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石原大史 『原発事故 最悪のシナリオ』 : 日本的な、余りにも日本的な。

書評:石原大史『原発事故  最悪のシナリオ』(NHK出版)

本書は、テレビ番組「NHK・ETV特集 原発事故“最悪のシナリオ”~そのとき誰が命を懸けるのか~」の内容に、収録できなかった部分と追加取材を加えた、ノンフィクション作品である。

このテレビ番組の出発点は、「原発事故」対応のための「最悪のシナリオ」の存在の有無であり、それが存在したのなら、それは「いつ・どこで・誰によって・どのような理由で」作成されたものなのか、といった疑問である。

本来「最悪のシナリオ」は、事前に準備されていて然るべきもののはずだが、実際に、事故当時の民主党政権・菅直人首相に届けられた「最悪のシナリオ」は、事故発生後に作成され、事故の2週間後に、首相の下に届けられていたものであることが確認された。
その「最悪のシナリオ」は、首相自身が、その必要を感じ、原発に詳しい学者に作成を要請したものであったが、それにしても事故後2週間というのは、事故対応シナリオとしては「あまりに遅すぎるのではないか、なぜそんなにかかってしまったのか」という「疑問」を追うところから、このテレビ番組であり、本書は始まっているのである。

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そして、結論から言うと、なぜ「最悪のシナリオ」が事前に作成されていなかったのかと言えば、それは、それが初めから、「想定外」に追いやられていたからだ。
「日本の原発は優秀だから、事故など起こるはずがない」と考えられていた。つまり「原子力安全神話」が信じられていた(と言うよりは、「幅を利かせていた」「支配していた」)から、「事故が起こるかもしれない」という発想・意見は遠ざけられ、かたちばかりの避難訓練などでお茶を濁していたために、事故の中でも、とりわけ文字どおりの「最悪のシナリオ」などというもの(禁忌の対象)を、電力会社や政府などの「原子力行政関係者」の誰も作らなかったし、それに触れようともしなかった、のである。(つまり、反原発の学者や小説家などの、非「原子力行政関係者」の間では、そういう想定もなされていたが、それを「原子力行政関係者」が考慮することはなかった、無視した、ということである)

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そして、そうした「嫌なことは考えたくない」という発想は、目の前で事故が起こってからも続いた。
つまり、「目の前の危機的事態に対して、最善を尽くす」ということはしたけれども、「目の前の事態」の先にある「最悪の事態」までは、考えようとはしなかった。
「今、最善を尽くす以上の何ができる。我々はもう手一杯なんだ、先のことまで想像して対処しているような余裕はない」という「気持ち」であり、事故に直面した「現場」のそれとしては、必ずしもわからない話ではないのだが、しかし「最悪の事態」は起こりうるものなのだから、「目の前の事態」に最善を尽くすとともに、「最悪の事態」を見据えて「先手を打つ」というのも、危機管理の問題としては「当然必要なこと」だったのだ。
だが、その備えもなかった「現場」であったからこそ、余計に「最悪の事態」を想定することができなくなっていたのである。

本書では、そんな「忌避された最悪のシナリオ」が、どのようなきっかけで作成されたのか、その裏側を明らかにしている。
その「最悪のシナリオ」作成の「動機」とは、「(原発事故に対し)最悪の事態を想定して対処しなければならないことに、やっと気付いたから」ではなく、「それ無しに、日本政府が場当たり的に事故対応していると知られたら、そのような事故対応に苛立っていたアメリカが、事故対応に直接的に乗り出してきて主導権を握り、結果として日本の国家主権を侵されるような事態になる、そんな予兆としての動きが出てきたから」だったのだ。

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アメリカの場合、「最悪のシナリオ」は事前に想定され、作成されていて当然のものだった。それが無いなどということは考えられないことであり、また「最悪のシナリオ」においては、事故を回収するための「人の命(犠牲要員)」もハッキリと想定されていた。誰がそのために命を捨てるのかが、あらかじめ決められていたのだ。

そんな合理主義的現実主義のアメリカとは違い、そもそも「最悪のシナリオ」は、想定したくないから作成もしていなかった日本の場合は、当然のことながら、「最悪の事態」への対応に「必要」となる「命懸け」を想定することもできず、「そのとき誰が命を懸けるのか」ということが、まったく考えられてもいなかった。

だから、事故の福島第一原発で、水素爆発などの発生により、放射線量の急激な上昇が予想され、「現場対応」が不能となる恐れが急速に高まり、事故対応に当たっていた東電職員の「全員撤退」が、総理官邸に打診された際、菅首相は「撤退など考えられない」「もっと命がけでやれ」という、非情とも、当然とも言える「返事」をしたのだが、あとで「法的」に考えれば、この「指示」は『超法規的なもの』だったのかもしれないと、菅自身もその「法的根拠」の無さを認めている。
それがいかに「必要なもの(指示)」であったとしても、今の日本国憲法の下では、首相であっても「国を守るために、命を捨てろ」と命令する権限を、与えられてはいないからだ。

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つまり、この菅首相への東電から「撤退」打診も、法的には「必要のないもの」だったのだ。
「原発事故」に限らず、「事故」への対応は、企業自身がやらねばならないことで、政府はその事故が「周囲」に及ぼす悪影響に対して対処するというのが、基本的な考え方(役割責任区分)であった。
事故収束の責任は、あくまでも企業側になるのだから、当然「判断責任」も、その「結果責任」も企業側にある。したがって「全員撤退」判断も東電の社長がすべきものだし、できるはずのものだったのだが、社長は、事の重大さのゆえに、自分一個の判断では無理だと考えて、菅首相にお伺いをたて、ある意味では、下駄を預けて責任回避を図った、とも言えるのである。

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(裁判を見据えたのであろう、東電側の、後の言い分)

