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春日武彦 『屋根裏に誰かいるんですよ。』 : 妄想の手触り

書評:春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。 都市伝説の精神病理』(河出文庫)

著者は、精神科医である。だが、半分は、趣味で精神科医をやっているような感じの、かなり変わり種の精神科医だと考えていい。
「Wikipedia」によると、

『京都府生まれ。父も医師であり、厚生省の技官を務めていた時期もあった。1968年都立秋川高校入学、その後静岡県立静岡高等学校に転校卒業、日本医科大学医学部卒業、同大学院衛生学科修了。1986年医学博士。産婦人科医を6年務めた後、精神科医に転向、東京都立松沢病院勤務、東京都立墨東病院神経科部長などを経て、2007年東京未来大学教授。2009年から2010年まで社団聖美会多摩中央病院 院長を務める。2010年から成仁病院に顧問として勤務している。』

とあり、もともとは産婦人科だったのだが、精神科に転じて、しかも最初に勤務したというのが、かの有名な「松沢病院」なのだから、こちらも、本人が志願したのではないかとさえ疑われる。

「松沢病院」は、1879年に「東京府癲狂院」として設立され、1889年「東京府巣鴨病院」と改称、さらに、1919年に荏原郡松沢村に移転し、東京府松沢病院になった(Wikipedia「東京都立松沢病院」)。

『1901年に東京帝国大学精神病理学講座主任教授・呉秀三が巣鴨病院院長を兼任し、病院改革を始める』

のだが、この「呉秀三」こそが、夢野久作の幻魔怪奇探偵小説『ドグラ・マグラ』の、重要なモデルとなった人で、

『主人公呉一郎の名、同正木教授の開放病棟の構想は呉秀三に因むものであろう』

ということになる(Wikipedia「呉秀三」)。

(映画版『ドグラ・マグラ』。左が呉一郎、右が正木博士)

ちなみに、「松沢病院」に収容されたことのある有名患者には、「明治後半から昭和にかけての日本の皇位僭称者。葦原将軍、葦原天皇、葦原帝とも呼ばれた、葦原金次郎」、「東京裁判の公判の最中、前の席に座っていた東条英機の頭を叩いた、大川周明」「パリ人肉嗜食事件の、佐川一政」などがいて、日本の「狂人」に興味がある人には、基礎教養に類する有名人たちがお世話になった、有名な精神病院である。

(葦原金次郎)

で、わざわざ産婦人科から、畑違いの精神科に転じ、最初から「松沢病院」に勤務し始めた本書著者の春日武彦は、その著書のタイトルをべっ見するだけで、上記のような「猟奇趣味」のある人だというのがわかる。
本書時刊行以前の初期著作だけでも、

『ノイローゼ・うつ病・心身症 心の不調、対処は?見通しは?』 1989
『ロマンティックな狂気は存在するか 狂気伝説の解体学』1993
『私はなぜ狂わずにいるのか』1994
『心の闇に魔物は棲むか 異常犯罪の解剖学』1996
『ザ・ストーカー 愛が狂気に変わるとき』1997
『顔面考』1998

と、「狂気」というものの「闇の部分」に取り憑かれた人だというのが、伝わってくるのではないだろうか。
もちろん、私は、それを非難しているのではない。私も、春日と同じような趣味があるからこそ、本書を読んでもいるのだ。

 ○ ○ ○

本書は、そんな著者が、比較的よく見かける「(被)侵入妄想」について紹介し、それを敷衍して論じた本だと言えるだろう。読者の興味の多くは、主にその生々しい「実例紹介」にあるのではないかと思う。

本書のサブタイトルは「都市伝説の精神病理」とあるが、これはもともと付いていたものではなく、文庫化に当たって、広く興味を引きやすいように、今風の「都市伝説」の部分を強調した、編集者的配慮ではないかと思われる。
たしかに本書では「都市伝説」についても語られてはいるが、それはあくまでも「参照事項」でしかない。

本書で語られるのは、あくまでも『屋根裏に誰かいるんですよ。』というタイトルの言葉に代表される、「侵入妄想」などの「個人の狂気」であって、正常人の間で語られる「都市伝説」などの問題ではない。

