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夏木志朋 『ニキ』 : 「俺は変態だ。が、おまえも変態だ。」

書評:夏木志朋『ニキ』(ポプラ社)

「傑作である。」というような、凡庸な書き出しにはしたくなかったが、しかし本作は、正真正銘の傑作である。だが、どう評価するかは、なかなか難しい作品だ。

一一というのも、この作品を評価しようとする際、凡庸な評者は「自分はごく普通の(ノーマルな)人間だけど、普通じゃない人のことを差別してはいけないよね」みたいな書き方になるだろうことは、目に見えているからである。自分を「安全圏」に置いたまま、無難に「正論」を吐くような「優等性」的に「凡庸」なレビューである。

だが、私は自分を「凡庸」だとは思っていないので、そんな「クソつまらない」書き方はしたくない。
Amazonのレビューでもよく見かける、「あらすじ紹介」プラス「面白かった・面白くなかった」レベルの「単なる感想」だとか、やたらに作品を持ち上げて「理解者づらをしたがる」とか、逆に、自分の頭の悪さを顧みず、個人的な趣味だけで作品を酷評して、あたかも自分がひとかどの批評眼の持ち主だと見せようとするとか、そういう、頭の悪いレビューは、絶対に書きたくないのだ。

私が書くからには、私にしか書けないものを書きたい。つまり、独自の着眼点と評価。それを誰もが認めざるを得ないかたちで説得的に説明してみせるロジック。この2点を兼ね備えたレビューでなければ、「わざわざ私が書く意味がない」のである。

で、そんな私は、当然のことながら、本作の「2人の主人公」に、似ているところもあるし似ていないところもある、俗に言う「クセの強い人間」である。
似ているところと言えば、昔、自分の掲示板に「男性一般に対する性的な興味はないが、美少年とならセックスもできる」(「する」ではなく「できる」)という趣旨のことを書いて、二十年もあとに、論破したネトウヨから悔しまぎれに「変態」呼ばわりされたりしたことだったり、それ以前には「自分もロリコンなのではないか」と本気で思った時期もあった、というようなことだろうか。そして、今は「セックスなどしなくても困らない。私には豊富なオカズと黄金の右手がある。性欲処理ならそれで充分だ」などと豪語したりする人間になった。

さて、私が若い頃には、一大「ロリコン・ブーム」があって、ロリコン漫画を読むことは、それほど特別なこととは思えない時期があった。
その当時は、従来の常識的な「美女」ではなく、「美少女・美幼女」の「美」が再発見された時期だったのである。だから「美少女趣味」は「サブカル方面における先端的感性」の発露でもあったわけで、ちょうどロリコン・エロ漫画家の「内山亜紀」なんかが、成人漫画誌ではなく、一般の「少年漫画誌」にまで連載を持って、活躍したりした時期だった。

また、その頃はまだ「オタク」というジャーゴンは存在しなかったから、「オタクという分類において、差別される」こともなかったのであろう。今で言う「ロリコンのオタク」は、たんなる「美少女愛好家」ということで済んでいたのである。

ところが、Mくんこと宮崎勤による「連続幼女誘拐殺人事件」が発生し、宮崎が「何を考えているのかよくわからない、ネクラの変態」というイメージで、扇情的かつ大々的に報道された結果、「美少女愛好家」とは「ロリコンの変態」であり「オタクは犯罪者予備軍」であるかのようなレッテルを、私たちは、幾重にもべったりと貼られてしまった(ちなみに私は、宮崎と同年生まれである)。

そして、あれから約三十年。その間に日本の「オタク文化」は世界から広く評価されるようになって、「オタク」の「負のイメージ」はかなり薄れてきた。
それでも、「ロリコン」となると、「気持ちわるい変態」というイメージは、いまだ払拭されてはいない。
それはたぶん、本書にも描かれているとおりで、「子供を守ろうとする動物的本能」に由来する「強迫的な感覚=脳科学的な物理反応の結果」に発するものだったからなのであろう。

