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伊澤理江 『黒い海 船は突然、深海へ消えた』 : 粗探しと大局観

書評:伊澤理江『黒い海 船は突然、深海へ消えた』(講談社)

とても興味深い読書ができた。
ただしそれは、本書に対する鋭い批評も含めての話である。まず刺激的な意見が表明され、それに対しての反論がある。だからこそ、議論が深まるということの典型的な姿が、本書とそのレビューの間で実現しているのだ。
だから、そのあたりをじっくり味わうためにも、まずは是非とも、本書を読んでほしい。本書は、それ単体でも、とても面白い作品なのだが、期せずしてそれに、特別な「オマケ」が付いてきたので、「一粒で二度美味しい」と言うか、より正確には「一粒で美味しいが、さらに美味しいオマケが付いてくる」作品なのである。

本書の存在を知ったのは、書店頭でであった。それまで完全にノーマークだったのだが、書店のノンフィクションの棚に面陳でおかれていた本書の帯は、いわゆる増刷分の「受賞帯」で、すでにそこでは4つもの受賞が報告されていた。

第45回 講談社 本田靖春ノンフィクション賞
第54回
大宅壮一ノンフィクション賞
第71回
日本エッセイスト・クラブ賞
日隅一雄・情報流通促進賞2023 大賞
受賞作!!!

「賞」なるものは、案外、当てにはならないというのは、私自身いつも書いていることだから、「受賞作」だというだけでは、必ずしも信用はしない。だが、四つも賞を取っているとなると、これは交差検証(cross-validation)みたいなものだから、その「評価の精度」もおのずと上がるだろう。もちろん、それで完璧ということにはならないが、容易に見つかるような穴が残っているような作品ではないということなら言えそうだし、まず「読んで面白い」というのは、ほぼ間違いのないはずだ。
そんなわけで、本書は昨年(2022年)12月の刊行であり、すでに何度も版を重ねていたので、私は古本を入手して読むことにした。

Amazonでの内容紹介は、次のとおりである。

その船は突然、深海へ消えた。
 沈みようがない状況で――。


本書は実話であり、同時にミステリーでもある。

2008年、太平洋上で碇泊中の中型漁船が突如として沈没、17名もの犠牲者を出した。
波は高かったものの、さほど荒れていたわけでもなく、碇泊にもっとも適したパラアンカーを使っていた。
なにより、事故の寸前まで漁船員たちに危機感はなく、彼らは束の間の休息を楽しんでいた。
周辺には僚船が複数いたにもかかわらず、この船――第58寿和丸――だけが転覆し、沈んだのだった。

生存者の証言によれば、船から投げ出された彼らは、船から流出したと思われる油まみれの海を無我夢中で泳ぎ、九死に一生を得た。
ところが、事故から3年もたって公表された調査報告書では、船から漏れ出たとされる油はごく少量とされ、船員の杜撰な管理と当日偶然に発生した「大波」とによって船は転覆・沈没したと決めつけられたのだった。
「二度の衝撃を感じた」という生存者たちの証言も考慮されることはなく、5000メートル以上の深海に沈んだ船の調査も早々に実現への道が閉ざされた。
こうして、真相究明を求める残された関係者の期待も空しく、事件は「未解決」のまま時が流れた。

なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
調査報告書はなぜ、生存者の声を無視した形で公表されたのか。

ふとしたことから、この忘れ去られた事件について知った、一人のジャーナリストが、ゆっくり時間をかけて調べていくうちに、「点」と「点」が、少しずつつながっていく。
そして、事件の全体像が少しずつ明らかになっていく。

彼女が描く「驚愕の真相」とは、はたして・・・・・・。』

『本書は実話であり、同時にミステリーでもある。』とあるが、松本清張を意識したような『「点」と「点」が、少しずつつながっていく。』という表現でも明らかなとおり、ここで言う「ミステリー」とは、単に「謎」を意味するのではなく、「ミステリー小説(推理小説)」的な作品であることを示唆している。
つまり、「堅実だが無味乾燥な報告書」のようなノンフィクション作品ではなく、すでに過去のものとなりつつあった「漁船転覆事故」の謎を追う著者自身の姿と事件関係者の姿が、たいへん生き生きと描かれており、「ミステリー小説」を読むような「スリルとサスペンス」に近いものまで味わわされて、ページを捲る手ももどかしくなるような「面白い」作品だ、ということである。

