見出し画像

キム・ジウン&キム・ドヒ監督 『差別』 : 肉を切らせて、 骨を断て!

映画評:キム・ジウン&キム・ドヒ監督『差別』(2021年・韓国映画)

在日朝鮮人差別」問題を扱ったドキュメンタリー作品のようだったので、観に行ってきた。

私の文章を、ある程度読んでくれている人なら知ってのとおり、私の20年にも及ぶ「ネット右翼」への批判や直接的な言論対決の、そもそものきっかけは、在特会(在日特権を許さない市民の会)が、ネットにアップした「京都朝鮮第一初級学校への抗議行動」の映像を視たことだった。

在特会がこの抗議行動を起こした理由というのは、この朝鮮人学校が、隣接する公園を長期間にわたり不法占拠して校庭がわりに使っているといったことだった。これに対して、学校側は、京都府の許可を得て正当に使用しているということであった。

どちらにも言い分はあるだろう。だが、私が問題としてのは、校庭に関してどちらの言い分が正当なのかということではなく、在特会による「抗議」のやり方や、その言葉の下劣さにあった。
仮に、在特会の言い分が正しかったとしても、彼らの下劣な「言動」は、人として許されるものではないし、ましてや同じ「日本人」として、とうてい看過できるものではなかった。
だから私は、その日のうちに当時使っていたネット掲示板「アレクセイの花園」に、「日本の恥」と題する文章をアップして、在特会を批判したのである。

在特会やそのシンパの「言動の下劣さ」については、今や説明の必要もないだろう。
そんなことも「知らない」人は、「日本人」を名乗るべきではない。
「在特会の悪行」を知らないというのは、「広島や長崎での原爆被害」や「東日本大震災と福島第一原発事故の惨状」を知らないのと同じくらい、日本人として恥ずべきことだと思うからである。

あと、これも私の文章をある程度読んでくれている人は知ってのとおりで、私は、安倍晋三元総理が、反吐が出るほど徹底的に大嫌いであった。
政治的な立場はもとより、その私利私欲と権力の濫用によるやりたい放題。それから、能力もないのに、祖父の七光だけで政治家になったような馬鹿であるにも関わらず、その身の程を知らない、人を小馬鹿にしたようなニヤケヅラが、どうにも不快きわまりなかったのである。
つまり私は、安倍晋三が殺されて「清々した」と公言できる人間なのだ。

もちろん、テロリズムは肯定できないが、安倍晋三がこの世からいなくなったことについては、純粋に、すっきりさっぱりした人間だと言っている。これは、「感情」の問題なのだから仕方がないし、実際、彼がいなくなったことは、日本のためになっているだろうとも思う。

とまあ、そんなわけで、私は「在日朝鮮人」の人たちに同情的であり、歴史的に、日本の「被害者」であった彼ら彼女らに寄り添う「義務」が、私たち「日本人」にはあると考えている。
だからこそ、本作『差別』を観に行ってわけなのだが、観終わった感想はというと、非常に微妙なものであった。

何が「微妙」なのかというと、本作が「一面の真実」を語っているというのは確かなのだが、「一面の真実」を「隠している」とも思った。
だから、この映画を「鵜呑みにはできない」と感じた

いくら、私が「ネトウヨ」や「安倍晋三」が大嫌いであろうと、あるいは、私自身も、朝鮮の人たちにとっては、歴史的な加害者である「日本人」の一人であろうと、そうした立場には関係なく、「客観的事実」だけは無視し得ないと、そう考えたのだ。

 ○ ○ ○

作品紹介:2010年度より施行中の日本政府の高校授業料無償化政策から唯一対象外とされている朝鮮高級学校の10校。これに反発する5つの朝鮮高級学校(愛知・大阪・広島・福岡・東京)の生徒たちが2013年以降、不指定処分の取り消しなどを求め、国を相手取り裁判を起こした。70年余り朝鮮学校を守ってきた在日コリアンと朝鮮学校の生徒たち、弁護士たち、朝鮮学校を応援する人々の話に耳を傾け、差別に耐え自らのアイデンティティを貫こうとする在日コリアンの熾烈な生を共有する。

