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石井光太 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』 : 養老孟司や俵万智といった〈国語力のない人〉が絶賛する本

書評:石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)

本当に、酷い本だった。

どう「酷い」のかというと、本書は、「子供たちの国語力が落ちている」という警告を世に発し、それを回復するのはどうすれば良いのかというのを、各種の教育現場を取材しながら訴える、といった態の本なのだが、最後の方は、明らかに一部の教育機関(学校)の「宣伝記事」になっているのだ。

例えて言うのなら、テレビの物販コマーシャルで、前半はドキュメンタリー番組を装いながら、後半で「この人が活躍できるのも、この商品を愛用しているからです」とやる、ああいう白々しい宣伝とまったく同じ構成を、本書はそのまま採っているのである。

したがって、前半は、やや決めつけのすぎるところはあるものの、それなりに興味深い事例が紹介されており、それなりに面白く読めるのだが、最後の方に来て「なんだこりゃあ…!?」と呆れることになった。

無論、その最後の「宣伝部分」のおかしさに気づくためには、相応の「国語力」がなければならない。
しかしまた、残念ながら、Amazonの本書紹介ページを見てみると、レビュアーの8割がたは、本書のうさん臭さに気づいておらず、まんま著者の「口車」に乗せられてしまっている(もちろん、少数ながら、「Amazon Customer」氏のように、的確に批判を加えているレビュアーもいた)。

こんな状態では、毎年毎年「特殊詐欺」に引っかかる高齢者が減らないのも当然だろう。本書のような「社会派の本を読む」人でさえ、このレベルなのだから、本すら読まない人の知的レベルなど「推して知るべし」だからである。

それにしても、どうして「この程度のもの」に引っかかる人が、これほど多いのだろうか。
それは無論、本書著者が「プロの書き手」であり、それなりに「もっともらしく書いている」からである。

これは当然のことで、「詐欺師」というのは、おおむね「親切そうな人」で「わかりやすく対応してくれる」ものだからだ。
例えば、電話で、高齢者にアプローチしてくる特殊詐欺犯というのは、「困っているあなたに対し、親身になって助言してくれる人(例えば「あなたのクレジットカードが悪用されています。カードを止める手続きをしてください。これから担当者がお伺いします」などと、銀行員や警察官などを)」を見事に演じる能力を(訓練されて)持っており、見るからに「悪人ヅラ」をしているとか、「へへへ、これからお前を騙してやるぜ」みたいな雰囲気をプンプンと漂わせている、などといったことはありえない。詐欺師とは、「親切そうな人」を演じられなければ勤まらない、特殊技能を必要とする職業(プロ)なのである。

ところが、騙される人というのは、そういう「表面的な親切者」ぶりに騙されるのだ。
また、それでいながら、自分は「人を見る目がある」などという、身のほどを知らない「慢心」を抱えている。

犯罪を肯定するわけではないが、そういう人は、繰り返し犯罪被害に遭うし、それで素寒貧にでもならないと、本当に反省することも、「改心」することもない。
騙されても騙されても「私は、人が良すぎて、つい他人を信用してしまう」とか「疑うことのできない正直者」だなどと、自分の「自己過信・自己過大評価」を自己正当化してしまい、「(客観的に評価すれば)私は、どうしようもない馬鹿者だ」という「客観認識」に至れないのである。

 ○ ○ ○

石井光太の著作を読むのは、これが初めてだ。
著者が、数多くのノンフィクション、ルポルタージュを刊行している人であることは、よく知っていた。嫌でも、書店で目につくからだ。
しかし、今日まで読まなかったのは、石井が「うさん臭い作家」ではないかと、半ば疑っていたからである。

私が、このように疑念を抱くようになったきっかけは、『コリアン世界の旅』というノンフィクションを読んで「この作家は本物だ」と信頼を置くことになった、ノンフィクション作家の野村進が、以前、本書著者である石井光太の著作について「取材もせずに書いているのではないか」という、かなり致命的と言っていいような厳しい批判を加えたのを知ったからである。

