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トマス・ヴィンターベア監督 『偽りなき者』 : 子供に性欲を感じることは 「悪」なのか?

映画評:トマス・ヴィンターベア監督『偽りなき者』(デンマーク映画・2012年)

人気俳優マッツ・ミケルセンが「カンヌ国際映画祭・男優賞」を受賞した作品である。

最近では『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』(2022年)や『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(2023年)に出演するなど、その人気を世界的に不動のものにした感のある俳優だが、私は、前記2作には興味がないし、観てもいない。

(『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』のマッツ)

また「Wikipedia」で出演作をチェックしてみると、私が観たのは『ドクター・ストレンジ』(2016年)、『永遠の門 ゴッホの見た未来』(2018年)の2作だけ。
前者は「特撮」目当て、後者はウィレム・デフォーを観に行ったので、ミケルセンの印象は残っていない。

つまり、マッツ・ミケルセンという俳優に、まったくこだわりのない、顔を見れば「こんな人、いたな」くらいの認識しかない私が、なぜこの映画を観たのかというと、友人が熱心なマッツファンで、この作品のDVDを探していたからだ。

私は、もともと「初版本コレクター」だったから、無いと言われると「それでは、私が探してやろう」という気になった。
もっとも、昔とは違って、すっかり古本屋めぐりをしなくなったので、単に「ブックオフ・オンライン」に登録しておいただけなのだが、たぶん、この2年ほどの間に、今回を含めて三度ほど入荷報告が入った。だが、これまでは、他の人に先を越されてしまったのだが、今回はしっかりゲットしたという次第である。

このDVDは、Amazonに出品されている中古を見ると、おおむね1万数千円から2万円くらい。プレゼントするにはちょっと高いし、どうしても欲しければ、その友人もその値段でも買っているはずだから、私としては、それらより安く入手することを目標としたのだが、「ブックオフ・オンライン」の価格設定は7480円で、定価より2000円ほど高いだけなので、これなら買ってプレゼントしてもいいと思い、購入希望登録しておいたのである。

そして、そんな経緯で入手した中古の開封品なので、友人にプレゼントする前に観ることにした、という次第であった。

 ○ ○ ○

この映画が、女児への性的虐待に関する「冤罪もの」であるというのは知っていた。
友人も「観るのはいいけど、かなり辛い内容らしいので、その覚悟で」なんて言っていたので、もちろん、そのつもりで観たし、この映画の予告編は、劇場で見たことがあるような気もする。

ともあれ、「キツい(暗い)映画」だと言われれば、逆に「そういうのは得意だ」と闘志が湧いてくる私なので、何の躊躇もなく観たのだが、なるほど、独特の「嫌さ」のある映画だった。

ストレートに「児童への性的虐待に関する冤罪事件」を描いたリアリズム作品なのだが、主人公の立場に自分を置き換えて、思わず怖気立ってしまうような作品だったのである。

ストーリーは次のとおりだ。

『ルーカスは学校教師だったが、妻との離婚を経て今は息子のマルクスとの関係を保ちながら、幼稚園の教師を続けていた。彼の友人テオの娘であるクララはルーカスを好いていたが、贈り物をしようとしても彼が頑として受け取らないのに腹を立て、幼稚園の園長に彼が性的虐待をしたかのような告げ口をする。クララにとってはちょっとした悪戯でしかなかったが、閉鎖的な田舎町でこの発言は大きな波紋を広げ、ルーカスは許されない変質者の烙印を押される。そして買い物に出ようにも店から追い出され、仕事も奪われ、いわれのない近隣からの攻撃に家に閉じこもらざるを得なくなり、ついには警察に連行されてしまう。だが、証拠不十分なため無罪となり釈放されたルーカスは、周囲の人々に自分の誠意を訴えることで関係修復を成し遂げた。すべては解決されたかに見えたが、漠然とした悪意はなおも周囲に残り続けていることを彼は肌で知るのだった。』

Wikipedia「偽りなき者」、「物語」より)

ルーカス(マッツ・ミケルセン)が、幼稚園の女性園長に「話がある」園長室へ呼び出され、軽い気持ちで園長室に行き、「そこへ座って。じつは、ちょっとお話ししなければならないことがあるの」などと深刻な口調で言われ、何だろうかと、少し居住まいを正して傾聴しようとしたところ、園長が躊躇しがちに言うには「じつは園児から、あなたに性的なイタズラをされたという話が出ているのよ。それで、こちらとしても放置しておくことはできないので、しばらく自宅待機しててくれないかしら」という話なのであった。

