』を辱めない立派なものでないと、そんなもの到底「正統な続編」とは認め難いというのが、従来のファンの、当たり前な評価だったのである。

ところが、『けものフレンズ』の場合は、最初に「けものフレンズ・プロジェクト」があったものだから、製作者サイドは、アニメ『けものフレンズ』の1作目を「独立した作品」だとは評価せず、それをプロジェクトの一部として最大限に利用しようと考えた。
これは、前述の「『けものフレンズ』と『宇宙戦艦ヤマト』:『2』という呪い」でも指摘したとおりで、アニメ『けものフレンズ』についても、1作目という「単体」で儲けるのではなく、それが発した「オーラ」をコンテンツ全体で利用する方が、儲けを最大化できると判断してのことで、あえて『2』は別スタッフでの制作とし、意図的に、『1』の、たつきカラーを薄めようとしたのである。

で、ここに示されているのは、要は「資本主義経済の論理」であって、「創作・芸術の論理」ではない、という事実だ。

アニメであれ、マンガであれ、小説であれ、映画であれ、美術絵画であれ、そうしたものの「論理」というのは、基本的には「優れた作品」を作るというところにある。それを目指して作られる、ということだ。
そして、時には「良い作品」にするためには、「一般ウケしなくても良い」というところまで行くことも、決して珍しいことではない。

言うまでもないことだが、大人の作品を幼児が見ても、理解はできない。なぜなら、まだ必要な「理解力」を持っていないからである。
したがって、「高度な内容を含む作品」というのは、「鑑賞能力に低い人」では、十全に理解することができない。そうした人は、「作品に込められたもの」の「一部」または「表面的な部分」しか理解できない、ということになる。

だから、作家によっては、そうした「鑑賞能力の低い人」に配慮(して、ゆるく)するよりも、自分のやりたいことを全力で表現したいと考えるから、「一般ウケしなくても良い」ということにもなって、その結果「鑑賞者を選ぶ(尖った)作品」になったりもするのである。
そして、これは「芸術」の世界では、長らくごく当たり前のことであった。でなければ、「抽象絵画」や「前衛芸術」などというものが生まれるはずもなかったのだ。

ところが、「資本主義経済」の社会になると、多くの「作品」は、「商品」の性格を兼ね備えることを求められるようになった。つまり「高度な作品」であるのは結構だが、しかし「一部の美的エリート」にしか理解されない、広く売るための「商品」にはならないような「作品」では、「困る」ということになった。

例えば、ある「美術絵画」である油絵が、1000万円で売れたとしよう。しかし、その作品は1点しかないから、儲けはそれ以上になることはない。
ところが、これを2000枚複製印刷して、定価1万円で売れば、1000万円の原画が買えない人は、この複製画を買うことになるだろう。なにしろ大好きな作品なのだから、ひとまず「複製画でも欲しい」というのが人情である。
で、これが売れれば、2000万円の売り上げとなって、原画1枚を売るよりも、大きな儲けとなる。原画はその1枚を売ってしまえばそれでおしまいだが、複製画なら、いくらでも増刷できるから、それが売れるかぎりは、儲けは増え続けることになる。

となれば、それだけ「人気がある作品」なら、単に「複製画」を作って売るのではなく、もっと他のグッズを作って売ってはどうだろう。例えば、Tシャツ、キーホルダー、あるいは「うちわ」などなど。

とにかく、個人所有することの叶わぬ「原画」に惚れ込んでいる人たちは、そんな雑貨までありがたがって買ってくれる。なぜならば、そうしたグッズにも「原画」が発していた「オーラ」が反映されているからである。「原画」そのものとは、まったく違うものであったとしても、「原画」に「関連するもの」として、それはありがたがられる。
例えば、有名人がありがたければ、その息子や娘まで「ありがたい」と感じてしまいがちなのが、私たちの愚かさなのだ。

(オーラを失い「ヤフオク!」の出品された品々)

しかし、中には「親は親、子は子で、別人格だ(だから、親の七光など認めない)」という者の、ごく稀にいる。それが「『けものフレンズ』と『宇宙戦艦ヤマト』:『2』という呪い」で書いた、

