春日武彦、 平山夢明 『無力感は狂いのはじまり 「狂い」の構造2』 : バランス感覚と妥協と断念と
書評:春日武彦、平山夢明『無力感は狂いのはじまり 「狂い」の構造2』(扶桑社新書・2010年)
ユニークな精神科医・春日武彦と、歪んだ人たちの姿を露悪的に描くホラー作家・平山夢彦による対談本の第2弾。
シリーズ前著では、サブタイトルに「人はいかにして狂っていくのか?」とあるとおりで、「狂気の発生構造」をテーマとし、そのひとつの要因として「面倒くさい」という心理が検討に付された。
要は、「面倒くさい」といって、ものごとをきちんと考えることをしないでいると、そこに認知の歪みが生じ、それが狂気へと発展していくのではないか、という「仮説」の検討を中心に、あれこれの話題を語り合った対談であったといえよう。
その対談から、3年後に行われた今回の対談では、メインテーマを「無力感は狂いのはじまり」として、人間における「無力感」というものの重要性が検討されている。
もちろん、「無力感を抱えていれば狂う」のだとか「無力感が大きいほど狂いやすい」とかいった、単純な話ではない。
わかりやすく言えば、「無力感」とは「全能感」の裏返しだから、不似合いな「全能感」を持つ人、つまり「極端に自信過剰な人」が大いに問題ぶくみなのと同様に、「無力感」がまったく無いというのも、大いに困る。
結論から言ってしまえば、人は適切な「自己肯定感」(全能感の適正化されたもの)を持つと同時に、適切な「自己懐疑」(無力感の適正化されたもの)を持たなければならない、ということになるのだが、いうまでもなく、この「適正(ちょうどいいくらい)」というのが難しい。
なぜなら、その「ちょうど良さ」というのは、本人にとってのそれではなく、結局は「他者」にとってのそれ、だということになってしまうからである。
いくら本人が「私は、適度な自己肯定感と自己懐疑を、バランスよく併せ持っている」と主張したところで、それが客観的に見れば「ぜんぜん適度でもなければ、バランス良くもない」と評価されるというのは、決して珍しいことではないからだ。
例えば、犯罪者の多くは「私は悪くはない」と主張するわけだが、言うなればこれは、「本人(個人)の尺度」と「社会の尺度」が食い違っている、ということなのである。
しかしながら、さらに問題なのは、「個人の尺度」の歪みを是正するための基準となるはずの「社会の尺度」の方が、むしろ「狂っている」ということだって、現にあるという事実である。
「ヒトラーを支持して、ユダヤ人を迫害した、ナチス政権下のドイツ人大衆」であるとか、「全体主義の監視密告社会において、順応的だった旧ソ連の人たち」とかが、そのわかりやすい例で、「社会的な多数派」が必ずしも正しいわけではなく、むしろ「少数派の価値観」が正しいのに、「多数派であることを根拠とした(限定的な)客観性」によって「正しさ」が歪められてしまうという事態は、決して珍しいことではないのだ。
誰もが多少なりとも抱えている「無力感」と、「きちんと向き合う」ことができるか否か。本書では、それが問われていると言えるだろう。
言い換えれば、「無力感と、きちんと向き合えない者が、狂気を抱え込むことになるのではないか」という、平山から提出された「仮説」をテーマに、世間を騒がした「特異な殺人事件」などの検討を通じて、「狂気の発生構造」を考察しているのが、本書なのである。
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平山が「無力感」という問題を持ち出したのは、平山自身が「無力感」を強く抱えて生きてきた人だったせいだ。