本書では「謎の漁船転覆事故」が扱われる。いまだに沈没原因のハッキリしていない「現実の事件」なのだから、もちろん本書で、その「真相」が暴かれるわけではない。
本作は、言うなれば現実の「未解決事件」を扱っているから、確たる真相には至らないまま最終ページに至るのだが、それでも「面白い」というのは、「真相暴露」が本書の売りなのではなく、それを目指して奔走する真相究明への「過程」が、とてもよく書けているからなのだ。

したがって、本書の早い段階で読者の多くは、この「漁船転覆事件」の犯人は「潜水艦」なのではないかと考えるはずだ。だが、「機密の塊」である潜水艦が漁船沈没事故の当て逃げ犯人なのだとすれば、その真相解明は、一介のジャーナリストの手に余る問題だろうというのも、容易に推察できるところだ。
ところが、普通のジャーナリストなら初手から関わりもしないであろう、割に合わない「謎」に対し、著者が粘り強く挑んでいく姿こそが、読書の共感を呼んで素晴らしい。そここそが、本書の魅力なのである。
原因が明らかにならなかったが故に、今も苦しんでいる事故関係者の気持ちに寄り添って、著者は粘り強く、一歩一歩謎を追っていく姿が感動的な作品なのだ。

(謎の沈没をした「第58寿和丸」

したがって、繰り返しになるが、本書の眼目は「事故の謎についての、事実関係の究明」にあるというよりも「ジャーナリズムのあり方を問う」という側面にあって、私はそこが面白いと思ったし、深く共感もした。
例えばそれは、次のような部分である。

『 私は取材の相手から、すでに国が結論を出しているような古い事故をなぜ今さら蒸し返すのか、という問いを何度も受けてきた。同業者であるジャーナリストからは「新事実があれば書けるけどね」とも言われた。
 そうした時、いつも思い出す情景がある。
 ある冬の日。
 野崎(※ 原因不明の沈没事故を起こした第58寿和丸の船主。明らかにされない真相に苦しみを抱え続けている)の自宅で長い取材が続き、夕方になった。第58寿和丸や原発の汚染水に関する話を(※船主として苦悩、あるいは、地元漁業者の代表の一人として、政府などとの折衝に当たっている者としての想いを)切々と語った後、野崎は「証言として聞いておいて」と短く言った。自分たち(※ 漁労関係者)の一部といっても過言ではない海をめぐって引き起こされてきた第58寿和丸事故や原発事故にまつわる不条理の数々。そうしたものをきちんと刻んでおいてほしいという、古希を目前にした野崎の切なる思いがその言葉には詰まっていた。
 最寄りのJR泉駅へ車で送ってもらう途中、ハンドルを握った野崎に真横から夕日が当たった。車が藤原川を渡るとき、燃えるような夕焼けの輝きが川面に跳ね返り、周囲が急に鮮やかになった。
「古い事故をなぜ蒸し返すのか」「新事実がないと書けない」といった言葉と、野崎の思いがいつも夕日の印象とともに蘇る。
 船体が沈んで(※ 引き揚げての検証が困難な現状となって)いる以上、(※ 物的証拠としての)第58寿和丸の側から原因を特定し、証明することはほぼ不可能かもしれない。この先も続く私の取材は、結果として潜水艦の特定には至らないかもしれない。
 それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた。事故や事件にまつわる記録は、いつも〝強い者〟が作成する報告書や捜査記録、訴訟記録などによって「正史」として記され、後の時代に伝わっていく。しかし、これらの公的記憶から排除されてしまった事柄は山のようにある。第58寿和丸に限定して言えば、 運輸安全委員会の報告書の中に埋もれさせていいのかという疑問を拭えなかった。
「原因は波」という運輸安全委員会の調査の方向性が定まった途端、出来事への関心を失った者たちが「新証拠があれば記事になるけどね」と言っている。そこにも私は小さな反発を覚えた。
 決定的な新事実がなければ、第58寿和丸にまつわる事柄は書くに値しないのかといえば、そうではないはずだ。たとえ公的な記録から外れていたとしても、関係者の声に耳を傾け、事実を丹念に拾っていけば、記録を残す価値があるものは、はっきりとした輪郭を伴って浮かび上がってくる。
 もちろん、それは第58寿和丸事故にのみ当てはまるわけではない。事故・事件に限ったことでもない。断片的に散らばったままの事実と記憶を丁寧に拾い集め、全体像を浮かび上がらせていく。その作業を必要とするものは、おそらく無限にある。
 私のこうした思いは、独りよがりの自己満足ではないかと自問することもあった。
 しかし、弁護士の清水の次の言葉を聞いたときに、私のわだかまりは消えた。
「苦しんでいる人たちのために、どうしてこういう結論になったのか明らかにさせましょう。今後、運輸安全委員会にこういうことをさせないために、ひとつの楔にしたい。彼らが適正な仕事をするということは、将来的に一定程度事故を防ぐことにつながるわけですよ。過去に亡くなった人の命は戻ってこないけれど、将来の事故を少なくしたり、阻止したりすることに大いに役立つわけです 運輸安全委員会はまさに将来の事故を防ぐってところに最大の眼目がある。だからこそ、事実を歪めるのは絶対にダメなんですよ」』(P293〜295)