この話を聞かされた時の、マッツ・ミケルセンに顔の、あるいは「眼の演技」が、じつに素晴らしかった。

一瞬にして事情を悟り、「これはただ事では済まないぞ。もしかすると大変なことになるかもしれない」と動揺し、怯えてさえいる内心を、その眼の演技で見事に表現していたのである。ルーカスは、その場では「そんなことはしていません」とさえ言わないのだ。
無論、マッツの演技の素晴らしさは、このシーンだけではなかったのだけれども、完全に表情だけの演技なればこそ、その非凡さが際立つシーン(カット)だったのである。

(園長の話に動揺するルーカス)

これを見て、子供に接する仕事についている人は、思わずルーカスに自身を投影して、怖気立ったことであろう。そういう職業についていない私ですら、そう感じたのだから。

一一で、この映画については、特にこれ以上、コメントの必要はないであろう。

要は、リアルでよく出来た「冤罪もの」映画であった、ということで十分だと思う。
本作で、語られている「問題」とは、要は「偏見」や「思い込み」や「色眼鏡」といったことであり、特に「幼児性愛者」に対する、一般的な「憎悪」の問題である。

こうした「性的犯罪に関わる冤罪事件」というのは、例えば『Shall we ダンス?』などで知られる周防正行監督の撮った『それでもボクはやってない』などもあって、多くの男性の共感を呼ぶとともに、たぶん女性からの反発もあったことであろう。

どうして、男性から共感を得たのかと言えば、それは満員電車などに乗っておれば、否応なく女性と身体接触する場合もあって、これは「ひとつ間違ったら、痴漢と言われかねないぞ」などと考えて、慌てて、体の向きを変えたり、可能であれば両手を吊皮の方へ持っていったりした経験は、男なら誰にもあることだからだ。

昔、子供に人気のあったザ・ドリフターズのヒット曲に「ドリフのバイのバイのバイ」(作詞:添田さつき・森雪之丞、1976年)というのがあって、その1番の歌詞が、次のようなものであった。

『通勤ラッシュの恋人は
 8時5分の快速で
 毎日決まって デイトする
 ニキビが可愛い 高校生
 押された弾みで やむを得ず
 ちっちゃなヒップに 触ったら
 痴漢と叫ばれ それっきり
 可愛いあの子に バイのバイのバイ
 電車を乗り換え ツライツライツライ』

大雑把に言って、「昔は、こういう雰囲気だった」のだが、今ではこんな歌詞も、非難の的になって、およそ書き得ないものなのではないか、ということである。

私は、これまでに何度か書いてきたとおり、フェミニズムには理解のある方だし、ポリコレにも基本的には同意している、きわめてリベラルな人間なのだが、しかし、世の中が「弱者保護」について、過剰なまでに神経質になっている、という現状認識は持っている。

たしかに、「被害者の立場」からすれば、「ちょっとしたこと」でも「許せない」と考えるのは当然だし、許す必要はない。
だが、問題は、それが本当に「犯罪なのか?」という、個別問題である。

例えば、上の歌のあるとおり『押された弾みでやむを得ず、(ちっちゃな)ヒップに触ったら』のなら、これは「故意」が無いのだから、当然「犯罪」ではなく、彼の行為が責められる謂れなど無い。

しかし、そこに「故意」があったか無かったかというのは「内心の問題」であって、当人以外にはわからないことだし、故意の犯罪者であっても、「わざとやったのか?」と問われれば、普通は「わざとじゃありません」と言い訳するだろう。動かぬ証拠でもあれば別だが、初めから捕まってもいいと思って犯罪を犯す者など、滅多にいないからだ。

(クララは、優しいルーカスが大好きであった)

しかし、そうなると、「痴漢だ」と騒がれた場合、昔なら「違いますよ」などと言い訳をしながら立ち去って、次からは別の電車に乗るようにすれば、ひとまずはそれで済んでいたことであっても、今どきは、女性も「犯罪者、許すまじ」という強い意志を持って、相手を捕まえて離さない人もあれば、周囲の人が、その正義感から、その容疑者男性を捕まえる場合もあるだろう。すると、話は「おおごと」になる。