『ごく突き放して言うなれば、「作品そのもの」と「関連商品」は、決して「一体」のものではない。「作品」は、その作品として自己完結したものであって、「関連商品」というのは、その「作品イメージ」を借りてきて、貼り付けたものでしかないのだ。
だから、極端に割り切った人なら「作品は楽しんだけど、グッズはいらない」ということにもなる得るわけだ。』

というようなことだが、その後に続けて、

『しかしまた、そんな人は滅多にいないし、そんな人ばかりでは「商売にならない」。
スポンサー(出資者)が「作品制作」に出資するのは、それによって得た権利により、そのコンテンツを「商品展開」して、出資した以上の「金儲け」をするためなのだから、「良い作品ができた(作品さえ良ければ、それで良い)」ということには、決してならないのだ。』

ということであり、要は、「儲け」るためにスポンサー(出資者)になった者は、「良い作品」を作るために出資したのではなく、「売れる商品」を作るために出資したのだから、「作品は楽しんだけど、グッズはいらない」というような「作品本位」な人たちを「主たるターゲット」とするのではなく、『Tシャツ、キーホルダー、あるいは「うちわ」などなど』を買ってくれる「お客様」を、主たるターゲットとするし、そのための「作品」を作ろうとするのである。

そして、そういう「お客様」にとっては、『2』というのも、所詮は『Tシャツ、キーホルダー、あるいは「うちわ」などなど』の部類、なのだ。
だから、「本物」である必要などないし、「優れた作品」である必要などない。
ただ、自分が「オリジナル作品」に「面白いと感じた部分」さえ「残っておれば(レッテルとして貼り付けられてさえいれば)」、それはもう「オリジナルに関するもの」として、同じようにありがたいと感じられるようになる。

そして、こういう「好都合なお客様」の創出こそが「高度資本主義経済」の要諦でもあるのだ。
こういう「なんでも買ってくれるお客様」「商品を厳しく吟味するのではなく、関連するものなら、すべてありがたいと感じて買ってくれるお客様」を生み出してこそ、一つのコンテンツは無限の価値を生み出す「商品」に化けるのである。

 ○ ○ ○

私は先日、カール・マルクス『資本論』の入門書である、白井聡『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』(講談社現代新書)のレビューに、次のように書いた。

『商品購買層に便利な(※ 優れた)商品が行き渡り「必要」が満たされたなら、今度は「必要以上のもの」を商品にしなくてはならない。
例えば、「物」ではなく「イメージ」や「サービス」を売るのである。それが、定期的なモデルチェンジであり、家事代行とかいった新サービスの発明ということになる。

そして、そうした場合、私たち「購買層」は、そうしたものを「ありがたい」と感じるように、「宣伝」などにおいて「洗脳」される。

ファッションなどがその典型だが、例えば「ベストセラー本」などというのも、同じことである。
まだまだ読むべき古典的傑作がいくらでもあるのに、新作ベストセラーに私たちが惹きつけられるのは、「商売のための宣伝」に私たちが洗脳され、踊らされているからに他ならない。
「儲け」を出すためには、顧客たちにいつまでも古い商品にしがみついていてもらっては困るので、新しい商品をどんどんと開発し「これが最前線!」「これが最高!」「今期の芥川賞受賞作!」などと煽り、それを手にした人までが「最高」ででもあるかのような「勘違い」に落とし込んでいくのである。

今の「推し活」ブームなどは、資本主義的「洗脳」の最たるものだと言えよう。なにしろ「カネを遣った者が、いちばん尊い」というのだから、露骨すぎるほどに露骨である。
したがって「私の推し作家は」とか言っている人は、それが、つまらない本しか読んでおらず、資本に「いいように踊らされている」何よりの証拠だということにもなるのだ。

そんなわけで、「資本主義」社会においては、「資本」は、人を幸せにするためではなく、ただ、「資本」の自己増殖のために、人間社会を変え、人間の感覚や価値観を改造し(新たな欲望を喚起し)、それにはとどまらず、本来、不必要な商品を産むために、自然をどんどんと破壊していって、止まるところを知らない。』

