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千葉雅也、 二村ヒトシ、 柴田英里 『欲望会議 性とポリコレの哲学』: 〈畜群〉的な争闘への「人間的」介入

書評:千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里『欲望会議 性とポリコレの哲学』(角川ソフィア文庫)

抜群に刺激的で面白い鼎談である。なぜ、刺激的で面白いのかというと、ある意味では、今の社会において「最もホットでヤバイ問題」を扱って、忌憚のないところを語り合っているからだ。

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哲学研究者の千葉雅也については、これまでその著書の何冊かついてレビューを書いてきた。千葉は、面白い視点を提供してくれる人ではあるものの、私からすると、やや「無難」に逃げているふしがあって、その点を批判することが多かった。
しかし今回は、これまでのような「一般的な哲学のお話」ではなく、近年「ゲイ」であることをカミングアウトした者の立場からの発言をしていて、そのかなり突っ込んだ物言いが(ほぼ無条件に)面白かった。

二村ヒトシという人は、初めて知ったのだが、ポルノ映画監督だそうで、性にまつわる問題を扱ったエッセイ本などを出しており、そうした著作の評判も良いそうだ。
今回の鼎談では、自分個人の意見を出しながらも、基本的には、「ポルノ映画」という「性」を扱う商売で食っている現場の人間として、社会との兼ね合いをリアルに尊重しなければならないということから、3人のうちでは最も「良識的な立場」を、あえて引き受けているように見える。

柴田英里という人も、本書で初めて知ったのだが、現代美術作家だそうだ。この人はフェミニストなのだが、「数で物を言うTwitterフェミニスト」的なものを批判挑発することで、始終「炎上」している(させている)人なのだそうだ。
私は、この人の、世間の空気に忖度しないどころか、そうした世間の空気をあえて掻き乱そうとする、遠慮会釈のない挑発的批評性に、たまらない痛快さを感じた。そこで、単著を読もうと検索してみると、まだ単著はないようなので、今後要注目人物としてチェックマークを入れることになった。

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さて、本書で語られるのは、「性」の問題である。

これまで長い間、「性」の問題は「公に語られるべきではないもの」として「社会的な抑圧」が加えられてきたが、そのために、ある種の偏った、言ってしまえば、男性優位のヘテロセクシャリズムという「性規範」が、当然のごとく強いられ、そうではない人たちが「差別・抑圧」されてきた。
だが、これまでのフェミニズム運動に加え、近年では、LGBTQの解放運動や、#MeToo運動などの新しい動きによって、従来の「性規範」に疑義が呈され、それへの批判的な趨勢が際立って強まってきた。
こうした近年の動きは、ネット社会の到来による変化と見て間違いないだろう。すでに「言論」は、一部「知的エリート」の独占物ではなくなったのである。

無論これは、基本的には良いことであり、喜ばしい変化なのだが、しかし、こうした流れは「これまでの抑圧に対する反動」という側面も強く、そのために「逆振れしすぎる」という弊害も見られるようになった。
それを象徴するのが、女性なら誰でも参加しやすいという意味において画期的だった「#MeToo」運動や、同様の意味で盛り上がっている「告発主義」的なツイッター・フェミニズム(略称・ツイフェミ)といった、主にネット上で展開される運動であろう。

いわゆる、「#MeToo」や「ツイフェミ」の行動家たちとは、「女性差別」や「フェミニズム」の問題について、学問的な裏付けを持って関わってきた人たちではなく、「セクハラを受けた」とか「セクハラ的作品に傷つけられた」という、言うなれば、今ここの「当事者」である。
「当事者」であるからこそ、彼女たちの訴えは切実であり、学者や社会運動家のそれとは違って、無視しがたい「力」を持っている。

学者や社会運動家の批判や提言であれば、批判された方も「ご意見たしかに承りました。お互いに、しっかり議論し、検討した上で、よりよき方向を模索していきましょう」といった、「余裕」なり「ユルさ」なりを持てるのだけれども、「被害当事者」による直截的な告発は「今ここで、結論を出せ。無論、それはあなた方の謝罪だ」というかたちになりやすい。なにしろ、訴えているのは「被害当事者」なのだから、自身の「被害」そのものを「疑う」ことなどまずは無いし、当然、彼女たちに告発された者の方は、その場で「加害者=犯人」と認定されており、「まずは事実関係を、しっかり確認し、お互いの立場について、しっかり話し合って、検討しましょう」みたいな話にはならない。そんな返事をされたら、「被害当事者」であれば「ふざけるな、何をごまかそうとしているんだ!」と激昂することも少なくないだろう。つまり、多くの場合に、「議論の余地」が見出しにくいのである。

しかし、世の中に「不当に虐げられた人たち=被害者」が多いとは言え、「被害者」を名乗る人の「自己申告」だけを鵜呑みにはできないというのも、一方で当たり前の話ではあるから、「加害者」認定された方は「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるのも当然だろう。
だが、問題は、この「ちょっと待ってくれ」という「容疑者」の中には、実際に加害行為を行った「犯罪者」もいれば、「冤罪者」もいるという事実である。

