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マーティン・マクドナー監督 『イニシェリン島の精霊』 : 人間というもの

映画評:マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』

お話としては、実にシンプルである。アイルランドの孤島の僻村という、言うなれば「ど田舎」での、友人同士の仲違いが嵩じて、不穏な空気がどんどん高まっていく、というサスペンスフルな物語である。

まだ、誰も指摘していないとは思うが、映画にもなった、横溝正史『八つ墓村』に、ちょっと似ている。
ただし、揉め事は「村八分」的なものではなく、あくまでも友人だった二人の間でのことで、村の雰囲気も「八つ墓村」ほど、暗くもおどろおどろしくもない。
だが、その明るい風景相応に「澄みきった暗さや屈託」、そして「死を予告して泣き叫ぶとされる精霊」の存在に象徴される、一種の「スピリチュアルなもの」が、その世界には感じられる。

『本作の舞台は本土が内戦に揺れる1923年、アイルランドの孤島、イニシェリン島。島民全員が顔見知りのこの平和な小さい島で、気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる。急な出来事に動揺を隠せないパードリックだったが、理由はわからない。賢明な妹シボーンや風変わりな隣人ドミニクの力も借りて事態を好転させようとするが、ついにコルムから「これ以上自分に関わると自分の指を切り落とす」と恐ろしい宣言をされる。美しい海と空に囲まれた穏やかなこの島に、死を知らせると言い伝えられる“精霊”が降り立つ。その先には誰もが想像しえなかった衝撃的な結末が待っていた…。』

『イニシェリン島の精霊』公式ページより)

斯様に、この物語は一見すると「ミステリー映画」風に始まるのだけれども、そういう作品ではない、と知っておいた方が良いかもしれない。

少々「サイコホラー」めいた、極端な感情やグロテスクな表現などもあって、オーソドックスなリアリズム作品ではないのだけれど、その「極端な表現」は、それ自体を売りにして愉しませるようなものではなく、一種の「心理的極限状況の象徴」とでも呼べるもののように感じられる。
普通では、めったに経験することなどないけれど、しかし、一生のうちには「経験することになるかもしれない極限的な状況」であり、その際に引き起こされる「心理」を、このような「極端な表現」によって、作中に惹起しているのではないだろうか。

【以降、論評の必要から、本編のストーリーを最後まで紹介しますので、未鑑賞の方はご注意ください】

上の「あらすじ」にもあるとおり『気のいい男パードリックは長年友情を育んできたはずだった友人コルムに突然の絶縁を告げられる』。
その前兆もなければ、絶縁する理由の説明もない。とにかく「もうおまえとつきあう気はないから、俺に声をかけるな、近づくな」と、そう一方的に言い渡されたのである。

当然、パードリックは、納得がいかない。
当惑したパードリックは、コルムに「身に覚えはないが、俺が何か気を悪くさせるようなことをしたのなら謝るし、改めもするから説明してくれ」と問うが、そうしたパードリックの態度に、コルムは当初「そんな理由など無い。おまえが嫌いになっただけさ」とすげなく答えていた。

あとでパードリックは、その日がエープリル・フールだった気づき、自分はかつがれたのだと、コルムに「わかったよ、びっくりしたじゃないか」と笑いかけるが、コルムの態度は変わらない。そんなことではなかった、ということだ。
次にパードリックは、コルムがうつ病なのではないかと疑ったり、神父に仲直りの仲介を頼んだりして、なんとかコルムとの関係の修復を図ろうとする。

パードリックのそうした懲りない態度に業を煮やしたコルムは、やっと絶縁の理由を説明する。
それは、フィドル(※ アイルランド版ヴァイオリン)奏者であるコルムは、歳をとって「このまま毎日、酒を飲んで馬鹿話に興じるだけの毎日でいいのか。やはり俺は、フィドルの演奏家であり音楽家として、作品を残して死にたい。そのためには時間が必要なんだ」と、そう考えるようになった。だから「おまえの馬鹿話につき合っている暇は、俺には無いんだよ。だから放っておいてくれ」というものだった。

だが、そんな説明では、パードリックは納得できない。
彼は、特に趣味もなく、普通に生きている平凡な男だから、作品を残したいなどという欲望はピンと来ないし、そもそも、友達づきあいと創作なら、友達づきあいの方が大切に決まっているじゃないか、というのがパードリックの「常識」であった。

コルムが「絶縁の理由」を説明しても、このようにパードリックがぜんぜん納得しなかったため、業を煮やしたコルムは「これ以上、俺につきまとったら、その時は、俺の指を1本づつ切り取って、お前にプレゼントしてやる」と、とんでもないことを言い出して、パードリックを唖然とさせる。