つまり、「けものフレンズ・プロジェクト」というのも、まさにこうしたものなのだ。

「便利な商品が、ひとわたりゆき渡れば、それで売れなくなる」のでは困るので、「元来、不必要なもの」まで「欲しい」と思わせるようにする。
その手段が「宣伝による洗脳」であり、その一種が「メディアミックス」という手法による「オーラの拡散」である。ケチなキーホルダーひとつであっても『けものフレンズ』のロゴが入っているだけで、特別な「オーラ」を帯びた「ありがたいグッズ」に化けるのだ。

だから、これと同じことで、アニメの『けものフレンズ』だって、『2』は「本物」である必要などない。単に『1』の「オーラ」を引き継ぐための「ロゴ」やら「キャラ」やらが貼り付けてありさえすれば、それで『2』は、「ありがたがられる商品」に化けるからである。

 ○ ○ ○

『1』を持って、「けものフレンズ・プロジェクト」界隈から離れた人とは違い、その後もずっと「けものフレンズ」に付き合い続けている人たちには、面白い特徴がある。
それは、作品を、個々に独立した「単体として」判断しないで、「コンテンツ総体として」判断するという点である。

前述のとおり、従来であれば、『1』は『1』、『2』は『2』で「別物」だと見られていたのだが、最近は「コンテンツ」単位で、作品を考える人が増えてきているようだ。
これはアニメの場合、最近では、最初から「1期」「2期」「3期」と作られることを予定して作られ、その上で、スタッフの入れ替えなどもある場合が多いので、全体を「一つの作品」と見るようになったのかもしれない。

だが、こうした「括り」は、所詮、商品を総体として売りたい製作サイドの思惑でしかなく、鑑賞者は「1期は1期、2期は2期」だと区別して評価すればいい。仮に「2期」が不出来だったとしても、「1期」まで含めて「不出来」だと評価する必要はないし、まして「別スタッフ」によって作られたものなら、別物として区別して評価する方が、むしろ真っ当であろう。
例えば、和菓子でもバッグでも構わないが、同じ「ブランド」で売り出されていたとしても、作った職人が別で、その力量差によって、品物の品質に差があるのであれば、それらは区別して評価すべきだし、出来の良い方を「本物」だと評価するのであれば、別人による同「ブランド」の粗悪品は「偽物」だと評価しても、決して間違いではないはずだ。

(本物かどうかは別にして、ありがたい人にはありがたいブランド品)

だから、アニメにおいても、「同ブランドだから、同じ作品」だと考えるのは、「中身を見ない、レッテル型思考」と言えるだろう。
で、『2』を支持する人には、当然のことながら、こういう人が多い。
同じタイトルで、同じような設定で、同じようなキャラクターが登場すれば、それで満足できるし、それが同じ「けものフレンズ」だとひとまとめに認識してしまう。そこでは、基本的に『1』と『2』の区別がないのだ。

だからこそ『2』を支持した人の多くは「『けものフレンズ』ファンなのであれば、『2』も楽しめて当たり前」だと考える。なぜなら『1』も『2』も「『けものフレンズ』であることに違いはない」と考えるからである。

しかし、『1』を支持して『2』は評価できないとする人というのは、基本的に『1』と『2』は「別作品」だと考えるから「一緒にされたくない」と思うし、別作品だからこそ『2』を『2』単品として「失敗作」「駄作」だと評価するのだ。『2』をそのように低く評価することが、『けものフレンズ』総体を否定することになるなどとは考えず、個々の「作品」ごとに切り離して考えるから、それができるである。
例えばそれは、スポーツ競技の国際大会において「国籍に関係なく好きなチームを応援する人」と「日本人なら日本チームを応援して当然だと考える人」との違いだとも言えるだろう。前者は「私は、その競技が好きなのであって、愛国心の発露のために、観戦に来ているのではない」と言うだろうし、後者はそんな前者を「非国民」だと謗るだろう。
そんな「違い」が、『1』オンリーのファンと、「けものフレンズ・プロジェクト」総体のファンとの間にはあるのである。

