見出し画像

春日武彦 『私はなぜ狂わずにいるのか』 : 狂いにくい「幸せ者」

書評:春日武彦『私はなぜ狂わずにいるのか』(大和書房→新潮OH!文庫)

産婦人科医から精神科医に転じた、春日武彦医師。

その著書のタイトルは無論、著作中で言及される、趣味の書籍や映画などのラインナップを見ても、およそ「趣味の精神科医」としか思えない、大変ユニークな精神科医である著者は、しかしながら、長年の執筆活動と、医師としての長年の経験や実績がものを言っているのであろう、『よくわかる最新医学 統合失調症』(主婦の友社・2005年)といった初心者向け医学解説書を書いたり、同じ出版社から『統合失調症 治療・ケアに役立つ実例集』(2008年)なんて実用書の「監修」を務めたりもしている。
著者の、精神医学界内部での立場がどのようなものなのか、外部の私には窺い知りようもないのだけれど、少なくとも世間一般に向けては「統合失調症のオーソリティ」というのが、昨今の氏の「社会的立ち位置」のようだ。

さて、本書『私はなぜ狂わずにいるのか』は、1994年の刊行の、著者の第3著書。
つまり、ごく初期の著作であり、2002年には文庫にも入っているが、さすがに初期著作とあって、趣味に走りすぎないよう自制がはたらいていて、自身の「趣味的視点」に対して一定の距離をおいているのがよくわかる。つまり、春日武彦の著作としては、かなりバランスのとれた部類の一冊だと言えるだろう。

そんなわけで、本書のそうした特徴をまとめると、Amazonカスタマーレビューの「21世紀の精神科医」氏の紹介文「狂気の捉え方は大学の先生以外に学べ」が、よくまとまっているので、ここではそれを紹介しておこう。

『 一貫して正常と狂気のハザマを非常に個人的な視点から(悪い意味ではない、教科書的な、あるいは他人の理論をふりかざさない、という意味で)追求する著者の初期の執筆。精神科を志す者全てとはいわないが、狂気に対する好奇心はやはり精神科医のもの。とりわけ、一般人の「狂人」に対する(著者によれば)ロマンチックな空想が、医者からみて的外れであることをふまえ、狂人と非狂人である自分との接点にこだわる視点は著者ならではのもの。春日ワールドへの入門書といえよう』

さて、このようなわけで、本書の内容は、最近の著作のように「趣味に走ったもの(本音主義的なもの)」ではなく、精神科医としての「良識」を少なからず語っており、その点では「精神病」あるいは「統合失調症」といったものに関する、基本的かつ客観的な認識を語った「基本書」だといえよう。

こう書くと「それは春日武彦に期待するものじゃない」とか「世間の良識に迎合して、生ぬるい書き方なんじゃないの」と勘繰る読者もいるだろう。
春日武彦のような人に惹かれる読者なら、そう考えるのも当然なのだが、そこはさすがに春日武彦で、精神科医としての基本的な線から逸脱こそしないものの、それでも味気ない語りが続くということにはなっていない。よかれ悪しかれ、正論を語る場合にも、かなり皮肉な春日節は発揮されており、すでにその点で「普通ではない」ところが、やはり味わい深いのである。

それに、退屈な原則論だけではなく、いつもどおりに、興味ぶかい「類縁事例」の紹介もなされているので、ここではそうした話題のひとつについて、個人的に考えたことを書いておきたい。

春日の著作については、これからも読んでいきたいと思っているので、ここで総括的な意見を書くつもりもないので、その点はご容赦いただきたいと思う。
ちなみに、最初にご紹介した『よくわかる最新医学 統合失調症』と『統合失調症 治療・ケアに役立つ実例集』の2冊も入手済みである。

 ○ ○ ○

写真評論家・飯沢耕太郎の「精神を昂らせる物質と風景のパワー」という文章の一部を引用した後、春日は、次のように語っている。(※ 1行空けの後は、J・G・バラードの小説からの引用)

『 ディープ・サウス(※ アメリカ合衆国の最南部)の異様にピントのシャープな風景が、患者の目に映る光景に通じたものである可能性は大いにあり得る。だからこそ、それらの写真から狂気の匂いを感じ取ったとしても、それはあながち鑑賞者(※ 飯沢耕太郎)の錯覚というわけではなさそうである。
 だが、患者の目には、本当にそんな異様に明瞭でコントラストの強烈な光景が映っているのかといえば、映像は脳内の情報処理過程を通して知覚されるわけだから、病に犯された脳においては、別の可能性とて出てくる。J・G・バラードの短編「重荷を負いすぎた男」(『時の声』所収)は、「フォークナーは徐々に発狂していた」という書き出しで始まる好編だが、主人公であるフォークナーの目には、眼前の事物が馴染みの感覚や日常の文脈での意味付けを失い、抽象的あるいはまったく別の相貌を示してくる様子が描写されている。

 そして今、彼は立体派的な風景を見ていたのだいるのだった。青い背景幕の下に横たわる、さまざまな形をした白いものの集まり、それらを横切って、緑色をした粉のようなぼうっとした影が、ゆっくりと前後に動く。幾何学的な形をしたこれらのものは、いったいなにを表しているのだろうか、と彼はぼんやり考えた一一つい今しがたまでは、つねひごろ見慣れているものとわかっていたのだが一一ところが今、それらのものを心のなかでいかに組み立てなおそうとしても、連想を探し求めようとしても、依然として幾何学的な形をしたごたまぜとしか映らないのだ。(以下略)』(P64〜65)