もうずいぶん以前の話なので、詳しいことは記憶していないが、たしか「アフガニスタンで、タリバンが貴重な遺跡である、大仏を破壊した」問題について書いた石井光太の著作について、野村が「現地取材したように書かれているが、本当に現地取材とは思えない内容だ。でっち上げではないか」というような趣旨の批判をしていた、と記憶していたのだ(※ ここは、私の「記憶」のことで、事実関係としては、石井光太の別著作『遺体』についての話であった)。

こんな批判、よほど自信がないかぎり、とても公にできるものでないことくらいは、容易にご理解いただけよう。
もしも間違っていたら、名誉毀損では済まない話なのだが、そのくらいのことは承知の上で、野村は自信を持って、こう批判したのだろうから、たぶん、この指摘は正しいのであろうし、その意味で、石井光太という書き手は「本質的に、信用ならない人」だと、私は考えたのである。

しかし今回、それでも本書を読んだのは、それからずいぶん時間も経っており、その後も石井光太は活躍している反面、むしろ野村進の方が目立たないという印象があったので、「もしかすると、野村の石井光太批判には、行き過ぎがあったのかもしれない」と思うようになっていたのと、本書のテーマである「子供の国語力の低下」問題に、端的に興味があったからである。

だから、最初から「疑いの目」を持って、本書を読んだわけではない。

「まえがき」と「まとめ」にあたる「序章」と「終章」を除くと、実質全8章からなる本書を読み進めていって、第7章の「小学校はいかに子供を救うのか一一国語力育成の最前線1」を読むまでは、前記のとおり「やや決めつけに過ぎるところはあるものの」、おおむね興味深く読んでいたのである。

ところが、この最後の2章、第7章「小学校はいかに子供を救うのか一一国語力育成の最前線1」と第8章「中学校はいかにして子供を救うのか一一国語力育成の最前線2」が、あまりにも酷すぎた。

これは、どう見たって「提灯記事」であり、この2つの章で扱われている3校ほどの学校から「カネをもらって書いたのではないか」としか思えないほど「ご意見拝聴と大絶賛」という内容で、この3校にとって本書は「宣伝用に配るのにちょうど良い本(PR本)」なのではないか、といったものだったのである。

(第7章で紹介される、広島の「なぎさ公園小学校」HPトップ)

 ○ ○ ○

本書の構成を、ざっと見てみよう。

まず「序章」では、童話『ごんぎつね』で、小狐の「ごん」にイタズラをされていた村の少年の母親が死に、その葬式のシーンで、村の女たちが葬儀の手伝いとして、大きな鍋で調理をしているシーンがあるのだが、このシーンについて、小学校の先生が「何を作っているのだと思うか?」と子供たちに問うて、グループ討議をさせた結果、少なからぬグループから「少年の母親の死体を煮て、殺菌している」といった、思いもよらぬ答えが返ってきたという、いささかショッキングな事例の紹介がなされる。
そして、それに被せるように、多くの教師の感想として「こうしたことは近年では珍しくなくなってきた。常識や各種状況に照らして妥当な判断をするという、国語的なリテラシーが、多くの子供たちから失われてきている」という意見が紹介されるのだ。

つまり「近年、子供たちの国語力は明らかに低下しており、そのために他者とまともなコミュニケーションが取れず、社会生活を営む力を育てられなかった子供たちが大人になって、社会から脱落していっている現実がある。それを、何としてでも食い止めなければならない」というのが、本書の「趣旨」なのだ。

で、第1章以降は、現状の調査と対応策の紹介検討がなされている。
具体的に言えば、第1章では「家庭の問題」、第2章では「教育現場(学校教育)の限界」、第3章では「ネットの問題」、第4章では「フリースクールでの取り組み」、第5章では「ゲーム依存症への取り組み」が紹介され、第7章と第8章では「国語力をつけさせる、理想的な教育実践の実例」が紹介されている。

簡単に言えば、第1章から第3章で「危機感を煽り」、第4章と第5章で「その取り組みと限界」を紹介し、第7章と第8章で「国語力教育の、いくつかの理想形を提示する」という構成になっているのだ。

つまり、これは最初に紹介した、

『テレビの物販コマーシャルで、前半はドキュメンタリー番組を装いながら、後半で「この人が活躍できるのも、この商品を愛用しているからです」とやる、ああいう白々しい宣伝』