平山が、世間の「良識」からすれば、かなり変わった人だというのも、しかし、それでも「まともな社会人」として生きてこれたのも、それは、自身の「無力感」と、それなりにきちんと向き合ってきた結果だという意識が、本人にあるのである。
言い換えれば、「狂気の犯罪者」に典型される「狂人」というのは、自身の「無力感」と適切に向き合うことをせず、あるいは、それができず、「無力感をこじらせてしまった」人なのではないか、というのが平山の見立てであり、それを春日に提出して、専門家の意見に耳を傾けるというのが、本書の対談なのである。
ただ、先にも書いたとおり、「自己の無力感と適切に向き合う」とか「無力感をこじらせない」とか言っても、それは「他人から見た場合」には、比較的わかりやすいものだが、当人の「自己判断」は、それほど容易なことではない。
本書でも「秋葉原通り魔事件」や「婚活連続殺人事件」など、本書刊行の「2010年当時」には、生々しく記憶にあった、比較的「目立つ」事件が、あれこれと論じられている。
その点で、一見「わかりやすい」議論のようにも思えるのだが、そうした見解は、少なくとも今になって見ると、必ずしも深いものとは言えず、むしろ「世間の常識的なイメージ」の域に止まっているという印象が強い。
だからこそ、「そうそう」と納得共感しながら読める読者は少なくないはずなのだが、「その程度の理解でいいのか?」という疑問も禁じ得なかった。
シリーズ前作から共通する特徴として、両者の「反良識」主義、「露悪」趣味、ということがある。
「心にもない綺麗事」や「表面的な言葉狩り」などでは、決して問題は解決しないんだよ、という正当な「苛立ち」に発するものなのであろう、彼らの「挑発主義」は、しかし、本書における「無力感」の問題と無縁ではない。
彼らが苛立つのは、彼らの「良識」が、「多数派の綺麗事」によって「不当に抑圧されている」と感じる「被害者意識」から出たものであり、「多数派の綺麗事」にうち勝てないでいる、自分たちの「無力感」に出たものだというのは、容易に推認できよう。
そしてこれは、昨今の「反フェミニズム」とか「反ポリコレ」と、軌を一にした心理でもあろう。
そうした人たちの「それはいくらなんでも行き過ぎで、その意味で間違いだ」という評価は、必ずしも間違っているとは思わない。たしかに「ブーム」に乗っている(時勢に乗じた)時の「フェミニズム」や「ポリティカル・コレクトネス」といったものは、しばしば「やりすぎ」と感じられるところが見受けられるというのは、否定できない事実だ。
しかし問題なのは、そうした「多数派の綺麗事」が、間違っていると思うのであれば、なぜ、彼らを「論駁する」とか「説得する」といった正攻法を採らず、彼らの神経をわざわざ逆撫でするような、わかりやすい「挑発行動」を採ってしまうのか、という点だ。
つまり、そうと理解していながら、殊更に「不適切発言」をするという、ほとんど感情的と呼んで良い「挑発行為」の是非である。
たしかに、「多数派の綺麗事」を根拠として押しつけられた「禁止」を、そのまま鵜呑みにすべきではないだろう。
例えば「キチガイという言葉を使ってはいけません。それは、罪もない精神病者を傷つけ、無用にその尊厳を蔑ろにする行為です」と言われ、基本的には「御説ごもっとも(な正論)」だとは思っても、それでも「しかし、歴史的に使われてきた言葉を、単純に無かったことにするだけでは、それはそれで、問題も生じるのではないか。なぜなら、隠蔽された問題は、必ず、形を変えて回帰するものだからであり、その意味で私たちは、常にそうした問題を直視し続ける努力こそが必要なのではないか」等と反論すべきであろうし、なぜ、それができないのであろうか?