釜山で独立製作会社を立ち上げたキム・ジウン、キム・ドヒ両監督による共同作品。初の長編「航路(ハンロ)―済州、朝鮮、大阪-」に続き、在日朝鮮人に光を当てた2作目のドキュメンタリー。

※2010年から実施された高校授業料無償化の対象には国内にある外国人学校も含まれたが、朝鮮学校だけが除外されている。』

サイト「ウネリウネラ」、「映画「差別」福島上映会」の「story」より)

まず、なぜ安倍政権下での「高校授業料無償化政策」から、朝鮮人学校だけが「対象外」とされたのか、という問題である。

もちろん、それが「朝鮮人差別」だというのが、この映画の主張するところなのだが、「対象外」とされた理由について、この映画の中では、「不指定処分の取り消し訴訟」に関わっている在日朝鮮人弁護士が、その理由を、

(1)朝鮮人学校を指定しなければならない、という根拠法令は存在しない(すでに、そうした法令は撤廃されている)。
(2)「無償化」の対象となるための要件の一部に、朝鮮人学校は反している。

ということであり、しかし「この2点は、矛盾している」と説明していた。
一一これが「不指定処分の取り消し訴訟」原告団の(つまり、朝鮮人学校側の)、中心的な「ロジック」だということになるのだろう。

だが、私は、映画の中でのこの説明を聞いて、今ひとつピンと来なかった。
たしかに、上の2点は「矛盾」しているようにも見える。つまり「不指定」にする根拠が、そもそも、あるのかないのかが、わかりにくい。

いうまでもなく、(1)の方は「指定の法的根拠がない(指定できない)」と言っているわけだが、(2)の方では「要件さえ整っていたなら、指定できた」かのような言い方に聞こえるからだ。だから「矛盾している」と。

だが、この2点は「矛盾」ではなく、言うなれば「累積的根拠」と考えることもできるだろう。
つまり、まず(1)において、「指定できない」という意味ではなく、「指定しなければならない、義務が無い」という意味であり、言い換えれば「指定しようと思えば、できないこともない」という意味とも取れる。その上で、(2)では、「仮に」指定可能対象に含まれた「としても」、「要件を満たしていないから、指定はできない」、というロジックである。

つまり、かの弁護士の物言いは、「事実関係」ではなく、「ロジックの矛盾」という、きわめて抽象的な「一面の見方」に引きつけた説明であり、つまりそれは、ある種の「捻ったレトリック」だったからこそ、わかりにくいのではないだろうか。

(最前列右端が、本作『差別』にも登場した弁護士)

では、この2点について、私の基本的な考え方を示そう。

まず(1)についてだが、朝鮮人学校を「無償化」の対象にする「根拠法令」が「無い」というのなら、作るべきである。また、もともと在ったものを無くしたのなら、復活させるべきである。

どうしてこのように考えるのかというと、まず、日本に住んでおり、税金まで払っている彼らは、同じ「国民」として平等に扱われなければならないと考えるからだ。
これは「国籍」などという帳簿上の問題ではなく、人間存在の本質に関わる問題なのだ。

また、さらには、朝鮮は、かつて「日本からの植民地支配」を受けた被害国であり、朝鮮人は、一時は強制的に「日本人」とされながら、戦後は逆に「日本人」としての権利を剥奪された人たちである。したがって、日本には、その責任を取って、十二分に被害弁済をする「義務」があると、私は考える。

また、朝鮮が、いまだに南北に分断されたままだというのは、アメリカとソ連(現ロシア)の東西冷戦の結果であり、西側の一員として、その片棒を担ぎ続けている日本は、今現在もその責任の一端があるのだから、その点についても「責任」を取らなければならない、と考える。
つまり、南北朝鮮の健全な発展に寄与しなければならないし、ましてや「戦争の負の遺産」と呼んで良いであろう「在日朝鮮人」という存在形式にも、全責任を取らなければならない。当然、今も終わってなどいない、彼らに対する「差別」への償いと、さらなる善処が必要であると思う。