ただ、「侵入妄想」などが個人の中で生まれる構造と「都市伝説」の間には「共通点」があり、それが、誰もが本質的に抱えている『物語の胚珠』なのではないか、というのが本書著者の「妄想の発生についての理論的仮説」なのだ。

平たくいうなら、誰しも心の中には「被害妄想的な物語」、つまり「誰かが、私の領域に入ってくる」とか「私を監視している」とかいった「不安の物語」を「胚珠」として抱えているのだが、精神が健全な間は、その発芽が抑えこまれており、誰もその「胚珠」の存在に気づいていない。

しかし、過度のストレスや疲労にさらされて、理性的な認知機構が弱ったり、失調を来したり、端的に「認知症(本書では「痴呆症」)」や「統合失調症(本書では分裂病)」などの病いによって、脳の理性的な認知機能が低下または損壊すると、押さえ込まれていた「物語の胚珠」が発芽して、「侵入妄想」などの被害妄想の類が、リアルなものとして、その人の思考を蹂躙してしまうのではないか。一一というのが、著者の「狂気の発生論」なのだ。

そして、こうした構造は「都市伝説」の発生にも言える。
つまり、「社会」が全体的に、過度のストレスや疲労にさらされてるようになると、個人的なレベルでの理性的な認知機構の低下ではなく、社会全体の「心理的傾向」として「被害妄想的なイメージ」がリアリティを持つようになる、といったようなことだ。

で、本書に紹介される「侵入妄想」などの事例は、とても興味深いし、著者の「妄想の発生論」も、まずまず納得のいくものなのではあるが、私個人としては、著者の実体験的なところを、もっと語って欲しかったと思う。
例えば、「妄想を抱えた人が独居している家の、独特の空気」とか、そのあたりことを、文章化するのが難しいとは思うけれど、もう少し書き込んで欲しかった。

私が本書に、十全には満足できず、なぜこのようなことを望むのかと言えば、じつは、私自身が、この種の実例に少なからず接した経験があって、その圧倒的な存在感からすると、やはり文章化されたものは「弱い」、という印象を受けざるを得なかったからだ。

本書でも言及されている、小説「屋根裏の散歩者」の作者である江戸川乱歩、あるいは夢野久作といった人ほどの筆力があれば、あるいは、それを「再現」してみせることも可能だったのかも知れない。だが、かなりの文章家ではあれ、本書著者の筆力では、それは勝ちすぎた仕事だったのかもしれない。

ともあれ、私が以下に書きたいのは、私の実体験のいくつかである。

 ○ ○ ○

私は、今年(2022年)の7月末までの40年間、大阪府警の警察官をしていた。
子供の頃から、絵を描いたりプラモデルを作ったりするのが好きな、典型的なインドア派である私は、「体育会系」のイメージが強いであろう警察官になど、なるようなタイプの人間ではなかったし、私自身も、そう思っていた。

高校生の頃の私は、熱心なアニメファンで、アニメーターかマンガ家になりたいという夢を持っていた。そのため、大学進学などは「回り道」であり「時間の無駄」だと、そう思えて、勉強にはまったく身が入らず、受験勉強も、しているフリだけして、もっぱら人体デッサンの練習ばかりしていた。
だが、結局のところ私には、プロの絵描きになるほどの才能が無かったので、最後はその道を諦めて「進学するしかない」と思ったのだが、とにかく勉強をしていなかったから、当然のごとく大学受験に失敗してしまった。

勉強も嫌だし、かと言って、就職といっても、他に、したい仕事、就きたい職業など無い。そこで、やりたいものがないのなら「公務員」がいちばん無難だろうと思って、公務員試験を受けてみたが、こちらも競争率が高く、あっさり不合格になってしまった。

そんなわけで、就職浪人として、途方に暮れて鬱々としていたところに、父が「警察官募集」の話を持ってきたのだ。

私としては「警察官? そんなもの、私には無理だろう。ただでさえ運動は苦手なのに、柔道や剣道なんてできるわけないし」と思ったのだが、さりとて就職先の見当もつかない状態では、頭から断るのは父に申し訳が立たない。そこで「受験して落ちれば、仕方ないと納得してくれるだろう」と考えて、落ちるつもりで受験したのである。すると、合格してしまった、のだ。