このように見てくると、『1』オンリーの支持者と、『2』も『3』も全部好きという『2』の支持者とでは、「作品」というものに対する考え方が、その根本において、大きくずズレているというのがわかるだろう。

つまりこれが、『けものフレンズ』騒動が燻り続ける「元凶」としての、「資本主義経済の呪い」なのである。

『1』オンリーのファンとしては、『2』だの『3』だのグッズだのといったものは「別作品」なのだから、それはそれとして別個に評価するのは当然で、仮にそれらを低く評価したところで、『けものフレンズ』という作品を否定したことにはならない。それどころか「類似品の偽物」を厳しく淘汰してこそ、「本物」の価値が守られると考えるからこそ、その評価は辛辣なものにもなりがちなのであろう。

一方、『けものフレンズ』を「コンテンツ全体」として捉え、『1』も『2』も『3』も、すべて一連の「けものフレンズ」だと感じている人には、『1』を特別扱いし、『2』以降に好意を示そうとしない、『1』オンリーのファンというのは、言うなれば「裏切り者」と映る。「『けものフレンズ』ファンなら、すべてを愛して当然じゃないか」ということになるからである。

これだけ、根本的に「作品認識」がズレていれば、議論が噛み合わないのは当然だし、さらにその噛み合わない議論のせいで、両者はお互いに相手を「頭の悪い、わからず屋」だと強く思い込み、憎むことになっても、何の不思議もない。

また、『2』のファンとて、当初は『1』が優れた作品であること自体は認めていたのだが、しかし、『1』が特別に優れた作品だと認めるのは、『1』オンリーのファンに屈服したことになると感じられるため、結果として『1』の評価を、『2』と同等以下にまで引き下げようとすることになる。そして、そのことによって、『1』オンリーのファンを、さらに怒らせることにもなるのである。

このように、両者の「争い」は、結局のところ「どちらが本物の『けものフレンズ』ファンなのか?」という点についての争いとなっている。
もはや「作品の出来不出来」ではなく「ファンとしての正統性奪取合戦」となっており、そのためには「作品評価」を捻じ曲げることさえなされたりしているのが、現在の惨状なのである。

で、こうした「不毛な正統権争い」という点で、『けものフレンズ』騒動というのは「パレスチナ問題」と同様で、誰のためにもならない不幸な結果だけを生み、『けものフレンズ』つまり『1』という名作のイメージを傷つけ、コンテンツ総体のイメージをも傷つけることにもなっている。

だたし、「けものフレンズ・プロジェクト」というコンテンツを売っている側の「KADOKAWA」からすれば、こうした揉め事もまた、必ずしも悪いことではない。
誰もが『けものフレンズ』というコンテンツに飽きて、商品が動かなくなるよりは、揉め事であろうと何であろうと、それで商品への興味が維持できるのであれば、その方がよほどありがたいのである。
『1』オンリーのファンが「『2』なんてクソだ」を言ってくれれば、『2』のファンは、意地でもいつまでも『2』に執着してくれるし、『3』でも『4』でも喜んで買ってくれるからである。

つまり、これは「戦争」が起こると「死の商人」が儲かる、というのと同じことであり、「けものフレンズ・プロジェクト」というもののイメージが、一部傷ついたとしても、それ以上に「興味」が持続し、「儲け」が持続するのなら、それはそれで「もっとやってください」みたいなことでしかない。それが「資本主義」というものなのである。

 ○ ○ ○

しかしながら私たちには、わざわざ「不愉快」な思いをしてまで、営利企業を儲けさせてやる必要も義理もないだろう。どう考えたって、お互いに不愉快かつ、絶対に噛み合わない論駁合戦をするというのは「不毛」以外の何ものでもない。