そんなわけで、日本は、日本人は、「在日朝鮮人」を、「日本人」に比べて「優遇」するくらいでなければならない。
なぜなら、「日本」および「日本人」は「加害者の側」であり「償う側」である一方、「朝鮮」および「朝鮮人」、まして「在日朝鮮人」は「被害者の側」であり「償いを受けて然るべき側」であるからである。

したがって、「朝鮮人学校」は、普通の日本の学校よりも「優遇措置」を受けるべきであって、「差別」的な扱いを受けるなどということは、あってはならないと考える。
だから、「高校授業料無償化政策」の「対象外にされる(不指定になる)」などといったことは、断じて許されることではないだろう。

だが、それではなぜ、そんな道理に反することが、まかり通っているのだろうか。
どうして裁判でも、大阪地裁の判決以外は、すべて原告側の主張を退けられ、国側の勝訴となってしまったのか?

無論、裁判官の多くが、特に「上級裁判所の裁判官」の多くが、「出世するために、お国の方を向いて働いているような輩」だからではあるのだろうが、それだけなのだろうか?
映画では、そのあたりの「判決」のロジックが、まったく語られていないのだが、そこでは、何が語られていたのだろうか。

例えば、国側に立って、この裁判を考えた場合、国側が「朝鮮人学校」を不指定にした理由とは「具体的には、どのようなもの」であったのだろう?

先に紹介した「原告団側の弁護士」説明は、いかにも抽象的で、具体性に欠ける。特に(2)の方がそうだ。

『「無償化」の対象となるための要件の一部に、朝鮮人学校は反している。』

この、指定のための要件に反しているという「一部の要件」とは、具体的には何だろうか?

私はこれを、「北朝鮮の現政治体制」に対する支持、だと推測する。
「金一族による独裁体制」を、日本の「朝鮮人学校」も支持している、ということだ。

つまり、「日本(政府)」としては「北朝鮮の現政治体制」を支持するような「教育」を補助するわけにはいかない、ということなのではないだろうか?
朝鮮人や朝鮮人学校を「差別」するのではなく、「差別的で非人道的な教育内容」を支持容認するわけにはいかない、というロジックである。
言い換えれば、日本にある朝鮮人学校が「北朝鮮の現政治体制」に反対したり、批判するのであれば、「指定」したのではないか、ということだ。

この映画の中では、「日本政府は、朝鮮人が朝鮮の民族文化に誇りを持つことを、どうして許そうとしないのか? 民族教育の何がいけないというのか?」というような「表現」が多用されている。
だが、問題は、この「民族教育」の中身なのだ。

(演説する金正恩第3代最高指導者)

例えば、それが「一般的な文化や歴史」なのであれば、問題はないだろう。
しかし、それが「金一族による独裁体制」まで「文化」のうちであり、そこまで含めて、全肯定されなければならない、などと言われると、「ちょっと待てよ。それとこれとは、話が別なんじゃないか?」と言いたくなる人は少なくないはずだし、私もそう思う。

例えば、日本の今の学校で「天皇は現人神である」という教育をしたとしたら、それも「日本の歴史文化のうちだから、それで構わない」ということになるだろうか? 当然、そうはならない。
それを「歴史的事実」だと伝える必要はあるけれども、それが「正しかったか、間違いであったか」の判断は、「悲惨な戦争」という歴史的事実と合わせて教育した上で、学生個々の判断に任せるべきだからだ。学校側が、その価値判断を押しつけるべきではない。「洗脳教育」をすべきではないのである。

例えば、「天皇は(今でも)現人神である」というようなことを、学校の方針として教育するような「右翼学校」が作られたとしたら、その学校は「無償化」の対象にすべきではないだろう。
そういう「イデオロギー」だの「宗教」だのに偏って、客観的な教育を放棄した学校は、「私塾」として、自分たちの信念に基づいて、勝手にそれをやるべきであり、考えを同じくしない人たちの「税金」など、当てにすべきではない。日本は、仮にも民主主義国家なのである。

実際、「創価高校」などが「無償化」の対象になりうるのは、「教育」内容としては、「池田大作先生の個人崇拝」だとか「日蓮大聖人は、久遠元初の自受用報身如来であり、(釈尊以前の)根本仏」であるから「崇拝しなければならない」といったことは、教えない(教育カリキュラムに含まれていない)からであろう。
その一方、「幸福の科学」の学校が、そうした同様の優遇措置の対象にならないのは、授業の中で「大川隆法総裁は、最高神としてのエル・カンターレである」と教えるからなのだ。