言い変えれば、その他の「変態」は、大目に見られるようになった。
例えば「サドマゾ」とか「スカトロ」とか「獣姦趣味」とかいったことは、一般的な理解は得られないにしても、「他人に迷惑をかけないのなら」という条件付きで「個人的な趣味」として認められるようになったし、かつては「変態」の一種として差別の対象であった「同性愛」をはじめとした「LGBT」などは、むしろ差別した方が厳しく糾弾される時代となったのだ。

だが、「凡庸な人間」というものは「型で分類する」ことしかできないものだから、どうしても「変態は、醜い悪である」という発想から、完全に自由になることはできない。
そもそも「凡庸な人間」は、「何が正常で、何が異常なのか」とか「何が正しくて、何が誤りなのか」とか「何が美で、何が醜なのか」などといったことは考えない。そんな「根本的な思考」など、するしない、できるできない以前に、思いもよらないのである。だから、そうした「無思考の偏見」は、時代の「タテマエ」に覆われたかたちで、潜在化し、隠蔽され、陰湿化する。
本書に描かれているのは、そういう「陰湿な時代」としての「今」である。

そんな時代に、「非凡=普通ではない」人間が生きるのは、なかなか難しい。
周囲をねじ伏せるだけの「非凡な力」があるのならばともかく、普通の「非凡な人間」つまり「毛色が変わっているだけで、特別な力を持たない人間」が、自分の「非凡さ」をそのまま出して生きるのは、やはり、世間の抵抗が大きすぎて、容易なことではないのだ。

だから、それを「隠して生きる」という選択肢も、おのずと必要になってくる。
もちろんそれは、不本意なものではあるのだが、人間誰しも、自分の思いどおりに、開けっぴろげに生きているわけではないのだから、所詮は、どの部分を「自制」するのかという問題でしかないのかもしれない。

しかしまた、「自分をすべて正直にさらけ出して生きている人間など、一人もいない」ということに気づくならば、自分の「性癖」を隠していることを、ことさらに恥じる必要もないのではないだろうか。
実際、多くの人は、他人を見て「こいつら馬鹿だな」と思っていても、それをそのまま口にはせず(素顔=本性を隠し)、もっともらしく表面を繕って(自制し隠蔽して)無難に生きているのであり、だからこそ、その反動から、ネット上での匿名においては、「ネトウヨ」のような、恥も外聞もなく「他人を傷つけることを喜びとするような、反社会的な変態」にもなってしまうのである。

話は、そう難しいことではない。人間という「極端に脳化された生物」は、ノータリンの単細胞でないかぎり、多かれ少なかれ「変態」なのだ。そもそも、人間というのは「動物的本能から逸脱した生物」だからこそ、良くも悪くも「特別な生き物」たりえたのである。

だから、自分が「普通ではない」ことをわざわざ吹聴して回る必要もないし、逆に吹聴したいのなら、自分の「非凡さ」を隠す必要もない。その人が、個々に生きやすいように生きればいい。個人的なことなら、それを隠すかどうかは、個人の自由な判断に任されているのである。

ともあれ、人間とはもともと「生物界における変態」であり、その意味で、人間は全員「変態(多形倒錯)」なのだから、昔、どこで聞いた言葉かは失念したが、本稿のタイトルのように「俺は変態だ。が、おまえも変態だ。」と思っていればいいのである。むしろ、「変態」ですらあり得ない人間は、いささか「不幸で貧しい人間」なのだから。

さて、最後に本作だが、こうした達観にはなかなか至り得ない「私たち自身の葛藤」を巧みに描いて、じつに素晴らしい作品だった。
多くの人が、こうした苦闘の末に「俺は変態だ。が、おまえも変態だ。」という「真理」的「境地」に至れるのではないかと、そんなことを示唆してくれる、本書は「希望の書」なのである。

初出:2020年10月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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