春日武彦、 平山夢明 『「狂い」の構造 〜人はいかにして狂っていくのか?〜』 : 「100パーセント正常な人」は 異常
書評:春日武彦、平山夢明『「狂い」の構造 〜人はいかにして狂っていくのか?〜』(扶桑社新書・2007年)
ちょっと「おかしい(変な)」ところが(あって、そこが)好きな春日武彦先生と、キチガイ小説の書き手である平山夢明による、「キチガイ対談」である。
春日武彦に「先生」をつけて、平山夢明につけないのは、春日が「学者・医者」であり平山が「小説家」であるからといった「職業差別」的なものではなく、春日の方に「親しみ」を感じているから、軽口として「先生」とつけているだけであり、春日を「尊敬している」というわけではない。
知り合いのことを噂話して「あの先生、またやらかしたそうだぜ」なんて言う時の「先生」である。
平山夢明については、最初の話題作であり出世作であった短編集『独白するユニバーサル横メルカトル』(2006年)を読んだのだが、何がそこまで面白いのか、さっぱりわからなかった。
大変な話題作であり、私が信用をおく読み手たちもこぞって褒めていたから、きっと良い作品なのであろうが、私には響くところがなかった。つまり、私には理解できない部分で優れた作品だったのだろう。いつも言うことだが、私とて万能ではないので、これは仕方ない。
しかし、それでも念のためにと、その前の長編である『メルキオールの惨劇』(2000年)を読んでみたのだが、やっぱり同じだったので納得した。平山夢明は、本質的に私には合わない小説家なのだ。もう、無理をしてまで読む必要はない、と。
春日武彦と平山夢彦の二人は「キチガイ好き」という点では共通しているのに、どうして私は、春日には親近感を覚えて、平山には親近感を覚えられないのかというと、それはたぶん、春日の扱う「キチガイ」は、わりと身近なキチガイであるのに対して、平山の扱うキチガイは、モンスター級の連続殺人鬼とかいった、私にはおよそ縁遠い存在だからではないかと思う。
春日の扱うようなキチガイには、これまでの人生の中で何度か実際に対面してきたけれども、平山が好んで扱うようなスーパーキチガイは、ホラー小説の中か、コリン・ウィルソンの「ノンフィクション」の中か、映画の中にしか出てこないので、後者の場合は、実際のところ、私にはリアリティが持てず、どこか「お話」めいた感じになってしまうのだ。
どうせ「お話」的にスーパーなのであれば、私はスーパーキチガイよりも、スーパーマンのような「非凡に正しい人」の方が好きだ。
スーパーキチガイなど、世界にはいくらでもいるだろうが、スーパー正しい人というのは、ほぼ実在しないからこそ、憧れてしまうのである。
そんなわけでは、私の場合は「リアリズムキチガイ派」とでも言うべきもので、同じキチガイでも「ああ、これって、ひとつ間違えたら、俺だってこうなるのかもな」と思わせるような、繊細微妙なものが好きだ。「日常」や「正常」から、シームレスに、少しだけズレた場所にある「狂気」に、私は惹かれる。
これは、私が「異界」に惹かれるのと、きっと同じことなのだと思う。
「天国」だとか「極楽浄土」なんて極端なものにはリアリティが感じられず「そんなもん、あるわけない!」のひと言で片づけてしまうが、「日常空間」の「裏側」や、少しだけズレたところに存在する「異界」なら、「ある」とは思わないけれども、ありそうな「気分」になれるし、すこし怖いけれども、同時に惹かれるところがある(金髪碧眼のグラマー美人より、隣のお姉さん的なものの方が、妄想が膨らむのと似たようなことなのかもしれない)。
ともあれ、こうした感性は、きっと、子供の頃に視た『ウルトラQ』や『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』といった作品によって育まれたものなのであろう。ありがたいことである。
○ ○ ○
そんなわけで、ともに「キチガイ好き」であるとは言え、「守備範囲」が違っており、微妙に「方向性」の違う二人による「キチガイ放談」が、本書である。
そういうものが好きな人たちらしく、良識に配慮して言葉を慎むということは、していない。
むしろ、そうした「自主規制」に抗うがごとく、露悪的なまでの言葉づかいをしているが、これもご愛嬌で、そういう立場も必要だろう。
みんながみんな「正常」になってしまった世界は、それこそ「異常」なのだから、適度に「異常」な人たちがいて、「異常」なことを話していなければならない。
当然、彼らが話していることが、すべて「正しい」というわけではないし、また、彼らの物言いを批判している人たちの意見が、すべて「正しい」というわけでもない。
いつも言うように、そもそもこの世界(宇宙)には、「人類基準の正しさ(正邪善悪)」などというものなど存在しなかったというのは当然で、それは人類が種として生き延びていくための必要として、形成してきた「道具」でしかないのだ。
だから、その「必要かつ便利な道具」を、改善したいという人がいたり、そもそも気に入らないという人がいるのは自然なことで、そういう人が一人もいなかったら、あとは衰退の一途しか人類には残されていないことになるので、そういう「異常」な人がいるというのは、「これでいいのだ」。
さて、本書のサブタイトルの『人はいかにして狂っていくのか?』という「設問」だが、当然のことながら、これに対する解答が、本書で与えられているわけではない。そもそも、そんなこと、できるわけがない。