池田大作創価学会インタナショナル会長)
大川隆法・幸福の科学 総裁)

したがって、北朝鮮の「金一族への崇敬」を教え促がすような学校を、「対象外」だとしたのは、筋が通った話だと言えるだろう。

では、どうして、日本の「朝鮮人学校」は、「金一族による独裁体制」を支持しているのであろうか?
創価学会員や幸福の科学の会員と同様に、心から「偉大なる領主様」とか「将軍様」とか「お父様」など思っているのだろうか?
一一無論、そうではない。

日本で暮らしていれば、北朝鮮では接し得ない情報にも否応なく接することになるのだから、祖国で行われているような「洗脳教育」を、そのまま信じる、というようなことは、したくても出来ない相談である。
つまり「建前」は別にして、「本音」では「北朝鮮の民主化」を願っている在日朝鮮人は、決して少なくないはずだ。
特に「朝鮮人学校」と、直接的な関わりのない在日朝鮮人の多くは、そのように考えているだろうし、今の北朝鮮に住みたいとは思ってないだろう。
その意味では「朝鮮人学校」の関係者も、本音では、おおよそ同じように考えているはずなのだ。

ではなぜ、「朝鮮人学校」は、「創価高校」のように「教育と信仰=教育とイデオロギー」を区別しないのだろうか?
「創価高校」がそうであるように、本音では「池田先生の個人崇拝」をしていても、「学校の建前」としては、それをしていないということにしておけば、各種の優遇措置が受けられるし、日本社会から浮くこともない。なのに、なぜ?

それは、この映画の中でも語られているとおりで、「韓国」とは違い、「北朝鮮」の場合は、日本の「朝鮮人学校」に対して「同胞としての援助」を、継続的に行なっているからである。つまり、平たく言えば、資金援助を行なっている。
だから当然、それを受けているかぎりは「北朝鮮の現政治体制」を批判するわけにはいかない。批判すれば「切られる」ことは明白だからだ。

教室に金日成・正日親子の肖像写真-拉致問題が影、揺れる朝鮮学校

だがこれは、「朝鮮人学校は、祖国からの援助金が欲しくて、祖国の現政治体制を批判できないのだ」と考えてはならない。
そうではなく、彼らは「祖国から切れること。それによって、異国の地において孤立すること」を恐れているのだ。
どんな差別に遭っても、それでも「祖国とは繋がっている」という安心感があるから堪えられると、そう思っている。どんな祖国であっても、祖国は祖国だから、祖国との繋がりを「命綱」のように思っているのである。

もちろん、朝鮮人学校の関係者の中には、祖国からの援助金が欲しいという理由が大きい人もいるだろう。
だが、日本で、「個人」として普通に暮らしている在日朝鮮人であれば、「金一族による独裁体制」を擁護する義理などないから、平気で「あんなもの、潰れてしまえ」と言う人もいるだろう。
実際にそんなことをいえば「身内で喧嘩になる恐れ」があるけれど、「それがどうした。俺は俺だ。民族や国籍なんて関係ない」という人も、少なからずいるはずなのだ。

だが、「朝鮮人学校」のアイデンティティというのは、「北朝鮮の現体制と繋がっている」というところにあるのだから、それを「捨てる」のは、決して容易なことではない。
要は、「創価学会員」や「幸福の科学の会員」が、公然と、その「信仰」を捨て、そのコミュニティから出ていくのと、同じだからである。
例えば、それ(国家イデオロギーや信仰)を信じていなくても、その「コミュニティ」から出ていくというのは、彼らがマイノリティーだからこそ、私たち多数派の想像を絶して、恐ろしいこと、断絶的な孤独だと感じられ、恐怖されるのだ。

そんなわけで、日本政府が「朝鮮人学校」を「無償化の対象から外した」のは、「朝鮮人差別」の問題というよりは、「独裁政治批判」の問題なのではないだろうか。そんなものを肯定的に教育している学校まで、優遇措置の対象にするわけにはいかない、と。

