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阿部恭子 『家族間殺人』 : 日本的な〈愚かさ〉は大前提として考える

書評:阿部恭子『家族間殺人』(幻冬舎新書)

本書の著者は、「加害者家族」を支援するNPO法人の代表を務める人物で、本書では、自身が「加害者家族支援」で直接関わった事例を中心に、世間ではあまり知られていない「近親者殺人」の現実を紹介している。

要は、自分の子供を虐待死させたとか、家族を惨殺したとかいった悲惨な事件において、マスコミの扇情的かつ一面的な報道にひきづられて、「かわいそう」とか「鬼畜の所業だ、許せない」といった、紋切り型の反応を示しがちな「世間」様に対して、「ことがそこにいたるまでには、いろいろと同情すべき、人間的な事情もあるんですよ。そして、それは他人事ではない。あなた方は、たまたま運良くうまくいっているけれど、人の運命というのは、どこで歯車が狂うのか誰にもわからないし、本人の努力だけではどうにもならない側面もある。つまり、あなただって、ひとつ間違ったら、家族殺しの犯人になっていたかもしれないんですよ」と、「家族間殺人」の裏面を紹介し、「世間」の感情的かつ通俗的なイメージの一面性に対し、啓蒙を行なっているのが、本書なのだと言えよう。

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例えば、本書の帯背面には、次のように刷られている。

『こんなふうに考えている人は要注意!
 ● 家族が自分に従わないと腹が立つ
 ● 男は「家庭を持って一人前」だと思う
 ● 「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と思うことが多い
 ● 世間体がとても気になる
 ● 悩みを相談できる友人がいない
 ● 家族に殺意を抱いたことがある
 ● 家族が自分のアイデンティティーになっている
 ● 地域の相談窓口は頼りにならないと思う 』

これらは、たいがいの人に該当するもののはずで、事実としてこれには「該当しない」人というのは、よほど意識して、これらを避ける努力を常日頃からしている、特別例外的な人たちだと言えるだろう。

例えば「家族が自分に従わないと腹が立つ」というのは、ごく普通のことだ。
しかし、だからこそ、これが高じて「家族間殺人」にもなる。つまり、あかの他人なら我慢できることでも、家族が相手だと、たちまち鬼の形相になってしまうなどというのは、よくあること。それは、家族を「身内」だと思い、心を許しているからで、他人相手ではそうはいかない。外で、そんな短気なことをしていたら、会社勤めはできないし、社会から爪弾きにされるだろう。
また、外で我慢しているからこそ、そのストレスを「身内」には安心して発散しがちなのだ。だからこそ「家族間殺人」が起こり、加害者の会社同僚などがインタビューされると「そんなことをする人だとは、今でも信じられない。とても温厚で、思いやりのある優しい人だったのに」などと答えたりするのである。

「男は「家庭を持って一人前」だと思う」一一これなども、日本の古い価値観で、ヤンキー的な人(ばかりではないが、そ)の多くは、当たり前に信じて疑わず、だから、稼ぎもないのに身の程知らずの結婚をし、身の程知らずにも子供を次々と作って、それのあげくのストレスからDVとなって離婚をし、引き取った子供をろくに育てられず、生活に窮する、なんていう家庭など山ほどある。そして、その一部が、必然的に追い詰められて「家族間殺人」を犯したりするのである。

「「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と思うことが多い」というのは、きわめて倫理的に(善いことのように)聞こえるが、要は「身の程を知らない」ということだ。
死ぬまで我慢できる保証もないのに、的外れなヒロイズムで中途半端に我慢して、その挙句、プツンと切れて「家族間殺人」を犯してしまうような人がいる。つまり、「身の程知らず」に抱え込むバカ(自己過信者)が、自分をバカだと思っていない、ということなのだ。

「世間体がとても気になる」一一これも「身の程を知らない」ということだ。要は「実力以上の、見栄を張って生きている」から、これも問題を抱え込んで破綻する、というパターンである。