しかし、人間は「資本主義」の「金儲け=資本の自己拡大」のために踊らされてしまう。

例えば私は、これも先日、ウクライナのドキュメンタリー映画監督セルゲイ・ロズニツァの新作『破壊の自然史』について、次のように書いた。

『要は、「お前が先に手を出したから、俺は、倍返しでやり返しただけだ」という理屈が、「戦争」では「正当性」を持ってしまう(「正義の根拠」になってしまう)のだが、(※ ロズニツァには)それは認め難いということである。

私たちの日常生活でも、こんな幼稚な理屈は通らない。
つまり「殴られたから殴り返した」というのでは、それは単なる「喧嘩」であり、刑法的には、両者が「暴行罪の被疑者」として裁かれる(喧嘩両成敗)。

「殴られた方」に許されるのは、「身を守る(自衛の)ための、最低限の反撃」である「正当防衛」であって、やりすぎればそれは「過剰防衛の暴行(あるいは、傷害・殺人)」ということになって、その人物も罰せられる。一一これが、理性的な「法秩序」というものなのだ。

ところが、私たちは普通、「やられたらやり返すのは当然」だと考えるし、「最低でも、同程度の報復をする権利がある」と考えるだろう。しかも、これがドラマともなると「倍返しだ!」となるのは、私たちが「本音」では、「同程度」以上の「報復」を求める、強い「応報感情」を持っているという証拠なのだ。
そして、戦争ではそうした感情が、「空爆による(敵国)民間人の虐殺」をも「正当化する理屈」になるのである。

だから、ロズニツァは、この映画ではあえて、「時系列」を組み替え、「敵味方」の境界線を曖昧にした。
結局、ドイツ軍だ連合軍だと言ったところで、虐殺される民間人の現実レベルからすれば、それは「人間同士の殺し合い(共食い)」でしかないからである。

「そっちが先に手を出したんだ」という「自己正当化の理由」は、それほどまでに「幼稚」で「原始的」なものなのだ。

本作が『破壊の自然史』と題されているのも、ノーム・チョムスキーがよく口にする「宇宙人から見れば」というのと、同じことだ。
宇宙人から見れば、人間のこうした「戦争」とは、「人間という野蛮な生物の、自然な姿そのもの」であり、本作は「その客観描写」だということになるのである。』

この映画で描かれているのは、第二次世界大戦における、イギリスとドイツ双方の「都市部への絨毯爆撃」である。

ロズニツァは、「アーカイブ映像」を編集してドキュメンタリー作品を作るのだが、この作品においては、わざと「時系列」どおりには編集しなかった。
なぜなら、「時系列」に沿った編集をしてしまうと、おのずと「原因と結果」というかたちで「先に手を出した方が悪く、やり返した方は正義だ」という理屈が作動しまい、「どっちが悪い」とかいった理屈以前の、双方の「膨大な犠牲者」という「事実そのものの重さ」が、看過されてしまうからである。

つまり平たく言えば、「どっちが先に手を出したとか言っている時点で、お前らのは喧嘩でしかなく、喧嘩両成敗だ」ということなのだ。
それで、「守るべき国民」が、あるいは「守るべき作品」が傷つけられたのでは、本末転倒も甚だしい
、ということなのだ。

しかし、諍いによる「消費」を、懐手にして喜んでいる「死の商人」は、確実に存在する。「不景気になれば、戦争を起こすと良い」という考え方だって、現に存在するのである。

 ○ ○ ○

だから、私たち『けものフレンズ』ファンは、もう少し頭を冷やし、その上で、「自分の面子」のためではなく、自分の愛する『けものフレンズ』という作品のために、その言動をなすべきなのではないだろうか。

そもそも、誰が何をどう評価しようが、それはその人の勝手である。ただ、そのそれぞれの評価が、説得力のあるものかどうかで、その評価の価値も決まるのだから、違った意見や評価の存在自体は認め合わなければならない。
その上で、その「評価」の中身や根拠を、正しく問わなければならないのである。

私がいくつか読んだ「けものフレンズ・プロジェクト」関連のレビューの中でも、これまで指摘してきたような、奇妙な物の見方が散見された。
例えば、ゲームである『けものフレンズ3』のこの命名について「あえて、ゲームと断らずに、『3』と名付けているところに心意気を感じる」とか「不出来な『2』が「正統的な続編」だというのが我慢ならない」とかいった意見で、両者は、その評価が逆方向ながら、同じ点で、共にズレていると言えるだろう。

「美少女ゲーム」の一種になるの?)

