大村大次郎 『世界で第何位? 日本の絶望 ランキング集』 : この現実を「再確認」せよ
書評:大村大次郎『世界で第何位? 日本の絶望 ランキング集』(中公新書ラクレ)
本書は、現在の日本が、いかに酷い状況にあるのかということを客観的に示すべく、主に先進国(OECD加盟国)との統計的な比較ランキングによって、「日本は第何位?」というかたちで端的に示し、そのうえで「なぜこんなことになったのか」について、著者の見解とその処方箋を示したものである。
ただし、タイトルにも『絶望』とあるだけあって、日本の置かれている状況は「絶望」的であると言って良い。
では、そんな「絶望的状況」に対し、どうして著者にその処方箋が書けるのかといえば、それは「処方箋は書けても、肝心の患者が、その薬を飲まないだろう」という点に、最大の問題が残されているからである。
例えば「今の日本には、これこれという問題がある」とし、その上で、その処方箋は「税金を、そんな無駄なところには使わないで、こちらに使えば良いのだ」といったものが、著者の示す「処方箋」だ。
だが、それがいかに正しい「提案」であり「処方箋」であり、それをすれば問題が解決するのがわかっていたとしても、しかし現実にはそれが、決して為されないというのは、社会における病理現象の多くは、それで「個人的な利益」を得ている者が、確実に存在するからである。
そうした者たち(政治家、官僚、企業、その他の個人)は、自分の行いによって日本社会が蝕まれているのを、半ば以上知っていながら、あれこれ自己正当化の言い訳を連ねては、自分たちの「既得権益」を守ろうとするためである。
わかりやすい例で言えば「官僚の天下り」なんかが、その典型であろう。
建前は別にして、実態は「利益誘導」のために関係省庁のOBを招き、そのコネで企業が「ズル」をしようとことでしかない。
そしてこの事実は、その企業が重々承知の上でやっているというのは無論、天下りする官僚自身にもよくわかっている。自分が、その天下り先に「何を求められている」のか、それはおよそ「社会的な公正さを欠く行い」だというのも、よくわかっている。わかっていて、それするのは、要は「天下り」は、官僚の「既得権益」となっているからである。
だから、彼ら自身も「天下り」の本質が「社会的に不公正な行為」だとわかっていても、それを自制する者はほとんどいない。
なぜなら、官僚が出世を望む理由の大半は、今や「天下国家」のためではなく、自分自身の生涯にわたる「経済的安寧」のためだからだ。
「公務員」というのは、現役時は、身分と生活が保障されている。ただし、給料が安い。公務員の中で出世したとしても、出世しなかった者と、給料においては、さほど大きな格差はない。
例えば、警察官だと、下から「巡査・巡査部長・警部補・警部」という階級になっており、ここまでは「地方公務員」である。その上は「警視・警視正・警視長・警視監・警視総監」となっていくのだが、この「警視以上」は「国家公務員」である。
つまり、「警部」から「警視」になると、「地方公務員」から「国家公務員」に身分が切り替わり、給与体系も変わってしまう。すると、「地方公務員としての警察官」として最上級である「警部」の時の給料と、「国家公務員としての警察官」として最下位である「警視」とでは、なんと「警視」の方が「基本給が安い」という逆転現象が起こってしまうのだ。
これは、公務員というのは、地方公務員にしろ国家公務員にしろ、身分が保障されているため、おのずと「出来高払い」にはなっていない、からである。つまり、基本的には「成績を上げたから、給料をたくさんもらえる」とか「昇任して重要なポストについたから、給料がたくさんもらえる」というふうにはなっていない。
公務員の仕事というのは、上から下まで「それぞれの立場で受け持った仕事を、国民のために誠実にこなす」というのが基本的な考え方であり、言い換えれば「成績(数字)を上げる」ことが目的であってはならないし、その意味では、組織管理上の「階級」はあっても、国民の立場からすれば、誰が「偉い」のかと言えば、それは「国民のために働いてくれる人」が偉いのであって、階級が上だから「偉い」ということにはならないのだ。一一少なくとも、その本質においては。
したがって、地方公務員にしろ国家公務員にしろ、その内部では「給料格差」が、民間に比べると極端に少ない。「出世して金儲けのための仕事をする」のではなく、「国民のために、与えられた職務に精励せよ」というのが建前なのだ。
しかし、では、公務員になる者が、皆「国民のために働きたい」と思って、公務員という職業を選ぶのかと言えば、無論そうではない。まずは「自分の食い扶持を稼ぐため」というのが大前提にあった上での就職であり、その上で「国民のために働く」という「理念」や「理想」がある。