「悩みを相談できる友人がいない」一一これも同じ。要は、他人に「恥をかかずに、相談したい」と考えているから、本当に恥ずかしい「身内の問題」を相談できるような相手(他人)などいない、ということになってしまう。
言い換えれば「相談できる友人はいるよ」と言う人の99パーセントは、「相談できない悩み」というものを、リアルに想像したこともないくらいのバカだ、ということでもあろう。

「家族に殺意を抱いたことがある」一一これも当たり前の話だ。前述のとおり「身内」だからこそ許せなくなるし、どうしても抱え込んでしまう。そして、殺意にまで高まりもする。それを「そんなこと考えたこともない」というのは、偽善者かバカである。

「家族が自分のアイデンティティーになっている」一一要は、価値観が一面的で、ガスの抜きどころがなく、臨機応変の対応ができない、硬直的で鈍くさい人間、ということだ。

「地域の相談窓口は頼りにならないと思う」一一自分の無能を棚に上げて、他人に多くを求めすぎる愚か者の考え方だと言えるだろう。しかしその結果、誰よりも賢いつもりの自分が問題を抱え込んで、最後はプツンとなって、警察沙汰になるというわけである。そして、大概の場合それはDV止まりだが、中には殺人にいたるケースもある。

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このように、本書著者の示した「要注意チェック項目」は、誰にでも思い当たるところのあって然るべきものであり、要は、たいがいの人が抱えている問題点なのだ。だから賢い人こそ、こうした「人間的弱点」を他人事だとは考えず、我が事として「謙虚」に捉え「もしも追い込まれたら、どうなるかわからないから、今のうちに対策を考えておこう」となるのである。逆に、バカな人ほど「身の程知らず」に「私は大丈夫」と自己過信して、いざとなった時には頭に血が上ってしまい、適切な対応できない、ということにもなる。
じっさい、トラブルになるカップルというのは、いわゆる「良い時はベタベタ」の「バカップル」が多いと、私個人は思っている。「良い時はベタベタ」とは「他者との適切な距離感の測れない人間」だということなのだが、いかがだろうか?

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さて、本書だが、本書を読んでいて、引っかかった点がひとつあった。加害者の方だけが生き残っているという事情もあろうが、「事件の裏側」を紹介する際に、結果としてその説明が、どうにも「加害者側の視点」に偏ったものになっているように見える点だ。

こうした傾向は、同情的に「弱者の側」につく人は、世間が見向きもしない「加害者の側」につくから(判官贔屓)だ、と考えられがちなのだが、しかし、本書著者の場合は、そうでもないようだ。たとえば、著者は、こんな書き方をしている。

『 加害者の更生とは、被害者を出さず、加害者が問題を起こさずに生活できるようになることであって、涙ながらに反省の弁を述べたからといって更生したと判断することはできません。
 加害者やその家族を社会から排除しても、加害者は何も変わりません。加害者に対してすべきことは、自身が抱える問題に気がつくことができるようなアプローチを続けていくことです。』(P74)

『DVや虐待の加害者は、刑務所に収監されたからといって更生するわけではありません。刑務所生活は作業が中心であり、罪と向き合う環境ではないからです。
 したがって、再び家族を持つことになれば、加害行為は繰り返される可能性が高いとも考えられます。彼らに必要なことは、家族を持たない生き方を選択することです。』(P220〜221)

『 家族の問題を自分たちだけで抱えこまず、外に出したことは解決への大きな一歩であり、恥をかく経験は人間を強くしていきます。問題を乗り越えるということは、プライドや世間体から解放されることだと私は考えます。』(P224)

どうだろう。著者は、「加害者」に対するステレオタイプの「同情的理想主義者」などではなく、結構な「リアリスト」であることが感じられるのではないだろうか。

では、どうしてこのような「加害者に甘くない」著者が、「事件の裏側」を描く場合にあたって、「加害者の言い分」に偏った印象のある描き方をするのだろうか? 一一もちろんそれは、前述のとおり、死者となった被害者は自身の言い分を語れない、という事情もあるだろう。しかしまた、本書著者なら、加害者の言い分が「一方的」なものになりやすいということも承知した上で、そこに一定の「補正」を掛けた上で「事件の裏側」を描けたはずなのに、なぜ「補正済み」という印象の残る文章を書けなかったのであろうか?