単に「キチガイ、キチガイ」等と「禁句」連呼することだけでは、そうした「多数派の綺麗事」に対する「挑発的抵抗」にはなっても、本当の意味での「対抗」にはならないのではないか。
言うなれば、そうした、殊更な「挑発行為」は、「正戦」ではなく「ゲリラ戦」であり、あえてそれを選ぶという意識の根底にあるのは、「自分たちは弱い」「まともに戦っても勝てない」という、「無力感」なのではないだろうか。
そしてその場合、「無力感」の命ずるままに、「正々堂々の対決」を避けて、「ゲリラ戦」という「方便」的な選択を自身に許し、正当化してしまっても良いのだろうか。
本書を読んで印象的だったのは、平山夢彦が自ら語り、こだわっている「無力感」だけではなく、春日武彦もまた、それを共有している点である。
要は、精神科医として、患者の病いを少しでも軽減してやりたいと思い頑張ってきたのだけれど、必ずしも患者当人やその家族は、それを目指す上での「困難に立ち向かう」だけの意志を持ってはいない(現状維持に安心を求めがち)、という現実である。
そして、当事者が望まないことを医師が押しつけるわけにはいかない以上、結局は、そこで、意に反して医師の方が折れるしかなく、徐々に医師としての理想をすり減らさざるを得なかった、「理想が現実に、敗れつづけてきた」という話なのだ。
そして、「歪んだ人間」「変な奴」「困った奴」が、わりと好きだ(安心できる)とか、本書でも「(いまの世間には)ゲスがたりない」などと訴える平山夢彦も、それが自分の母親の話となると、そうは言っていられなくなるという現実を、珍しくも「熱い感情」のこもった言葉で「激白」している。
「他人」のことなら「まあ、そんなもんだよ」「それも面白いじゃないか」と思う(言う)ことができても、多少なりとも愛情を持っている「身内」が、同じことをした場合には、心穏やかでいられないというのは、しごく当たり前の話であり、なにより、平山が「まとも」だという証拠であろう。
だが、そうした「現実」に対抗するには、「まともに感情的になる」だけでは、不十分なのではないか。
事実、平山はここで「絶望」し「無力感」に苛まれて、途方に暮れているのである。
だから、私が思うところを記せば、その対抗策とは「あえて冷徹に対抗する」ということしかないんじゃないだろうか。つまり、「他人」に対するように「身内」にも対する「非情」。
例えば、春日武彦は、こんなふうに「割り切って」言う。
「無理強い」はしないけれども「言うことだけは言う」ということだ。
春日は、ここではいささか自嘲気味に、自らの選択した態度を「諦めに発する、自己正当化」であるかの如く語っているが、しかし「他人」にできるのは、所詮その程度のことであり、それ以上のことをすれば、いくら良かれと思ってやったことでも、必ずしも良い結果は得られず、逆に事態を悪化させることすらあって、総合的な可否に大差はない、といったところに帰着するだろう。
だからこそ、「結果には期待せず、相手の自滅も覚悟の上で、できることを、感情を交えずにやる」しかない、ということなるのである。
これはこれで「言うは易く行うは難し」であり、決して簡単なことではないのだが、しかし「独善」に走らない「バランスの取れた正義」というのは、結局のところ、このあたりにしか存在し得ないのではないだろうか。
そしてこれが、自身の「無力感」という現実についての「落とし所」なのではないかと、私はそう考えるのである。
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なお、本書の中で、最も気に入った言葉を、最後に紹介しておこう。春日武彦の言葉である。
昨日書いたレビューに『私も、極端に「接続詞」の多い文章を書く人間』だと、自己を評したのだけれど、この「接続詞」で重要なのは、「しかしながら」とか「だが」とか「とは言え」といったものである。
これは、物事を多面的に検討するため、「別の見方」を提示する際に使う接続詞なのだが、私がたまに、他人の「note」を読んで「つまらない文章だな」と思うのは、これが無い文章なのだ。
なにやらもっともらしい「自論」を自信満々に語っていて、それはそれなりに「ひとつの正論」ではあるのだけれど、どうしようもなく一面的で「薄っぺらい」。
いまの時代は「ファスト教養」が歓迎されるのだから、そうしたものの方が、むしろ「わかりやすいからウケる」のかもしれない。
けれども、そんな「白痴ウケ」で、本当に良いのだろうか。
(2023年7月13日)
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