言い換えれば、日本の「朝鮮人学校」が、「金一族による独裁体制」を支持せず、単なる「歴史的事実」としてだけ教育し、それへの肯定も批判も、同等な「意見」として扱うような教育をするのであれば、指定しない理由など、無くなるのではないだろうか。

そこまでやっても「民族教育そのものが、けしからん」というのであれば、それは正真正銘の「民族差別」と言えるのだが、今の「朝鮮人学校」に、他の朝鮮人学校や主流派コニュニテイーから「裏切り者」「売国奴」と言われてまで、「金一族による独裁体制」への擁護姿勢を捨てることなどできるだろうか?

もちろん、そんなことはできない。なぜなら、彼ら自身も「ただの人間」だからだ。
日本人の多くが、戦時中に祖国に盾突くことができなかったように、異国の地で孤立して生きている彼らには、たとえ祖国の現政治体制に問題があることを内心では認めていたとしても、やはり、それにあからさまなかたちで盾ついて、異国の地で、同胞としての仲間を失い、孤立してしまうのは、どうしようもなく恐ろしい、ということなのではないだろうか。

当然のことながら、この映画の中では「金一族による独裁体制」を批判するような内容は、皆無である。
一方、2021年韓国・文在寅政権下での作品、つまり「南北和解」政策下で制作された作品らしく、「南北朝鮮の統一」という「理想」については、何度か触れられている。

金正恩文在寅板門店での歴史的な握手)

したがって、この映画を作ったのは、韓国のスタッフなのだが、その立ち位置は「南北統一」であり、当然のことながら「南北統一」がなされたあかつきには、北朝鮮側の「民主化」も可能だ、というスタンスなのではないだろうか。
まずは、「政治的な立場の相違」ではなく「民族の統一」という念願が果たされなければならない。そして、それが果たされたならば、南の主導で、北朝鮮の近代化としての民主化も可能であろうという「希望的観測」の下に、この映画は作られているのではないか。一一だから「南北和解」が「理想」として強調される一方、「金一族による独裁体制」を批判するような内容は皆無、ということになるのであろう。

もちろん、民族分断という悲劇に遭い、実際に家族親類縁者と引き裂かれた経験をもつ朝鮮半島の人たちが、まずは「民族の統一を」と願う気持ちは理解できる。

だが、だからと言って「誤魔化しはダメだ」というのが、私の立場だ。

要は、あなたたちだって「金一族による独裁体制」が好ましいものとは思っていないでしょう? 一一ということである。

その「本音」を隠して、日本政府は「朝鮮人学校を差別している」とか「罪もない朝鮮人学校の子供たちを、差別して泣かせている」などと言ったところで、それは「問題のすり替え」でしかなく、十分な説得力を持ち得ない。

つまり、「安倍晋三政権」に代表される「日本の差別政治」があるというのは事実であり、と同時に「朝鮮人学校が、金一族の独裁態勢を擁護している」というのも、事実なのだ。
だから、問題を解決するためには、相手の問題点を指摘するばかりで自分たちの問題点には口をつぐむといった、ご都合主義であってはならない。それでは、「冷静な第三者」の支持は得られないだろう、ということなのだ。

もちろん、この映画でも描かれたとおり、例えば、国連人権高等弁務官事務所は、日本政府に対し、在日朝鮮人に対する差別的な扱いについての是正勧告を何度も出しているし、それは「客観的第三者」の意見だとも言えるだろう。そもそも日本という国は、朝鮮人に限らず、(社会的に高い地位を有しない)すべての外国人に対し、差別的なのである。

(収容中のスリランカ人女性死亡、出入国在留管理局の元幹部ら13人を再び不起訴…捜査は終結)
(外国人は弱者? 「奴隷制度」を続ける企業の愚行)

だが、同時に、国連人権高等弁務官事務所は、北朝鮮に現体制に対しても、人道的な見地から、その問題を指摘し、何度も是正を求めているというのも、明らかな事実なのだ。

つまり、要は、自分たちに好都合な側面だけを問題にし、不都合な部分はついては、口に緘して隠しているようでは、相手の弱点を相互に突き合うだけの、見苦しい争いにしかならず、問題の解決にはならないし、第三者からの、全幅の「理解」や「支持」が得られることもないだろう、ということなのである。