私が特に共感をしたのは、

『 決定的な新事実がなければ、第58寿和丸にまつわる事柄は書くに値しないのかといえば、そうではないはずだ。たとえ公的な記録から外れていたとしても、関係者の声に耳を傾け、事実を丹念に拾っていけば、記録を残す価値があるものは、はっきりとした輪郭を伴って浮かび上がってくる。
 もちろん、それは第58寿和丸事故にのみ当てはまるわけではない。事故・事件に限ったことでもない。断片的に散らばったままの事実と記憶を丁寧に拾い集め、全体像を浮かび上がらせていく。その作業を必要とするものは、おそらく無限にある。』

の部分だ。

例えば、私は「日本のミステリ界の内実」的なことについて、かなり際どいことを書いている。

上の記事なんかがその代表格だから、「固定記事」にもしているのだ。

読んでもらえばわかることだが、私がそこで書いているようなことは、外部の者にはまずうかがい知らないし、内部の業界関係者は決して誰も触れようとはしない。
なぜなら、そこから事の真相が明らかになった場合、それで喜ぶ人よりも困る人の方が圧倒的に多いからで、業界的利益に照らして、そこには触れない方が良いという「業界的な忖度」が働いているからである。

その主たる関係者とは、小説家とか編集者たちなのだが、彼らは日頃「人一倍ご立派なことを語る主人公の登場する小説」を書いたり、それを「感動作」だとか「問題作」だなどと言って、売っている人たちだ。
ところが、話が「自分たちの業界」や「身辺」に及んでくると、たちまち「記録資料隠蔽の公務員」同様に、口に緘して「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んでしまう。それが、一般には知られていない「現実」なのだ。

だからそんな、あえて事を荒立てるようなことを書く者は、まずいないし、それを採り上げようとする者も、同時代の今は、いなくて当然なのだが、しかし、未来のための「歴史的証言」として、書いておく価値があると思うから、私はそうした「証言的な文章」を書き残している。
私が死に、関係者が死んだ後でなら「得難い一級の歴史的資料」になると信じて書いているのだ。私が書かなきゃ、すべては闇に葬られて、本書著者の言うように「勝者の歴史」だけが残されてしまうと考えるからである。

そんなわけで、私は本書著者の立場を支持するわけなのだが、この極めて評判の良い本に対し、前述のとおり、かなり鋭いツッコミを入れるレビューが現れた。
それが、Amazonのカスタマーレビューとして公開された、レビュアー「kotochan」氏のレビュー、題して『力作』である。

このレビューは、Amazonカスタマーレビューとしては異例の長さで、ほとんど「評論文」と呼ぶ方が正確なものとなっているので、全文を引用するのは差し控えるが、本書を読んだ後に、是非ともこのレビューを読んでほしい。前述のとおり、「本書を二度楽しむ」ための必須アイテムとなっているからだ。