私が思うに、著者がそれをしなかったのは、「加害者に同情しているから」ではなく、「誰でも加害者になる可能性がある」のだということを、リアルに伝えるために、あえて読者が加害者の立場に共感しうるかたちで「事件の裏側」を描いて見せたからなのではないだろうか。
つまり、著者の目的は「無自覚な人間による、同種の犯罪の発生を、少しでも減らす(読者啓蒙)ため」という、きわめて現実的な狙いがあって、あえて「加害者寄りの描写」を選択したのではないかと推測するのだ。

では、こんな「犯罪抑止」を最大の目的とする著者が、どうして「加害者」の側であるはずの「加害者家族」を支援したりしているのだろうか。

それは「加害者家族」が「被害者」だからである。自分自身は犯罪を犯していないのに、加害者の家族だということで、世間から糾弾されるなどの多大な被害を被る、ほかならぬ、純粋な「被害者」であるからだ。

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こう書くと、中には「殺人者の親」などには「ちゃんと子供を育てなかった、責任がある」と考える人も少なくないだろう。じっさい、そういう人が多いからこそ「加害者家族」は世間からの攻撃にさらされるわけなのだが、しかし、ここで思い出して欲しいのは「憎みべき殺人者」の多くは、じつのところ「要注意項目チェック」で見たとおり「ごく普通の人」なのである。つまり「憎むべき殺人者」は、あなた自身の「将来の姿」かもしれないし、親兄弟のそれかもしれないのだ。
そして、もしもあなたの親兄弟が、思いもよらず「家族間殺人」を犯してしまい、あなたやあなたの家族が、世間から「お前たちにも責任がある」と言われて糾弾された場合、はたして「そんなこと言われても、そんなことする人じゃなかったんだから、どうしようもない」と思いはしないだろうか。

身内が見ても「こいつは、そのうちに家族を殺すだろう」とわかっていたような場合なら、事前にどうにかする責任もあったと言えるだろう。しかし、自分が見ていた範囲では「仲良くやっているように見えていた」なら、いったい、予想もできなかったことを、どう出来たと言うのだろうか。
世間の「家族なら気付いていたはずだ、気付いて然るべきだ」というような要求は「家族にも隠し事をする」のが当たり前の私たちであれば、それを他人にだけ要求するというのは、明らか不当な「過剰要求」だと言えるだろう。

だから、「加害者家族」という「被害者」を助けようと思えば、「加害者にも、加害者なりのやむを得ない事情があったのだ」というのと同時に、「肉親がそれに気づかなかったのも、やむを得ないことなのだ」という説明が、是非とも必要だったのである。

読者が真に「他人のことは、たとえ肉親でも家族でもわからない」という賢明さを持っているならば、著者のスタンスの正しさが理解できよう。
逆に「私は、自分のことは無論、家族や肉親のこともわかっていますよ。だって、家族であり肉親なんだから、当然じゃないですか」などといった能天気な認識しか持たないバカだけが、著者のリアリズムに基づくスタンスを「加害者寄り」などと考えるのである。

『 世の中では、「家族」があまりに肯定的に、ときには美化されすぎているように、私には思われます。
 他人には普段見せない弱点を知りうるのも家族であり、敵に回すといちばん怖いのが家族であると感じます。家族間殺人は、親密になり相手に気を許したからこそ起こる事件です。近親憎悪はどこから生まれるのでしょうか。私は、近い存在ゆえに違いや差を受け入れられない感情から生ずると考えます。「家族なのだからわかるはず」と、家族以外の人には抱かない期待を抱き、裏切られると自分を否定されたようにさえ感じることがあります。
 家族間殺人のひとつひとつが伝えていることは、血が繋がっていても、法的に結ばれていても、家族は自分と同じ人間ではないということです。』
(P204〜205)

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(2001年11月2日)

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