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ジュディス・バトラー 『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』 : 引き受けと〈超克への希望〉

書評:ジュディス・バトラー『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』(青土社)

ごく短期間なのだが、パレスチナを支援するNPOの会合(勉強会)に参加していた。本書でも扱われている、エドワード・サイードが存命中のことだから、「9.11」後、2002年頃のことだろう。
詳しい経緯は忘れたが、パレスチナの悲惨な状況を知って興味を持ち、サイードの著作を始めとした「パレスチナ問題」関連の書物を読んでいるうちに、そういうNPO(当時は、まだ「市民団体」だったか?)の存在を知って、興味を持ったのだ。

会合では、現地の様子をよく知るメンバーや講師などの話が聞けて、たいへん裨益されたのだが、ある時、そのNPOが主催した展覧会についての、講師による「解説」を聞いているうちに不愉快になり、以降、参加するのを止めてしまった。

その展覧会とは、イスラエルによる暴力的な迫害によって亡くなったパレスチナ人の老若男女の遺品(例えば、靴や眼鏡などの日用品で、直接の被害をうかがわせないもの)と、その人の写真とならべて展示する、というようなものであったと思う。展示には、その人が亡くなったときの状況説明はなく、遺品はあくまでもその人の生前の「生活」をうかがわせるものだった。つまり「普通に生きていた人々が、理不尽な死を強いられた」という「不幸な現実」をうかがわせ、観る者の想像力に働きかける展示だったのだ。
ところが、その展示に併せて行われた主催者側講師による講演の中で、この展示の「意味」が解説された。要は、この展示が、上記のような趣旨のものであるという説明だったのだが、私はそれが「観る者の解釈」を方向付けし、蔑ろにするものだと感じられ、その無神経さに、とても腹が立ったのである。

これは、私がもともと「芸術」愛好家であり、「作品」とは「作者が鑑賞者にその意味や価値観を押しつけるものではなく、鑑賞者のその判断に委ねるものである(委ねる勇気を持つべきものである)」という考え方を持っていたからだ。こうした「作品解釈の原則論」からすれば、その展示と講演は、一見「自由な解釈(想像)を求めているようなかたちを取りながら、結局は主催者側の特権的な解釈(ストーリー)を観客に押しつけようとする、党派政治的な意図の強い展示でしかない」と感じられたのである。

人が、どのような「意見」や「解釈」を持つのも、それはもちろん自由だ。だから、主催者側に「内々の意図」があっても、それは当然のことで、すこしも問題はない。
しかし、「どうぞ自由にご鑑賞ください」という「リベラル」なスタンスを示しながら、その一方で、実際には、自分たちの「疑いのない正義」を押しつけようとする、そんな「政治的な人間にありがちな、ナイーブで、考えの無い態度」が、私には我慢ならなかった。そういうことだから、世の中から「紛争(価値観の衝突と対話の不可能性)」が無くならないのだと、そう考えて腹が立ったのである。

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上記のような私の体験と、本書『分かれ道』で著者ジュディス・バトラーの語っていることとは、決して無縁ではないだろう。
バトラーは、パレスチナ人を暴力的に迫害してその土地を奪い続けているユダヤ人国家「イスラエル」を批難する、ユダヤ人知識人である。

イスラエル政府は、こうした「暴力的政策」を、「シオニズム」と呼ばれる思想において正当化している。
「シオニズム」とは、簡単に言えば「故郷をうしなって世界に離散したユダヤ民族は、故郷を持たないがゆえに、異邦人として世界の各地で迫害にあってきた。だから、ユダヤ民族が、主権の保証された平穏な生活を取り戻すためには、占有的な国土を持つ、自分たちの国家を設立する必要が是非ともあるし、その権利が受難の民であるユダヤ民族にはある。そして、そのユダヤ人国家が設立されるべき場所とは、神から与えられた〈約束の地〉の地である、パレスチナしかない」というものだ。だからこそ、シオニストたちは、当時、パレスチナの地を委任統治していたイギリスから、同地への移民を保証されると、故郷をめざしたのである。

ところが、第二次大戦が終結し、パレスチナの地がイギリスの委任統治から解放され、イスラエルの建国が認められると、もともとその地に住んでいたパレスチナ人との間での衝突が激化し、それが戦争となった結果、パレスチナの地から多くのパレスチナ人が追い出され、故郷を失うことになった。

当然、こうしたイスラエルの暴力的なやり方に反対するユダヤ人も、イスラエルの国内外にいるのだが、その一人が本書の著者ジュディス・バトラーだ。

しかし、ユダヤ人がユダヤ人国家であるイスラエルを批判するという行為には、特有の困難が伴う。
と言うのも、イスラエルは、自分たちのパレスチナ人に対する暴力的な政策は「迫害された民族という特殊性とその権利において、正当化される」と主張しており、だから、それに反対する者は「ナチス」に等しき「反ユダヤ主義者(ユダヤ人差別者)」でしかなく、もしもその批判者がユダヤ人であるならば、その批判者は「民族の裏切り者」であり「反ユダヤ主義者の手先」であるとされ、「おまえは、ユダヤ民族の受難の歴史の意味を理解していないから、そんな無責任なことが言えるのだ。無知な裏切り者よ、恥を知れ」といった、イスラエル国家をあげての人格攻撃にさらされるのである。