端的に言えば、「kotochan」氏のこのレビューは、かなり「専門的」なものであり、本書著者の取材や記述の穴を厳しく指摘するもので、このレビューを読めば、本書における著者の「推論」の信憑性が、大きく削がれることになるのは間違いない。
つまり、ジャーナリストの常識的知識を遥かに超えた知識を持って書かれたレビューであり、多くの読者がその説得力にやられて、現時点で「役に立った」(いいね)を押した人が「140人」の多きに登っていて、もちろん、その数は、寄せられたレビューの中でもダントツである。

ただ、「kotochan」氏の「うまい」ところは、本作について、本質的なところで否定的な見解を示しておきながら、表面的には「素晴らしい作品だからこそ、目についた粗については無視できなかったので、少し書かせてもらった。今後に期待したい」といった、「基本は肯定」めかした書き方をしている点である。

しかし、こういう「不正直」かつ「老獪」な書き方をしているからこそ、「kotochan」氏には、著者への「隠された攻撃的意志」があったと見ても、まず間違いではないだろう。
本作への高い一般評価を大きく削ぐだけの、本質的な批判を加えておきながら、レビューのタイトルは『力作』だというものだし、「5点満点の4点」を付けているのだから、かえってこれは、「kotochan」氏が「配慮の行き届いた人」「礼儀正しい人」と言うよりも、むしろ「腹に一物ある人」であり、本作中で描かれる「慇懃無礼な公務員」にも似た胡散くささが、にわかに漂っていると言った方がよいのではないだろうか。
なにしろ、「kotochan」氏は、匿名なのだから、今回の場合は、本作中で批判される「運輸安全委員会」の関係者だとまでは言わないまでも、その周辺の人間である可能性は否定できない。同氏は、簡単なことのように「これくらいのことは、少し調べればわかったはずだ」とか「著者は気づいていたはずなのに、どうしてそこは書かないのだろうか」というような書き方をして、さも本書著者が「意図的な情報操作」によって「読者を誘導している」という「否定的なイメージ」を植え付けるような書き方をしている。
しかし、これは裏返して言えば、レビュアー「kotochan」氏の書き方が「読者誘導的にイメージ操作的」なものだということにもなろう。
「kotochan」氏の言う「ちょっと調べればわかること」といった本書の弱点は、事実としては、多くの読者は無論、ノンフィクション賞の選考委員たちですら、明確に、あるいは、当たり前に指摘することのできなかったものなのだ。つまりそれは、一般人には専門的なことであり、海洋関係あるいは担当官庁に近い業界人になら「当たり前のこと」だった、とも考え得るのである。

「kotochan」氏の、本書の難点に対する指摘はかなり鋭いものだし、本質的なものである。だが、だからこそ「普通」であれば、「こんな素人騙しのいい加減な本はダメだ。こんなものは娯楽小説であって、ノンフィクションではない」と、はっきりと否定批判し、「1点」を付けても全然おかしくなかったのに、それをせず、逆に「いや、否定したいわけではないんですよ。ただ、惜しいと思う穴について書かせていただいただけなんです」というような書き方になっているところが、かえって「あやしい」と、私は思う。だいたい「親切ヅラの批判」なんてものほど、信用できないものはないのである。

例えば、著者が前記のとおり、

『この先も続く私の取材は、結果として潜水艦の特定には至らないかもしれない。
 それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた。』

とまで書いているのに、「kotochan」氏はレビューの末尾を、

『 本書で鮮烈なデビューを果たした著者は、さらに大きなのびしろを持っているように思え、今後のさらなる一層の飛躍が期待できる。これからの一生を潜水艦だけを追い続けて送るようにはとてもイメージできないからだ。』

という、上から目線かつ、いかにも「どうせ著者は、いずれ読者を裏切るだろ(=その場かぎりの大袈裟な物言いをしているだけだろう)」と言わんばかりの、嫌味とも言える書き方をしている。
つまり、こんなところにこそ、「kotochan」氏の「ホンネ」が覗いていると言えるのではないだろうか。

