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青木理 『暗黒の スキャンダル国家』 」 : 〈左翼〉とは何か : 青木理 論

書評:青木理『暗黒のスキャンダル国家』(河出書房新社)

安倍晋三総理の周辺者や、総理の支持者である「日本会議」関係者や「ネトウヨ」といった人たちにとっては、本書の著者である青木理は、きっと「パヨクの代表」ということになるだろう。これは極めて「名誉な称号」である。

自慢話になってしまい恐縮ではあるが、かく言う私も、ずいぶん以前から「売国奴」「工作員」「パヨク」などという、最大級の賛辞を贈られてきた人間である。
しかし、彼らの「妄想的願望」にも関わらず、私は「残念ながら日本人」なのだ。彼らと同じ「日本人」だというのは、外国のかた達の視線を意識した場合、残念ながら、かなり恥ずかしい事実なのである。

それにしても、彼ら「ネトウヨ」系の人たちが言う「パヨク=左翼」とは、いったいどういうものなのだろうか。
本書で、青木はこんなことに書いている。

『 そうした(※ 近代主義に立脚した、私のような、合理的な)考えを政治的には「進歩主義」と呼ぶのでしょう。合理性や人間の理性などを重視し、不合理はあらためてるべきだと考える。一方、「保守主義」は違います。
 ごく簡単に言えば、多くの人々が積み重ねてきた伝統や慣習といったものは、それなりに意味のあることだと考え、重んじる。もちろん時代や状況に合わせた変化は必要にせよ、最小限にとどめる。東工大教授の中島岳志さんは、そうした「保守」のありようを「永遠の微調整」と評しています。』
 (本書P230「元号の警告」より)

つまり、前者が「左翼」であり、後者が「保守・右翼」だということで、この定義は、どちらの見方にも偏らないバランスのとれたものであり、かつごく一般的な定義だとも言えるだろう。
そして、ここで青木自身も認めているとおり、青木の立場は「進歩と合理性と人間の理性」を信じる「左翼」の立場なのだから、これは「保守・右翼」に対して、きわめて公正な評価だと言えよう。

安倍政権周辺を含む「ネトウヨ的(自称)保守」は、自身を「人間と社会の現実に対して謙虚で慎重なリアリズムに立脚した、保守」だと自己賛美的に主張をする一方、彼らは「左翼は、人間の理性とそれに基づく進歩主義という夢に酔った、冒険主義的破壊主義の愚か者たち」だと、極めて「感情的な評価」を下す。
そうした「ネトウヨ的(自称)保守」の独善的な態度に比して、青木の「保守」評価は、きわめて「公正で理性的」なものなのである。

無論これは、青木が「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」を区別して、「(真正な・本来の)保守(主義)」に対しては「一定の肯定的評価」を与えているからなのだが、しかし、「思想」というものの内実を、厳密に見ていくならば、「(真正な・本来の)保守(主義)」と「ネトウヨ的(自称)保守」の「共通点」であり、その「問題点」を、あっさりと看過して、「ネトウヨ的(自称)保守」に対し、「あなた方は、真正な・本来の保守ではない。エセ保守なのだ。偽物なのである」と言って済ませてばかりいるわけにはいかない。

(「進歩」は置くとして)「合理性と人間の理性」を信じる「左翼」ならば、両者(二つの「保守」)に共通する「保守の問題点」を、きちんと理解し把握しておくべきだからだ。

ならば、「保守(そのもの)の問題点」とは何か。
それを考えるには、左翼の能動性を受けて初めて存在し得る、受動態としての「保守」というものの本質を考えるために、まずは「左翼の本質」を見直さなくてはならない。
つまり「左翼」とは、「進歩と合理性と人間の理性」に尽きるものなどではない、という見落とされがちな「本質」の再確認が必要なのだ。