というのも、「狂気=狂っている状態」というものが「定義できない」。なんで定義できないのかというと、それは、そもそも「正常」であるということが、定義できないからだ。
私たちは通常「みんなが当たり前にやっていること」ならば「正常」だと思いがちだ。
それが「ユダヤ人虐殺」や「現人神・天皇」のようなことであっても、「みんながやっている」のなら、それが「正常」のように思えてくる。
そうした状況に巻き込まれていない「第三者的立場」に立っていれば、「お前ら、みんな狂っているよ」と言うのは容易だけれど、そんな「第三者的立場」が残されていない社会状況の中に置かれた時に、自分の「内心の良心や見識」に立てこもって「私が正しい。周囲はみんな狂っている」と考えるのは、それこそ「狂気のごとき、信念と自負」がなければできないことで、普通凡庸の人には、そんなものなど持ちようがない。普通凡庸の人がそんなことを言い出したら、かえってヤバイと考えるべきだろう。
ともあれ、「空気」を読んで生きるのが国民性にまでなっている、自我のひ弱な日本人なら、容易に「みんながやっている」ことが「正常」であり「正しい」と思い込むことになるだろう。
「オリンピックなんていう国際大運動会に、巨額の税金を注ぎ込むなんて馬鹿げているし、それに乗せられているような奴らは、みんな大バカに決まっている」なんて意見は、なかなか「正論」としては認めてもらえない。オリンピックに参加している余裕なんてない「第三者的」な国の人から見れば「当たり前の正論」であってもである。
そんなわけで、そもそも「正常」と呼ばれるものは、たいがいの場合、「常」態的なものではあっても、「正」しいものだという保証などない。
つまり、「正常」というのは、たいがいの場合、「多数決」で決められているような、じつに頼りない、状況依存的に「可塑的」なものだから、その反対概念である「異常」が定義できないのも、理の当然である。
「異常」が実質的に定義不能なのだから、当然「狂っているということ=狂気」ということも定義不能である。したがって『人はいかにして狂っていくのか?』という「設問」は、本質的には意味をなさないし、その意味での「正解」など、あるわけがない。
仮に「狂気」を、「一般的ではない精神状態」という具合に、「倫理的価値づけ」をやめて、「一般性(多数決の問題)」に還元したとしても、そもそも、「狂っている」という状態にも「色々」ある。その「様態」も「程度」も色々なのだから、「これが唯一の正解だ!」みたいなものは、たぶん無いだろう。
「狂気」と言っても、それは「様態と程度において色々」なのだから、その原因も「色々なものが、その時々に複雑に絡まりあってのもの」だというのが、おおよその正解であろうというのは、容易に想像のつくところである。
そもそも「狂気」が、そんなに単純な「現象」であれば、とっくに解決してもいるだろうが、そもそも「あれもこれも狂気の内」みたいないい加減な定義しかないものなど、解決のしようがないというのは、当然の話なのだ、そもそも。
閑話休題。
本書では、「狂気」発生の、大きな要因として「面倒くさい」という心理を挙げている。
要は、「面倒くさい」と感じ、そう言いながら、そういう欲望に流されて生きていると、徐々に「正常から外れていくんじゃないか」というようなお話である。
私などは、常日頃から「好きなこと以外は、すべて面倒くさい」と公言しているような人間だから、これは他人事ではない。
しかし、少なくとも「好きなことは、面倒くさくはない」し、「好きでないことは、面倒くさい」というのは誰だってそうなのではないだろうか。だとすると、私の「面倒くさい」は「狂気」つながるそれなのか、あるいは、そうはならない、当たり前の「面倒くさい」に過ぎないのか。
本書では、この「面倒くさい」という心理がいろいろと検討され、「面倒くさい」というのは、だいたい「物事をきちんと考えようとしない」という態度(安直な思考停止)につながっていき、それがやがて「基準のズレ」へと変異していくのではないかというような、比較的当たり前な議論になっている。
だが、そうだとすると、私は人並みよりは、あれこれ考えるのが好きな方だから、これには当たらない「面倒くさい」の持ち主なのではないかということになって、これはこれでつまらない。
「物事をきちんと考えようとしてない知的怠惰が、狂気へとつながっていく」というのであれば、そもそも人類の9割、日本人の9割以上は、昔からずっと、そうなんだから、今はもうすでに、ほとんど狂っていると考えるべきなのではないだろうか。
「人類は狂っている!」というのは、昔からよく言われることでもある。
しかし、そんなほとんど狂っている人たちの中で、比較的狂っていない二人が「狂気とはなんだろう」とかいった議論をしている図というのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』における精神病院内での「解放治療」みたいで、これはなかなか好みではあるので、未入手の続編も、いずれ読めせてもらうつもりである。
最近、シリーズ第三弾が刊行されたが、第二弾の方が未入手で、先に第三弾を読んでも、たぶん内容的に問題はないのだろうが、順番にこだわってしまうところが、ちょっと偏執的で「おかしい」という気のするところが、われながら楽しい。
(2023年5月4日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・