実際、「VINEメンバー」として、Amazonから「レビュー対象商品」を無料提供されている「kotochan」氏が「何者」なのかはわからないが、このレビューを読むかぎり、その筆力からして、タダモノではないというのは確かだ。
にもかかわらず、いつも、今回のような力のこもったレビューを書いているわけではなく、むしろ本書へのレビューは「例外的な力作」になっており、同氏の他のレビューへの「役に立った」数が、平均で1桁に止まっていることを考え合わせると、本書へのレビューが、本当に「たまたま力作を書いた」とは考えにくくさえある。
言い換えれば「個人的に、特にこだわりのある、守備範囲のテーマ」だったのではないか、ということだ。

もちろん、これは私の「裏読み的推論」に過ぎず、真相が解明されるのなら、現実としては単なる「邪推」でしかなかったということになるかもしれない。
だが、「kotochan」氏の身元が明らかにならないかぎり、これは「真相の明らかにはならない疑惑」にとどまり続けることでもある。
つまり、考慮はしておいて然るべき点だということだ。

ともあれ、本書のような「問題提起的で刺激的な本」が書かれたからこそ、「kotochan」氏による、優れて刺激的な「批判論文」も書かれたのだし、「kotochan」氏のレビューが書かれたからこそ、そのレビューに疑義を呈する私のこのレビューも書かれたわけで、そもそも本書が書かれなければ、このような「疑惑」が浮かび上がることもなかった、ということである。

だから、本書に、「kotochan」氏が指摘するような「穴」があったとしても、やはり本書は「意義のある重要な一書」だという、私の評価は変わらない。
もちろん、本書が「完璧ではない」というのは「わかりきった話」なのだが、「不完全でも、書かれなければならないこともある」というのが本書著者の主張なのだから、それも当然なのではないだろうか。

「kotochan」氏も、本書著者には「お役所」に対する「型通りの反感や懐疑」があって、そこが「現実的ではない(陰謀論的な)のではないか」という疑義を呈しつつも、しかし「お役所にも、改めなければならない現実がある」という事実は、否定できない。

ならば、多少は「行き過ぎ」に見えるところがあり、「kotochan」氏のような「専門知識のある人」には注文をつけられて然るべき「穴」があったとしても、やはり本書は「弱者の声」を代弁するものとして、「書かれて良かった」のだ。
なぜなら、「kotochan」氏のように「役所の現状に理解を示す」ことが前提になった上で「でも、役所にも改めなければならない現状がある」というような「生ぬるい書き方」では、決して「お役所の悪しき原状」が改められることはないからである。

私も長らく公務員をやってきた人間だが、役所というのは、基本的に「外圧がなければ変われない」という体質を持っている。平たく言えば「自浄能力」が低いのだ。
だから、嫌でも変わらざるを得ないほどの苛烈な外圧があって、役所は変わり得る(例えば、民事不介入の消極性を改めることになった警察改革は、桶川ストーカー殺人事件の失態と世間からの厳しい批判があって、初めて行われ得たものである)。
したがって、「kotochan」氏のような「役所にも、現状ではいろいろ難しくてやれないことが多いのだ。それを本書著者は、まったくわかっていない」といった論調で役所を擁護したあと、付け足しのように「無論、役所にも改められなければならない問題はあるが」といったような調子では、お役所は決して変わろうとはしないだろう、ということだ。

桶川ストーカー殺人事件

本書のような「尖った問題提起の書」が刊行されることにより、それまで「無視」を決め込んでいた勢力からの「反論」も、ようやく出てきもする。
そしてそうなれば、双方がお互いの弱点を突き合い、叩き合う中で、「隠された真相」も徐々にいぶり出されてくることになろう。

「国家権力」だって「人間のしていること」だとは言っても、やはり、「権力の魔性」は「人間を人間以上のものにする」という現実に鑑みれば、批判・反批判の「論争(殴り合い)」を喚起するためにも、本書のような、弱者の側に立った、挑発的で問題提起的な作品は、どんどんと刊行されるべきであろう。強者にまで「平等に物分かりの良い」ような「利口ぶり」では、結局のところ「力ある者」に利することにしかならないからである。

大切なのは、「部分的な正確さ」もさることながら、そうした「大局観」を持つことなのである。

藤井聡太九段も、そう言っていた一一かどうかまでは知らない。なにしろ、そっちの業界人ではないので、知らない事実が多々あるのだ。


(2023年11月20日)

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