なぜ「左翼」は、「進歩と合理性と人間の理性」を信じるようになったのであろうか。
それは、キリスト教に代表される「宗教的権力」や「世俗権力」が、「権威」を独占して、「今の世のかたちこそ、神の祝福を受けたもの(社会形態)である。したがって、これを変えることはできないし、変えてはならない」としていたのに対し、「こんな世の中が、神に祝福されたものだとは思えない」と考えた人たちが生まれてきたからである。
では、なぜそのように考える人たちが出てきたのかと言えば、それはその社会の中に「弱者」がいたからである。

「なぜ、神がいるのに、理不尽にも、これほど不幸な人たちがいるのか」という、当たり前の(ヨブ的な)疑問。「神はすべての人を愛しているはずなのに、不幸な人がいるのはおかしいではないか(ましてや、不幸な善人がいるのは理不尽ではないか)」という、当たり前の疑問である。
これに対して「宗教的権力」は「それは試練である」とか何とか、大衆騙しの理屈を捏ねてきたのだが、近代主義的な科学的学問知が普及するに従い、そんな子供騙しは徐々に通用しなくなり、人は「理性」にもとづいて「合理的」に考え、それに沿って行動することで「社会を変えることが出来る=弱者を救うことが出来る」という「社会変革的な進歩」の可能性と合理性を、経験的事実として知ることになったのだ。

つまり、ここで私が強調したいのは「左翼の根底にあるのは、弱者への同情と、それを放置する権力への怒り」だということである。「左翼の本質」とは「同情と怒り」なのだ。

では、それに対しての「保守」はどうなのか。
彼らに欠けているのは、まさに「弱者に対する同情と、弱者を放置する権力に対する怒り」である。
だからこそ、彼らが「保守」するのは「既得権益(既成権力)」になってしまう。「既得権益」を守るためには、左翼的な新勢力に妥協しての「変化や微調整」も避けられないだろうが、しかし、それは「弱者(救済)」を意識してのものではなく、あくまでも、社会の主流である自分たちの「既得権益体制」を崩壊させないための「妥協」でしかないのだ。
彼ら「保守」主義者には、「革命でも起きないことには救われない、大勢の弱者(階層)」の存在が、ほとんど見えていないし、そもそも興味が薄いのである。
(そして、一方の「左翼」の場合は、かなりのリスクを犯してでも、大きな「社会的外科手術」を行わないかぎり、金輪際、救われないことのない人たち〈=社会的階層〉の姿が、切実なものとして見えているからこそ、時に「革命」を叫んだりもするのだ。「それ以外に、彼らを救うどんな手立てがあるのだ」と。)

現に、真正な「保守」思想を代表し、その原点ともなったエドマンド・バークにしろ、それに続くマイケル・オークショットやT・S・エリオットらにしても、あるいは日本の小林秀雄や福田恆存にしても江藤淳にしても、彼らに共通しているのは、「個人」よりも「(自分たちの)共同体」を「保守」しようとする意識のあり方である。
つまり、彼ら「社会的上流意識あるいはエリート意識の持ち主」には、「弱者(という他者)への同情」の意識が薄いのだ。

彼ら「保守主義者」は、「個人よりも共同体」「共同体あっての個人」だという、リアリズムに立っている。しかし、それは一見、理性的な判断に基づく「リアリズム」にも見えようが、所詮は、人間的な「趣味嗜好」の問題でしかない。
言うまでもなく、「左翼」とて「共同体」の重要さは十二分に理解している。だからこそ「共同体」を、より良きものに改善して「進歩」させなければならないと考えるのだが、その根底にあるのは「そうしないと、弱者(個人)が救われないからだ」という「感情」が強烈に存在しているのだ。

つまり「左翼」には「弱者への同情」という強固な感情がベースにあって、だからこそ「共同体=社会」を改善しなくてはならない、ということになる。
言い変えれば「共同体より(以前に)個人」であり「個人あっての共同体」なのだ。
ところが「保守」には、「左翼」のような「弱者への同情」が希薄であるから、真逆の「(自分たちの)共同体あっての個人(という他者)」ということになってしまうのである。

