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マーク・フィッシャー 『資本主義リアリズム』 :  あくなき〈資本の顎〉に噛み砕かれて…

書評:マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(堀之内出版)

私たちはあまりにも深く「資本主義リアリズム」に取り込まれて、牙を抜かれてしまっている。そうした現状に対する怒りと無力感に苛まれながらも、フィッシャーはそれへの抵抗を訴え続けた。「まだ希望はある」と。

一一しかし、結果として彼は自死してしまう。彼がうつ病を患っていたとしても、それ自体が「資本主義リアリズム」の彼に強いたものであるのだから、やはり彼は、自身が必死に訴えた希望を見失って、「資本主義リアリズム」に殺された、あるいは、敗れたのだと言ってもいいだろう。

この、あまりにも残酷な生涯を目の当たりにしてもなお、その「重み」を実感できない人が多い。「少なくない」のではなく「多い」のだ。
つまり、本書を読んでも、「資本主義リアリズム」の残酷さを理解できない人が多いのだが、それはフィッシャーが本書でも語っているように、多くの人が「資本主義リアリズム」に侵されて、人間性を麻痺させてしまっているからである。

「うつ病の思想家が、資本主義社会の度し難さに絶望して、自殺したって? ありそうなことだね。でも、それは結局のところ、彼が頭の病気だったってことだよ。だって俺は、全然平気だからね」で済ませてしまえるのは、その人の「生物的な感覚」が麻痺しているが故に「冷笑的」でいられるということに他ならない。言い換えれば「そうでなければ生きられない」という無自覚な防衛反応だ。
現代は「弱くなければ生きられない。冷たくなければ生きる資格が与えられない」とされる。つまり、私たちに「ひ弱でバラバラな存在」であることを強いる、「資本の論理」という残酷な神の支配する時代なのである

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「資本主義リアリズムの閉塞感」などと言ってみても、それに囚われている者は、頭では「そうかもね」くらいは思っても、それを実感することができない。何しろ、麻痺しているのだから、その人に「君は麻痺しているんだよ」と告げても、その麻痺が実感できないのは当然なのだ。
だから、卑近な例を少しだけ挙げてみよう。

例えば、現在のコロナ禍における「マスク着用」について、先日「マスクの二重着用が有効」だなどということを、わざわざテレビニュースで何度も採り上げ、暗に推奨していた。
「そんなことわかっているよ」と多くの人が思ったことだろう。そりゃ1枚よりは2枚、2枚よりは3枚、3枚よりは10枚の方が、ウィルスの飛散は防げるだろうが、現実問題として、どこで手を打つかというのが「大人の判断」だというのに、こんなに「子供にものを教える」ような程度の低いことを、素面で訴えることができるのも、ひとえに「資本主義リアリズム」の麻痺ゆえなのである。

しかし、この程度なら、多くの人は、まだ認識もでき、ささやかながらの抵抗もできるだろうが、果たしてどれだけの人が「毎日シャワー&シャンプー」「毎日ノリの効いた真っ白なカッター」といった「10枚のマスク」論を自覚し、それに抵抗できるだろうか。
マンガ家・松本零士は『男おいどん』において「1ヶ月くらい風呂に入らなくても、人間は死ぬことはない」といった趣旨のことを、主人公に語らせていた。要は、貧しく陽の当たらない人生を歩む主人公には、綺麗に着飾るような生活は望むべくもなく、風呂なんて滅多に入らなくてもいいものだ、ということだったのである。
しかし、今の多くの日本人なら、彼のそんな生活に思いを馳せたり同情したりする前に「迷惑だ」と非難することだろう。昔なら「男の汗の匂い」は、カッコいいものだったのだが、今だとそれも「スメハラ(スメル・ハラスメント)」だなどと非難される。「風呂くらい入れよ」ということだ。

一一こうした感覚は、私たちが「資本主義リアリズム」に、すっかり飼い馴らされてしまい、麻痺し、無自覚になっている、何よりの証拠なのだが、そのことに自覚的な人が、本書の読者の中にだって、いったい、どれだけいるだろうか。