と、まったく同じ構成なのである。

だが、ああいうテレビコマーシャルが、「プロ」によって作成され、堂々とテレビに流されているというのは、あんなものでも、騙される人がかなり大勢いる、ということを意味している。だから、同様に本書に騙される人が多いというのも、理の当然でしかない。

引用するのも嫌なくらい、第7章と第8章で紹介される「エリート育成校」の校長や教師たち(あるいは、生徒)の弁は、いかにも「新自由主義的」な「コミュニケーション能力の高い、社会で勝ち抜ける人材を育てる」といった、「鼻持ちならない自意識や驕慢に満ち満ちたもの」であり、こうしたものの「うさん臭さ」がどうしてわからないのかと、私などは苛立ってしまうのだが、現実には、わからない人の方が多いのである。

(第8章で紹介される「日本女子大学附属中学校」HPトップ)
(第8章で紹介される「開智日本橋学園中学校」HPトップ)

しかしながら、こうした現実の原因は、必ずしも「日本人の国語力が落ちたから」だということではない。

なぜなら、「ネット言論」の問題で、何度か論じたことだが、要は、インターネットの発展によって、昔なら「公に向けての発言」の機会が与えられなかった「普通の人(凡人)」でも、それが可能になったという、状況の変化があるからだ。
「公に向けての発言」の「敷居が下がった」と言うか、「敷居そのものが、撤廃された」のである。

だから、「能力のない人」の発言が(多く)目につくようになり、またそうした状況において、多くの人が「自分は、知識人並みの判断や発言ができる人間だ」と勘違いするようになった結果、「目につく人たち」の能力の平均をとれば「国語力が低下している」ということになった、という部分が少なからずあるのだ。

つまり、昔なら、本書のレビューを書くような人の半分以上は「本書のうさん臭さ」に気づいたのだが、Amazonカスタマーレビューを見てもわかるとおり、今ではそれに気づく人が、2割程度まで落ち込んでいる。
そのため、相対的に「国語力が低下した」と見えてしまうわけだが、実際には「能力の低い人までが、こぞってレビュー(あるいは、推薦文)を書くようになったから、平均値が下がった」という側面が、無視できない。

だが、そのことに気付けるほどの「国語力」一一と言うよりも、気づけるほどの「知性」のない人が、自信満々にレビュー(や推薦文)を書いて、人様に読んでもらおうとするような時代になった、と、そういうことなのである。

無論、子供の「国語力」とは言わず、まともな「成長」を阻害する要因が、今の「家庭」や「教育現場」にあるという事実や、それへの対策が必要だというのは、まったく否定しない。

しかし、そうした問題は、昔からあったことであり、ただ、クローズアップされる機会が少なかった(問題視されず、放置されていた)ということであり、それをクローズアップすることで「商売」につなげるような、「細やかな貪欲資本主義」も、今ほど発展してはいなかった、ということなのである。

著者は、次のような言葉で、本書を締めくくっている。

『 私がこの(※ ヘレン・ケラーの)エピソードを紹介したのは、今の時代を生きるすべての子供たちにヘレンのように生きた言葉を手に入れ、それをつかえる喜びを感じ、人生を切り開いていってほしいと願っているからだ。社会の底辺で苦しむ子供たちにも、これから成長していく子供たちにもだ。
 すべての子供たちには、「羽の生えたことば」を身につける権利がある。その機会を等しく提供するのは、私たち大人の責任だろう。もっともらしい理屈をつけて子供からその機会を取り上げるのか、認識を改めて言葉を育む場を用意して社会を輝くものにしていくのか。
 日本の未来を生かすか殺すか、私たちは今、その岐路に立っているのである。』(P330)

「盗人猛猛しい」とは、こういうものを言うのであるが、「盗人」や「詐欺師」というものは、おおむね「こういうものだ」という現実を、少なくとも「大の大人」は知っておくべきなのだ。

そして最後に、石井光太に、ひとこと言っておきたい。

一一おまえが、『生きた言葉』とか、他人事のように『もっともらしい言葉』なんて言うな。

(2022年11月30日)

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