で、合格してしまうと、今更「嫌だ」とも言えず、不安を抱えたまま警察学校に入校して、「憲法」「刑法」「刑事訴訟法」とかいった座学は無論のこと、柔道・剣道・逮捕術などの術科の授業も受けることになった。
座学の方は、特に難しいものではなく、基本的には暗記ものだった。私の場合、暗記は苦手だったが、受験のための勉強とは違って、基礎からの勉強だったので、ついていくことはできた。
一方、術科の方は、決して得意とは言えなかったが、ただ、私の場合は負けん気が強いし、泣き言をいうのが嫌いだから、下手は下手なりに食らいついていったので、そこを評価してもらっていたのだと思う。警察官にとっては、技術も大切だが、より大切なのが、犯人と対峙して、決して怯むことのない「気迫」だからだろう。それがなければ、いくら技術があっても、現場では役に立たないからである。

そんなわけで、「警察学校の訓練に耐えきれず、ケツを割って帰ってきた」などと言われるのが嫌で、とにかく根性だけで頑張りとおし、体力面では最低の成績でありながら、なんとか警察学校を卒業し、一線に赴任して、交番のお巡りさんになったのである。

さて、交番のお巡りさんというのは、当直勤務制である。
都道府県によって多少異なるみたいが、私が勤務した大阪府警では、「当直勤務日・非番日・週休日」が繰り返される「三部制」が採用されている。「交番所のお巡りさん」つまり「地域課警察官」は、1係、2係、3係と3つの係に分けられて、それが順繰りの交代で、交番での当直勤務を回していく、という勤務体制になっているのだ。

で、若い私にとっては、この勤務体制が何よりもありがたかった。
私の若い頃は、週休二日ではなかったから、普通の会社勤めなら、ウイークデイは基本的には仕事で1日が終わってしまい、完全に自由になるのは日曜だけ、ということになる。
ところが、三部制だと、若い頃には元気があるから、当直勤務明けの非番日も休日みたいなものであり、言うなれば、週のうち4日あまりが休みみたいなものだったので、とにかく自由になる時間が多かったのだ。そして私は、とにかくやりたいことの多い「趣味人」だったから「これは、辞められないや」となったのである。

そして、私が、生涯「いち巡査」であったのは、ひとつには「刑事課」や「交通課」といった内勤勤務になると、普通の「日勤」制勤務となり、三部制ではなくなるため、内勤に入る気が無かった、というわけだ。
だから、そういう方面には「やる気」を見せることはせず、若い頃から「私は生涯一巡査として、交番勤務がしたい」と言っていた。無論「やる気がないとは言わせないようにするための、タテマエである」。

さらに、私は「昇任」する気もなかった。昇任すれば、多くの場合、「内勤」に入れられたり、「機動隊」に入れられたりするから、それは御免だと思ったのである。
それに、面白くもない「暗記」ものの勉強なんて、もうしたくはない。それでなくても読みたい本が、読みきれないまま、どんどんたまっているというのに、面白くもないお勉強本を嫌々読んでいる暇などない、と考えたのである。

そして、そんな私だから、「昇任試験の勉強」などというものは、てんから馬鹿にしていた。
「警察に入ったからには、昇任しなければ、思うような仕事ができない」とか何とか、いろいろとタテマエ的にご立派な理屈はつけられるのだが、しかしその本質は、とにかく「偉くなりたい(出世したい)」「楽をして稼ぎたい」でしかない。それが、習慣化した「受験昇級行動」の、自覚されない本質だと、私は考えていたのだ。

実際、昇任して「幹部」としての階級を得ると、そのぶん責任を持たされ、仕事が忙しくなることの方が多い。たしかに部下はできるが、部下の面倒を見るという責任も負わされるし、かと言って、給料はほとんど上がらないのである。

「署長クラス」である「警視正」にでもなれば、楽をできるかもしれないが、最短で30年、そこまでは、昇任しても決して楽ではないのだ。むしろ「階級」は、「仕事をさせるため」「組織に縛り付けるため」に与えられるものだと、私は考えていいのである(ちなみに、高い階級を得ておくと、退職後の再就職には有利である。要は、天下り先があるということだ)。