そして、さらにこの問題を難しくしているのは、実際に加害行為を行った「犯罪者」と「冤罪者」の差異とは、しばしば「認識」の問題によるところが大きい、という点である。
例を挙げるなら、「セクハラ」でよく話題になる「同じ行為をしても、する者によって、セクハラになったりならなかったりする。要は、された方の意識の問題でしかない」とされるような点だ。

この問題について、多くの男性は「それはおかしい。事実行為は同じなのに、やられた方の主観だけで、その行為の意味が確定できるというのなら、極端な話、同じ行為を同じ人が何度か行った場合、ある時はセーフだったが、ある時からはアウトになるといったことにもなるはずだが、そんな気まぐれなど、他人には推察想定不可能であり、判断のしようがない。したがって、そうした一方的な評価を認めるのなら、人々は無難に他者との距離を置くしかなく、深い関わりが持てなくなってしまうのではないか。しかし、それでは社会的な弊害も大きいはずだ」といったこと考えるだろうし、事実、そのとおりでもあろう。
だが、だからと言って、「行為者(加害者)の主観」だけで、やられたのでは、弱い立場の方はたまったものではない、というのも確かだ。

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では、私たちの誰もが持つ、この「他者とつながりたい(他者から肯定されたい)」という「欲望」を、どのように考え、どうすればいいのだろうか? 一一これが、本書のテーマだと言えるだろう。

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本書は、こうした非常に難しい本質問題について、多岐にわたる話題を扱っており、これらについて「簡単に紹介する」などということは、およそ不可能だ。
したがって、レビュアーに可能となるのは、「他人事」のような羅列的紹介か、話題を限定して、自分の見方を語るかの、二つに一つだが、私の場合は、無論、後者ということになる。

これほど面白い本なのだから、私の評価や意見は別にして、とにかく多くの人に、実際に本書を手に取り、そのヒリヒリするような現場に立ち会って欲しいと思う。大切なことは、「第三者的」匿名コメンテーターになることではなく、現場に立ち会うことなのだ一一と、そう断った上で、私の思うところを書いていきたい。

私がここで、本書全7章(単行本では、全5章)のうちの、「第1章 傷つきという快楽」に、話を限定したい。この第1章で扱われるのは、本書で扱われる問題全体の基底となる部分だからである。

この「傷つきという快楽」ということだが、これがもう大変に、多くの人の「神経を逆撫で」する言葉だ。
要は、「被害者」というのは「被害を受けて傷ついた」ということにおいてステグマ=聖痕を得たも同然であり、それまでは「何者でもなかった私」が、ある意味で「特別な存在=選ばれた者=使命を帯びた者」に変わるということなので、そこには自覚されることの少ない「快楽」が、確実に存在している。そのため、「被害者」はしばしば、「絶対正義」を振りかざして、居丈高に「加害者」認定した相手を断罪しがちなのだ、一一といった「含み」を持った言葉なのである。

「これではまるで、被害者が悪者ではないか」という批判が、当然のことながら、「被害者」と「その支持者たち」からは出てくるだろう。「あなたは、加害者を庇うのか、弱者に対する強者の加害を容認するのか」と問われることにもなる。
当然「そうではない。あくまでも、客観的第三者として評価すれば、そういう側面もあるだろうし、そうした心理状態に発する、誤認や行き過ぎもあるだろうから、私たちはその点に配慮して、慎重であらねばならない、という話をしているだけだ」と説明するだろうが、それに対しては「それは、被害者の痛みに対する、傍観的第三者の鈍感でしかない」などと反論されるかもしれない。「結局あなたたちは、現状の中で、ものを見ているに過ぎないのだ」といった強い言葉で、中立的であろうとする者の立場が否定されることもあるだろう。
こうなると、多くの人は「もう、議論するだけ無駄だ」となって、後に残るのは「対立的二者によるケンカ(覇権争い)」ということになってしまうのだが、すでにネット上では、そのようになっているようなのだ。

私自身は、ツイッターを「永久凍結」されていて、「ツイフェミ」なる人々が、そこまで大きな勢力なのかどうか、そこまで酷いのかどうかといったことは、実際のところよく知らないから、彼女たちの存在に、敵意も危機感もないのだが、ネトウヨ(ネット右翼)に対する「対立者」となって「永久凍結」を食らった者としては、こうなるのも、決して分からない話ではない。要は「弱者が、ネットという武器を手にして束になると、その未経験の力能のために暴走しやすい」ということだ。

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私はこれまで、「弱者・少数者の味方」であり、おのずと「女性の味方」を自認し自負してきたのだが、しかし、今の世の中は、そうした単純な立場選択では済まされ得ないというのが、本書を読むことで、嫌でも感じられた。

どういうことかというと、簡単には「弱者・少数者」などと一括りには認定できない世の中になってきた、ということである。
例えば、「#MeToo」運動がそうであるように、本来「弱者」であり「被害者」であった女性たちが「#MeToo」の名の下に団結していった結果、相応の「多数者」となり、社会を動かす、一種の「強者」になってしまう、という事実があるからだ。

