松原文枝 『ハマのドン 横浜カジノ阻止をめぐる 闘いの記録』 : 「浪花節」でも「ニヒリズム」でもなく
映画評&書評:松原文枝『ハマのドン』(映画&集英社新書)
映画が終わると、盛大でもなければパラパラというほど少なくもない拍手が巻き起こった。もちろん、滅多にないことである。
私は、大阪・十三にある単館系映画館「第七藝術劇場」で、いつものとおり最前列の席に陣取っていたから、どんな人が拍手をしたのかはよくわからなかったが、少なくとも、それにつられて拍手する気にはなれなかった。
映画が良くなかったというわけではない。
本編の主人公である「ハマのドン」こと藤木幸夫(当時91歳)は、いまどき珍しく、その言葉に魂がこもっていて、実に魅力的な人物である。高齢とは言え、血色も良ければ押し出しも立派で、見るからに「ドン」そのものだ。
そして、そんな彼が、自民党員でありながら、党中央の方針に逆らって、横浜港へのカジノ誘致に真っ向反対し、最後はそんな押しつけを弾き飛ばしたというのだから、これは近来稀にみる痛快事であり、絵に描いたような「勧善懲悪のドキュメンタリー」だったと言えるだろう。要は、じつに「胸のすく映画」であった。
だが、私自身そう「評価はした」ものの、この映画を素直に楽しむことはできなかったし、ましてや、能天気に拍手を送る気になどならなかった。
いうまでもなく、その理由は、私が「カジノ(を含む総合型リゾート施設=IR)」誘致に反対していながら、それを阻止することのできなかった「大阪府民」の一人だからである。
「藤木さんはすごい。横浜市民は大したものだ」と思った瞬間に、次に出てくるのは「それに比べて、大阪はどうだ」という、忸怩たる思いなのである。
たしかに、大阪には、藤木のような「保守の大物」がいなかったというのが大きいだろう。市民運動だけなら、決して横浜にも負けていなかったろうと思いたい。
だが、大阪に藤木のような「保守の大物」がいなかったというのもさることながら、なによりも大阪では「カジノ推進派」である「維新の会」が、圧倒的な強さを誇って支持されているという事実があり、その人気を支えているのは、他ならぬ我々大阪府民なのだから、私個人が「反維新」であり「反カジノ」であったとしても、やはり「大阪の人間」として、「横浜に負けた」という思いが禁じ得ない。
勝った負けたの話ではないという意見もあろうが、やはり「大阪は、横浜に遅れをとった」とか「やっぱり大阪は、民度が低い」という、悔しい思いを禁じ得ないのだ。
だから、この映画を観て、「正義が勝った」「民意が勝った」「義理人情と筋が通った」などと、「我が事のように喜ぶ」ことなどできなかった。
私たち大阪人は「負けた」のであり、彼我の差をこの映画で見せつけられたのである。だから、この映画を、自分とは関わりのない作品ででもあるかのように「客観的に評価」して、「素晴らしかった」などという呑気な感想で済ませることなどできないし、ましてや拍手など、到底できなかったのである。
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本作の魅力とは、何をおいても、主人公「藤木幸夫」の人間的魅力に尽きるだろう。すべては、それがあってこそ成立したものなのだ。
では、藤木幸夫とはどういう人物なのだろうか?
以上は、藤木の経歴と、「カジノ阻止」に動き出すまでの大まかな流れである。
大雑把に言えば、藤木の父親は「港湾の大親分」であり、山口組3代目の田岡一雄が「港湾の仕事について教えを乞うた」ほどの人物で、昔の港湾業がそうであったとおりに、ヤクザとのつながりもあった。
しかし、息子である藤木幸夫によれば、父・藤木幸太郎は、港湾労働者の唯一の楽しみであった賭博にヤクザが入ってきて、ショバ代と称して不労所得を稼ぐようになってきたために、ヤクザとの関係を絶って港湾の発展に専心するようになり、田岡にも「山口組」を引退して、自分のもとで堅気の仕事をしろと勧めたりもしていた、というのである。
無論、このあたりの話は、今でも「ハマのドン」と呼ばれて、政財界に隠然たる影響力を持つ藤木幸夫が、実父について「息子」の立場から語っていることだから、そのまま鵜呑みにできるとは、私は思わない。
しかしまた、では、藤木幸夫が、所詮は「港湾の大親分」であり、親の跡目を継いだ「ヤクザまがいの人物」かと言えば、そう単純な話でもない。
上の「Wikipedia」の記述を見て貰えばわかるのだが、藤木は若い頃「共産党員」だったのだが、のちに転向して、自民党結党(1955年・昭和30年)の際に自民党員となっている人物なのだ。つまり、単純に「ヤクザの親分の息子」などではなかった、ということである。
(ちなみに、松原文枝による映画『ハマのドン』と同名著作では、藤木が「元共産党員」だった事実には触れていない。たぶん意識的に触れなかったのであろう)
ともあれ、若い頃の藤木は、決して「保守」的な人間ではなく、むしろ「リベラル」だったという事実は、映画でも同名書でも紹介されている。
例えば、同名書において松原は、藤木が若い頃から「筋金入りの読書家」であったという事実を紹介した上で、次のように書いている。
これだけではない。
藤木は、地元の不良少年たちを集めて野球チームを作り、野球をするだけではなく、「本を読め」と課題を出し、そのメンバーで定期的に読書会や意見発表会(討論会)を開いて、自分の考えを臆さずに口にできる人間の育成を進め、さらにはその野球チームで、地域の夜回りや道路の舗装までやったというのである。