最南部アメリカの、色もかたちも、あまりにもくっきりした風景(写真)に、飯沢耕太郎は『精神を異様に昂ぶらせ、狂気すれすれの状態にまで追い込んでいく、魔術的なパワーが含まれているように感じる。』(P63)と書いていたのだが、この一節を読んで、私はある映画のワンシーンを思い出した。
ターセム・シン監督のサイコ・ホラー『ザ・セル』に登場する「昏睡状態に陥っている患者の、深層心理を象徴する風景」がそれで、まさに、バラードの書いた『青い背景幕の下に横たわる、さまざまな形をした白いものの』あるいは、飯沢耕太郎いうところの『異様にピントのシャープな風景』だったのだ。

このように紹介されて、なるほど「狂気」というのは、「ぼんやり」したものではなく、むしろ「くっきりし過ぎているもの」なのでないか、というふうに私は考えた。

通常、「明晰」というのは、「頭が良い」ことを意味する表現だ。「あいつは切れ者だ」などという表現も、「ボンクラなナマクラ人間」とは真逆の、「エッジの利いた、知性の切れ味鋭い人」を指す言葉である。

また、小説などではよくある陳腐な表現として、私たちは時に「あの人は、頭が良すぎて、おかしくなった」なんてことを言う。
「発狂」などという「非日常への越境」は、「鈍(なまくら)な頭」をいくら鈍らせたところで、「薄鈍(うすのろ)」にはなれても「キチガイ」にはなれないという印象を、私たちが持っているせいだろう。

だから、研ぎ澄まされすぎて、薄く鋭くなった刃が、ある衝撃でポロリと欠けてしまうように、人間の理性は決定的な破損を受けてしまう。あるいは、キリキリと引き絞った弓矢の弦が、あるとき限界に達して、プツリと切れてしまう。

私たちは「狂気」というものが、日常的なものの連続的なその先にあるのではなく、「研ぎ澄まされた果てに、ある瞬間、ポロリと欠け」たり「ギリギリまで引き絞られた緊張の果てに、ある瞬間、プツリと切れてしまった」りしたときに、初めて立ち会わられる「非常の境地」であるというふうに感じているのであろう。

そして、そういうものを、ビジュアル的に表現すれば、前述のような『異様にピントのシャープな風景』ということになるのではないだろうか。

ただ、春日武彦も言うように、実際の狂人が、そのような光景を見ているのかといえば、そんなことでは、当然ない。要は、見ている光景は同じでも、その「感じ方(認識)」が違う、ということなのだろう。

例えば、目の前の白いテーブルの上に、真っ赤なリンゴがひとつ置いてある。
これは、じつにコントラストの鮮やかな光景であり、この光景を、私たちが「鮮やかな光景」だと感じるのは、要は「(余計な情報がなく=ノイズが少なく、情報の)エッジが利いている」と感じるからではないだろうか。つまり、その光景を見た瞬間に、即座にその意味するところが理解しやすい光景だということである。

そして、これを言い換えるなら、「狂者」というものは、この「わかりやすい光景(エッジの利いた光景)」を見ても、その「エッジ」を認識することができない、ということではないだろうか。

つまり、「狂者」は 「過剰にエッジの利いた光景を見ている」というよりも「いかにエッジの利いた光景であろうと、そもそもそのエッジが認識できない」ということであり、言い換えれば「光景の分節化ができない(分節化の後の統合ができない)」ということだ。
正常者からすれば、「これほどわかりやすい光景はない」と思える光景であっても、それを文節化して理解できないからこそ、それは「狂気」なのである。

だとすると、「狂者」にとっては「エッジの利いた風景」も「すりガラスを通したような、ぼんやりとした灰色の風景」も、分節化できない(理解できない)という事態においてまったく同じであり、その意味で、「狂者」の見ている風景が『異様にピントのシャープな風景』なのだろうというのは、あくまでも「正常者」が持つ「狂気のイメージ」でしかないのだと言えるだろう。

(「アニメの背景画ようにしか見えない」という人もいるが、しかしエッジの利きすぎた風景は、どこか異様であり、それを美しいと呼ぶべきかどうかは疑問)

だとすれば、この「イメージ」が何を意味しているのかというと、要は、これほどまでに「極限的にわかりやすい光景」を見ても「それが文節化できない」という矛盾に、人は「狂気」というものの「計り知れなさ(理解不可能性)」を感じ、そこに「言いしれぬ恐怖」としての「戦慄」を感じる、ということなのではないだろうか。

したがって、「狂気」というのは、単に「鈍すぎる」とか「鋭すぎる」とかいったことではなく、「鈍いとか鋭いとかいった、理解可能な領域」からの、飛躍的逸脱を意味しているのであり、その象徴として「過剰にエッジの利いた光景」というものが立ち現れてくる。
「これでもか」というくらいに「わかりやすい光景」に、むしろ私たちは「これがわからなくなるのが、狂気なのだ」と無意識に感じて、それに戦慄するということなのではないだろうか。

しかしながら、そんな「極限状況」を想像して怯えるくらいなら、人間というのは、ある程度「ぼんやり」している方が、むしろ幸せなのではないかとも思う。

「頭が良すきて、発狂する」というのは、都市伝説の類いだとしても、頭が良いからといって、それで幸せになれるわけではないというのは確かなことのようなので、できれば「適度に鋭く、適度に鈍い」人間でありたいと、私などは思っているし、その点で、すでに私は幸せなのであろう。

また、本書著者も書いているとおり、「狂気」に、ある種のロマンティシズムを感じるような人間は、そもそも「能天気な幸せ者」だと、そう言えるのかもしれない。


(2023年6月17日)

 ○ ○ ○




 ○ ○ ○






 ○ ○ ○





この記事が参加している募集

読書感想文