だが、私の場合は、警察官になりたくてなったわけでもないし、巡査の給料に不満もなければ、現状に満足していたから、内勤を目指すこともなく、昇任試験合格を目指すこともなかった。
むしろ、毎年、強制的に受けさせられる昇任試験では、マークシート式の一次試験であっさり落とされるように、わかる問題をわざと誤答をしたりもした。下手に合格すると、二次試験に向けて、上司同僚が好意から「受験資料」をどっさりくれたりするので、それが面倒でもあれば、申し訳なくもあったからである。

そんなわけで、私は若い頃に宣言したとおり、見事に「いち巡査」、しかも「交番のお巡りさん」で通した。定年退職に半年残しての早期退職ではあったが、ほぼ予定どおりにやり通せたわけだ(ちなみに、考えてもいなかったが、途中退職であるにも関わらず、退職時に一階級上の「巡査部長」の昇任辞令をもらった。問題を起こしての依願退職ではなかったからだろうが、あくまでも私個人は「いち巡査」で終えたと考えている)。

大阪府警の職員は約2万人だが、毎年退職行くしていく者の中で、「最後まで平の巡査であり、交番勤務しかしなかった」者というのは、ごく珍しい(実際、そんな年寄りは、役にも立たないし、使い辛かろう)。
本格的な「内勤」勤務はしなかったとしても、たいていは、機動隊とか自動車警ら隊などを経験しているものだし、「巡査」で卒業する人よりも、一つか二つ昇任して「巡査部長」や「警部補」で卒業する人の方が、むしろ多い。
つまり私は、それらの「誘惑」から逃げ続けて、自らの希望を貫いたのである。

ちなみに、最近では、こういうことは難しくなっているようだ。
警察学校を卒業して、所轄の地域課へ配属された当初から「将来の希望」を聞かれて、「刑事課希望」「交通課希望」などと、ろくに仕事の内容を知らないうちに答えさせられ、地域課にいる間に、一週間とかの「内勤研修」をさせられたりするからだ。つまり、私のように「どこにも行きたくありません」なんてことは言いにくい雰囲気になっているのである。

ただこれは、私のような、本当にやる気のなかった人間は別にして、心の底から「交番のお巡りさんになりたい」と思って入ってきた人には、かなり失礼な話で、「交番のお巡りさん(地域課勤務)」を馬鹿にした話でもあろう。

だが、内勤勤務を経験して昇任していった警察幹部の本音は「地域課は、警察官のプール」だといったものだったのである。
この言葉は、私の警察学校(初任科)時代の担任教官だった人が、口にした言葉だ。この人は「警備」畑の警部補で、人柄的には温厚で、私も好感を持っていたが、やはり、出世街道のワンステップであった「学校教官」を任された人としては「いつまでも、地域課でぬるま湯に浸かっていてはいけない」という考え方だったのだろうと思う。

ともあれ、私は40年間、交番のお巡りさんをやってきて、受持ち地域の家々を巡ったり、110番通報などで、いろんな家庭の中まで入っていったので、そうしたなかで『屋根裏に誰かいるんですよ。』といったようなことを言う類いの人にも、数十人は、接してきたというわけである。

そんなわけで、かなり「前置き」が長くなったが、これはこれで一般の人には興味深い話だと思うので、この機会にひととおり書いておいた。今後は、こうした「警察うちあけ話」も、折に触れて書いていきたいと思っている。

 ○ ○ ○

で、「その手の体験談」である。

「家の天井裏に、誰かが潜んでいます。すぐに来てください」という、110番申告あるいは所轄警察署への電話申告で、受持ちの交番から、警察官が派遣される。
今は、事故防止のために、昼間帯から二人で派遣されることも増えたが、2019年に「吹田警察署千里山交番警察官襲撃事件」が発生するまでは、地域警察官は、昼間帯は単独勤務が基本であり、事案執行も、粗暴事案ではないかぎり、単独執行が原則であった。
つまり、私の警察官人生の大半は、昼間は単独執行、夜は隣の交番の勤務員とペアになっての複数勤務であった。

だから、この種の申告事案でも、昼間なら一人で現場臨場したのだが、「この天井裏に、誰かが潜んでいます」という申告は、夜間であり、後輩と一緒に現場の個人宅に赴いたと記憶する。