『 ジレットが男の髭を剃る習慣をつくり、コダックが誕生日や卒業式でスナップ写真を撮る習慣をつくった。ナショナル・ビスケット社(ナビスコ)とハーシーが子供たちのピクニックに袋入りのビスケットやチョコレートをもたせ、コルゲートが家族みんなに朝晩の歯磨きをさせた。』(松岡正剛『サブカルズ』P12)

これは、松岡がスーザン・ストレッサー『欲望を生み出す社会』の内容を紹介した部分だが、私たちは、こうした「欲望」が「資本主義リアリズム」によって「誘導」的に生み出されたものであることに、はたして自覚を持っているだろうか。
そして、自分が望むなら「いつでも、そんな習慣は捨ててやる。何も考えずに、牧畜獣みたいに飼い馴らされて生きているやつらとか、自覚しても反抗できない奴らみたいにはなれないし、ならない」などと公言できる人が、いったいどれだけいるだろう。

ことほど左様に、私たちは「資本主義リアリズム」が生む出したものに取り巻かれ、もはやその「外部」に出ることなどできないという「諦観」にとり憑かれている。また、「諦観」にとり憑かれているという事実に気づけなくなるほど、麻痺させられている。
その結果、私たちは、自身の無自覚と無為から目をそらして生きるために、「冷笑的」な人間に堕してしまう。「牧畜獣の諦観」である。

『ニーチェは、彼のもっとも予見的な文章のなかで、「歴史の過剰によって飽和する時代」を描いている。「ある時代は、自己自身に対する皮肉という危険な気分に陥り、そこからしてより一層危険な冷笑主義(シニシズム)的気分にはまりこむ」と彼は『反時代的考察』で述べた』(P21)

本書には、こうした「資本主義リアリズム」の、度し難い「どん詰まり」状況が描かれている。

『カート・コバーンとニルヴァーナほど、この膠着状態を体現した(またそれと闘った)類例はない。その凄まじい倦怠感と対象なき怒りにおいて、コバーンは、歴史の後に生まれた世代、あらゆる動きが事前に予測され、追跡され、購入され、売却される世代の声となって、彼らの失望と疲労感をあらわすと思われた。自分自身もまたスペクタクルの延長に過ぎないことを知り、MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り、そんな彼の身振りはすべて予め決定された台本に従うクリシェに過ぎない、という自覚をもつことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだと、コバーンは全てわかっていた。コバーンを麻痺状態に追い込んだこのような行き詰まり感は、ジェイムソンが描いた状態そのものである。ポストモダン文化について一般的にも言えるように、コバーンは、「様式の革新がもはや不可能となった世界、過ぎ去った様式の模倣と、想像の博物館の中にあるいくつもの様式という仮面と声を通してしか語ることのできない世界」に立たせられていた。そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。ともかくも、コバーンとニルヴァーナが抱えた激しい存在論的不安は、今や過去のものになった。彼らを継承して現れたのは、不安を感じずに過去の形式を再生産する、パスティシュ・ロックなのだ。
 コバーンの死は、ロック・ミュージックが抱いたユートピアとプロメテウス的野心の敗北、そしてその消費文化への包摂を告げる決定的な瞬間だった。』(P27~29)

コバーンのような「真っ当な感受性」を持てない人とは、どのようなものとならざるを得ないのか。

『 一九六〇年代や一九七〇年代の学生とは対照的に、今日のイギリスの学生は政治的に無関心だという印象がある。フランスでは学生がいまだに街頭で新自由主義に対する抗議デモを行っているなかで、それと比較にならないほど過酷な状況におかれているイギリスの学生は、その運命を諦めて受け入れてしまっているかのように思われる。しかし、これは無関心でも冷笑主義でもなく、再帰的無能感の問題であると私は主張したい。彼らは事態がよくないとわかっているが、それ以上に、この事態に対してなす術がないということを了解してしまっているのだ。けれども、この「了解」、この再帰性とは、既成の状況に対する受け身の認識ではない。それは、自己達成的な予言なのだ。』(P60)

この「自己達成的な予言」は、どのように達成されたのか。

『 これまで出会った十代の学生の多くは、鬱病的快楽主義と名づけられるような状態にあったと思う。通常なら、鬱病は非・快楽〔anhedonia〕の状態が特徴だとされるが、ここで述べる状態は、快楽を感じることができないわけではなく、むしろ快楽を求める以外何もできないというのが特徴だ。「何かが不足している」という感覚はあるが、しかし、この謎めいた不在の喜びを快楽原則の彼岸でしか享受できないことは理解されていない。』(P61~62)

