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〈児童文学〉としては傑作 : ソン・ウォンピョン 『アーモンド』

書評:ソン・ウォンピョン『アーモンド』(祥伝社)


本作は、2年前、書店員が選ぶ「2020年度 本屋大賞 翻訳小説部門 第1位」を獲得し、ベストセラーになった作品である。

ちなみに、「本屋大賞」(の「小説部門」)そのものは、国産作品が対象となっており、本作は最初から、その同じ土俵には上っていない。あくまでも、書店員が読んだ「翻訳小説」の中で、評判の良かった作品、ということである。
当然、翻訳小説を読む書店員の多くは、国産小説も読んでおり、その範囲での選定ということでしかない。一一そう考えれば、合点がいくのだ。

要は、本稿のタイトルにもしたとおりで、本作は「児童文学」としては「傑作」と呼んでもいい作品だが、「文学」全体から見れば、やっぱり「娯楽作品的な甘さ」の否定できない作品なのだ。
「重いテーマ」を扱っているわりには、登場人物の性格設定にしろ、結末のつけ方にしろ、あまりにも「読者に甘い」。「読者を甘やかせるものでしかない」のだ。だから、「大人の読む小説」としては、とうてい「傑作」とは呼び得ないのである。

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本作は、生まれつき、脳の扁桃体(アーモンド状器官)が小さく、「感情」というものが認知できない(機能しない)少年ユンジェが、幼い頃に親に捨てられたと思い込んで育ったがために、いわゆる「非行少年」になってしまった、感情ゆたかな同い年の少年ゴニと出会うことで、ユニークな友情を育み、お互いに成長してゆく物語だと言えるだろう。

物語の前半部分、自暴自棄になった青年による「通り魔」的犯行で、幼いユンジュは、目の前で大切な祖母を失い、母を「植物人間」にされる、という悲劇に遭遇する。
しかも、感情が湧かないユンジュには、その現実が「悲しい」とは感じられないため、読者はなおさらユンジュの「悲劇」に同情するが、作中の人々の多くは、ユンジュのことを「気味の悪い」存在だと見るようになる。

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一方、そんなユンジュだからこそ、非行少年ゴニのことを、ことさらに怖がったりもしなければ、余計な「忖度」をすることもないので、ゴニに「偏見」を持つこともない。
だから、最初は、ゴニから目をつけられて嫌がらせをされるものの、やがて二人の間には友情が芽生え、最後は、周囲の無理解から、再び犯罪の道に足を踏み入れようとしていたゴニを救うために、ユンジュは凶悪な犯罪者の待つ場所へと、ひとり赴くのである。

そして、結末の中身までは書かないが、要は「出来すぎなまでのハッピーエンド」の、かなり「ご都合主義」的なものになってしまっている。

それでも本作が、韓国では「ヤングアダルト小説」として、高く評価されたのだそうだから、それならば、納得はいく。「未成年向けの作品」が、しばしば「勧善懲悪」的なハッピーエンドになるのは、教育的「配慮」として、容認されるべきことだからである。

だが、この作品が「翻訳小説・ヤングアダルト部門」の「第1位」ではなく、「翻訳小説・部門」の「第1位」だと言われると、「おいおい、ちょっと待ってくれ。それは、あれもこれも全部ひっくるめて、翻訳小説の年間第1位だということなのかい?(君たちは一体、どの範囲で何冊の翻訳小説を読んで、これを選んだの?)」と反問せずにはいられない。いずれにしろそれは、ちょっと「過大評価」すぎるだろう、ということになるのだ。

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この作品の評判の良さの「大きな要因」として、「読みやすさ」が挙げられている。
これは、本作が、児童文学ではオーソドックスな「一人称の主人公の語り」で描かれる小説であり、しかも、その語り手がユンジュだから、淡々と客観的な語りが続いて、読者に沈思黙考を求めるような難解な感情や状況など、決して描かれないからだ。
つまり、ユンジュには「相手が何を考えているのかわからない」描写でも、読者には「簡単にわかってしまう」描写でしかなく、読者の読解能力は「子供並み」で良いのである。

無論、本作には「偏見の克服」という大きなテーマが込められており、「偏見は、良くないものであり、私たちはその乗り越えを、それぞれに真剣に考えなければならない」という問題提起がなされてはいるものの、言うなれば、例によって「それだけのこと」でしかなく、「この小説を読んで、感動した! 面白かった! 一一と喜んだ読者のうちの一体どれだけが、自身の偏見と本気で向き合うほどの〝忍耐力〟を持っているだろうか?」などという「野暮」なことは、金輪際、問うことはないのである。

子供なら、中には、本作を読んで、そこから何かを学び、それを自らの中に育む者もいるだろう。
だが、否応なく「すれっからしの大人」が、本作を読んで感動し、感心し、「偏見はいけないよね。どんな凶悪な犯罪者にも、犯罪者になるだけの事情というものがあるはずだし、それを見ようともせずに、ただ、その現象面だけを見て、悪と名指して憎しみを向けるだけでは、決して何も解決しない」といった「感想文」を書いたとしても、その人が、それを本気で「我がこと」として考え、課題化する蓋然性など、きわめて低いはずだ。
つまり、そんな「分かりきったこと」を、今更「したり顔」で語っている段階で、そんな「大人読者」は、所詮は「偏見問題」についての「一見さん」でしかないのである。

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(『アーモンド』の読者のうち、この写真の事件が何と呼ばれる事件か、ピンと来る人がどれくらいいるだろうか?)

ましてや、読書が大好きで、特に「小説(フィクション)好き」が多いのであろう、本書に投票した書店員さんのうち、一体どれだけが、今後「リアルな偏見問題」を扱った本を読むために、自分の余暇を割くのかは、かなり疑わしいとしか思えないのだが、これは勘ぐりが過ぎようか?

本書の「受賞」や「ベストセラー化」とは、典型的な「資本主義リアリズム」に毒された「感動消費」の域を一歩も出るものではない、と言った方が、むしろ「大人の読者」には納得がいくはずだ。

それにしても、「感動作」を売りにした惹句の踊る帯の上に、無表情なユンジュの顔があるのは、なんとも皮肉なことである。


(2022年8月19日)

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