また、そんな筋違いの重い下駄を預けられた菅首相としても、「それはそっちで決めることですよ」と突っぱねられるような状況ではなかった。
原発事故の状況は、もはや東電だけで対応できるものではなくなっており、その影響は、東電福島第一原発の敷地内にはとどまらず、日本の存亡に関わるものにまでなりつつあったから、本来、する必要のない決断を、菅首相はせざるを得ない立場に立たされて、その止むを得ない決断として「撤退など考えられない」「もっと命がけでやれ」と、非情かつ超法規的であったとは言え、当然の判断を下した、とも言えるのである。

私としては、別に菅首相を庇うつもりはない。ただ、自分がその立場だったら、どうできたかを考えれば、菅首相を責めることなど到底できないと考えるから、彼の非情さや判断の不十分さを「責めて済ませる」気にはなれないのだ。

この問題は、もちろん、東電も悪いし、政治家たちも悪いが、言って見れば「日本人全員が悪い」のであって、誰か一部の人を責めることで、他の日本人が自身を「免責」させることなど許されない。私は、そう考える。

だから、私たち日本人は、あの事故を経験して、日本人の「楽観主義的・事なかれ主義」や「空気の支配」を反省しなければならなかった。
「最悪の事態」は起こりうるものであり、「最悪のシナリオ」を必要なものである。そして「最悪のシナリオ」には「そのとき誰が命を懸けるのか」が明記されていなければならなかった。綺麗事の「人命第一」を観念的に掲げているかぎり「最悪のシナリオ」は作れないし、そこが日本とアメリカの違いなのである。

しかし、あの原発事故から20年が過ぎて、私たちは少しでも変わっただろうか?

無論、変わってはいない。
福島原発での廃炉作業は遅々として進まず、当初の予定は先延ばしされ、貯まった「放射能汚染水」の海洋投棄がまもなく開始されようとしているその一方、原発の再稼働は着々と進み、また老朽化した原発の使用年限の延長が進んでいる。一一果たしてこれで、私たちは「最悪の事態」を想定している、などと言えるだろうか。

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いったいどんな「最悪のシナリオ」があるというのだろう。あるのなら、その中身を見せてもらいたいものだし、国民はその中身を知る権利を持っている。なぜなら「国民の誰かが、命を捨てるよう命令される事態」が、そこには書き込まれているはずだからだ。
そしてそれは、私やあなたではなくても、あなたの親戚かもしれないし友人かもしれない。あるいは、縁もゆかりもない赤の他人だとしても、それは「社会的弱者」である蓋然性が極めて高いのだが、それで良いのだろうか? 「最悪のシナリオ」には「有事要員」が書き込まれているはずだが、結局のところはそれは「いざという時の捨て石として、貧乏人を雇っておく」というようなことでいいのだろうか?(米軍が、貧乏人の若者を狙って、志願兵を募るように)

しかもこれは、すでに「現実」となっていることでしかない。
誰も高放射線量下で働きたい者などいないはずだが、そんな劣悪な仕事でも、しないことには食っていけない人たちがいて、それらの仕事は、今も昔も、彼らによって担われ、私たちは彼らを「犠牲」にすることで「原子力による電力」の恩恵を受けているのである。一一その「今の現実」を、決して忘れるべきではない。

だとすれば、今後「最悪の事態」が起こった際、彼らは契約どおりに「命を捨てる」べきであろうか?
彼らが命を捨てなければ、国家の存亡に関わって、多くの国民が巻き込まれることになる。だから、彼らは「契約に基づく犠牲」になるべきなのか?

私は、そうは思わない。
そうなったら、彼らには「逃げろ」と言いたい。それで、日本が壊滅しても、それは仕方のないことだ。なぜならそれは、「日本人全員」の、自業自得でしかないからだ。

私が考えても、「最悪の事態」は事前に想定されていなければならず、そのために作成された「最悪のシナリオ」には、「そうなった時は、お前たちが犠牲になれ。それが使命だ」という部分が、必ず含まれているはずである。

それなら、その使命が与えられた人たちは「食い扶持のために結んだ契約の見返りとして、死ななければならない」のかと言えば、そんなことはないと、私は考える。つまり、私は「そんな契約など、不正で無効なものだから、逃げろ」と言いたいのである。

「フクシマ50」とか何とか、他人を「英雄」に祭り上げることで煽てながら、自分は、映画館やお茶の間でのうのうと生き延びているような「日本人」の、(東京オリンピックの強行で、救急搬送もままならないまま死んだ人たちの存在を知っていながら、金メダルに盛り上がれるような、阿呆な「日本人」の)そんな軽薄な「甘言」にまんまと乗せられて、英雄気取りで命を捨てるような者は、単なる「頭の悪い、使い捨ての犠牲者」でしかないし、実際、福島原発に残った人たちは、身命を賭して日本を守る「英雄」として残ったのではない。退くに退けなくなったから、残らざるを得なかっただけなのである。

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私の想定する「最悪の事態」に対する「最悪のシナリオ」とは、「一部の犠牲によって、大勢が救われる」というような中途半端なものではなく、「全員が死ぬ」というシナリオである。しかしその方が、よほど倫理的であり、清々しいではないだろうか。

結局、「原発事故の最悪のシナリオ」も「戦争における最悪のシナリオ」も、真に「最悪」であるのならば、個々人にとっては、大差のないものなのだ。
それは、「国家」にとっては「主権が失われる」ということだが、個人にとっては「私の命が失われる」ということでしかない。そういうことでしかないのだ。
だから、「お国のために死ぬ」必要などない。私は、私自身と、私自身の愛する人を救うためにだけ、その時は覚悟し、「自己選択」によって死ねば良いのである。

『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』(寺山修司)

(2022年5月6日)

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