もちろんそれを、本気で真面目に考える「立派な人」も、中にはいる。だか、現実には、それはむしろ「例外的な存在」でしかないだろう。
建前は別にして、公務員だって「人間」なのだから、「給料は安くてもいい。国民のために働きたい」などと考えて公務員を選ぶ人は、100人に1人もいないだろう。
職業として公務員を選ぶ人の多くは、まず「身分が保障されている(いかに社会的な経済状況が悪くなろうと、それで首を切られることはないから、ひとまず食いっぱぐれることはない)」から、公務員を選ぶのである。その証拠に、好景気の時期には、公務員になりたがる人は少ないが、不景気になると公務員志望者がてきめんに増えるという現実がある。
つまり、公務員になる人だって、聖人君子ではなく、当たり前の人間なのだから「自分個人の利益」を優先してしまうというのは、ある程度、致し方のないことだと言えよう。だからこそ「身分の保証・生活の安定」を求めて公務員になる人がいても、それを責めることは、ほぼ誰にもできないのである。
しかし、公務員の中に入ってしまい、「最低限の身分保証」を得て、周囲が皆、同様の人たちになってしまった場合、「その中」で「成績を上げる人も上げない人も、階級的に出世する人もしない人も」、基本的には「給料に大差はない」となった場合、「それはおかしい」と感じる人が出てくるのもまた、避けられないところなのだ。
例えば「地味で評価されにくい仕事の手は抜いて、わかりやすく数字に現れる仕事を優先する」者が出てきたとしても、それはそれなりに評価してやらないと、仕事のモチベーションが落ちてしまう。だから、褒めてやったり「賞状」を与えたりするし、昇任試験の際には、そうした「日頃の数的実績」も考慮されることになる。つまり、出世しやすくなる。
しかしながら、最初に書いたように、昇任したから、あるいは「偉く」なったからと言って、それで世間の人々は「警視さんですか、すごいですね」と言ってはくれても、さほどの給料がもらえるわけではない。当人としては「組織の中で、重責を担っているのに」「民間なら、出世すれば、そのぶん給料が目に見えて上がるのに」などと考えてしまう。なのに、そんな「理不尽」に、凡人である(聖人君子ではない)彼らがどうして堪えられるのかと言えば、それは「偉くなっておけば、天下り先ができて、退職後の身分も保障される」からなのだ。
つまり、現役時代は、肩書き相応の給料をもらえないが、しかし、退職した後には、その分を取り戻して余りあるものがあると、そう思うから、公務員の中でも「給料に反映されない出世」を望む者が、後を絶たないのである。何も闇雲に「偉くなりたい」とか「人から尊敬されたい」とか「指示されるより、人を指示する立場になりたい」とかいった、幼稚な理由で「出世」したいわけではないのだ。
一一そんなわけで、出世を望む公務員というのは、基本的に「天下り」は「当然の権利」だと思っている。それ相応、現役時代に努力して出世したのだから、その分を返してもらうのが「天下り」であって、それは「薄給の公務員にとっては、当然の見返り」だと、そう考えられている。
「世間」は、そうは考えていないし、「建前」的にも、そう主張することができないというのは重々承知していながらも、やはり「もらえるものはもらいたい」「みんなそうして来たんじゃないか」という「自己正当化の自己暗示」によって、「天下り」という不正行為を受け入れてしまう。
人間的には、それなりに立派な人、人格者と呼ばれる人でも、「当然の権利」であるかのごとく、目の前にぶら下げられた「エサ」を拒絶することは、決して容易なことではない。
現役時代は「警視正である署長さん(または、それ以上)」だとかなんだとか言われて、下にも置かない扱いを受けても、退職しまえば、ただのおじいさんおばあさんである。相応の退職金や年金があるとは言え、それ以上のものはない。
「署長さん」として、下にも置かない扱いを受けていた現役時代を思い返せば、多少の差こそあれ、大雑把に言えば、巡査で辞めた人と大差のない老後というのは、多くの場合、「出世した人のプライド」として、受け入れがたいということにもなる。つまり「自分には現役時代の待遇を、退職後にも保証される権利がある。それだけのことをやってきたのだから」と考えるようになる(だから、警友会などといった、階級をそのまま残したOB会を組織したがる)。
そんなわけで「世間は何もわかっていないようだが、天下りは、われわれ出世した者の、当然の権利」だということにもなるのである。
そして、以上では、わかりやすく「警察官」の場合を例にとったが、これは他の役所だって、まったく同じであり、ましてや「天下国家を動かした」という自負を持っている「高級官僚」は無論、そこまではいかないまでも、それなりに出世した者は、「天下りの恩恵」を拒否したりはしない。