申告人宅に着いて、インターフォンを押し、警察官である旨告げると、老婆が出てきて、家に招じ入れてくれた。老婆に、事情説明を求めると、申告どおり「家の天井裏に、誰かが潜んでいるので怖い。追い出してほしい」という話だった。
私はそれまでにも、似たようなこと(電波攻撃や被監視妄想など)を何度となく扱ってきたから、この時も、すぐに典型的な被害妄想だとわかった。

老婆は身なりもきちんとしており、怯えてはいるものの、話し振りだけなら、ごくマトモである。また家の中は、こざっぱりと片付いていて、特に「狂気」を感じさせるようなところはなかったが、あえて言えば、独居ということはあるにせよ、どこか家の中が薄暗く、冷え冷えとした印象があったのも確かだった。

で、こうした場合、医者ではない警察官にできることは、嘘でもいいから、一時的な安心を与えることだけである。
いちおう、万が一にために、家屋内をひととおり確認した後、泥棒が天井裏に入る理由などど、どこにもないと確信した上で、私は老婆に「これから、そいつを追い出しますから、いったん廊下に出ていてください」と言い、老婆が廊下に出した後、座敷内で天井に向かい「おい、いつまでもそんなところに隠れていると、ただでは済まないぞ。さっさとこの家から出て行け!」と声を張り上げて一喝した。
そして、しばらくしてから、怯えた表情の老婆を部屋に招き入れ「もう大丈夫です。不審者は逃げていきましたから、もうこの家にはいません。逃げていく足音が聞こえたでしょう」と、そう自信満々に断言する。すると、老婆は、半分怯えような感じで「大丈夫でしょうか?」と確認してくるが、私は「大丈夫です」と力強くうけおった上で「しかし、また、おかしなことがあったら、いつでも110番してください。その時はまた、すぐに駆けつけますから」と保証すると、老婆はやっと納得し、安心した表情になり、感謝の言葉を述べるのであった。

これが、交番のお巡りさんの、ひとつの仕事である。
こうした「被害妄想」による申告は、決して珍しいことではなく、特に近年は、高齢者の独居世帯が増えたことで、本書でも語られる「盗難妄想」などもおのずと増えており、対応に苦慮することも珍しくはない。
と言うのも、99パーセント「妄想」であっても、1パーセントの可能性は常に残るからだ。つまり、その1パーセントの可能性のために、被害届を作成し、現場鑑識活動をするなど、通常の盗難事件とまったく同じ手続きを取るべきなのか、という問題である。

無論、それをやっておけば、無難ではある。だが、それをやるとなると、一人か二人の警察官が、それに2、3時間専従することになり、他の業務に支障を来すことになる。言うまでもないことだが、警察官は、有り余っているわけではないのだ。

だから、それが「妄想」なのか「本物」なのかを適切に判断して、対応を変えなければならないのだが、しかし、その判断は、原理的に100パーセントというわけにはいかず、その結果、時に「警察が、ちゃんと話を聞いてくれなかった」とか「手抜きをした」などと非難される場合がある。
昔なら、そうした苦情に対し、「何を言っているか」と一蹴して済んだところが、今では「ネットでたちまち拡散」ということにもなり、そうした「世評」を、「警察の偉い人」ほど気にして、あれこれ全部できるわけのない「万全の対応」を現場に求めて、責任逃れするようになってきたのである。

それにしても、本書でも書かれているとおり、この種の「侵入妄想」や「盗難妄想」というのは、圧倒的に女性が多い。
それが何故なのかは、もちろん専門家ではない私にはわからないが、私の理解では、女性というのは、一般には、男性よりも「コミュニケーション能力」が高くできているのだが、当然のことながら、中にはコミュニケーション能力の低い女性もいて、その場合、「孤独」が精神の失調を促し、対人的な妄想を生み出すのではないだろうか。
よく言うように、定年退職後の旦那は、友達がいなくなって自宅でしょんぼりしているが、奥さんの方は、いろんな趣味の友だちと元気に飛び回っている、といった傾向が、実際にあるように思う。だが、その例外である「孤独な高齢女性」も、当然いるわけである。