そして、その野球チームは、代を重ねて今も続いているというのだ。
無論、映画や同名書の中では指摘されておらずとも、こうしたことは、藤木が「ハマの大親分」の息子だったから可能だったというのは、言うまでもないことだ。
だが同時に、「ハマの大親分」の息子であっても、それを嵩に着るようなバカ息子であったなら、こんなことなどしなかっただろうことも明白で、むしろ、そんな(「財・力」に)恵まれた境遇にありながら、このような「まっすぐな理想」を持った青年に育ったというのは、もしかすれば、当人の言うとおり、父親が「ヤクザと縁を切って、ハマの発展に努めた、立派な男」だったからかもしれない。
また、そうでなければ、親父の方だって、息子にこんな「赤」めいたことを、勝手にやらせてはいなかっただろうし、息子の方だって、単なる「親への反発」で、若いうちから、ここまで徹したリベラルになどなれるものではなかったはずなのだ。
ともあれ、藤木が、若い頃は、理想主義的な左翼青年であったというのは、ほぼ間違いのないところであろう。
また、そんな藤木が「転向」して、自民党員になったのは、たぶん「戦後の共産党における、路線対立による混迷」に幻滅したのであろうというのも、容易に推察できる。当時の共産党の「暴力革命」路線に反発したのではないだろうか。
理想主義者であればこそ、コミンテルンの言いなりであった日本共産党の「暴力革命」路線に幻滅し、それでも、現実に世の中を動かしていくには、「民主主義」と同時に「現実的な力」が必要だと考えて、当時の冒険主義的な共産党とは真逆の「自民党」の中にその可能性を見出し、父の仕事を継いだ、というようなことではなかったろうか。
この映画でも「保守」という言葉が、いささか曖昧に使われているが、リベラル保守の論客である中島岳志も指摘しているとおり、「保守」というのは、本来「反動」を意味するものではなく、「反急進主義(反冒険主義)」であり「堅実主義」である。
だから、「保守」らしい「根回し」も何もなく、いきなり「トップダウン」で「横浜にカジノを作ります。これは党の決定事項ですので、よろしく」といった「コミンテルン」式のやり方をされたら、「保守」として反対するのは、むしろ当然なのだ。
「保守」というのは、本来は「慎重居士」の思想なのだから、「美味しい話」に飛びついたりしないというのは、「革命の理想を、そのまま真に受けない」というのと、同じ態度なのである。
しかしまた、だからこそ「保守」は「力」を重視する。
「抽象観念」としての「理想」を真に受けないのが「保守の保守たる所以」であり、だからこそ「実力が伴わない反抗(冒険)」はしない。「力」をつけるまでは、時に権力に媚びさえするのが「保守」なのであり、それがどうしても嫌なのが、「革新」であり「左翼」なのだ。
「革新」の「革」は「革命」の「革」であり、それは「古き覆いを(一気に)取り払う」ということであり、自ずとそれは「性急」なものなのである。
つまり「段階を踏んで、力をつけてからなんて、呑気なことは言ってられない。いま現在も、目の前には苦しんでいる人がいるのに、今はまだ無理とか言ってられるものか。やれるかやれないかは天命である。われらはやるのだ、今やるしかないのだ」というのが「革新の志」というものなのだ(だから、今の日本共産党は「革新」ではなく「改良」である)。
だが、「革新」は「左翼」は「(いわゆる)リベラル」は、近年、そうした「意志先行」において敗れ続けてきた、ということを忘れてはならない。
今回の横浜の場合は、たまたま藤木のような「大親分のリベラルな息子」という「珍種」が存在したから、たまたま勝てたと言っても過言ではない。
「主権在民」という建前だけで勝てるのであれば、例えば沖縄が、長年、政府権力のやりたい放題に我慢を強いられてきたわけがないのだ。
くり返して言うが、今回、横浜がカジノ阻止をなし得たのは、「実力」のある藤木がいたからであり、「義理人情を大切にする人」がいたからではない。
「義理人情を大切にする人」が百人いたって、その人たちに藤木のような「実力」がなければ、政府に押し切られたことだろう。
だから私たちは、事実として藤木がいかに立派な人であろうと、単に藤木個人を讃嘆して満足するのでもなければ、「あれは例外だった」と賢しらにシニカルを気取るのでもなく、藤木がいなくても「負けない」ためには、どうしれば良いのかを考えるべきだろう。
この映画を見て「胸がすいた」と、いくら拍手をしたところで、大阪に「藤木幸夫」が現れるわけではない。
だからこそ、むしろ私たちが考えなければならないのは、「藤木抜きでも勝てる」方法なのではないだろうか?
無論、それが容易なことでないのは、大阪の現在が証明している。
私たちが、目を据えなければならないのは、藤木のような「例外」ではなく、維新を支持する「多数派」の方なのである。
それがいかにうんざりするような現実であろうとも、負けるものかという意地があるのなら、私たちは藤木幸夫のような僥倖に逃避していてはならない。
彼はまもなく死ぬだろう。そのあとに、横浜に「第二の藤木」は登場するだろうか?
大阪人である私が、横浜の人たちに言えるのは「こうなりたくなかったら、第二の藤木を育てよ」ということだけなのであろう。
そしてわれわれ大阪人が考えなければならないのは、いかにして藤木のような「実力者」を生み出すか、ということなのである。
(2023年5月30日)
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