もちろん「弱者」は団結しなければ、「強者による誤った行為」を断罪して正すことができないので、これが必要なことであるというのは言うまでもない。
しかし、「強者」の立場に立った人の中からは、確実にその「権力」を濫用する者が出てくるというのもまた、人間の「歴史的現実」であるから、当然のことながら「#MeToo」運動の中からも、そうした「不適切行動=自制心を欠いたやりすぎ=過剰要求」に出てしまう人も出てくるし、それが「故意の誤り」ではないとしても、「傷ついた人間=被害者」つまり「私はステグマを負っており、他の人たちには無い、特別な発言権が与えられてしかるべき人間だ」と思い込んで「やり過ぎてしまう」人たちが、確実に出てくる。また、それによって、本来の敵ではなかった人たちとの間にまでも、軋轢を生むことにもなる。(※ だから、私は徒党を組まないし、自身を被害者ではなく、主体的な批判者であり攻撃者であると自己規定するのだ)

自分は中立だと思っていた人たちが、その善意において「あなた方が被害者として傷ついたことについては、同情を禁じ得ない。しかし、そこまで一方的に言うというのは、言い過ぎではないか」と助言のつもりで注文をつけたときに、そうした「被害者」たちは、それに対し「あなたは、何もわかっていない。あなたは中立のつもりだろうけれど、単に、自分がこれまで加担してきた社会の問題の切実さについて、加害者としての当事者意識を欠いているだけなのだ」といった調子で反論されれば、「なんだこいつは!」ということで「反フェミ」なり「嫌フェミ」になっていく人も出て、社会の「正義」をめぐる分断は、一層深まることになる。

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こうした「かなり厄介な問題」に対して、単純に「やかましい女たちは嫌いだ」といった「単細胞な反応などできない」という知的な「リベラル」は、ではどういう立場を採るのかというと、両者の間に入って「対話を促す」というような面倒なことは、まずしない。それをした場合、前記のとおり、「体制派認定され、敵(悪の一味)視される」蓋然性が、きわめて高いからである。
ならば、ここは「習慣的」に「弱者・少数者・女性の味方」だということで、「女性」の側、「被害告発者」の側についておれば、大筋で「中立公正な正義」に見えるだろうと、そんな「無難な選択」をしてしまうのは、目に見えている。要は「正論ばかり吐く、傍観的第三者」の位置に止まろうとするのである。

だが、これだと「傷ついたと主張する人たち」の立場を強化するだけになるのは言うまでもないし、事実そのようにして、「#MeToo」なり「ツイフェミ」なりは、社会的影響力を拡大してきたのだとも言えるのだが、はたして、これで良いのだろうか?

無論、これで良いわけはない。

「弱者・少数者」は、そして、その意味での「女性」は擁護されなければならない。
しかし、そうした人たちが「強者」になってくれば、その存在は適切に批判されねばならない。
その「数の暴力」や「声のデカさ」を野放しにしてはならない。
それと同時に、そうしたものを、ただ「嫌ったり、反発したりするだけ」でもダメなのは、言うまでもない。

だから、真に「公正かつ知的」であろうとする者に必要なのは、ここでも「弱きを助け強きをくじく」ための「力関係に対する適切な判断と、自身の位置どり」なのではないと思う。

私は、常に「弱者」の味方ではあろうと思うけれども、それが必ずしも「少数者」や「女性」の味方でもある得るとは限らない、という難しい位置どりを迫られるだろう。
「少数者が、不当な権力を振るう強者(特権階級)となった場所」では、私はそんな「少数者」の敵とならねばならないし、「女性が、強者となっている場所」、あるいは「傷つけられた人が、それゆえに加害者に転じた場所」では、私は、そうした「女性」たちや「傷つけられ傷ついた元被害者である、加害者」と敵対しなければならないだろう。

いうまでもなく、この「線引き」は極めて困難である。
だが、だからと言って、「習慣的」に「弱者・少数者・女性の味方」だといって、無責任な傍観者であろうとすることは、少なくとも「ものの見えている人間」には許されないことである。

「私は被害者だ」といって目をつり上がらせている人たちと「私は、被害者の被害者だ」といって腹を立てて反撃している人たちの間に入って、「気持ちはわかるが、あなたたちは、どちらも間違っているよ」と言い、双方から敵視されるのが必然であろう立場を、あえて選ぶ者が、この社会を「ディストピア」にしないためには必要なのではないか。

この世界に「ユートピア」は存在し得ない。だから、もしもそれらしい社会が実現したのだとしたら、それは「ユートピアを僭称するディストピア」でしかない。

つまり、またもや「極端な理想社会」を目指す「二極イデオロギー対決」の世界に逆戻りするのは、あまりにも愚かだと言うほかない。「正義」を掲げた「理念的な領土の奪い合い」にも等しい「戦争」など、もう止すべきだ。

それでなくとも、人類の余命はそう長くないのだから、「不幸の連鎖」は解体されなくてはならないのだ。

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(2022年10月9日)

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