コルムがのパブから去った後、二人のやりとりを遠巻きに聞いていた店の主人や常連客たちは、コルムの脅迫は到底まともなものとは思えないが、パードリックとつき合いたくないというのは本気そうだから、コルムに近寄るのは止した方がいいと、パードリックに助言する。
しかし、パードリックは、コルムの警告を本気にしなかったし、絶縁に納得もしなかったから、なんとかコルムとの関係修復を模索する。

そして、ある日、パードリックの家の玄関ドアに、切断されたコルムの指が叩きつけられる。

 ○ ○ ○

この後、切断された指をコルムに返すために、パードリックは酒の勢いを借りてコルムの家に押し入り、一方的にパブで飲むことを、コルムに約束させる。
しかし、その場では厄介払いのために約束を受け売れたふりをしたコルムだが、パードリックへの怒りから、彼は左手の残る4本の指(親指を残して、3本だったか)を切断して、同様にパードリックの家のドアに叩きつけて去っていく。

と、こんな展開になるのだが、この「自分の指の切断による脅迫」は、どう考えても常軌を逸している。「狂っている」と言ってもいいだろう。
だが、コルムは、パードリックとの絶縁と音楽への集中以外には、それ以前と何も変わるところはなかった。

この私自身「人づきあいが煩わしい」「一人の時間が、一番大切だ」というタイプだから、コルムの「音楽に集中したい」という理由も、決してわからないものではない。
だが、そもそもフィドル奏者の彼が、自分の指を切断してしまっては、演奏ができず、作曲にもさし障るはずではないか。なのになぜ、彼は、よりにもよって「自分の指の切断による脅迫」などという、極端かつ異常な行動に出たのだろうか?

だが、物語はこの程度では収まらない。

パードリックの可愛がっていたロバが、コルムが投げ捨てていった指を呑み込んで、窒息死してしまったのだ。
ロバを家族のように愛していたパードリックは、一転、コルムに対する「復讐の鬼」と化し、パブで飲んでいたコルムのところへやってきて、ロバが死んだことを告げたうえで「明日、14時にお前の家に火をつけてやる」と、皆の前でそう宣言する。

そんなパードリックの様子に、さすがのコルムも「これでお互い様じゃないか。これで縁を切ろう」となだめるように言うが、今度はパードリックの方が「いや、おまえへの貸しはまだ済んじゃいない。この貸しは必ず返させる」と言って立ち去っていく。

そして、パードリックは、予告どおりの時間に、薪と着火用のランプを馬車に積んで、コルムの家へ向かう。その途中、村の謎めいた老婆に「犬を殺しちゃいけないよ」と予言めいたことを言われる。

コルムの家に着いたパードリックは、家の外で寝ていたコルムの飼い犬に「お前を殺すわけにはいかないよな」と、いつものように撫でてやるが、放火をやめるつもりはない。

薪をコルムの家の玄関ドアの前や窓べりに積み、そこへ火のついたランプを投げつけ、さらに藁葺き屋根にもランプを投げつけて放火する。島の住居は土壁でできているから、そこ以外は容易には火がつかないからであろう。

放火を終えて立ち去ろうとしたパードリックは、しかし、いったんコルムの家に戻り、初めて中にコルムがいるかどうかを確認する。
コルムはいた。だが、パードリックは、コルムの犬を連れてそのまま帰ってしまう。

翌朝、パードリックは、犬を連れて、コルムの家の様子を見に行くと、家は完全に焼け落ちていた。
ところが、その横手の浜辺で、コルムが焦げ跡のあるコートを着て、海に向かって立っていた。それを見つけたパードリックは、コルムに近づいてゆき、コルムもパードリックに気づく。

ここで交わされる二人の会話も、記憶によるものでしかなく正確ではないが、おおよそ次のようなものだ。

パードリック「燃えたな」
コルム「ああ、ぜんぶ燃えちまった。何も残っていない」
パードリック「そうか」

ここで、コルムはパードリックに、やや訴えかけるように言う。

コルム「これで帳消しにはならないか? もうこんなことはやめよう」
パードリック「ダメだ。ここからが始まりだ」

そう頑なに言い、犬を残して帰っていこうとするパードリックの背中に、コルムが声を掛ける。

コルム「○○○(※ 犬の名前)の面倒を見てくれたんだな。ありがとう」

すると、パードリックは、やや表情を緩めた感じでふりかえり、

パードリック「お易い御用だ!」

そう言い、片手を上げて去っていく。

 ○ ○ ○

希望的観測で、このやり取りを解釈すれば、「ペットへの愛」を介して、二人の仲は修復に向かうのではないか、と思えないわけではない。

少なくとも、コルムの方はそれを望む様子になっている。自分が、それほどまでにパードリックを傷つけていたということに、やっと気づいて反省した、という感じだ。だから、このような報復を受けたことも、やむを得ないと諦めている様子なのである。