例えば「次々と、新しい情報(あるいは、物語刺激)を求めて本を読み、それに、面白かった、つまらなかった、などとコメントをつけて消費していく」といった(被)強迫的な行動が、これだ。
Amazonレビューの上位ランク者で、この「資本主義的な強迫神経症」に侵されていない者など、皆無だと断じても良いだろう。

『 学生に数行足らずの文章を読むように指示したとしよう。そうすると彼らの多くは一一それも成績優秀な学生なのだが一一「できない」と反発するだろう。教員がもっとも多く耳にする苦情は「つまらない」である。ここで問題になっているのは書かれた文書の内容ではない。むしろ読むという行為そのものが「つまらない」とされているのだ。私たちが目前にしているのは、昔ながらの若者的なアンニュイではなく、「接続過剰のせいで集中できない」ポスト文字社会の「新しい肉」〔New Flesh〕と、衰退していく規律制度の基盤となっていた閉鎖的かつ収容的な論理の不釣り合いなのだ。「つまらない」と感じることは単純に、チャット、YouTube、ファストフードからなるコミニュケーションと感性的刺激の母胎に埋め込まれた状態から離脱させられ、甘ったるい即時満足の果てしないフローを一瞬だけでも遮られることを意味している。まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする学生もいる。彼らは、この消化のしにくさ、この難しさこそがニーチェであるということを把握しきれないのだが、消費システムの論理もまたこの勘違いを招いてしまうのだ。』(P66~67)

『まるでハンバーガーをほしがるような感じでニーチェを読もうとする』読者の、何と多いことか。
まるで、テレビやネットで宣伝しているそれを食べるのが「カッコいい」と感じられ、そのことが「美味しい」に変換されて理解される。さらに流行りのものを食べれば、自分が「最先端の存在」になれると思い込んでしまう。
歯ごたえのある食べ物を咀嚼する力もついていないからこそ、幼児向けの流動食めいたものを求め、自覚のないまま「子供の当然の権利」のごとく、それらの「幼児食」を要求して、「新しく」て「わかりやすい」読み物ばかりを「高く評価」してみせる、ガルガンチュアの群。
一一それを生み出したのが「資本主義的リアリズム」なのだが、こうした告発は「資本主義的リアリズムに骨抜きにされた、幼児大人」に理解されることなく、ただ消費され(ウンコとして排泄され)てしまう。この「やり場のなさ」をどうすれば、突き崩せるのか。

そこに、単純な「正解」などないだろうし、ましてや私ごときが提示することなど出来はしない。
ただ、「資本主義リアリズム」に取り巻かれてしまった現状にあっては、それが構成するものを「全て完全に拒否する」というかたちでの闘いは、不可能であろう。ハンガーストライキの果てに餓死して、誰にも顧みられないというのが関の山である。それが「資本主義リアリズム」の社会なのだから。

であるなら、残されるのは、敵の武器を奪ってこちらの武器としながら、しかし、そのことで「敵の論理」に取り込まれないようにする、したたかで直感的な戦術が必要となるだろう。それは、それができる個人的な地力のないかぎりは不可能なことなのだから、万人に適用できる「正解」などない。だからこそ、自分の闘い方を、人に教えてもらうわけにはいかないのだ。

ただし、「絶望」は負けである。これだけは確かだ。
たとえ、客観的に見て「負け戦」であると思えても、それでも「希望」を持たないかぎり、私たちは絶望するしかない。しかし、「あり得ないもの」を「あり得るもの」として、無理に呑み込んで「希望する」ことは「ニヒリズム」をおのずと抱えることにもなるから、これも危険だ。では、どうするか。

私個人の戦略は、「私一個の美意識」において「しぶとい撤退戦の果てに死ぬ」というものだ。
結果としては「負け戦」なのかもしれないが、それに易々と従いはしない、という「反骨者の抵抗戦」の「美学」である。だから、私はこれまで何十年も、繰り返して、大岡昇平の次の言葉を引用してきたのだ。

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)


初出:2021年2月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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