このような、自己のアイデンティティを否定する人格攻撃にさらされながら、それでも罪なき被害者であるパレスチナ人のために、そしてユダヤ民族の名誉のためにも、果敢にイスラエルの暴力政治を批判した少数の思想家たちの思想と、逆にイスラエル政府を支持したユダヤ人思想家たちの思想を再検討することで、バトラーは、パレスチナ人とユダヤ人のおかれた困難な状況の乗り越えを模索したのが、本書『分かれ道』である。

つまり、バトラーは自身の「ユダヤ人」性を否定して、外から「ユダヤ人」を批判するのではなく、「ユダヤ人」というアイデンティティに止まったまま、その内部から、イスラエル国家の規定する、公定的な「ユダヤ人の民族的本質」解釈を、再解釈的に解体しようとしているのだ。

「自分たち(ユダヤ人)だけが占有する国土(という一者性)」に固執するイスラエル国家に対して、バトラーは「ディアスポラ的な自由において、他者に開かれ、他者の中で共存するという民族性」においてユダヤ人は特徴づけられる、という立場を提示する。
「異なった人たち(他者)」を排除するのではなく、逆に「他者の中に入っていき、かつ、他者と同化するのではなく、お互いの違いを認め合って共生していく力をこそ、ユダヤ民族の美質だと捉えなおすべきだ」と主張し、そのことによって、「パレスチナ問題」も「一国二国民(一国二民族)国家」として解決されるべきだと訴える。
つまり、ユダヤ人とパレスチナ人が「一つの国の中で、お互いの違いを尊重し合いながら共生していく、という国家の構築」を目指すべきであり、それしかないと主張するのだ。

この「一国二国民(一国二民族)国家」というのは、これまでもしばしば考えられてはきたものの、結局のところ「実現困難な夢(理想)でしかない」という「諦め」を持って、早々に否定されてきた。「もっと実現可能なやり方を考えるべきだ」というリアリズムである。

バトラーは、こうした批判の存在を百も承知の上で、しかしそれでも「一国二国民(一国二民族)国家」しかないと訴える。
なぜならば、パレスチナを「ユダヤ人国家(イスラエル)」と「パレスチナ人国家」に分割するという「両方の顔を立てて、問題を収める」というやり方は、結局のところ、一方的にパレスチナ人の土地を奪った「イスラエルの犯罪」を追認するかたちとなるからであり、それを認めてしまうと、イスラエルによる暴力的な土地の収奪は、パレスチナの地からすべてのパレスチナ人がいなくなるまでは、決して今後も止まらない、というのは火を見るより明らかだからである。

したがって、「一国二国民(一国二民族)国家」について、いくら「理想だ」「実現困難だ」と言われようが、それしかないというのが、バトラーの立場なのだ。

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さて、こうした「私の民族性」という問題は、「ユダヤ人とイスラエル国家」の問題というかたちで先鋭化しされているとは言え、これはなにもユダヤ人だけの問題ではない。
「訳者解説」にもあるとおり、これは私たち「日本人」の問題でもあるというのは明らかであり、本書で語られた思想を、私たち日本の読者は、日本人の問題としても読まなければ、それは読書として不十分なものでしかなかろう。

私たちの日本にも「異民族」が住んでいる。国籍を取得している人もいれば、永住権を持っている外国人、一時的に住んでいる外国人もいるが、いずれもバトラーの理屈から言えば「共生すべき他者」である。
しかし、日本の場合、「国家」というものと「国民国家」というものがほとんど同一視されており、おのずと「国民」と「日本人」の概念的な区別がなされていないために、「国民=日本人」でなければ「人権も制限されて当然」という考え方が、常識化していると言ってもよい。

だが、「国家」とは元来、「人権」をお互いに認め合った「市民(シチズン)」によって構成される制度であって、その国に住む「すべての人」が、等しくその権利を保障される、というものなのだ。

ところが、本書でも大きく扱われているユダヤ人思想家のハンナ・アーレントが執拗に批判したように、「国民国家」という政治制度は「他者排除を原理として有する、非人道的な制度」であり、だからこそ「他者を排除することで、利益を独占したい」と考えるような、イスラエル的「保守政治家」たちは、「国家」というものの理想的形態が「国民国家」であるという「誤った常識」を、自国民に刷り込もうとする。

しかし、アーレントが、ナチスドイツの高官アイヒマンを批判した根本的ロジックとしての「地上には、もともと他者が存在しており、私たちは他者と共生していくしかなく、私たちの誰にも、他者を選別して排除する特権は無い」のだという「世界認識(現実認識)」からすれば、「国民国家」という制度は「大きな弊害を、視野の外に押しやるだけの、近視眼的思想」でしかないというのが理解できるはずだ。

たしかに「他者との共生」は容易なことではない。肉親でさえ、うまくいかない場合が少なくないのだから、ましてや、言語も文化もちがう他者との共生は、様々な困難をともなうものとなろう。
しかし、では、あなたやあなたの家族が、その「言語や文化」あるいは「肌の色の違い」において、「他者」として排除されるとしたらどうだろう。人間あつかいされないとしたらどうだろうか(例えば、戦時中のアメリカにおける、日系人に対する強制収容を想起すると良い)。

「共生」には、困難が伴う。しかし、その困難は「お互い様」ということで、誰もがひとしく苦労と努力を負担して、乗り越えていくべきものなのではないだろうか。
少なくとも、バトラーは、そしてバトラーが本書で肯定的に紹介したサイードやアーレントを始めた思想家たちは、そう考えていたはずだし、そうした「困難な思想」「不可能性に挑む、希望としての思想」を、彼(女)たちは語っていたのである。

初出:2020年2月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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