だが、パードリックの方はというと、最後の「お易い御用だ!」以外は、終始かたい表情を崩さず、まるで「生きているかぎり、決しておまえを許さない」という決意を、自分に言い聞かせてでもいるかのようである。
したがって、最後のやりとりだけで、二人の関係の将来に、明るい希望を期待するのは、やや希望的観測に過ぎると、私は思う。

一一さて、普通のドラマであれば「この先、二人はどうなるのか?」と、その展開が期待されるところなのだが、本作は、これで終わりである。

つまり、この先がどうなるのかの「回答」は与えられないし、そもそも、なぜコルムは、パードリックに絶縁を迫るのに「自分の指の切断による脅迫」なんて、まともとは言い難いことをしたのか、その説明もなされないまま、この物語は幕を閉じるのだ。

したがって、本作を、当たり前の「エンタメ」だと思い込んでいた観客は「えっ、そこでお終いなの?」となってしまうだろう。かく言う私も、そうなってしまった。
途中から「アイルランド版の『八つ墓村』だな」と思いながら観ていたから、どんな結末にしろ、二人の関係の決着は描かれるものと思い込んでいたのだ。

しかし、この映画には、そうした意味での「結末」は描かれていない。

だから、この映画は、普通の言い方だと「難解な作品」だということになり、その「正解」を求めて、いわゆる「考察」をする映画マニアなども、少なからずいるだろう。そうした「愉しみ方」に、最適な作品ではある。

しかしながら、監督には最初から、「結末」をつけるつもりなど無かった、というのは明らかだろう。
したがって、本作にはそもそも、「(唯一の)正解」などは存在してはおらず、それを突き止めることなど、原理的に不可能なのだ。

例えば、この映画の「意味」を説明するのに、背景となっている「アイルランド内戦」を持ち出すのは、決して間違いではない。
この映画の舞台となるイニシェリン島が、本土から切り離された孤島だとは言え、海を隔ててそう遠くはないアイルランド本島の方から、内戦の砲撃音が聞こえてくるという描写が、何度かなされている。

つまり、本作は、アイルランド人の心に深く刻まれた「アイルランド内戦」を、「二人の関係」として、象徴的に描いた作品だ、とも言えよう。
監督はアイルランド人であり、監督がペアで二度目の起用をした主人公役の二人もまた、アイルランド人だ(主演の二人、コリン・ファレルブレンダン・グリーソンは、かつて同監督の『ヒットマンズ・レクイエム』で、殺し屋の相棒を演じている)。

そんなわけで、この作品は「昨日まで仲の良い隣人だったものどおしが、ある考え方や立場の違いから一方が過激な行動に出たことをきっかけにお互いに憎しみ合う、救いのない関係に落ち込んでしまう」という「人間の悲劇」を描いていると、一応のところ、そのように言うことはできるし、これは決して間違った解釈ではないと思う。

だが、これで納得してしまっては、この映画に、あえて「結末」をつけず、観客に「考えること」を強いた「監督の意図」に反することになるだろう。
たぶん、マクドナー監督は「一般的な解答で満足していてはいけない。なぜなら、パードリックでありコルムは、私たちの似姿なのだから」と、そのように考え、あえて「謎」を残し、「結末」もつけなかったのではないだろうか。

だから私たちは「自分は、自己の意志を通すために、コルムのような極端な行動に出たりしないだろうか?」「自分は、パードリックのような被害者意識にとらわれることで、許したい相手を許すことができないという、不毛な意地に囚われたりしたことがないだろうか?」と、そのくらいのことは、考えてしかるべきだろう。

そして、その上で言えば、この作品にはたぶん、監督による「アイルランド魂」に対する「愛憎両面」が込められているのではないだろうか。
例えば「素朴で寡黙で正直な心優しい田舎者だが、しかし、実のところ、劣等感が強く、屈折を抱えているために、本当は極端な意地っ張りで、寛容ということを知らないアイルランド人」といったような、自己批評的な「想い」である。

だが、アイルランド人ではない私たちは、そこまで考える必要はない。
この映画は「アイルランド人」を通して、その奥にある「普遍的な人間」における「業としての心の闇」を描いているに違いないからである。

「あんなやつ、死ねばいい」「あいつだけは、絶対に許さん」

一一そんなこと、なんども本気で考えたことのある私には、本作は、そうとしか思えない、他人事ではない作品であった。


(2023年2月9日)

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