要は、その場でいくら抗弁をしたところで、「水掛け論」にしかならないから、ひとまず駅員を呼んで、駅長室まで行き、そこへ警察官が呼ばれて来て、ひととおりの事情聴取をした後、そこで「誤解」が解ければ良いのだけれど、両者の言い分が対立したままなら、両名揃って警察署まで「任意同行」ということになり、警察署で「事情聴取」ということになる。

要は、「被害者」も「容疑者」も、取調室で、刑事から詳しく事情聴取され、刑事はそこで「事件判断」をし、「これはやったな」と思えば、「容疑者」の供述の矛盾点を厳しく追求して自供を引き出そうとするし、「これは冤罪くさいな」と思えば、「被害者」に対し「これだけでは、必ずしも犯罪とは認定できないが、被害届を出すことはできるし、捜査をすることは可能だけれど、そのかわり、今後しばらくの間は、現場検証なども含めて、捜査にいろいろと協力してもらわなければならない。また、それで必ず有罪になるという保証まではできないが、どうしますか?」というように、暗に「ここらで、諦めた方がいいのではないか」と水を向けたりのだが、興奮している「被害者」は、そう簡単に引下がりはしない。
それどころか、刑事に対して「私が嘘をついているというんですか!」「犯罪者を捕まえるのが警察の仕事でしょう!」「捜査が面倒だと思ってるんじゃないですか!」などと喰ってかかる者も珍しくはない。それこそ「警察によるセカンドレイプみたいなものだ」ということになるのだ。

だから、警察としても、「被害者」を強く説得したりはしない。
「わかりました。では、被害者調書を作成しましょう」ということになり、正式な事件捜査に入るわけであり、当然のことながら「容疑者」に方には、「被害届が出されたから、我々は捜査をしなくてはなりませんので、そのつもりでご協力願います。我々は今のところ、どちらが真実を語っているのか、その判断を持っていません。その判断をするために捜査をするのですから、言いにくいことも含めて、すべて正直に話して、捜査にご協力ください」というような説明をすることになる。

事ここに至って、その「容疑者」の男性は、正式に「被疑者」ということになる。
当然のことながら、家庭や会社に隠しておくわけにはいかなくなるから、「冤罪です」と説明はするにしても、もうそれをしなければならない状況に置かれたというだけで、絶望的な気分になるというのは、容易にご想像いただけよう。

無論、私がここで書いているのは「冤罪」の場合で、実際に「犯罪」のあった場合の話ではない。
実際にやった「犯罪者」なら、絶望するのは当然で、それは自業自得でしかないのだが、前述のとおり、問題は「実際にやったか、やってないか」は、「客観的には」誰にもわからない、という点なのである。
だから、当然のごとく、「冤罪」で「有罪」となり、新聞やテレビで実名報道される人も出てくる。これは「避けられない現実」なのである。

しかしまあ、突き放して言うなら、こうした「理不尽な現実」も、人間が「社会的な動物」である以上は、「そうした嫌疑をかけられる可能性は誰にもあり、そうなった場合は、法的手続きに従う義務が、すべての国民にはある」ということなる。
「あってはならないこと」でも、現実に「あること」ならば、「あった時には、嫌でも理不尽でも、法的手続きに従ってもらうしかない」というのが、「法治国家」の冷厳な大原則。
要は、すでにそこでは「真実」がどうかは問題ではなく、「法的手続き」の中で「どちらと認定されるか」という問題でしかなくなってしまう、ということだ。

しかし、ここまでは、基本的には、成人男性の成人女性に対する「痴漢容疑」という話であった。その逆というのは、滅多にないものだから、男性の側はむしろ「被害者意識」を持ちがちで、「痴漢と言われたら、痴漢なのかよ」という気分があるから、周坊監督の映画のような「冤罪男性」の側に立つ意見が出てくると、思わず「そうだ、そのとおりだ!」と言いたくなるし、女性の側では「こういう安易な男性視線が、犯罪者を生み出すことにもなるんだ」などと「一理ある」不満を持つことにもなる。

要は、現実に、少なからぬの「痴漢男性」が存在し、多くの「被害女性」が存在する反面、中には「冤罪」も確実に存在するから、その「懐疑」の「程度」や「兼ね合い」が難しい。
犯罪捜査をする警察の立場からすれば、どんなに一生懸命に捜査しても「間違うことはある」ということなのだ。なにしろ、「人間(のやること)だもの」、ということである。