つまり、前者について言えば、何が『3』と名乗ったところで、作品の価値そのものは何ら変わらないという事実への無自覚であり、その無自覚な「名称権威主義」とでも呼ぶべき錯誤である。
後者も、製作サイドが『2』を「正統な続編」としてしまったことについて、それを無内容で一方的な決めつけだと嘲笑う余裕もなく、そんなつまらない規定を真に受け、それで腹を立てるというのも、一種の「出資者権威主義」でしかないと言えよう。

一一要は、「作品の価値」を自分の価値観で決めることができず、「与えられた名称」や「権威者による規定」を無条件に受け入れてしまうというのは、その人が「資本主義」に洗脳されきっている、という何よりの証拠でしかないのだ。

権威者から、これが『3』だと言われれば、「そうだ、これが『3』だ」と思い、「これが正統な続編だ」と言われれば、納得してはいなくても、その「規定」だけは事実として受け入れてしまう。

こうした「無抵抗さ」とは、「資本の論理」に飼い慣らされたが故の、「思考停止」による「従順さ」だと言えるだろう。

そして、そうした、ごくごく「狭い世間の中」だけで考えているから、自分たちのやっていることの不毛さを、何年経とうが「俯瞰してみる」ことができないのである。

まあ、ここまで言っても、「けものフレンズ」界隈が視野の及ぶ範囲の限界でしかない田舎者には、私がわざわざ大回りして書いたことの意味など理解されないだろう。

ひとつハッキリ言えることは、『けものフレンズ』ファンにも、外の世界で通用する者もいるにはいるが、「『けものフレンズ』と『宇宙戦艦ヤマト』:『2』という呪い」で書いたとおり、その9割以上は、「すっごーい!」とか「カーワイー!」とか言っているだけの、「けもの頭」人間でしかないということである。

そうではないというのなら、少しは、人間らしい、視点の高さを示してもらいたい。

少なくとも、『1』としての『けものフレンズ』は、みずから「オーラ」を放った自律的で自立的な作品であって、それに便乗した「類似品」や「グッズのたぐい」ではなかった。
同様に「本物のファン」だというのであれば、「どっち(の作品)がすごい」ではなく、そう語る人自身の「見識」を示してもらいたいし、示せるものなら示すべきであろう。

いずれにしろ、KADOKAWAが「けものフレンズ・プロジェクト」から撤退しないかぎり、この揉め事が続く公算は、きわめて高い。

なぜなら、「けものフレンズ・プロジェクト」が出してくる「新商品」は、『1』オンリーのファンから見れば、『1』の遺産にたかるハイエナのごとき忌むべき存在でしかなく、「また、くだらない子供だましの商品を出しやがって」ということになるし、『2』を含む「けものフレンズ・プロジェクト」全体のファンの方は、意地でも「新商品」を肯定し、支持しなければならなくなっているからだ。「プロジェクト」のファンにしてみれば、「新商品」が出ているかぎりは、それを支持する自分たちが正しかった、現に「けものフレンズ・プロジェクト」は続いているじゃないかと、そう自己正当化できるからである。

しかし、『1』のように、完結した作品としての評価と、「新商品」が出ている(燃料としての物資が投下されている)から、それが成功の証明だなどという「資本主義」に洗脳されきった「評価」では、どちらが「作品評価」としてまともかは、もはや言うまでもないことであろう。

つまり、「けものフレンズ・プロジェクト」による「新商品」が出なくなった途端に、『2』以下に見られている幻想としての「オーラ」は、雲散霧消するしかない。

そしてその結果、「けものフレンズ・プロジェクト」総体のファンは、新しい「嫁」だの「ペット」だのを探して、あっさり消えてしまうというのは、今どきの常識に照らして、明らかなことなのである。


(2023年8月31日)

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