そしてこれは、「進化動物学」的な問題なのではないか、というのが、私の解釈である。
つまり、男性は獲物を狩るために、集団行動は無論、時に単独行動にも耐えなければならないが、女性の子育ては、周囲のサポートがなければ到底できないことだから、おのずと「コミュニケーション能力」が発達進化したのではないか、ということである。まただからこそ、女性は「孤独」への耐性が低いのではないだろうか。

 ○ ○ ○

「おもしろい話」といっては語弊があるが、私の経験した、この種の「興味深い話」は、他にもいろいろある。だが、これ以上長くなるのも何なので、最後は、男性における特異な「妄想」の事例を、ひとつ紹介して本稿を締めよう。

ある時「家に、若い男女グループが勝手に上がり込んできて居座り、帰ってくれないで困っている」という申告があり、私は交番から、えっちらおっちら自転車をこいで、現場のマンションに赴いた。
申告人の部屋のインターフォンを押すと、40代半ばの、会社役員風の品のいい男性がドアを開けてくれ、困惑した表情を浮かべながら、私に、申告どおりの説明を繰り返した。
私の見た感じでは、この男性は、非常に「まとも」と言うか、むしろ、平均より知性も人品もある「感じのいい」男性だった。だから、てっきり「また被害妄想か」と思って交番を出てきたが「もしかすると、これは本物かもしれない。例えば、息子か何かが不良仲間を家に引き込んだのだが、みっともないので、そこだけを伏せて申告したのではないか」などと考えた。
だが、ともかくもそれは、現場を見ればわかることなので、男性に案内してもらって、その部屋に入った。

どうであったか?

部屋の中に「若者たち」はいなかった。ただ、洋間の真ん中あたりに、雑誌が1冊、開いて放置されていた。
で、その雑誌を見てみると、そこに「若い男女グループが、レジャーを楽しんでいる」といった感じの「写真」が、掲載されていたのである。

私は「これかあ…」と感心して、男性に「これですね?」と確認すると、私の後ろで部屋を覗き込んでいた男性は、真顔で「そうです。私が、いくら言っても出て行ってくれないんです」と訴えた。

それで私は、チャンネルを切り替えて、男性に「わかりました。私が彼らを連れ出しますから、私が外に出たら、いったん鍵をかけてください」と告げ、その雑誌を拾い上げるとそのまま、男性の部屋からいったん出た。
そして、少し離れた場所にあったのゴミ箱にその雑誌を捨て、男性の部屋にとって返すと、男性に「今、若者たちに、二度とこんなことをしないようにと厳重に注意し、帰らせました。もう大丈夫ですので、ご安心ください。ただし、戸締りだけはしっかりしておいてくださいね。ドアさえ開けなければ大丈夫ですから」と告げると、男性は、心からホッとしたような笑顔を浮かべて「お巡りさん、ありがとうございました。本当に助かりました」と何度もお礼を言い、私はその言葉を背に、交番へと帰ったのであった。

一一この事例の場合は、たぶん一般的な「侵入妄想」ではなく、「写真の人物」と「実在の人物」の区別がつかなくなる、脳機能障害的なもの、なのではないかと思う。
例えば、神経学者で、著名な医学ノンフィクション作家でもあるオリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』という著書があるが、それに近いパターンなのではないだろうか。

その認知障害の原因が、「認知症」なのか「精神病」の類なのか、あるいは物理的な事故などによる「脳障害」なのかはわからないが、その男性には、「写真と実物」の区別がつかなくなっていた。喩えて言うなら、私たちだって、夢を見ている時には、それが夢だとはわからない(現実だと認識されている)というのと、同じようなことなのではなないかと思う。
そしてそこに、「脳機能の低下」を誘因とする「物語の胚珠」の発芽、つまり「被害妄想」が加わったのではないか、というのが、私の解釈であった。

ともあれ、群れるのが好きではなく、一人いることの自由が好きな私なので、あまり「孤独」を感じることはないのだが、何しろ一人暮らしをしているのだから、もっと歳をとれば、このような「妄想」を持つようになる可能性も、まんざら否定はできない。

だが、そうなったらなった時であり、仕方がないと思うし、ひとまずはそうならないためにも、これまでどおり本を読んで、頭を使って文章を書くということを続けなければならないなと、そうも思うのである。


(2022年12月11日)

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