「犯罪は、あってはならない」と言っても、犯罪がなくなることは決してないというのと同じで、冤罪というのも、人間が捜査する以上は、一定数は必ず生み出されるものであり、それは否定できない現実。
「自分なら、100パーセント冤罪を生み出さない捜査ができるし、もし冤罪が発覚したら、死んでお詫びしよう。それでも足りなければ、家族ともども死んで詫びよう」などと約束できる者など、この世には存在しないのである。

だから、自意識過剰でも何でもいいから、自分が「女性から性被害にあった」と思う男性がいたら、遠慮なく被害届を出せばいい。
それで面倒なことになるのも覚悟の上で、しかし、「正義の実現」のために、自分の信ずるところをなせばいいのであって、そのようにして「男女平等」が実現すれば、今は、基本的に「被害者」の側である女性も、「自明の被害者意識」には止まっていられなくなり、「現実の落とし所」という難しい問題にも向き合わなければならなくなるだろう。
つまり、いくら自分が被害にあったと「確信」しても、実はそうではない場合も必ずあるのだし、その場合は、今度は自分の方が、正直に責任を取らなければならないし、それから逃げることは許されない、といったようなことである。
「間違ってました。すみません」「本当に痴漢だと思ったんですもん」では済まされない話だからだ。

物事は「確信」だけでは、話にならないし、「真実」は誰にもわからない場合がある。
それが「現実」なのだから、仮に、本当の痴漢犯人であったとしても、それが何らかもミスで「無実無罪」だと立証された時に、被害者は、攻守逆転して、相手からの逆提訴された時に、法的に誠実に対応できるのか、その覚悟があって、相手を告発したのだよな、ということである。

もちろん、普通はできない。その人にとっては、「痴漢行為はあった」のであり、ただ「警察が失敗しただけ」なのに、「どうして、自分が悪者にされなければならないのか」と考えるのは当然なのだが、しかし「立証できない真実」は「法治社会」においては「法的な事実」ではないのだから、いくら納得はいかなくても「法治社会」に生きる以上は「法には従わなければならないのだから、従わなければならない」ということにもなってしまう。
だが、そう納得するのは、不可能なのだ。

 ○ ○ ○

大人同士の犯罪においても、これが現実なのだ。

当たり前の話だが、多くの犯罪では「真実は(行為者本人と)神のみぞ知る」なのだが、「法治国家」では、そうも言っていられないから、可能なかぎりの「真相究明」が行われ、多くの「真相」が究明される一方で、真相究明されないものもあれば、誤った究明がなされる場合もある。要は「冤罪」である。

だから、被害者が「認知能力」「発言能力」に劣る「子供」であった場合に、話は余計に面倒なことになるというのは、いうまでもないことだろう。

だが、動物には「子供を守る本能」というものがあるので、「被害者」が、大人である場合と、子供である場合とでは、どうしても「反応」が違ってしまう。つまり「子供を狙うんて許せない!」というのが、実感のこもった感情として湧いてくるのだ。

いうまでもないことだが、犯罪というのは、被害者が大人であろうと子供であろうと、同じように許されるものではない。
にもかかわらず、「子供を狙うんて許せない!」という強い感情が生まれてくるのは、子供が「弱者」だからというだけではなく、そこに「本能」的なもの、「種の保存」的な本能が、強く働くからであるのだが、そこまで考える人はごく稀だから、そうした意識は、無条件の「正義」だと勘違いされて、「正義の暴力」が発動してしまうことにもなる。一一それが、この映画で描かれているようなことだと言えよう。

たとえ、警察の捜査によって「冤罪」だと立証されても、「警察が間違うこともある」と考えたり「証拠がないからと、うまく逃げ切りやがった」と考える人は、当然のことながらいる。
そうした人にとっては、その「無罪放免」になった人は、所詮「うまく逃げ切った犯罪者」でしかないから、憎しみは倍増し、それを憎む自分の「正義感=憎悪」は、さらに高まるということになるのだ。

(無罪放免となって自宅に戻り、息子と抱き合うルーカス)

しかし、こんなことを認めてしまったら、一度「嫌疑をかけられたら、一生それを背負わなければならない」ことになってしまうのだが、実際、そのようになってしまう「現実」は、確実に存在するだろう。
いくら当人が「あれは冤罪だった。それは警察も認めてくれた。裁判官も認めてくれた」と言っても、そんな抗弁は「確信に至った思い込み」に対しては、前述のとおりで無力なのである。