もちろん、1,000人に1人くらいはそういう「聖人君子」もいるかもしれないが、そういう人は、組織内的には、「尊敬される」どころか、「当然の慣例に異を唱える、傍迷惑な変わり者」扱いにされたりするのである。
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したがって、本書で著者が「まず、天下りを徹底的に無くさなくてはいけない」と、まったくの「正論」を主張したところで、「現場」レベルでは、そんな意見は見向きもされないというのが、日本の現実なのである。
「論理的正当性」を重視する国民性を持つ国であれば、「正論」が一定の力を持つこともあるだろう。だが、日本のような「空気」だの「世間」だの「人情」だの「慣例」だのを重視するお国柄では、「正論」というのは「論としては正しくても、現実的ではないもの」としてスルーされ、黙殺される。
一一その結果が、このままではダメになるというのがわかっていながら、目先の「既得権益」のために、少しも変わることのできない日本の「絶望」的な状況だと、そういうわけなのだ。
繰り返すが、著者の主張は、まったく正しいのだけれども、それを主張するだけでは、日本は変われない。
では、著者はどうして、このような「正論」を語るのかと言えば、「正論」を通す世の中を作らないかぎり、日本の将来は「絶望」的だからである。
「やれない」「できない」「やっても無駄」だなどと、他人事のように、呑気なことを言っていられない現実がすでにあるからこそ、そうした「絶望的状況に鈍感になってしまっている日本国民一般」に対して、「このランキングを見て、目を覚ませ」「わかっているつもりになっているだけではダメなんだ。利口ぶっているだけではダメなんだ」ということで、わかりやすい「ランキング」を、日本国民の前に突きつけているのである。
したがって、本書に書かれているようなことは、少し「問題意識」のある者にとっては、むしろ常識に類することであろう。決して「目新しい情報ではない」のだ。
だから、本書を「つまらない」と感じる人も少なくないだろうが、本書の狙いは、暇人に「知的満足を与える」ことではない、というのは前述のとおりである。
「目新しい知識」をかき集めて、それで満足しているだけでは、当然のことながら、日本は良くならない。いや「救われない」に決まっている。
したがって、本書は、単なる「知識を増やして、知的満足を得るための本」などではない。
「この悲惨な現実に目を向け、目を覚ませ」という趣旨のものなのだからこそ、「知的満足」という個人的な欲望に眠り込んでいる人には、かえって本書の趣旨が理解しえない、ということなのである。
したがって、私が本書を、わざわざ購読したのも「知識が得たかったから」ではない。
知っているけれども、できれば「目を背けていたい現実」をあえて見る、ということを、自分に強いたのである。
無論、私はすでに還暦を過ぎており、妻子もないから、日本がこの先も凋落を続けようと、それなりに逃げ切ることも可能だろう。たとえ、年金が削られようと、預貯金に課税されようと、それでも、いきなりくびり殺されることなどないだろうからである。
しかし、だからと言って、今の日本の悲惨な現実を「もう、自分には関係ない」とは思いたくない。「逃げ切った」などとは思いたくない。なぜなら、それはあまりにも「美しくない」姿だからだ。
残された人生を考えればこそ、やはり私は「理想」や「正論」を語らずにはいられない。そちらの側に立って、物申すという「義理を果たす」ことをしないわけにはいけないのだ。
私は、晩節を汚す「天下り官僚」のような最期を送りたくはない。人には褒められなくても、時には嫌われてでも、自分で自分が褒められる人間として、最期の時間を送りたいと願っている。
だから、本書を読むことを、自身に強いたのである。
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最後に本書の「目次」的内容を、Amazonページから紹介しておこう。
後半に紹介されている「ランキング」の中で、今の日本は、どれが上位で、どれが下位なのかを、考えてみると良い。
例えば、「表11 人口1000人あたりの病床数」では、日本は「世界一」である。その一方「表14 人口1000人あたりの医師の数」は、先進国の中で「第32位」だ。
これは、どのような事情によって出来したものなのか? またその結果、どのような問題が惹起されているのかを、考えてみると良い。
そして、もしもそのあたりをハッキリと説明できないのであれば、本書を読むべきであろう。きっと「やっぱりなあ」ということになるはずだが、その「確認」作業こそが、今こそ必要なのである。
(2023年10月9日)
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