したがって、「保守は現実主義のリアリズムであり、左翼は同情主義的な観念的冒険主義」だという見方は、「保守」に偏った見方でしかない。
厳密には、両者(保守と左翼)の違いは、「感情(論的タイプ)」の違いなのである。

「弱者」を見て「社会には常に弱者が存在するし、それは避けられないことだ」という「理屈」だけで、感情を動かされることも少ないのが「保守」の「リアリズム」の正体であり、「弱者」を見て「たしかに社会には、常に弱者がいるかも知れない。しかし、目の前で苦しんでいるこの人たちを、そんな理屈で看過することなど出来るはずがない」と考えてしまうのが「左翼の本質」なのである(新約聖書「善きサマリア人の喩え」参照)。

「左翼思想」や「保守思想」を中途半端に学んだ人は、両者を「理想主義と現実主義」「観念論とリアリズム」といった具合に考えがちで、これもあながち間違いではないのだけれども、こんな簡単な要約で、事の本質を語りきれるわけもない。しかしまた私たちは、こうした「ステレオタイプ・紋切り型」で「左翼思想」や「保守思想」を見がちであり、見誤りがちなのである。

だからこそ、繰り返し言うが、「左翼の本質は、弱者への同情」なのだということを、私たちは再度、はっきりと認識すべきなのである。
それ(左翼思想)とは、単なる「観念論」でも「感情論」でもない。それは人間の「本質論的タイプ」なのだ。

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そして、こうした視点から、本書の著者である青木理を見るならば、彼が「典型的な左翼」であり、「ネトウヨ的(自称)保守」に言わせれば「典型的なパヨク」であるということになるのは、理の当然だし、完全に納得もできる。

つまり、青木理という人は「同情と怒り」の人なのだ。
「弱者の悲しみに心を寄せ、弱者を踏みにじる権力に怒りを向ける」人、それが彼なのである。

その意味で、「左翼」や「パヨク」と言った称号は、まったく恥じる必要のないものだし、まただからこそ青木も、それを毛筋ほどにも恥じてはいないのだ。

したがって、私たちも「弱者への同情と権力者への怒り」といった「わかりやすい感情」を恥じる必要はない。

ただし、「感情だけの馬鹿」であってはならない。私たちは、この「弱者が踏みにじられる現実」に何度でも立ち戻り、それを直視した上で、しかし「弱者への同情と権力者への怒り」という原点に立って、「安易な現実主義」と闘っていかなければならないのだ。

『 私自身も今回、この文章群をあらためて読みかえし、気づかされたことがいくつもあった。
 これはメディアやジャーナリズムにかかわる者たちの悪弊でもあるのだが、日々新たに生起する出来事や問題に追われ、没頭し、あるいは翻弄されているうちに、以前の出来事や問題がそれに上書きされ、記憶や問題意識が薄れ、いつのまにか過去のものとしてしまう。(中略)
 しかし、決して忘却の箱にしまいこんでしまってはならない問題はいくつもある。と同時に、さまざまな問題や出来事は相互に連関し、影響を及ぼしあって起きてもいる。最近数年間の文章を読みかえしながら私もそれを痛感したのだが、この時評集を手にしてくれた1人でも多くの読者が同じ感覚を抱き、さまざまな記憶を喚起し、思考を整理し、問題意識を再共有してくれるなら、著者としてこれに勝る幸せはない。』
 (P252「あとがき」より)

私たちは「弱者への同情と権力者への怒り」に立っているつもりでいる。しかし、本書を読みかえすと、そう言えば「あれもこれもこれも、すっかり忘れていた」という事実に気づかされるだろう。つまり、私たちにしたところで、深く「弱者に寄り添う」ことが出来ているわけではないのかも知れない。

そんな自戒をあたえてくれる貴重な「記録」として、私も著者とともに、本書を多くに人に薦めたいと思う。
私たちに必要なのは、「目新しい話(新情報や裏情報)」ばかりではなく、「忘れてはならない話」なのだ。
私たちは、何度でもそこ(弱者の現実)に立ち返って、そこから声を発しなければならないのである。

初出:2019年10月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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