だから、私たちが、こうした「冤罪」を、すこしでも減らそうと思えば、「法的手続きに従い、その結果を尊重する」くらいしかないのだが、しかし、その「司法システム」もまた、決して「完璧ではない」というのは誰もが知るところなので、ほとんどの人は、「仮に、捜査ミスや誤審であったとしても、その法手続きに従った決定を尊重し、これには従おう」とは考えないだろう。
それも、人情としてはやむを得ないところだから、結局は、本作で描かれたような「理不尽な偏見による差別的犯罪」が無くなることはない。

平たく言えば、マッツ・ミケルセンが主演しているから、映画なので「神の視点」から「真相」を知り得るから、ほとんどの観客は、ルーカスに同情するのだけれども、現実にルーカスのような場合があったとしたら、冤罪が晴れた後も「でも、あいつ、ほんとはやったんじゃないのか」と考える人が、大半でなのではないだろうか。

「やったかどうかは別にして、無罪になったんだから、無罪の人として扱わなければならない」とまで律儀に考える人は、なかなかいないだろうし、事実、そのように考える人が少ないからこそ、「性犯罪前歴者の情報公開」なんて「人権侵害」が、当たり前のように議論されるようにもなっているのである。

もちろん、子供を持つ親の「感情」としては、子供が被害に遭う可能性を「ゼロ」にしたいと願うのは当然のことだ。
しかし、それは、原理的に不可能なことだし、それでも、そこだけを強調しすれば、他に弊害が出てくるのは必然なのだが、このような議論は、その「性犯罪前歴者」の中に、仮に「冤罪」者がいたとしても、それは「仕方がない」で済ましてしまうものなのだろうし、こうした動きに、疑問を覚えない人というのは、この映画の中で、ルーカスが無罪放免になっても、まだ差別し、暴力まで振るった人と、本質的には同じだ、ということなのである。

(ルーカスには商品を売らないと言い、それに抵抗した彼に暴行を加える店員たち)

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そもそも、今では、かつて「犯罪」であるとされた「同性愛」も含めて、「変態」だと蔑視されてきた各種の「性的志向」が、「それもひとつの性愛のかたち」だと認められるようになってきたし、私は、それが正しいことだと思う。
メジャーとマイナーの違いはあっても、性愛の対象にいろんなパターンがあるというのは、ごく自然なことであって、「社会的実害が無いのであれば」、どんな性癖であろうと、それは個人の自由であり、他人に蔑まれたり、差別されたりする理由にはならない。
例えば、ウンコの中を転げ回ろうと、女王様の黄金水を飲もうと、それはその人の趣味であって、他人がとやかく言うようなことではない。差別してもならない。私なども、ついネタにしてまうことがあるけれど、それも厳密に言えば、差別である。

しかし、私ほどにも「腹をくくれる人」がなかなかいないのだから、ましてや「小児性愛者」に対する「偏見や差別」が無くならないのは、当然であろう。

言ってしまえば、「性向」として「小児性愛」自体は、何ら「罪」ではないし、恥じるべきことでもない。

問題は、実際に子供に手を出せば「犯罪」になるというだけであり、心の中で子供を陵辱していようが、エロ漫画でオナニーしていようが、それは「趣味」の範疇でしかなく、他人にとやかく言われる筋合いはないのである。

だが、前記のとおり、性愛の対象が「子供」だということになると、人間であっても激しく「種の保存本能」が作動して、「小児性愛者だけは許せない」「頭の中で考えているだけでも許せない」「そんな奴は、犯罪予備軍なのだから許せない」ということになってしまう。

たしかに、そうした人の中にも「犯罪予備軍」的な人はいるだろう。だが、それだけで「予備軍」認定できるのであれば、エロ本やエロビデオ(DVD)を視ている人も「犯罪予備軍」だし、不倫ドラマを視ている人は「不倫予備軍」だし、戦争映画が好きな人は「戦争(大量殺戮)予備軍」だということになるはずなのだが、そこまで考える人は、ほとんどいない。

ほとんどの人は、自分が、心の中も含めて「ノーマル」だと思い込み、自分のことを棚上げにして、他人のことを安易に「犯罪者予備軍」呼ばわりして、その「正義」に酔うだけなのである。

実際、「映画.com」や「Filmarks」のカスタマーレビューを見ても、そのすべてが、自分は「ノーマルだが」という前提に立って、「冤罪は怖い」とか「偏見は怖い」とか「正義は怖い」といった、凡庸無難な意見しか語っていないはずで、「小児性愛者も、子供に手を出さなけれなOKだ」などということを、あからさまに書いている人などいないはずだ。なせなら、一一レビュアーの多くが「自分はノーマルであり、小児性愛者は認めていませんよ」とアピールして、「世間に迎合したい」からである。