 ○ ○ ○

私は、「読書」や「映画」などを扱った各種のレビューにおいて、次の言葉を、しばしば引用する。

「SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである」

これは、SF作家シオドア・スタージョンの有名な言葉だが、その意味するところは「なんであれ、優れたものとは、全体の1割程度であり、そうでなければ、ことさらに優れたものだと思われることもない。言い換えれば、残りの9割は、どんなものであれ、大したことのない、凡庸なものなのだ」という意味である。

そして、そうした観点から言うならば、「日本人の9割は、何も考えていない馬鹿であるが、朝鮮人の9割も、同様の馬鹿である」ということになるし、これをさらに言い換えれば「日本人の9割は、自分の都合しか考えていない卑怯者であるが、朝鮮人の9割も、同様の卑怯者である」ということになる。

だから、この9割に属する、日本人と朝鮮人が、どんなに「イカサマな議論」をしたところで、問題を解決することなどできないだろうというのは、理の当然なのだ。

したがって、難しい問題であればこそ、「肉を切らせ」る覚悟がないかぎり、相手の「骨を断つ」ことはできないだろう。
口先でだけ、いかにご立派そうなことを語ったところで、自分は傷一つ負いたくないという屁っ放り腰で、物陰に隠れているのでは、まともな立ち合いなどできないのは当然である。

だから、私が「人間」として、「高校無償化不指定取り消し裁判」の関わる人たちに言いたいのは、厳しいことかもしれないけれど、「金一族による独裁体制」をきちんと批判して、そこから距離を取った上で、当たり前の「権利」を主張すべきだ、ということである。

あなたたちだって、「金一族による独裁体制」下において、どれだけの「同胞」が飢え死にさせられたのか、その独裁体制維持のための犠牲にならなければならなかったのかを、知らないはずがない。
なのに、その「同胞の犠牲」には目を瞑ったまま、自分たちの「権利」だけを主張するのは、卑怯なのではないか。同胞の犠牲者たちに顔向けできないのではないかと、そう言いたい。


もちろん、私のこの要求は、過酷なものであり、あなたたちにとっては、いっそ「非現実的」なものであろうというのは、わかっている。
だが、自分の卑怯さを棚に上げて、他人の卑怯をいくら論ったところで、説得力を持ち得ないというのは、厳然たる事実なのだ。

私個人としては、あなた方に、どんどんと「日本」を「日本人」を責めてほしい。批判してほしい。
私が、やっているようにだ。

しかもあなた方には、私にはない「被害者」としての権利があるのだから、本来ならば、私以上に厳しい批判ができて然るべきなのだ。
にもかかわらず、現実には、その批判が「子供たちをダシにした、同情喚起型」のものでしかあり得ないというのは、あなた方自身に、「論理(道理)」に徹することのできない「やましさ」があるからだ、としか思えない。

(映画でも、この種のシーンが多用されていた)

「日本」を「日本人」を批判するのは良い。当然のことだ。
しかし、それと同時に、「祖国」を「自分自身」を批判しなければならない。それをしない人に、他人を非難する「資格がない」とは言わない。
「資格はある」のだが、それが「十全に使いこなせないから、行えない」はずだし、現にそうなってしまっている、と言いたいのである。

繰り返すが「肉を切らせてでも、敵の骨を断て」
完璧でもない人間が、無傷なまま、敵を斬り倒そうなどと、厚かましいことを考えるな。「正義」を貫くには、多少なりとも、そうした捨て身の覚悟が必要なのである。

 ○ ○ ○

以上は、私の現時点での意見である。

これが「間違っている」とか「この部分に考察や理解が足りていない」という人は、ぜひご意見をお聞かせ願いたいし、ご教示願いたいと思う。

同じ「人間」として、腹を割って話そうではないか。
無論、私は、無用の遠慮などはしない。


(2023年10月31日)

 ○ ○ ○










 ○ ○ ○




 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

映画感想文