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しかし、私が若い頃には「ロリコンブーム」というのがあって、「ロリコン」であることは、さほど「特別なことではない」という雰囲気があった。

(当時「ロリコンエロ漫画」の人気作家だった内山亜紀

要は「半分腐ったような大人の女や、ヤリマン女なんかよりは、汚れを知らない少女に惹かれるのは当然のことだろう」というような、いささか極端な「オタク的性愛観」が広くあったので、「ロリコン」がかっこいいとまでは言わないものの、そうであることが「犯罪予備軍」認定の理由となって当然だなどとは、つゆほども思わなかったのだ。

そもそも、『不思議の国のアリス』の作者であるルイス・キャロルが「ロリコン(アリス・コンプレックス)」であり、少女のヌード写真を撮っていたというのは知られた話であり、当然、多少は手も出していたことだろう。相手の承諾を得ていたとしてもだ。
今なら、完全に「犯罪」だが、当時は「地位や名誉や親の承諾」でもあれば、問題にはならなかったのであろう。

また、日本の歴史を見ても、女性が一番美しいとされたのは、十五歳前後で、二十歳前にもなれば「姥桜」呼ばわりされかねなかったというのも、歴史的常識である。つまり、結婚年齢も早かった。
今でなら、そんな若い女性に手を出したら、相手の承諾があっても「未成年者に対する淫行」ということで罪の問われるはずだが、時代と場所が違えば、それは「犯罪」でも何でもなかったのである。

今でこそ「本人(子供)の承諾」があっても犯罪になるのは、未熟な子供には「正しい判断ができない」という建前があるからだが、こんなものは時代によっていくらでも変わるものだし、そもそも、大人だって「まともな判断能力がない」者など山ほどいるからこそ犯罪もあるのだし、子供でもしっかりしている者は、下手な大人以上にしっかりしているのである。

つまり、「小児性愛」における実行行為が「犯罪」となるのは、それが「絶対的な罪」だからではなく、「その時代の認識」だからであるに過ぎない。

しかし、すべての決まり事とは、本質的には、同じことなのだ。
例えば、「人殺し」。

「人殺し」も、時と場合によっては、「犯罪」にならないばかりか、国家や世間から褒め称えられ、英雄扱いにされることだって、なんら珍しい話ではない、というのは、周知の事実である。

つまり「戦争」にあっては、何の罪もない敵国人を虐殺しても、基本的には罪にはならない。
もちろん、民間人を殺してはいけないとかいった「戦時法」などもあるけれど、実際の現場では、それが破られることなど何ら珍しい話ではないことなど、みんなが知っていながら、それでも多くの人は「戦争なら、殺しても仕方がない」という考え方に同意するのである。

だとすれば、つまり、「人殺し」でさえ「絶対悪ではない」というのに、どうして「小児性愛」の場合だけは、「頭の中で考えるだけ」でも、忌み嫌われなければならないのだろうか?

それは無論、多くの人が、物事を突き詰めて考えることをしないし、自分を「多数派」の方に擬することで、保身を図ることに汲々としているからである。

(理不尽な暴力に晒されて、顔に傷を負ったルーカス)

したがって、本作『偽りなき者』という映画は、問題提起ということで「消費」はされても、それでおしまいだというのは目に見えていよう。

はっきり言えば、こんなものは「過酷な現実」に比べれば、屁でもない「お話(フィクション)」でしかなく、こんなものに、何か「学んだ」つもりになっているようなやつは、生涯なにも学ばないまま、無自覚にルーカスを差別する側で生きるのである。

仮に、ルーカスが「小児性愛者」であり、しかし「子供に手を出したことのない人」だったとしたら、あなたはどう思うだろうか?

あるいは、ルーカスが「未成年者淫行の前歴者」であり、しかし前非を悔いて、絶対に二度と子供には手を出さないと心から誓い、それを実行していたとして、その彼が保育園で勤めているのを知ったら、あなたはどう思うだろうか。その保育園に、自分の子供が通っていたら、黙っていられるだろうか?

少なくとも、そのくらいまでは考えなければ、何も考えたことにはならないし、この映画は、ほとんど「無駄な暇つぶし具」にしかならないはずなのだが、実際のところは、それ止まりなのではないだろうか。


(2023年8月14日)

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